屎尿・下水研究会

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平成20年度 小平市ふれあい下水道館・特別講話会

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平成23年度 小平市ふれあい下水道館・特別講話会




平成23年度 小平市ふれあい下水道館特別講話会のあらまし


 平成23年度の小平市ふれあい下水道館特別講話会は、同館講座室において10〜翌3月の毎月1回、13時30分〜15時30分に、合計6回開催されました。

第1回 東京・下水道よもやま話(十月二十三日、新保和三郎氏)

 講師の新保和三郎さんは昭和26年に東京都水道局下水課に入られた方で、東京都が下水道事業を戦後本格的に展開するに当たり模索した行財政計画の軌跡を振り返っての感慨をざっくばらんに語っていただきました。
 冒頭、新保さんも出演している広報番組「こんにちは東京 地下1世紀1万キロ」(昭和57年、テレビ朝日、30分、)を上映したほか、テキストとして屎尿・下水研究会・文化資料−3「論考−トイレと下水道−」(第2〜3編は新保さんの論文)を席上配布しました。

1.東京都提供広報番組「地下1世紀1万キロ」のあらまし
 東京の近代下水道開始100周年に当たって製作された番組で、新保さんが神田下水(デ・レーケの指導のもと石黒五十二が設計)、長与専斎の松香私志、森鴎外の衛生談、中島鋭治による処分場を含む合流式下水道設計の実施、敗戦時には旧15区の80%が普及したことなどについて、また、李家正文さん(「厠考」の著者)が厠、糞尿の肥料としての利用、西欧との水洗化への認識の相違、財政難・戦争による水洗化の遅れなどについて、さらに、松下行雄さん(東京都下水道局)が水需要の増大、河海の汚染、オリンピック開催(昭和39)に伴う下水道工事の促進、45年の公害国会以後下水道事業が急伸、建設財源が膨大化、荒川以東の普及の遅れ、下水道普及で河川水質が改善、区部は昭和60年代に100%普及を目指すことなどについて、神田、三河島、森ヶ崎などの現地に出向いてインタビューに答える形で説明している。
 このほか、公共下水道の整備が遅れたことによる浸水被害の多発や多くの未水洗化便所を抱えている地域(周辺6区)の担当課長や一般住民の方々も出演し、下水道の早期実現を訴えている。

2. 「東京・下水道よもやま話」の骨子
2−1 昭和26〜35年頃【職員数553名(昭和26年)】
 広報映画「汚いといったお嬢さん」(昭和25年)を作り、下水道事業の重要性をアピールした。当時の下水課は既存施設の維持管理で手一杯であった。23区内の面積普及率が20%で、処理場は三つ(三河島、砂町、芝浦)、ポンプ所は15ヶ所の時代である。カーボン紙での複写、計算はソロバンが主で、掛け算・割り算はタイガー手回し計算機で行なっていた。
 昔使っていた汚泥運搬船を売却する事務処理をしたことを覚えている。現場へ行くには、近くは自転車や荷車で、少し遠いところは都電を使った。昭和26年に大手町にトイレットショールームが開設され、家庭雑排水を水洗水として利用する水洗トイレが展示されていた。
 昭和27年に下水道使用料を改訂し、それまでの水道料金の10分の3の一律の料率を、処理地区は10分の3、未処理地区は10分の2.5(その後に2に)と二つの区分に分けた。下水道事業に公営企業法が適用されたのは昭和27年である。三崎町での屎尿の下水道管への投入に関して、その統計資料を作成する事務を担当した。
 昭和33年に、岩波映画が下水道に関する映画(ナレーションはNHKアナウンサーの高橋圭三氏)を制作した。清掃部局との合併の動きもあったが、昭和34年に水道局内で下水道本部へ昇格した。これに関連して、「下水道は上水道と一体である」、「下水道事業の在り方」、「東京都下水道財政の推移」などの諸論文の原文の執筆に関わったが、これらの論文は席上配布の文化資料−3に復刻されている。「東京の水道」(佐藤志郎著、昭和35年、都政通信社刊)の下水道の部の原文も担当した。これらの執筆に当たっては多くの資料を参考にしたが、良いい勉強になった。
2−2 昭和36〜41年の頃【職員数2,527名(昭和39年)】
 昭和39年の東京オリンピック開催の準備で、下水道工事は急激に拡大へ向かった。中小河川の多くが暗渠化され下水道管となった。
 昭和37に下水道局に昇格し、昭和39年度からは下水道料金を水道料金と切り離して徴収するようになった。但し、徴収事務は水道局へ委託した。
2−3 昭和42〜60年の頃【職員数4,913名(昭和58年)】
 下水道予算の拡大に伴い、組織、人員が増加した。職員を大量に採用し、宿泊研修を実 施した。提案制度を創設し、職員からの建設的なアイディアを募り実務に取り入れた。
 財政危機の中にあっても下水道事業
はその必要性が理解され、普及率の年2%アップを目標に下水道が整備されていった。
 昭和57年は、東京の近代下水道開始100年目に当たる節目の年である。「地下1世紀1万キロ」の広報番組はこのとき作られたものである。
2−4 昭和60年〜現在
 平成7年に、区部下水道100%普及(概成)を達成した。
 私は退職後、ある会社に勤務しながら、趣味の油絵を本格的に描くようになり所属する美術団体の活動にも主体的に参加した。
 それにしても最近のトイレの便座は、腰掛け式で温水洗浄型となり立派ですね。水洗便器であってもきちんと掃除をしないと臭気を発する原因となります。それと、男であっても座ってすることをお勧めします。座ってすることで、トイレの汚れを大分押さえることができますから。

