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平成20年度 小平市ふれあい下水道館・特別講話会

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平成21年度 小平市ふれあい下水道館・特別講話会



 

平成21年度 ふれあい下水道館・特別講話会のあらまし


 

平成21年度のふれあい下水道館・講座室における特別講話会は、10月〜3月までの間の月に1回・合計6回、ともに日曜日の午後(1時30分〜3時30分)に開催されました。



第1回 日本のリサイクルの歴史(10月4日、稲村光郎氏)

江戸のリサイクル
 16世紀後半になると、木綿が国内でも生産されるようになり、供給が増えたことにより古着の市場が成立するようになり、特に木綿の採れない寒冷地への移出が盛んになり、大阪と江戸の問屋が争って買いあさっています。古着屋は市場が広く、昭和に入ってからも東北地方向けの古着屋が残っていました。
 リサイクルが盛んになったということは、新しい元の素材が市場に流入するようになったからです。衣類のリユースは必ず品質が劣化し、いずれボロになり、ボロもリサイクルされますが、最終的にはごみとなってしまいます。
 古鉄屋、古鉄買いといいますが、これは鉄だけではなく古金買いともいい、金属一般を扱っていました。一般の家庭で使う鍋や釜は少しの穴があいたくらいでは、鋳掛屋に出して直すのですが、修理ができないほど大きな穴があいたら、鋳掛屋に下取りしてもらい、新しい鍋を買ったと言われています。
 貝灰というのは、貝殻を焼いてつくった石灰です。江戸の中頃、18世紀の後半には江戸で使用する石灰の75%は貝灰でした。
 醤油樽ですが、「樽買い」というのがありましたが、「樽拾い」が多かったようです。酒屋さんや醤油屋さんのまだ小さい小僧さんが樽を集め、回収した樽は「明樽問屋」にいき、そこから醤油の醸造元に送られ、また醤油が詰められ戻ってきたのです。醤油樽の元々は、大体上方から送られてきた酒樽です。これを小さく削り直して醤油樽に作り変えて循環使用していました。
 江戸のごみの話ですが、深川辺りでごみを埋立てたことになっています。実際には、1730年にはもう埋める予定地が一杯になっていまして、その頃にはごみを肥料として売るという商売が生れています。そして、19世紀になりますと、これが千葉県まで運ばれていたことが資料から分かっています。

明治・大正・昭和初期のリサイクル
 明治20年頃から大都市における底辺の人たちの問題が新聞などでとりあげられるようになります。その中からリサイクル関係を拾ってみますと、「くず拾い」が圧倒的に多かったようです。何を拾ったかといえば、「ボロ、紙くず(西洋紙、和紙)、ガラスくず、陶器くず、ランプの壊れ、古下駄、古わらじ、古なわ、あき俵、汚れふんどし、破れ足袋、かんざしの足、曲がった缶」などが挙げられています。さらには残飯屋という商売もありました。  東京市のごみ処分先をみると、大正9年ぐらいから千葉で肥料として使用されなくなりました。この頃になると、これまでリサイクルされていたものも「ごみ」になったということです。

戦時中のリサイクル
 戦争では輸入が途絶えますから、どうしてもリサイクルが必要になってきます。
 昭和12年に日中戦争を本格的に始めたのですが、まず外貨不足のため国民から金を買い上げました。これはリサイクルとはいいませんが、回収の一つです。次いで、集団回収が行われるようになります。わが国で集団回収が本格的に行われたのは、この時期が最初です。寒冷地の軍服用に羊毛を集められたり、鉄や銅などに代わり、その代用品が奨励されたりしました。例えば、ガスコンロなどは鋳物製から陶磁器製になりました。
 太平洋戦争の時期になりますと、一般家庭で使用している鉄や銅でできた門やフェスンが事実上強制的に奪われました。
 戦争も終わりの頃になると、アルミの回収が昭和20年春には2回にわたって一般国民から強制的に回収され、鍋や弁当箱、水筒などの生活必需品まで回収することになります。小学校ではストーブなどが、また、お寺からは梵鐘、花器、かざりなどの金属製品が供出されました。
 このような回収は企業に対しても行いました。昭和18年には政令に基づいて、企業整備による金属回収が行われました。その結果、例えば繊維工場全体では鉄の量に換算して約100万トンのうち70万トンがスクラップになったとされています。
 一般国民の場合、資源回収に大きな役割を果したのは町内会とその下部組織である隣組です。

