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平成20年度 小平市ふれあい下水道館・特別講話会

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平成22年度 小平市ふれあい下水道館・特別講話会




平成22年度 小平市ふれあい下水道館特別講話会のあらまし


 平成22年度の小平市ふれあい下水道館特別講話会は、講座室において10〜翌3月の毎月1回、13時30分〜15時30分に、合計6回の特別講話会が開催されました。
 また今年度は新たに、親子を対象とした「夏休み 楽しい下水道教室」が、8月10日、26日の両日の10時〜11時30分に開催されました。



夏休み 楽しい下水道教室(8月10、26日、柏昌幸氏)

 クイズや簡単な実験をしながら下水道について楽しく勉強し、併せて、下水処理を担っている活性汚泥を構成している様々な微生物の姿を実際に顕微鏡で観察することにより、自然界への興味ひいては下水道・水環境に対する関心を少しでも深めてもらいたいとの願いから企画したものです。
 講話は柏昌幸氏(管路管理総合研究所)が、顕微鏡観察の指導はふれあい下水道館の担当者が行いました。
 参加した子ども(小学生)さんばかりでなく、同行した父兄(母親が大部分でしたが)からも積極的な質問やご意見が相次ぎ、講師陣がその応対に追われるなど予定の時間を大幅に超過するほど、熱気に溢れた教室となりました。



第1回 玉川上水と清流復活事業(10月17日、地田修一氏)

1. 玉川上水
 玉川上水は、江戸の町の人口増に伴う水需要の増大に合わせて開削されたものです。完成は承応2年(1653)といわれています。江戸に幕府が置かれてから50年後のことです。
 多摩川の羽村の取水堰(投げ渡し堰)から四谷大木戸(今の新宿御苑)までの約43km、高低差92mほどの流れです。江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋方面に、地下に石樋や木樋による配水管を埋設し、自然流下式で給水していました。
 明治に入っても、明治34年までは、玉川上水は東京の重要な水道施設として引き続いて使用されていました。

1−1 台地の馬の背を開削した玉川上水
 井の頭線の三鷹台駅から南にゆるやかな上り坂を行くと、玉川上水に出ます。自然河川の神田川よりも地理的に高い所を流れている用水路です。両側の地域に分水できるように、台地上の分水嶺(馬の背)を選んで開削されました。特に、代田橋から下流では小さな谷が入り組んでおり、馬の背を選んで、水路は迂回を繰り返しています。分水は江戸中期には33カ所にのぼり、武蔵野の新田開発の重要な柱になりました。
 江戸の6上水といわれるものには、この他に、青山、三田、千川(以上の3つは玉川上水からの分水)、本所(元荒川から取水)の各上水があります。しかし、神田、玉川の2上水以外は、江戸中期(1722年頃)に相次いで、飲料水源としては廃止されてしまいました。その理由としては、この頃、深い井戸を掘る技術(上総掘り)が開発され、飲料水源として上水(神田、玉川)と井戸とが併用されるようになったからだと考えられています。
 その後、千川上水、三田用水は農業用水の目的で復活されました。上水を利用するには、「水銀」といわれた一種の水道使用料金が課せられました。

1−2 淀橋浄水場への原水導水路としての役割
 明治31年12月に近代的な改良水道が完成したことにより、若干の猶予期間を置いた明治34年6月30日をもって玉川上水の市中への給水の務めを終え、その後は昭和40年3月まで淀橋浄水場への原水導水路(日量30万?)としての役割を果たしてきました。かつては、水路幅一杯に満々とした水がとうとうと流れていました。