3. 文化資料―3 「論考−トイレと下水道−」 のあらまし
第1編 トイレの文化人類学的考察(平田純一 著)
1.しゃがみ式と腰掛け式の分岐点 2.しゃがんでいたことを証明可能か 3.洋風便器の苦難 4.トイレの日欧比較 5.回虫の功罪 6.日本のトイレの紆余曲折 7.かわやは正式名称か隠語か

第2編 下水道事業の経営(新保和三郎 著)
1.下水道は上水道と一体である−下水道事業機構の在り方−
 下水道の使命、下水道事業経営の実態、上下水道事業の関連性、機構合理化の方向、清掃事業との関連(三崎町における下水道への屎尿投入があるが、… あくまで暫定措置として実施しているものであって、下水道管理上からは勿論、都民の反対陳情も熾烈であって早急に禁止しなければならない状況にある)、下水道事業の将来(上下水道は一体として運営されるべきことが結論しうるのである。… やがて下水の浄化水を直接上水の原水に用うる方法も強ち夢物語ではなくなり、上下水道は動脈と静脈の相関性を実現することになるかも知れないのである)。
2.下水道事業の在り方−東京都下水道経営の現状と将来−
 下水道の使命、東京都下水道の沿革、下水道経営の現状、下水道経営の将来(下水道自主財政の基礎確立に注目せざる国家、地方公共団体当局の再認識と、更に利用者たる都民の負担義務の遂行にまつ外ないと考えられる。かくして下水道事業の特異な性格を知り公営企業としての経営強化をはかることが肝要となる)、下水道事業の会計について、上下水道の関連性について、各都市における下水道機構の現状、下水道事業と清掃事業との機構の在り方。
3.東京都下水道財政の推移
 市区改正による事業の成立、戦前における下水道財政、戦後における下水道財政、最近の論調をめぐって(起債の許可枠の拡大、国庫補助の大幅な増額が必要とされる)。
4.東京都下水道受益者負担金制度について
 下水道受益者負担金制度の意義、東京都下水道受益者負担金制度の実施経過、受益者負担金制度実施と地方公営企業並びに都市計画税制、使用料制度等の財政政策との関係、昭和29年度予算における下水道受益者負担金概算について、下水道受益者負担金制度実施上の諸問題(当面においてはこれが実施は困難視されうることが結論しうるが将来において、これらの諸問題に解決を見出しうれば下水道建設の促進に影響するところ極めて大きなものがあるといえよう)。

第3編 東京・下水道歴史散歩(新保和三郎 著)
1.下水道の歴史に取り組む・新保和三郎氏 2.今に生きる−デ・レーケがつくった神田下水− 3.バルトンの墓 4.昼休みの散歩 中島博士の墓地を訪ねて 5.中華なべ−小さな歴史の語るもの− 6.地下鉄工事現場から煉瓦造り下水管が出土


                                     
第2回 下水道マンホール蓋の教えてくれること(十一月二十日、石井英俊氏)

 20年ほど前から、趣味のサイクリングの途上で見つけた下水道のマンホール蓋をカメラで撮り続けてきた講師が、今までに収集した2,500枚ほどの写真をパソコンを駆使して整理、分類したコレクションの中から、関東地方、東京都、東日本大震災前の三陸地方について、それぞれ街の写真とともにマンホール蓋のデザインが紹介されました。

1. はじめに
 マンホールの模様は、元来、滑り止めのためのもので、せいぜい下水道管理者としての市町村の紋章をアレンジする程度であったが、近年、それぞれの自治体のご当地ソングとして、地方文化を発信・アピールする媒体として位置付けられ、そのデザインが競われている。また、カラーマンホールも結構見受けられるようになった。伊勢市で御伊勢参りをデザインしたマンホール蓋に出会ったことが、この趣味にのめり込むきっかけとなった。ジョーク的な絵柄としては「サの字が九つ」で草津、民話的な絵柄としては「桃太郎」の岡山、「金太郎」の南足柄、童謡をモチーフにした「タヌキ」の木更津、同じ「タヌキ」の絵柄はぶんぶく茶釜の館林にも、故事にちなんだものとしては「那須の与一が扇を弓で射る」の高松、同じ「那須の与一」でもこちらは与一の出身地の大田原、日本の中心に関しては「子午線の通る町」の明石などなど。花・鳥・木の絵柄は似たようなデザインになっているものが多い。