戦後の包装材の変化
 昭和35年頃から世の中が変わり始めます。高度経済成長の始まる前ですが、この時期に既に始まっていたのが伝統的な包装容器の衰退でした。
   米俵、かます、むしろなどのワラ製品は、クッション性があるのでいろいろな用途に使われていました。しかし戦後の農業改革で利益の少ないワラ製品を副業として製作する必要がなくなり、また、輸送面でもワラ製品はコンベアに乗せ難いとか、不衛生だとか、言われるようになりました。
 こうしたことから、ダンボール、紙袋そしてプラスチックが使われるようになりました。中古市場もまた衰退し始めます。
 昭和30年代から40年代半ばまでの高度経済成長によって、ごみが大量に増えました。原油価格がオイルショックまで非常に安かったため、石油化学産業が発展しプラスチック生産量が急激に上っていきます。木綿や絹に代わって合成繊維の時代となりました。これがごみ増の要因となりました。

オイルショック以降のリサイクル
 オイルショックにより高度経済成長は終わります。省エネルギー、省資源の考え方が国民に拡がります。これに対応してリサイクルも拡がりました。いろいろなリサイクル例えば不用品交換や収集ごみからの回収などが行われるようになり、集団回収が次第に増えていきます。この集団回収に市町村が補助金を出すというようなことが次第に行われるようになります。やがて、瓶や缶は集めても少量では買ってくれなくなり、集団回収も大部分は古紙が重点になります。



第2回 トイレットペーパーの歴史(11月8日、関野勉氏)

尻始末用具のいろいろ
 「トイレットペーパーの文化誌」(西岡秀雄著、1987年、論創社刊)は、尻を拭く用具として、次のようなものを挙げています。
@ 指と水 インド・インドネシア A 指と砂 サウジアラビア B 小石 エジプト C 土板 パキスタン D 葉っぱ ソビエト E 茎 日本・韓国 F とうもろこしの毛・芯 アメリカ G ロープ 中国・アフリカ H 木片・竹べら 中国 I 樹皮 ネパール・ブータン L 海藻 日本 M紙 各国 この他に、雪(北欧)や苔(ノルウェー)や棒切れ(ボルネオ)なども知られています。  そして、西岡先生はこの著書の中で「尻を拭く用具として紙を使っている人口は、世界総人口の3分の1に達していない」と述べていますが、私は世界の2分の1の人たちが使用しているものと考えています。

紙の歴史とトイレットペーパー
 紙は中国で紀元前にすでに発明されており、それは今から2150年も前のことです。わが国では、「日本書記」に高麗の僧・曇徴が610年に伝えたとありますが、実際には4〜5世紀頃には伝わっていたと考えられています。
 中国で発明された紙は、シルクロードを西漸して、カイロに900年、モロッコに1100年、スペインに1151年、ドイツ、イギリス、オランダとヨーロッパに広まったのは、我が国より遅れること約1000年でした。
 紙には、書写、包む、拭く、加工などの用途がありますが、紙がトイレットペーパーとして使用された可能性を示す記録は、6世紀・中国の「顔氏家訓」の治家編にあります。ここに出てくる「穢用」の意味ですが、鼻紙と訳されていますが、尻始末にも使用された可能性があります。我が国では、12世紀の絵巻「餓鬼草紙」に、土塀の前で排便をしている「伺便餓鬼」の場面に、籌(ちゅう)木(き)(糞べら)と紙が散らばっているのが描かれており、この絵巻には詞書がないので推測するしかないのですが、この頃には、すでに上流階級の人々は紙を尻始末に使用していた可能性があります。
 これの記録から、中国では六世紀頃に、また、我が国では12〜13世紀頃に、すでに上流階級の人々が尻始末に紙を使用していたことは明らかです。
 16〜17世紀頃にヨーロッパで紙がようやく普及してきましたが、原料問題(当時は布ボロ切れが不足)が絡み、木材パルプが登場する前でしたので、紙は未だ庶民が贅沢に使用できる状態にはなかったと思われます。
 この頃、イギリスで水洗トイレの開発が進められていました。