1−3 淀橋浄水場と玉川上水の新水路
 明治26年の淀橋浄水場の工事開始が、近代水道の始まりです。5年後の31年の暮、その最初の水が神田、日本橋地区に加圧給水されました。
 玉川上水を流れてきた水は、池に溜められ(沈澄池)、きれいに濾過され(濾過池)、蒸気ポンプで圧力をかけ鉄の水道管で市内に送られました。大正末までは、石炭を燃やす蒸気ポンプでした。大きな機関室の上にそびえる二本のレンガ造りの煙突から黒い煙がモクモクと出ていたそうです。
 沈澄池や濾過池の壁は、レンガで固められていました。掘り揚げた土はトロッコで運ばれ谷を埋めて、ほぼ真っ直ぐな土手を築いていきました。甲州街道の北側の代田橋から淀橋浄水場までの間は、この土手の中にコンクリートで固めた水路を新たに造り(新水路)、玉川上水の水を取り込みました。既存の道路は、この土手の下をトンネルで潜るようになりました。今でもその様子を渋谷区本町で見ることができます。
 大正12年の関東大震災によって、新水路に無数の亀裂が入り、2箇所が決壊してしまいました。幸い、旧水路の方は路肩が崩れる程度で送水に支障がなかったので、旧水路経由で上水の水を流し、あらかじめ緊急用として設置してあったポンプを用いて、浄水場に汲み上げ、急場をしのいだといいます。新水路が復旧するまでの10日間は、代田橋から淀橋浄水場までの間の旧水路が、代替の導水路となったのです。

1−4 玉川上水の新々水路
 新水路の抜本的な改造が検討され、甲州街道の拡張工事に合わせて、昭和6年から8年にかけて鋼管製の導水管が新たに埋設されました。通称、新々水路と呼ばれるものです。

1−5 かつての玉川上水の情景
 明治28年の夏、この「ふれあい下水道館」のすぐそばを流れている玉川上水縁を歩いた国木田独歩は、「武蔵野」の中で、玉川上水の情景を次のように書き印しています。  「 長堤三里の間、ほとんど人影を見ない。農家の庭先、或いは藪の間から突然、犬が現れて、自分等を怪しそうに見て、そしてあくびをして隠れて仕了う。林の彼方では高く羽ばたきをして雄鶏が時をつくる。それが米倉の壁や杉の森や林や藪に籠って、ほがらかに聞える。堤の上にも家鶏の群が幾組となく桜の陰などに遊で居る。上水を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒いたやうな一種の陰影のうちに消え、真近くなるにつれてぎらぎら輝て矢の如く走くる。」

2. 玉川上水の清流の途絶とその復活
 淀橋浄水場の廃止後、羽村取水堰から小平監視所までの区間(約12km)は東村山浄水場へ水道原水を送る導水路の一部として活用され、羽村の堰から取水した多摩川の水が流れていましたが、玉川上水の小平監視所より下流は昭和46年頃から一時空堀状態になっていました。
 しかし、昭和61年からの清流復活事業によって、小平監視所から浅間橋(杉並区、現在はこの橋はない)までの区間(約18km)は、多摩川上流水再生センターの高度処理水が環境保全用水として流れています(現在は、日量2万?強で往時の10数分の1にもなりませんが)。浅間橋のところで暗渠(600m)に入った清流は、井の頭線の高井戸駅付近で神田川に放流されています。
 さらに、これより下流(約12km)では、多くは暗渠化され、その上は高速道路や公園、遊歩道路などに活用されています。ほんの一部、開渠として残っているところもありますが、側岸は崩れ浅くなり、わずかな滲み出し水が細々と流れているのみです。