2. 関東地方
@ 茨城県
 水戸(梅と、トが三つでミト)、土浦(筑波山と霞ヶ浦と帆掛け舟)、古河(花火)、石岡(総社宮の獅子)、下妻(筑波山と砂沼の桜)、笠岡(菊の花)、牛久(河童)、つくば(筑波山とスペースシャトル)、牛堀(米俵を運ぶ舟)、麻生(鯉)、玉造(ふれあいランド)、霞ヶ浦(帆掛け舟と紫陽花)、玉里(サギと柿)、協和(西瓜)、総和(南瓜)。
A 栃木県
 栃木(街並み)、佐野(オシドリ)、氏家(蛙の雨宿り)、小山(唐草模様と馬)、益子(焼き物)、石橋(グリムの里の赤頭巾ちゃん)、都賀(鬼)、烏山(カラス)、馬頭(馬)、那須(温泉とリンドウ)。
B 群馬県
 県流域下水(利根川と上越の山)、高崎(山車)、桐生(反物と歯車)、渋川(日本のヘソ)、藤岡(鬼瓦)、富岡(製糸工場)、大胡(風車)、群馬(埴輪)、月夜野(ホタル)、子持(白井宿の街並み)、吉岡(こけし)、昭和(利根川と関越道)、赤堀(家型埴輪)、笠懸(流鏑馬)、大間々(桜草)。
C 埼玉県
 県流域下水(古利根川とハクレン)、川越(時計台)、行田(忍城)、所沢(飛行機)、岩槻(城)、上尾(大綱引き)、草加(松並木と百代橋)、蕨(中仙道の河童)、桶川(紅花)、吉見(百穴)、長瀞(舟下り)、栗橋(ハクレン、静御前)、嵐山(オオムラサキ)。
  D 千葉県
 千葉(大賀ハス)、船橋(舟)、松戸(矢切の渡し)、関宿(バラと城)、佐原(川とアヤメ)、柏(柏の葉)、流山(山の字の形に川が流れているデザインの市章)、富津(東京湾横断道路)、富里(サラブレット)、大網白里(太平洋と日の出)、長南(奴凧)。
E 神奈川県
 横浜(ベイブリッジ、日本丸)、川崎(七つの椿)、横須賀(黒船)、小田原(箱根の山、城、蓮台越し)、茅ヶ崎(烏帽子岩)、海老名(国分寺の七重の塔)、松田(参勤交代)、山北(丹沢湖の風景)、湯河原(温泉マーク)、城山(橋)、相模湖(湖)。

3.東京都多摩地区
 三鷹(市章が三に鷹)、調布(サルスベリ)、狛江(イチョウ)、小金井(桜)、小平(魚と武蔵野風景)、国分寺(ツツジ)、国立(旧駅舎)、府中(ケヤキ)、清瀬(ケヤキ)、東村山(ツツジ)、東大和(狭山湖)、武蔵村山(茶の花)、立川(コブシ)、昭島(クジラ)、福生(七夕)、羽村(キリンとチューリップ)、瑞穂(オオタカ)、青梅(梅とウグイス)、あきる野(秋川の鮎)、日の出(日の出)、桧原(仏沢の滝)、稲城(イチョウの葉)、多摩(多摩川と鮭)、日野(カワセミ)、八王子(車人形)、町田(サルビヤ)。

2. 三陸地方
 東日本大震災以前の三陸地方の町並みの写真ならびにマンホール蓋のデザインの紹介があった。 八戸(キクの花)、階上(漁業集落排水、魚)、種市(ウニと潜水夫)、久慈(イチョウ)、野田(サケの赤ちゃん)、田野畑(トナカイ)、岩泉(竜泉洞のりゅうちゃん)、田老(山王岩とウミネコ)、宮古(サケ)、山田(ホタテ貝)、大槌(ツツジとカモメ)、釜石(虎舞のトラ)、大船渡(ウミネコとツバキ)、陸前高田(ツバキの周りにカモメとスギ)、気仙沼(サンマとウミネコ)、本吉(マンボウ)、歌津(魚竜(ウタツザウルス))、志津川(モアイ像)、女川(カモメ)、牡鹿(クジラとシカ)、石巻(石ノ森漫画館)、鳴瀬(縄文人の子供と海産物)、松島(町章とすべり止め)、塩竃(シラギク)、多賀城(多賀城碑)。


第3回 管渠清掃のうつりかわり(十二月十八日、地田修一氏)

 手巻きウィンチの手作業から機械式ウィンチを経て、高圧洗浄車に至るまでの管渠清掃作業の変遷を当時の写真を見ながら辿りました。
 当日は、下水道管路の維持管理に関する専門誌「かんろかんり」【(株)カンツール発行】29〜32号に掲載された「写真にみる管渠清掃作業の歩み」の記事を席上配布したほか、管渠清掃に従事している人々に焦点を当てたドキュメンタリータッチのドラマ映画「真夜中の河」を上映しました。

1.手巻きウィンチによる管渠清掃
 全くの手作業で、清掃箇所の上流と下流のマンホールに手巻きウィンチを置き、この上に四股を組み滑車を取付け、ワイヤーロープに曳樽を付け管渠内を曳くことによって汚泥をマンホールの下まで集めるワイヤーロープを上流から下流に通す手順は次の通りである。まず、何本かの割竹を針金で繋いで30〜100mにし、上流のマンホールから管渠の中に入れ、下流に向かって送る。下流のマンホールに届いたならば、上流側の割竹の先端にワイヤーロープを結ぶ。そして、割竹をたぐり、ワイヤーロープが下流のマンホールに届くと割竹から外し、下流の手巻きウィンチにこのワイヤーを取り付ける。同時に上流側では、清掃器具をワイヤーロープに結び付ける。
 集めた汚泥を鉄桶に入れ、ウィンチで地上に引き上げ、地上に置いた四斗入りの樽桶に引き上げた汚泥を入れる。樽桶の汚泥を作業現場近くの道路脇の枠で囲った仮置き場に運び、消毒のためサラシ粉を撒いて数日間置き水切りをした後、トラックで土捨て場へ運搬する。
 人が立って歩けるほどの大きな管渠では、管渠の中に入って汚泥の除去作業を行なった。