トイレットロールの誕生
 19世紀迄のヨーロッパにおける紙の原料はボロ布でしたので、人口増に伴う紙の需要増に対応できず、社会問題化しました。
 洋紙といわれる機械抄紙が生産されるようになったのは、フランスのルイ・ロベールが1798年に抄紙機を発明してからのことです。しかも当初の原料は古着でしたので、手漉に比して機械抄紙の場合は大量の原料が必要になり、原料である古着が不足し社会問題となりました。その後、麦藁や麻などを利用して機械的製紙を行っているうちに、1844年に木材がパルプとして利用できることが分かり、それに加えて、製紙用の色々な薬品の発見とが相俟って紙の増産ができるようになってきました。
 機械抄紙が世界に広まることにより、色々な種類の紙の生産が行われるようになりました。ロール状のトイレットペーパーの基本特許というべきものは、1871年のアメリカのセス・ウェラーのものです。この技術は実際には1880年頃にイギリスとアメリカで企業化されます。イギリスはW・J・オルコック、アメリカはスコット兄弟です。 これ以前、アメリカでは1857年にジョセフ・ゲェティによって、ちり紙状の製品が発売されています。

日本におけるトイレットペーパー
 日本には「ちり紙」なる種類の紙が手漉紙の頃から各地で生産され、奈良、京などでは吉野紙などの薄紙がちり紙として上流階級には使用されていました。庶民用には漉返し紙の代表である「浅草紙」などが各地で生産されて、色々な名称で生産・販売されてきました。このような中で、明治32年5月1日の「中央日報」に芙蓉舎の「化粧紙」の広告の中に「目下欧米各国に流行するトイレットペーパー」なる文言がみえます。これが、我が国で「トイレットペーパー」という言葉が初めて広告に出稿されたものであると思われます。
トイレットロールの国産化についての記録は、
 「大正13年(1924年)に、土佐紙会社・芸防工場で神戸の島村商会の注文で原紙を抄き、島村商会が加工して外国航路の汽船に積んだ」
とあります(芸防抄紙物語所収)。しかし、どんな機械で巻き、ミシン目を入れたのか、又カットなどの加工状況は分かりません。手漉紙から機械抄紙になり、幅の制約はあるものの、長さについては無制限となりロール状の製品が生産できるようになりました。問題は加工機械です。その加工機の資料は今のところ見つかっていません。
 昭和36年以降、アメリカ・キンバリー・クラーク社とスコットペーパー社が相次いで日本の会社と合弁会社を設立して、ちり紙はトイレットロールに、京花紙はティッシュペーパーにと転換させられました。しかし、日本では利益を上げることができず資本を撤退して、現在はブランド名のみが残っています。

おわりに
 日本では現在、年間100万tほどのトイレットペーパーを生産しており、1人当たり年間8.04sの使用量となっています。昭和48年(1973)のオイルショックの時は、トイレットロールが19万t、ちり紙が29万tでした。この割合が逆転したのは昭和53年(1978年)になってからです。



第3回(開発途上国の水と衛生の現状と改善)

 人が安全に生活していくうえで、飲み水の確保と衛生的なトイレの設置は欠かせない要件ですが、途上国においては貧困問題とも絡んでその実現は極めて不十分です。このことが健康上のリスクを高めています。衛生・健康リスク・貧困の連鎖を断ち切るための衛生改善策として、日本で経験した屎尿の農地還元という知恵に基づいた「エコサン・トイレ」の啓蒙を現地で行っています。
第4回(バングラデシュ農村でのトイレ作り)
 バングラデシュの農村で行っている、屎尿分離型のトイレ作りを啓蒙・普及させていく過程を、ビデオや写真やイラストを使って分かり易く実況的に説明しました。「捨てる文化から、循環する文化への転換を目指す」あるいは「日本人がいなくなっても、間違いのないトイレの作り方や使い方ができるような仕組みにしておきたい」をモットーに活動しています。