2−1 清流復活事業
 中小河川や用水路は、東京に残された貴重な水辺空間です。しかし近年、その水源が枯渇し水量が減少してきています。
 東京都の「清流復活事業」は、各種住民団体からの要望を受ける形で「マイタウン東京構想」の一環として、下水の高度処理水やビル湧水などを活用して、このような河川・用水路に清流を復活させ、都民の身近に、親しめる水辺空間をよみがえらせようとして企画されたものです。「玉川上水の清流復活」もこの一環として実施されました。
 下水の高度処理水(多摩川上流水再生センターで <嫌気・無酸素・好気法>により高度処理したうえ、 <砂ろ過処理 + オゾン処理> によりさらに脱臭・脱色したもの)を小平監視所の直下に圧送し、玉川上水に放流しています(昭和61年より開始)。
 このほか、玉川上水の分水である野火止用水(昭和59年)や千川上水(平成元年)にも導水しています。
 但し、当初は<二次処理+砂ろ過処理>でした。
   オゾン処理の追加は平成3年、<嫌気・無酸素・好気法>の導入は平成13年からです。

2−2 小平監視所
 11月の小春日和に、玉川上水駅から5分ほどの小平監視所を訪ねてみました。ここまでは、羽村で取水された多摩川の水が、江戸の昔と変わらずにとうとうと流れてきています。スクリーンでゴミを取り除かれた水は、全量、地下の導水管を通って東村山浄水場に送られています。
 落葉の季節になると、スクリーンはフル回転となります。上水の堤に繁茂しているクヌギ、ナラ、ケヤキ、サクラなどからの落ち葉が、ここに流れ着くからです。玉川上水を監視・管理する役所は、江戸時代には水番屋と呼ばれ、明治以降は水衛所となり、さらに昭和55年以降は監視所と名称が改められています。
 ちなみに、多摩川上流水再生センターの高度処理水(日量約23,000?)が、このすぐ直下にまでポンプで圧送され、ここより下流の玉川上水(野火止用水、千川上水が分水)の清流を復活させています。新たに、上水小橋が架けられ水辺まで下りることができるようになりました。関東ローム(赤土)の厚い層を開削して、この用水路が造られていることを間近で見ることができます。
 ここから西武国分寺線の鷹の台駅付近までの約4kmの区間は、新堀用水(羽村の堰から取水した水を途中で分水)も並流しており、散策をするのにふさわしい景観を残しています。

2−3 国の史跡に指定
 平成15年に、貴重な歴史的土木文化遺産である玉川上水は、文化財保護法に基づき「国の史跡」に指定されました。指定範囲は下流部の暗渠部分を除いた約30kmです。なお、土地の所有・管理者は東京都水道局です。
 また、これに先立ち平成11年には、玉川上水周辺の雑木林を含めた一帯が東京都歴史環境保全地域に指定されています。

3. 下水の処理
 下水の処理は、沈砂池→ 第一沈殿池(一次処理)→ 反応槽(活性汚泥処理)→ 第二沈殿池→ 消毒槽 を経て、二次処理プロセスは完了し、処理水は河海に放流されます。
 しかし近年では、下水処理水の放流先である河川域や海域の水質をさらに向上するには、二次処理水になお残存している「浮遊物」、「窒素」、「りん」成分を、今まで以上にさらに除去する(高度処理)プロセスを付加する必要があるとされるようになりました。
 これは、「窒素」や「りん」が放流水域の富栄養化を促し、植物プランクトンの異常増殖による二次汚染を引き起こす物質だったからです。

3−1 標準活性汚泥法(二次処理)
 活性汚泥に含まれている多種多様の通性嫌気性細菌(酸素があっても無くても生存できる細菌)は、水中に遊離酸素(溶存酸素)と亜硝酸性窒素・硝酸性窒素に含まれている結合型酸素が混在している場合、遊離酸素を優先的に利用して、下水中の有機物を酸化分解するプロセスです。