2.汚泥をほぐす器具と掻き寄せる器具
 砂とか砂利の流入により硬く締まった状態のときは、汚泥をほぐすために「8の字」とか「コンペイ糖」とか「スプリングスクラッパー」とかの器具が使われた。
 カルバートスクラッパーは、お椀のような形をしていて、凹んでいる部分に汚泥を溜めながら下流に掻き寄せて集めてくる器具で、管渠の大きさに合わせていろいろなサイズがあった。また、管渠の口径が大きくなると、曳樽という器具を使って汚泥を集めた。

3.マスや取付け管の支障処理
 「マス」が詰まったので処置してほしい」との連絡を受けると、ミゼットのオート三輪車に割り竹、浚渫器、バケツなどを積んで、運転手1人と作業員2人のチームが現場に向かった。マスの掃除では、手動のつかみ式浚渫器で堆積している汚泥を除去した。マスと下水管との間の取付け管が詰まっているときは、割り竹をマスからマンホール方向に入れて詰まり物を取除いた。

3.清掃作業車の導入
 小型トラック(トヨペット)とその後ろに連結されたトレーラーとで一組になっている清掃作業車が導入されたのは、昭和30年に入ってからである。それぞれに自動ウィンチと滑車付きのアングルが搭載されていた。手巻きウィンチと滑車を付ける四股部分のみが機械化されたのであって、割り竹や汚泥掻き寄せ器具などは、従前通り作業車に積み込まれていた。手作業から高圧水による洗浄方式へと進む過渡期の中間の作業形態である。

4.高圧洗浄車の登場
 この技術は、欧米特にドイツにおいて1955年頃から下水道管の清掃に威力を発揮していたもので、日本には昭和30年代後半に導入された。2〜4トン車に高圧水発生装置、水タンク、ホースリールなどを搭載したもので、これにより管渠清掃は抜本的な機械化へと飛躍した。
 ホースの先端に取り付けたノズルから高圧水を後ろ向きに噴出させ、その推力で洗浄ホースを前進させ、その後ホースリールで巻き取りながら、噴出水が堆積した汚泥をマンホールの下まで集めてくる仕掛けである。
 集めた汚泥は、当初は相変わらず、鉄桶に入れてウィンチで地上に引き上げていたが、昭和40年代の半ばになってバキュームカーが導入された。高圧洗浄車とバキュームカーは、管渠清掃の完全機械化を実現させた車の両輪である。高圧洗浄作業には大量の水が使われる。高圧洗浄車にも水タンク(3?)が搭載されているが、これだけでは足りないと思われるときは、給水車(10?)が同行し洗浄水を補給する。

5.管渠清掃作業の民間委託
 昭和40年頃から管渠の清掃作業は、民間業者に委託されるようになった。汚水枡や取付け管の閉塞処理は長らく自治体の直営作業として行なわれていたが、現在では、この作業も民間に委託されるようになり、管渠の維持管理は民間業者の力に負うところがますます大となっている。


第4回 下水道マンの東京散歩(一月二十二日、高橋敬一氏、小松建司氏、地田修一氏)

 席上配布した屎尿下水研究会・文化資料−4「下水道マンの東京散歩−職場界隈探訪−」のエッセンスを、取材にまつわるエピソードを交えて三人の分担執筆者が語りました。

1.絵地図にみる森ヶ崎界隈の今昔; (明治32年に鉱泉が発見され保養地となり、関東大震災後「三業地」に変貌し、戦後は戦災者や引揚者の寮となっていた界隈(大田区)である。)海苔養殖、干拓地、海水浴場、鉱泉の発見、養魚場、文士村、飛行機の墜落、鉱泉街の衰退、漁業権の放棄、森ヶ崎処理場、海面埋立て。

2.白鬚西ポンプ所界隈の今昔; (汐入大根や胡粉作りで知られた近郊農村であったが、明治維新後物流の拠点となり、やがて繊維工場やエネルギー産業が進出してきた。その後、産業構造の変化を受け再開発事業が進行している界隈(荒川区)である。)汐入集落、胡粉作り、隅田川貨物駅、ドッグと舟運、ガス工場、火力発電所、毛織物工場、紡績工場、南千住ポンプ所、橋場ポンプ所、汐入ポンプ所、紡績工場の衰退、貨物駅の縮小、再開発と防災拠点、スーパー堤防、下水道施設のリニューアル、白鬚西ポンプ所。

3.明石・築地界隈の今昔; (江戸初期に隅田川河口を埋立てて出来た築地(中央区)は、維新後、外国人居留地となった。ミッションスクール発祥の地であり、異国情緒の豊かな界隈であった。)中央出張所、箱崎ポンプ所、運上所、築地の居留地、ミッションスクール、解体新書の記念碑、指紋捜査の記念碑、ウサギ飼育のバブル、運河の埋立て、明石町ポンプ所。

4.浮間・舟渡界隈の今昔; (桜草の名所であった一面の葦原が、荒川の河川改修に伴い造成され、宅地と工場とが混在する工場地帯に変貌していった(北区)。)浮間ヶ原、河岸、桜草、荒川の河川改修、浮間地区の埼玉から東京への編入、新河岸川の延伸・開削、宅地化と工場の進出、新河岸川浄化対策、浮間ポンプ所、新河岸東処理場(現 浮間水再生センター)。

 5.小松川界隈の今昔; (小松菜の生産で知られる中川と江戸川の三角州から成るこの界隈(江戸川区)は、荒川放水路の開削により分断されてしまった。)三角州、御鷹場、小松菜、日本一の葦、小名木川、新川、舟運、荒川放水路の開削、閘門、工場の進出、舟運の衰退、遅れた下水道事業の進捗、東小松川ポンプ所、西小松川ポンプ所、小松川ポンプ所、新川ポンプ所。