第3回と第4回の講話内容の骨子
 バングラデシュにおける衛生改善に関わるニーズは、現在普及しているピットラトリン(一種の溜置き式トイレ)の問題点(設計を含めて管理状態が不適切。排泄物が水系・土壌系に流出し易い構造)を克服することにあります。すなわち、トイレの長期間の使用、洪水期の衛生確保、環境への汚濁の低減などで、さらに、土壌の劣化や肥料が手に入り難いといった課題に鑑み屎尿のもつ資源価値を活かすことをも視野に入れて対応する必要があります。このほかに、井戸水の砒素汚染や生活用水源である溜池の汚染も見過ごすことのできない現状です。
 貧困ゆえに衛生改善が困難というだけでなく、衛生改善ができないことが貧困の原因となっているという「貧困の悪循環」から脱却する一つの方策として、エコロジカルサニテーション(エコサン)・トイレは、重要な解決手段であると考えています。
 エコサン・トイレは、捨てる技術ではなく使う技術なのです。人間が排泄する屎尿を簡便な方法で農業に使える材料に変換するものです。
 バングラデシュではトイレを持たない人口が20%、あっても非衛生状態のトイレを使用している人口が40%です。また、現地で普及しているピットラトリンと呼ばれている溜置き式トイレも持続可能なものではなく、また衛生的な管理がなされていないものが多いのが実情です。一方、化学肥料の多年にわたる施肥により、農地の土壌が著しく疲弊しています。
 そこで、屎尿を農地への肥料として活用することを目的にとした、屎尿分離型トイレの導入を図りました。2系統で1セットです。半年毎に交互に使用します。排便の都度、わら灰をまぶします(PHを上げ、殺菌効果をもたらす)。尿は適時汲取り農地に撒きます。大便は半年間の乾燥期間を置いた後に取り出します。黒色のサラサラした乾燥した便となります。肛門を洗浄した水は、便槽に入れません。
 テスト的に農村地帯のコミラ地区とスリナガル地区に数10基建設しました。オーナー意識をもって管理してもらうため、個人の家庭用のトイレに限定しました。このトイレは臭いが少なく、ハエの発生もわずかでした。尿は、キャベツなどの葉物野菜に対して、化学肥料と比べて大差のない施肥効果がありました。また、良好な乾燥便が得られ、寄生虫卵などの検査を実施し安全性の確認を行いました。万が一を考え、施肥(有機物の補給)に当たっては、乾燥便が風で飛散しないよう土壌で覆土することを指導しました。
 その後、立地条件の異なる数地区において同様のトイレを数百基造り調査を継続し、住民に対する意識調査や教育活動を行ったり、衛生改善効果(医療費負担軽減など)や費用便益を推計したりしました。
 これまで捨てられ環境汚染をもたらしていた屎尿を、土作りに活用することへの認識は、現地でも広まってきました。この考え方に共感した地域では、自分たちで費用を全額負担してでもよいから、このトイレを造ろうという動きが出てきました。
 現状のピットラトリンは第一段階(決められた場所での排泄習慣の普及)の、このエコサン・トイレは第二段階の技術と考え、ピットラトリンを改善する方法の一つとしてエコサン・トイレを位置づけていきたいと考えています。


 
第5回 水琴窟を訪ねて(2月7日、中村隆一氏)