3−2 生物学的窒素除去法(高度処理)
 窒素の酸化(硝化)や酸化された窒素の還元(脱窒素)の反応が生じ、水中のアンモニア性窒素が最終的に窒素ガスになり、水中から除去されるプロセスです。活性汚泥の入れ替わり時間が長く、有機物負荷が低い条件では、水中の遊離酸素を利用する亜硝酸細菌・硝酸細菌が働いて、アンモニア性窒素は亜硝酸性窒素に、亜硝酸性窒素は硝酸性窒素にそれぞれ酸化されます。また、水中に遊離酸素がなく、且つ亜硝酸性窒素・硝酸性窒素に含まれている結合型酸素がある場合(これを無酸素状態という)には、脱窒細菌が結合型酸素を利用して、下水中の有機物を酸化分解します。このとき、亜硝酸性窒素・硝酸性窒素は還元されて、不活性な窒素ガスになります。このためには、生成した亜硝酸性窒素・硝酸性窒素を含む混合液(硝化液)を無酸素槽に循環する必要があります。

3−3 生物学的リン除去法(高度処理)
 酸素のない状態(嫌気)と酸素のある状態(好気)を繰り返すことにより、リン含有率の高い活性汚泥をつくり出す(リンの過剰蓄積)プロセスである。活性汚泥は、好気的条件下(好気槽)では、必要とされる以上のリンを微生物体内に取り込みます。遊離酸素だけでなく、結合型酸素も存在しない嫌気的条件下(嫌気槽)では、その蓄積したリンを放出します。その速度は、活性汚泥中のリン濃度に比例します。 

3−4 生物学的窒素・リン同時除去法(A2O法)【高度処理】
 流入下水と活性汚泥とが、まず嫌気槽(遊離酸素も結合型酸素もない状態)に入り、リンの放出と有機物の吸着が行われます。
 次の無酸素槽には、好気槽から硝化液が循環されてきます。その中に含まれている亜硝酸性窒素・硝酸性窒素の結合型酸素が呼吸に使われ、脱窒が起きます。
 さらに、好気槽では有機物の酸化、リンの過剰蓄積、窒素の硝化が行われ、この槽の一部の混合液が無酸素槽へ循環されます。本法では、活性汚泥中に、生育条件の異なる「リン蓄積菌」、「硝化菌」、「脱窒菌」が共存しており、この三者の機能をバランスよく発揮させることのできる運転条件を設定することが必要となります。

3−5 砂ろ過法(高度処理)
 活性汚泥処理水に残存している浮遊物を、砂の層を通してさらに濾し取ります。

3−6 オゾン処理法(超高度処理)
 活性汚泥処理水に含まれている色素成分(多くは、人体の血液成分に由来)や臭気成分(下水処理を担っている活性汚泥に生息している微生物がもっている臭気成分)を、オゾン(O3)の酸化力で除去します。



第2回 東京におけるごみの埋立て(11月14日、根本康雄氏)

 講師は元東京都清掃研究所所長(現廃棄物政策フォーラム理事)の根本康雄氏にお願いしました。東京で発生する「ごみ」の最終的な行き先である、海面域や内陸部の「ごみ埋立て地」の歴史的な変遷について、豊富な写真を駆使して述べていただいた。
 ごみの最終処分場の目的、工法(投棄、衛生)、構造(嫌気的衛生、準好気性、好気性)、方式(サンドイッチ、セル)について、その概要を解説されました。8号地(潮見)や14号地(夢の島)は、投棄埋立です。
 サンドイッチ工法は、ごみを埋め立てた上に新鮮な土を覆土し、その上にまたごみを埋立てる方式ですが、この方式が本格的に実施されるようになったのは、夢の島でのハエ騒動(昭和40年)以降のことです。
 セル工法は、中央防波堤外側の埋立て以後に採用されました。
 15号地(現在の若洲ゴルフ場)の第2期工事(昭和41年)の「ごみ埋立て地」造成工事に関わって以来25年間、埋立て地の仕事(工事、設計、計画)に携わってきました。粗大ごみの破砕処理施設や分別ごみ処理施設の計画にも関わりました。
 15号地へのごみ搬入は最初、船で楊陸していましたが、42年4月に若洲橋ができ陸送が可能になりました。汚水対策は準遮水(目視で汚水が護岸から流出していなければ良いという意味)でした。浸出水を圧送管で中央防波堤内側処分場にできた水処理施設に送るようになったのは、ずっと後になってからです。
 当時は、二重鋼矢板の護岸を造ってその上に車を走らせるというような構造が、画期的な施設であるといわれた時代です。
 昭和45年に廃掃法ができ51年に改正され、これを受け53年に「廃棄物最終処分場指針」が刊行され、ごみ埋立て関係の法整備が進みました。最終処分場の建設に厚生省の補助金が出るようになったのは、昭和51年頃です。また昭和51年、廃棄物処理施設も港湾施設の一つとして認められました。
 昭和63年に「廃棄物最終処分指針」の全面改訂が行われ、今までの実績や経験を基に、 特に、遮水や汚水処理施設の項が充実しました。
 中央防波堤内側の埋立て地に設けた汚水処理施設は、生物処理(回転円盤法)、薬品凝集沈殿処理や物理吸着処理を組合わせたものです。処理水は下水道に排水しています。
 多摩地区の各都市は、内陸部でのごみ埋立地をそれぞれ独自に確保し処分していましたが、昭和55年に東京都三多摩地域廃棄物広域処分組合を設立して、谷戸沢処分場(昭和59年開設)、二ツ塚処分場(平成10年開設)やエコセメント施設などを造り、現在では各都市が共同利用しています。