6.高島平界隈の今昔; (板橋の宿から始まる川越街道沿いの武蔵野台地とその崖下に広がる低地を訪ねた。この地ゆかりの童謡詩人・清水かつらにも触れる。)川越街道、板橋の宿、松月院、高島秋帆記念碑、赤塚不動の滝、東京大仏、赤塚溜池公園、ハケ田道、前谷津川、水車公園、徳丸が原の開墾、新河岸川、浮間処理場、工場排水の水質料金制度、清水かつら、成増童謡まつり。

7.杉並南出張所界隈の今昔; (井伏鱒二「荻窪風土記」や大岡昇平「武蔵野夫人」の舞台である、善福寺川、神田川、玉川上水の3流域を横断的に踏査した(主に杉並区)。)松渓公園、杉並南出張所、善福寺川、荻窪風土記、スワール、郷土博物館、荒玉水道道路、大宮八幡宮、甲州街道、神田川、玉川上水、井の頭池、武蔵野夫人。

8.八王子界隈の今昔; (桑都と言われた八王子から港町・横浜を結んでいた浜街道(一名「絹の道」)を辿り、養蚕の盛んな頃を偲んだ。歩いてみて始めて知ることの醍醐味を実感した。) 桑都、生糸、織物、南多摩処理場、多摩ニュータウン、小泉家(元養蚕農家、都・文化財)、浜街道(絹の道)、鑓水商人、絹の道資料館、道了堂跡、三角点、郷土資料館、片倉製糸、消防自動車。

9.本郷・菊坂界隈; (文京区本郷の菊坂界隈にかつて住んでいた文学者たち(一葉、賢治、逍遥、啄木、秋声)の旧跡を訪ね、彼らの日常の姿を追った。)後楽ポンプ所、湯島ポンプ所、菊坂通り、作家の旧居(樋口一葉、宮沢賢治、坪内逍遥、石川啄木、徳田秋声)、林芙美子の足跡、本郷館、蓋平館、菊富士ホテル、馬つなぎ場。

10.みやぎ水再生センター界隈の今昔; (かつては煉瓦の生産地であり、現在はワシントンから里帰りした桜で知られる「みやぎ」界隈の地名の謂れを探った(足立区)。)「みやぎ」のいわれ、荒川堤の五色桜、豊島の渡し、小台の渡し、ポトマック川の桜、里帰りした桜、荒木田、煉瓦の生産、煙害、畑土の売却、村の半分が池、工場の進出、処理場の建設計画、小台処理場(現みやぎ水再生センター)。

11.向島界隈の今昔; (荷風の小説「?東綺譚」や滝田ゆうの漫画「寺島町綺譚」に描かれている墨田区東向島を追体験するとともに、墨堤通り界隈を探訪した。)玉の井、もう一つの「おはぐろどぶ」、永井荷風、滝田ゆう、ラビラント、墨堤通り、墨田ポンプ所、隅田川神社、木母寺、撮影所跡、白鬚橋、小松島遊園、長命寺の桜餅、業平橋ポンプ所、ビール工場。

12.神谷ポンプ所界隈の今昔; (鎌倉から奥州へ通じていた古道・鎌倉街道中の道の宿場であった北区岩淵町界隈を巡り、新旧の岩淵水門を目の当たりにした。)志茂ポンプ所、神谷ポンプ所、奥州道、志茂銀座通り、岩淵宿、町名存続之碑、鎌倉街道、岩槻街道、岩淵河岸、舟橋、岩淵水門、荒川知水資料館、草刈の碑。

13.流域下水道本部界隈の今昔; (地元のアマチュア日本画家が明治後期に描いた「立川村十二景」の界隈を諸文献の記述を基に追体験した。)立川村十二景、甲武鉄道、若山牧水の歌碑、所沢街道の八店、立川飛行場、昭和記念公園、柴崎用水、鮎漁、筏乗り、日野の渡し、日野橋、砂利の採掘、錦町処理場、親水公園、モノレール。

14.芝浦水再生センター界隈の今昔; (旧品川浦から芝浦・高輪海岸の埋立地を訪ね、品川駅のホームが海の中に造られたことを知った(品川区、港区)。)江戸切絵図、品川駅、旧品川宿、旧品川浦、御殿山下台場跡、目黒川の改修、芝浦・高輪海岸埋立、芝浦第三号埋立地、芝浦処理場。

15.砂町水再生センター界隈の今昔; (江戸時代に埋立・開拓された江東区の砂町・深川地区は掘割が縦横に走っていた界隈であるが、その今昔を巡った。)小名木川、閘門、船番所、砂村新田の開発、元八幡、野菜の促成栽培、旧大石邸、精製糖発祥之地碑、金魚池の跡、旧葛西橋、砂町処理場、州崎球場、工場の移転と住宅団地の建設、ウオーターフロント開発。

16.三河島水再生センター界隈の今昔; (吉村昭の歴史小説「彰義隊」をガイドブックとして、小説の舞台である荒川区三河島界隈を追体験した。)彰義隊と上野戦争、吉村昭の小説「彰義隊」、輪王寺宮の潜行経路、小説に登場する三河島界隈、寛永寺、江戸道、藍染川の分水路、三河島処理場ポンプ場の重要文化財指定。