はじめに
 近年、水琴窟が奏でる「ピチャピチャ、コロコロ、ピチャーン」という澄み切った幽玄な音色が癒しの時代に適合するのでしょうか。TVや新聞などのマスコミが取り上げ、ちょっとした水琴窟ブームになっています。しかし、実を言いますと、30年前には広辞苑をはじめとしてどの百科辞典にも「水琴窟」の記載はありませんでした。江戸時代の初期に考案され、昭和の初めまで継続していたにもかかわらず、戦中・戦後、しばらくは忘れ去られていたのです。
 一般の人々に水琴窟の存在が広く紹介されたのは、昭和58年に朝日新聞の東京版に「水の音色、江戸の風雅、旧吉田記念館」という記事が掲載されたのが最初でしょう。旧吉田記念館は旧安田財閥・安田善次郎の甥・善助氏によって昭和2年に建てられたものですが、その後人手(吉田氏)を経て、品川区がこの家を買い取って歴史館を造りました。この旧吉田邸には立派な日本庭園がありました。そして、かつてこの家を訪れたことのある人の口から、たしか「水琴窟」という風変わりな仕掛けがあったという話が出て、庭を調べてみることになったのです。これが水琴窟の発掘・復元の始まりであると言われています。昭和初期までは、水琴窟を自邸に設置する風雅の趣向が残っていたようです。
 演者は今までに、水琴窟ブームの発端となった「品川歴史館(旧安田邸)」や「旧今井家」をはじめ、「木曽古文書歴史館」、「大橋家苔涼庭」、「深田邸」などの多くの水琴窟を直接訪ね、その由来を聞き、その音色を自分の耳で確かめ、その都度探訪記として纏めてきました。ここでは水琴窟の由来、日本人独特の音感覚との関連、ならびに新しく造られたものではありますが印象に強く残っている淺川水再生センター(東京都日野市)の水琴窟に絞って述べることにします。

水琴窟の由来と復元・新設
 江戸時代の初期から中期にかけて、江戸の庭師が豪商の庭を造っていく中で、粋を凝らし、贅を尽くす―目立たない所に贅を凝らす―ことを自慢しあっていた金持ちの商人たちには、「水琴窟は格好な対象」であったと思われます。
 これは、江戸の町人文化がもたらした遊び心、私的な密やかな楽しみの世界なのではないでしょうか。だから、公式な文献も図面も残っていないのです。
 水琴窟は、「洞水門」と云われるものがその原型だと考えられています。成立の経緯を推測すれば、雪隠などから出てきて、縁先の手水鉢で手を清めます。ところが縁先であり、茶室の側でもある場合、水をただ捨てたままの状態にしておくのは具合が悪い。そのため、排水機能としての洞水門が考えられたのではないでしょうか。構造は、瓶を逆さにして土中に埋め、上部に穴を開け、その穴から水が流れ込み、土に染み込みます。この土に染み込ませる機能だけのために造られていたのが、ある時、音が出ている事に気が付き、それが粋、わび、さびといった風雅の境地に進んでいったものと思われます。特に茶会とか句会のような大勢の人々が集まるような時には、手水から水が沢山流されるので、排水設備が必要になってきたのでしょう。とすれば、これは下水道の一種であると考えられます。
 現在、全国に200余箇所あります。都道府県別では愛知県が最も多く、次いで岐阜県、東京都、京都府の順になっています。そのうち江戸時代に造られたものは、わずか16箇所です。近年、新聞、TVなどに取り上げられるようになってから、新設、復元共に急増する一方で、創作水琴窟とか室内水琴窟あるいはそれを発展させた壷中琴といわれるタイプも出現しています。

小堀遠州創案の洞水門
 水琴窟の原型といわれるものを小堀遠州が18歳の時に創案したということが、遠州の門弟である村田一斎の門人・桜山一有が書き残した記録に載っています。その当時の蹲踞の下は水吐けが非常に悪く、蹲踞を使うと水が溜まり、泥を跳ねてしまうので、なんとか水が流れるようにしようと考えた遠州は、下に瓶を埋め、そこに水を落すということを考え付いたのです。この排水設備こそが洞水門であり、水琴窟の原型ということになります。