第3回 生活改善運動とトイレ・上下水道(12月12日、小峰園子氏)

 講師は葛飾区郷土と天文の博物館に勤務されている方です。
 大正から昭和前期にかけての農村における「生活改善運動」に焦点を当て、その中でト イレや上下水道に関する文化がどのような変化をみせていったかについて話していただきました。加えて、飲料水の天秤棒による運搬や非衛生的な農業用水利用を打開するため実施された、近代的な簡易水道造りを扱ったドキュメント映画「生活と水」(1952年岩波映画制作、羽仁進監督、厚生省後援、約20分)を鑑賞しました。この映画は今となっては、当時の農村生活の赤裸々な生活実態を知るうえでたいへん貴重な資料となっています。
 江戸時代の農村では、現在でも一部の地域に残っていますが、汲取り式の外便所が使用 されていました。屎尿は定期的に汲取られ、下肥として一滴残らず大事に農地に施肥されていました。一方、上水(飲料水や雑用水)は、湧き水や農業用水に頼るところが多かったようです。 
 明治に入っても、下肥は貴重な肥料として利用されました。
 トイレは地理的要因や気候などの違いによって、様々な形態のものがあります。例えば、沖縄の豚便所や豪雪地帯での内便所がその典型的なものです。
 トイレが水洗化される以前(大正、昭和前期)、我が国では様々な改良便所が考案されました。
 城口式便所(便槽が密閉されているため、微生物の働きで寄生虫卵などを死滅させることができる)
 大正便所(便槽に目印をつけ、汲取りの時期がわかるようにした)
 文化便所(跳ね返りをなくす工夫。大正便所と類似)
 内務省式改良便所(便槽が隔壁によって複数に仕切られており、3ヶ月ほど経過したものを汲取る。この間に、寄生虫卵、消化器系伝染病菌が死滅する)
 昭和便所(大便器の下の配管を湾曲させ、トラップの役割を持たせた。隔壁により3槽に仕切られていた)
 簡易水洗便所(洗浄水として家庭雑排水を用い、便池を設けず、そのまま下水道に流す)などがありました。
 戦後、GHQの主導による生活改善運動が、栄養改善、居住改善、人生儀礼に至るまで、清潔、合理化、簡素化をモットーに強力に推し進められました。トイレの改善に関しては、厚生省式3槽型便所や屎尿分離式便所が推奨されました。ともに、雑誌「家の光」の昭和31年9月号の別冊「生活改善グラフ工夫実践」において、図をふんだんに使っての手作り方法が紹介されています。
 屎尿分離式便所は、昭和25年に、神奈川県衛生研究所が発表したもので、便器に2つの穴が開いており、大便と小便を分けてそれぞれ別の便池に溜めるものです。下肥が重要な肥料であった時代の最後の考案です。小便は伝染病の病原菌が極端に少ないうえに肥料として速効性があり、また、大便は最低3ヶ月間、腐熟させれば安全性が確保でき肥料としても有効であるので、両者を分離した方が合理的であるという発想に基づいています。
 映画「生活と水」の、集落の皆んなが総出で勤労奉仕をして、水源から水道管を引くなどした「簡易水道」造りを克明に追った画面は、規模は小さくても、きちんと管理された水道が設けられることによって、いかに労力が軽減され、衛生的になり、生活が明るくなったかが端的に示されています。