17.都庁界隈の今昔; (新宿駅西口界隈の都市計画図(昭和9年)を縦糸に種々の引用文を横糸にして、新宿副都心の昔の姿を再現した。)昭和9年の新宿駅西口界隈の都市計画図、淀橋浄水場、学校、煙草工場、写真工場、火除けの原、小田急線、京王線、築山の六角堂、新宿副都心、都庁舎、かつての制水弁、新水路のあった土手を潜る道路、春の小川のモデル。

18.銭瓶ポンプ所界隈の今昔; (東京駅にほど近い銭瓶町ポンプ所界隈(日本橋、神田、秋葉原)を巡り、今でも現役で活躍している東京の近代下水道発祥の施設や設備を探る。)銭瓶町ポンプポンプ所、旧常磐橋、常盤小学校、日本銀行、三越、熈代勝覧(きだいしょうらん)、三井本館、エレベーターゲージ、日本橋、老舗、十軒店、神田下水、和泉町ポンプ所。


第5回 トイレの神様(二月十九日、小松建司氏)

家の守り神の一つとしてトイレにも神様が宿っていると信じられてきたが、各地に伝わるトイレの神様のアラカルトを紹介してもらいました。

1.植村花菜の歌・トイレの神様
 2010年のNHKの大晦日の番組・紅白歌合戦で、9分を超えるたいへん長い歌が披露されました。今日のタイトルそのものの植村花菜の「トイレの神様」です。こんな歌です。
 「トイレには それはそれはキレイな女神様がいるんやで だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで… 」

2.便所に宿る神様
 植村花菜が歌っている「トイレの神様」はべっぴんさんのようですが、本当はどうなんでしょうか。
 古事記や日本書紀によれば、イザナミ(伊邪那美)がヒノカグツチ(火之迦具土)を産んで死んだとき、大便と小便を排泄し、大便からは土の神であるハニヤスビコ(波邇夜須比古)とハニヤスビメ(波邇夜須比売)とが、小便からは水の神であるミツハノメ(弥都波能売)と穀物の神であるワクムスヒ(和久産巣日)とが生まれたといいます。
 ここに出てくるハニヤスビメとミツハノメとをトイレの神様としたのは、卜部(うらべ)神道や橘家(きつけ)神道を伝えた人々だとされています。このハニヤスビメやミツハノメそれに中国の柴姑神が女の神様で美人だとされていることから、「トイレの神様は美人なんだ」という話になっていったのではないでしょうか。
 その後、日本に仏教が伝来し、帝釈天がお釈迦様は臭気に弱いからと築いた糞の城を北の守り神である「うすさま明王」が食い破ってお釈迦様を守ったということから、一般に広くこの「うすさま明王」が便所の神様として崇められるようになりました。特に禅宗で多く祀られています。ところで、この「うすさま明王」は元来、インドの民族神でしたが仏教に受け入れられた神様です。
 このほかに、がんばり入道、アイヌでのミンダルカムイ、琉球でのフールヤヌカン、古代ローマでのステルクティウスなどがトイレの神様として知られています。

3.トイレの神様の呼称
 現代風にいえばトイレの神様ですが、昔は便所神といいました。このほか、便所のことを厠(かわや)、雪隠(せっちん)、手水(ちょうず)、閑所(かんじょ)、後架(こうか)などともいいましたので、後ろに「神」をつけて、厠神、雪隠神、手水神、閑所神、後架神とも呼ばれていました。まだまだありますよ。おひがみ様、しりしり様、うつしま様、… などなどです。

4.昔の便所
 私が子供の頃居た母の実家である秋田県の農家の便所は、家の外にあるのが普通でした。
 5歳の時、千葉県に引っ越しましたが、新しいタイプの農家でしたので厩は母屋に附属していませんでした。1階の作業部屋みたいな処を間借りして住んでいました。便所は家の中にありました。踏み板を3〜4段上がると簡単な板が張ってあり、そこに穴が開いており金隠しも一枚の板でした。これを跨いでしゃがんで用を足しました。当然ボットン便所で、アンモニアが目に沁み、臭くてハエがブンブン飛んでいました。汲取った後しばらくは、お釣りがくる(跳ね返ってくる)のが難点でした。
 当時は、電気はまだふんだんに使えるわけでなく、夕方になると電灯が点きますが、その数も限られていました。便所などはロウソクを持って行くという有様でした。ゆらゆらと揺れる影を見ながらのトイレ行きは、子供心にとても怖いものでした。そんなですから、暗闇の便所は「下から手が出てきて(便所でお尻を撫でられたという伝承が各地に残っており、その正体は河童だそうだ。)… 」もおかしくない状況でした。
 昔の便所では、足を踏み外して落ちるということがよくあったそうです。特に子供では、それは死につながります。だからでしょう、便所は現世とあの世との境目だといわれ、便所にはあの世に通じる特別な神様がいると信じられてきたのです。

5.便所にまつわる民話
 便所にまつわる民話に「三枚のお札」があります。各地に伝わっていますが、その内容は微妙に違っています。茨城県・川越の場合では、概略こんな話です。
 「あるお寺の小僧が和尚様の言うことをちっとも聞かないので、怒った和尚様は三枚のお札を小僧に持たせて寺から追い出してしまう。小僧はしかたなく山に行き、山で出会った山姥の家に泊まる。夜中に怖くなった小僧が便所に行きたいというと、腰に縄をつけられてしまう。小僧は便所の柱に縄を結わえ付けて、便所の神様に後を頼んで急いで逃げる。山姥はすごい形相で追いかけてくるが、小僧が和尚にもらった三枚のお札を投げると、それぞれ川、山、火をつくって小僧を助けてくれる。命からがら寺に逃げ帰った小僧が和尚様に助けを求めると、和尚様は山姥と化け比べを始める。結局、豆に化けた山姥を和尚様が食べてしまい、小僧は救われ、その後小僧は心を入れ替えてよい子になった。」