日本人の音感覚が生み出した水琴窟
 水琴窟を生み出した日本人は、虫の声とか松風といった自然界の音を愛でるという習慣があります。このことは、ヨーロッパ人はもちろんアジア、東洋人にもない習性だそうです。虫の声は、日本人以外の民族には単なる雑音でしかないそうです。二つ以上の音の関係、つまり音楽でなければ彼らは楽しめないといわれます。そこへいくと、日本人は単音でも音色に反応します。音、響きそのものが嗜好の対象になっているのです。響きへのこだわりという日本人独特な音の受容の仕方、或いは感性といいますか、それが水琴窟を生み出した源泉ではないでしょうか。

甦った浅川処理場の水琴窟の音色
 今回訪れて驚いたのは、日本庭園が出現していました。ビオトープとは柳の木で遮られ、そこからは長方形の敷石が続き、やがて丸みのある飛石になっています。盛り土されて少し傾斜した飛石道を上っていくと手水鉢(蹲踞)があり、玉石を囲んで投石、竹製の鑓水(筧)が配置され、そのうしろに景石がズシリと置かれています。さらに細く真っ直ぐに伸びた4、5本の北山杉が全体の景観を引き締めています。これこそ典型的な日本庭園の水琴窟です。処理場の方によると、水琴窟が壊されて修復するに当たって、最初の欠点を洗い出し、徹底的に検討したそうです。音が響かないことや瓶の中の水位が変動することなど… 。そして、決定的に違ったのは新たに施工を担当したのが、処理場の植栽を受持っている造園業者で、その会社の社長さんは庭師さんで、「若い頃に水琴窟を造る手伝いをしていたことがある」と言っていたそうです。社長さんの入れ込み様は大変なもので、まず自宅の庭にそっくり同じ水琴窟を造り、良い音がするのを確かめてから、自ら指示をして浅川処理場に水琴窟を設置したそうです。確かに、以前のものの音とは雲泥の相違で、余韻を伴った良い音で鳴っていました。この水琴窟の音をデジタルで収録した30種類ほどのサンプルをCD‐Rにコピーしたものをお借りして聴きましたが、同じ音のするものは全くありませんでした。水琴窟の音は、自然が作り出す「自然音」なのです。




第6回 トイレからしゃがみ文化と腰掛け文化を探る(3月7日、平田純一氏)

しゃがみ式と腰掛け式の分岐点
 座る・しゃがむ生活様式と、立つ・腰掛ける生活様式の分岐の時期は、地域によって異なるが、今からおよそ6千年前からであろう。排泄の仕方についても、大別するとしゃがんで排便するグループと、腰掛けて排便するグループに分かれました。日本は照葉樹林帯の北端にあって森に囲まれているので、氷期から現在にいたるまで座る生活、しゃがむ生活を取り続けています。しゃがみ式姿勢での排便を、縄文時代以来1万数千年にわたって続けてきた日本人が、1945年以来60年あまりで腰掛け式排便に転換したのは、まさにトイレの歴史上の大事件です。

しゃがんでいたことを証明可能か
 しゃがみ姿勢を習慣的に取り続けていると、かかとの関節に過度な屈曲を強いることになり、関節面周辺の骨格に、構造変化(蹲踞面の形成)がみられるとのことです。ヨーロッパ人には極めてまれにしかみられないが、日本人には蹲踞面が多くみられ、縄文人では特に多くみられることから、縄文時代以来日本人は、しゃがむ姿勢を取り続けていたものと推定されます。