第4回 衛生普及活動に活用する短編動画の作り方(1月16日、高村哲氏)

 バングラデシュでのエコサン・トイレ造りにおいて、その普及活動に活用している「短編動画」の作り方をこれから説明したいと思います。
 従来は、活動の目的やその成果はパワーポイントを用いた講演もしくは報告書を作成して、社会へ伝達してきました。しかし、それでは限られた範囲内での伝達になりがちです。これまでにストックしてきた多くの写真やビデオを活用して、もっと広い層の人たちと問題意識を共有し、我々の思いを伝えることはできないものだろうかと考えていました。
 実際にトイレを作ってもらう現地の村の人たちに、わかりやすく説明する方法を模索していたなかで、DST(デジタルストーリーテリング)という手法に出会いました。
DSTは、放送番組や映画とも異なる、第3のドキュメンタリーと言われています。皆さん方がお持ちの写真やデジタルカメラ、携帯電話で撮った映像が使えます。作品も3分前後と短いものですので、手軽に作れます。ビデオの編集にはパソコンが必要ですが、多くのパソコンにインストールされている機能ですので、パソコンに少し慣れている方ならば容易に作ることができます。
 DSTで作った「短編動画」は、自分たちの活動内容を理解してもらうというより、共感し納得していただくための武器になりそうだという気がしました。
 一番大切なことは、当事者・自らが自分のことを材料にして物語をつくり、他人に伝えるということです。
 次に、作者自身がナレーターとなり、自分の声で一人称で物語ることです。
 誰に伝えるかを明確にしてください。対象が変わると、作品の内容も変わってきます。
 デジタルの紙芝居であると考えてください。  DSTは対話的であり、異質な人々との間の共感と相互理解を得るためのツールといえます。様々な応用が可能な新しいコミュニケーションの道具です。
(このあと、作品例の紹介やパソコン操作の解説がありました。)



第5回 船のトイレ(2月20日、松田旭正氏)