6.トイレの神様を祀る寺社
 これは、平成15年3月に撮影した東京・品川にある東光寺です。この東光寺に最初に出会ったのは、私がまだ現役で勤務していたときに携わった東京都下水道局文化会の会誌の取材をしていた時でした。それから数年後、日本下水文化研究会の分科会「屎尿・下水研究会」の幹事をしていて、何か発表をしなければならなくなり、その頃、童話に興味を持っていましたので、民話にも出てくる「トイレの神様」を思いつき、東光寺を再訪しました。境内に「東司(便所)守護 烏瑟沙摩大明王」と書かれた説明板が建っていました。「うすさまだいみょうおう」と読みます。トイレの神様の名前です。住職もいないようで、この寺のどこに祀ってあるのかはわかりませんでした。
 これは伊豆・湯ヶ島にある明徳寺ですが、平成15年5月24日のテレビ番組「アド街」で放映されたものです。実はこの放映の前日に、私は「便所の神様」という演題で講話(「ごみの文化・屎尿の文化」(技報堂出版、2006)を参照)をするのに先立っての取材のため、明徳寺に行っていました。山門のある立派なお寺で、「東司の護神 うすさま明王堂」と大きく書かれた看板を掲げたお堂があり、そこにトイレの神様が祀られていました。賽銭箱の奥に跨ぎ棒があり、これを跨ぐと「下の世話を他人にしてもらわなくてもすむ」といわれているそうです。私も「跨ぎ棒」に座ってきました。ここで、トイレの神様の御札を買ってきました。御札は2枚あり、1枚は文字のみのもの、もう1枚は神様のお姿が描かれたものです。文字のみの御札は、便所の入口のドアの上の壁に貼るそうです。お姿の御札は、和式の便所では用をたす正面に、洋式の便所では入口の裏に貼るとのことです。また、御札は息のかからない高いところに祀るよう注意書きがあります。そういわれてみると、昔、親戚の家の便所でこれと似た御札を見たことがあります。
 これは、石川県の金沢で売っている土人形で、昔はトイレを造るときに基礎の部分にこれを埋めたようですが、今はトイレに飾るだけの人もいるようです。実物を、屎尿・下水研究会の関野さんが今日わざわざ持参してきてもらいました。仏具店で購入したそうです。高さ10cmほどの男女2神の厠神をかたどった素焼きの人形で、このように鮮やかに彩色されています。
 こちらは、宮城県の堤人形です。インターネットから借用した写真です。金沢と同じような用い方をするようです。
 トイレの神様は、お寺だけかと思っていましたが、今回再度調べ直しているうちに、神社にも結構祀られていることがわかりました。神社では普通、御幣のようなものを飾ることが多いようです。

7.トイレの神様にまつわる風習・ご利益・俗信
 便所の神様は、右手で小便を、左手で大便を受け止めて、常に人間の健康を気遣ってくださっているといわれています。次に、各地に伝承されているトイレの神様にまつわる風習・ご利益・俗信を挙げてみます。
 風習: ・出産後、便所に赤飯や塩などを供え箸を添えて、生まれてまもない(3日目あるいは7日目あるいは33日目)赤ちゃんを連れてトイレの神様にお参りをし、その時そこで汚物を食べさせるまねをする。これを雪隠参りという。
 ・子供が便所に落ちたとき、一度あの世に行ってきたことになるので、その子供が助かると霊魂が現生に再生したものとして、新しい名前をつける。  ・トイレを新しく造るとき、人形や鏡や化粧品を埋めて祀る。
 ご利益: ・妊婦が便所をいつもきれいにし花を供えて厠神を祀れば、安産で、きれいな子供が生まれる。
 ・1月16日に便所掃除をして線香を1本立てると、結膜炎にならない。
 ・夕立の時に、便所を箒で3回撫でて、後ろを見ずに帰るとイボがとれる。
 ・子供の臍の緒を便所に吊るしておくと、子供が夜泣きをしない。
 俗信: ・便所で転ぶと、身内に不幸がある。
 ・便所の中に痰をすると、中気になる。

8.おわりに
 実際にトイレに神様が居るかどうかはそれを信じるか否かで決まることですが、昔の人がトイレに神様が居ると言ったのは、日本人の道徳心を養うためだったのではないでしょうか。トイレは家の中でもっとも忌み嫌われていた場所だけに、それに目を背けさせないように、「神様」という存在を通して注意を喚起したのではないでしょうか。
 更には、トイレの掃除はもっぱらその家の嫁の仕事とされていましたが、嫁がせっせとトイレ掃除に励むように「掃除をすると美しくなるとか、子供が丈夫になる」とかのご利益に繋げたのではないでしょうか。
 ここで肝心なことは、トイレ掃除したという事実よりも、人が嫌がる仕事を積極的にしようとする心がけが大切なのだということです。毎日使うトイレに神様が居たとしたならば、神様に不潔な思いをさせたくないですし、また居ないとしても、自分自身に恥ずかしくない使い方をしたいものですね。


第6回 発展途上国におけるごみ処分対策(三月三十一日、石井明男氏)