洋風便器の苦難
 メソポタミア、エジプト、インダス、クレタ、古代ギリシャ、ローマの各地で、当時のトイレが考古学的発掘で発見されています。これらは、溝を流れる水の上にレンガで構築したり、木や石の板を乗せてその上に腰掛けて排便するものです。現在の洋風水洗便器と区別するため、腰掛け式水流便器と呼ばれています。
 これらの便器は、西ローマ帝国の滅亡(476年)とともに消滅し、その後の約千年間は北方民族の原始的な放便や貯糞、椅子式便器などに逆戻りし、水流を利用する習慣はなくなってしまいました。中世の中頃からは、おまるやしびんの全盛時代を迎えます。住居内でのおまるの保管は、初期にはベット脇の人の目につく所に置かれていたが、次第にベットの下に入れるようになり、さらには専用のナイトテーブルに収容されるようになりました。
 ヨーロッパは14世紀にはペストが、16世紀には梅毒が、17〜18世紀には発疹チフスと天然痘が猛威をふるい、ついに19世紀にはコレラが爆発的に広がりました。ヨーロッパにこれらの病気が蔓延した理由の一つが、都市の不潔にあります。自分の住む空間さえ清潔であれば、公共空間の不潔は関係ないとばかりに、窓から汚物を投げ捨てることは意に介さなかったのです。コレラは主に飲料水を媒介して広がる経口伝染病であり、環境の病気といえます。当時のヨーロッパは、飲食→排泄→一時貯留→投棄→下水路→河川→飲料水というサイクルをつくっており、まさにコレラにとってはこのうえない環境であったわけです。

トイレの日欧比較
 天水に頼る畑作牧畜民の末裔である西欧人は、地中海文明時代の二圃農業から、深耕鋤の発明で生産性が大幅に向上した三圃農業へ11世紀頃から転換しました。三圃農業は休耕地に牛馬を放牧します。放牧地の牛馬の糞が肥料となり、わざわざ人間の屎尿を投入する必要がありませんでした。都市と農村の間に屎尿のリサイクルの環が完成しなかったのです。これに対して稲作農耕民の血を引く日本人は、鎌倉時代末から室町時代になって、都市の人口増加と食糧増産のために水田が拡大し、屎尿が肥料として一般的に利用されようになりました。江戸時代には金肥といわれるように屎尿は価値を高めました。こうして都市と農村との間に世界でも珍しい完全なリサイクルの環が形成され、都市は清潔を保つことができました。このリサイクルは1945年以降まで続くが、農村では化学肥料の利用、都市では下水道の整備・浄化槽の普及によってリサイクルの環は切断されました。

回虫の功罪
 江戸時代における回虫の感染率は大体50%前後であったといわれています。戦後の1950年代は60%を超えていたといわれ、このときが日本の歴史上日本人が最高に感染していた時期です。食料難、肥料難から人糞を畑に多く撒いたのが原因です。その後、衛生教育の徹底で、1960年代は20%、1970年代は2%、1980年代には0.2%まで感染率は低下し、2000年代になってからは0.001%まで低下したといわれています。

日本のトイレの紆余曲折
 明治初期から中期にかけては、横浜または神戸に来航した外国人の便所は、その都度始末するようになっていました。上板の中央に丸穴を穿ち、便所の外部から便瓶を差込み、用便の都度防臭剤を散布するのみで、汚物は毎日夜間に居留地消防隊内衛生部の人夫がきて処理していたといいます。
 明治時代を通じて、日本のトイレは木製非水洗和風便器が主流で、何とかしてこれを陶器製にできないかと努力してきたのが、瀬戸、常滑、信楽、赤坂(福岡県)などの陶器の産地です。当初は木製下箱(現在でも非水洗貯留式の場所に行くとみられるように、平面形状は矩形で、きんかくしも垂直に立ち上がっている)をそのままコピーして、陶器に置き代えようとしました。しかし、焼成火度が高いため収縮が大きく、下箱の四隅が切れてしまいました。そこで考え出されたのが、四隅にアールをつけて小判形にすることで切れを防ぎました。また、きんかくしについても垂直を保つのが難しいので、お椀を半分に切ったような半円形の形状にすることで、明治24年頃製品化に成功しました。瀬戸の川本秀雄氏の考案であるといわれています。
 この形状は、現在の水洗式和風便器にも基本形状として引き継がれています。明治16年頃から大正初期までは、衛生器具はほとんど英国からの輸入でしたが、それ以降は急速に米国製の輸入に切り替わっていきました。これらの輸入物を参考にしながら、和風の水洗便器の原型を考案したのは、厚田竹次郎氏と須賀豊次郎氏の両氏です。明治37年頃、名古屋の愛知陶器会社が一体形の水洗式和風便器を完成させました。これ以降、幾多の改良が加えられてきました。