 日本政府は、1,200万人の人口を擁する巨大都市ダッカ(バングラデシュの首都)のごみ処理への支援を2000年から開始しました。私は2003年からこのJICA技術協力プロジェクトに参画しています。
 2000年当時のダッカは、ごみの収集が行なわれていない地域も多く、例えばスラム・エリアなどでは敷地内や近くの湖沼や河川に長年にわたって不法なごみ投棄が行われ、異臭を放っていました。市内にはごみが散乱し溜まっている所が無数にありました。埋立地も巨大なごみ捨て場と化して、埋立地全体が悪臭に満ち、発火もたびたび起こり、さらにはそこからの浸出水が周辺に流出し、周囲の河川や湖沼を汚染していました。

1. ダッカ市のごみ処理の現状
 ダッカ市は面積が131万haで、市内には90の行政区(ワード)が存在しています。2011年時点では、ごみの排出量は日量約4,000t、廃棄物管理局の職員数は9,000人で、そのうち道路清掃が8,000人、保有収集車両は320台、コンテナ数は536個、ダッカ市の外ですが、南北と北西に約20haの埋立地が2箇所あります。現在のごみ収集率は52%です。
 ごみ収集の特徴は、民間の一次収集サービス業者が各住宅から、わずかな料金ですが有料で、ごみを集めてコンテナあるいはダストビン(ごみ捨て場)まで運びます。ダッカ市役所の役割は、コンテナやダストビンから埋立地にまで運ぶことにあります。埋立地は勿論、市内にあるコンテナやダストビンには有価物を回収するウエストピッカーが数多くいます。
 このように、ダッカ市のごみ収集は、ステイクホルダーが多いので、住民、一次サービス業者、ダッカ市の収集運搬事業の相互の連携が極めて重要となります。

2. 技術協力プロジェクトの取組み
 JICA技術協力プロジェクトでは、2007年から現在まで、比較的長い時間をかけ、実践を通しての能力開発を目指してきました。この取組みは、組織、制度、技術、習慣にわたる幅広い分野をカバーしています。この能力開発は、単に技術や方法を提供、訓練するだけでなく、仕事に対する考え方や姿勢について受講者が自ら考えてもらうようにしています。ただし、受け止め方は、バングラデシュ固有の価値観や文化、個々人の考え方によっても、又、受け取る側の能力によっても、異なりますのでその成果は一様ではありません。
 しかし、全体的には様々な成果を上げていて、そのことはJICAの評価にも示されています。この活動を通して、多くのダッカ市職員、収集業者、住民が「このようなことまで出来るのだ」と実感しており、このプロジェクトに関わった人たちに勇気を与えています。
 以下に、このプロジェクトがダッカで行なった改善事例を紹介します。
(1) 区単位で総合的に改善するWBA(ワードベースアプローチ)をつくった
 廃棄物事業とりわけごみ収集は、収集車両などの機材投入だけでは向上せず、職員の能力向上、収集車両の効率的配車など、事業全体の底上げが必要となります。そこで、このプロジェクトでは、人材育成、意識改革、組織機能の改善、機材の改善、収集システムの改善など様々な活動を複合的に組み合わせて、お互いの力を相乗的に向上させるようにしました。
 【ワードベースアプローチ(WBA)−1】では、各区(ワード)に区清掃事務所を設け業務を中央から委譲し分権化を進め、区清掃事務所を中心に事業を進めるやり方を推進しました。この改善で区の清掃監視員が意欲的に仕事に取り組むようになりました。
    また、同時に行った現場の清掃に関わる清掃職員8,000人に対する安全・衛生の向上を目指した職員研修【WBA−2】などの効果により、清掃員の事業に対する姿勢が変わってきました。
 さらに、住民参加型廃棄物管理に関するガイドラインも完成させ、その実践の形も出来てきました【WBA−3】。既存の収集システムも効率的、衛生的に改善され【WBA−4】、日本政府の環境プログラムで無償で導入された100台のごみ収集車により、収集体制も大きく改善されました。
 能力開発なので研修も行いますが、それはカウンターパートが計画し自らが講師を務めるようにしました。道路清掃員、排水溝清掃員、民間の一次収集業者までを対象にして研修を行っていますが、研修のための研修にならないように内容には英知を凝らしています。
(2) ダッカのごみ収集システムが大きく変わった
@ コンテナが新規に215台加わり、壊れた200台のコンテナは廃棄しました。
A 日本政府からの環境プログラムにより無償で供与した100台のごみ収集車が加わり、故障した古い車輌130台は廃棄しました。
B この収集改善により車輌の稼働率が向上し、収集量が2,000〜2,300t/日までに増加しました。

3. おわりに
 特に力を入れてきた【WBA】という総合的な活動と、「環境プログラム無償」によるコンパクターなどの収集車の導入とが相乗的な効果をあげ、この技術援助が良い結果を生んだものと言えます。
 ダッカ市廃棄物管理局では、@区清掃事務所による分権化とCIの意識改革、A自覚と誇りを持った清掃員が参画する清掃事業の推進、Bコミュニティー参加型の廃棄物管理システムの構築と推進・拡大、C衛生的で効率的な収集システムの導入と改善 の4つの活動を自らの力で推進するため2010年3月に、これらを条例として定めました。
 途上国への技術協力といえば、とかく、現地の実情に合わない施設を造り、日本人が去れば無用の長物に化すといったイメージを持たれがちです。本日の講話によって、少しでもそのようなイメージが払拭できれば幸いです。
                                   (了)