 四方を海に囲まれた日本においては、船は、有史以来、日本人の生活に欠くことの出来ない大切なものであり、江戸時代には多くの和船が造られ、明治の中期頃まで千石船が物流事業の中心的な役割を果たしていました。明治以後、西洋の造船技術を取り入れるとともに、港湾施設の整備が進み、急速に世界の海運王国にのしあがりました。そんな中にあって船のトイレについての情報は少ないのですが、いくつかを紹介します。
 「最近まで、漁船には便所の設備がないのが一般的で、東支那海方面で操業するトロール船などでは、艫(とも)でロープや船舷(ふなばた)に掴まりながら排泄をし、尻は海水が洗ってくれました。時化のときや夜間での用便中に、波にさらわれて行方不明になる者が、時々出ました」と、知り合いの漁師さんが話してくれました。
 江戸時代、千石船の船乗りは多くて15人程度ですが、船内には竈は設けられていましたが、便所はなく直接海に排泄していました。
 海で働く人たちが、屎尿を海中に排泄することを「穢れ」としなかった観念は、陸で屎尿を川屋から川に流して浄める手続きと合っています。古代からの日本人の神道的清浄観が引き継がれていると思われます。
 江戸時代の西国の大名が参勤交代のときに使用した御座船には、便所がついていました。船尾の後ろの左舷甲板に長方形の穴が水面に向けて開けてあり、立派な蓋がしてありました。ところが、これを使ったのは、家来たちです。殿様やお姫さまは、もっぱら樋殿(船内の排泄専用の部屋)で、「おまる」、「ひのはこ」などの移動式便器を用いていました。その中身は、外に捨られていました。
 新河岸川の「川越夜船」(川越から江戸・浅草までを一昼夜で結ぶ、60〜70人を定員とするヒラタ船)には、川船には珍しく、艫の甲板に長方形の穴が貫いていて、川に直接排泄できるようになっていました。しかし、この穴のある場所のすぐそばで、船頭が櫨を使い舵を扱っていましたので、女性は勇気を要したことでしょう。
 明治に入ってからですが、玉川上水にも一時船が運航したことがありましたが(明治3年から2年間ほど。羽村から四谷大木戸までの1日行程)、「この船には厠がある」との乗船者の日記が残されています。これは乗船者の屎尿で上水が汚されないようにとの配慮で、通船申請書にも「 舟毎ニ便桶壱ツ宛用意仕置… 」と記されています。船の乗客定員が23名であったとのことですから、容量が24?程度の蓋の付いた桶が用便のために置かれていたのではないかと想定されます。
 このほか、「東海道中膝栗毛」にみる舟の便所あるいは現代の大型船とレジャーボートのトイレについての話題も披露されました。
 近年、船舶から生ずる汚水の海上処分が海洋汚染の原因であるとして国際的に問題となり、わが国においては、「海洋汚染等及び海上災害の防止に関する法律」により関係法令も整備され、海の環境が保全される体制になってきました。

                                        

第6回 列車トイレのうつりかわり(3月13日、清水洽氏)

 明治5年、新橋―横浜間に鉄道が開設されましたが、車両にはトイレが付いていませんでした。明治22年4月、乗客が駅のトイレに行っている間に列車が発車してしまい、あわてて飛び乗ろうとして転落死するという事故が起こり、マスコミは列車トイレの必要性を書きたてました。これが契機となり、列車トイレが設置されるようになりましたが、汚物は垂れ流しでした。大正末〜昭和初期、電車にもトイレ付きが現われました。
 「列車便所に関する研究」が岡芳包博士らによって昭和26年、27年に発表され、科学的にも汚物が沿線に撒き散らされていることが明らかとなり、国鉄も汚物流し菅の改造や汚物を粉砕・消毒する粉砕式トイレの設置に取りかかりました。
 一方、新幹線の建設計画が具体化され、列車に取り付ける汚物処理装置の開発が至上命令となりました。当初、昭和36年に排泄物と洗浄水をタンクに貯留して車両基地で排出する「貯留式トイレ」が新幹線の車両に採用されました。しかし車輌をたびたび基地に入れなくてはならず列車運行上から、その後44年度末までに、「循環式」に変更されました。この方式は、タンクに薬液を混ぜた水を入れておき、この中に汚物を貯えていき、便器の洗浄水はタンクに設けたフィルターを通して水のみを吸い上げて繰り返して循環して利用するものです。
 しかし、在来線の車両に対する循環式への改造は予算の壁にぶつかり、粉砕式が継続され、点検蓋の設置、飛散防止覆いの取り付け、タンクの大型化などの改善はなされましたが、汚物の垂れ流しは依然として続けられていました。
 こうしたなか昭和40年に清掃法が改正され、列車を運行する者に対して適切な屎尿処理を行うことが義務付けられました。国鉄は昭和43年、「列車トイレット改良の基本方式」により、列車トイレとして循環式を採用する、地上設備の処理方式の調査を実施する、都市部でのトイレの使用を制限する などを定めました。昭和56年度末の集計では、地上設備は40基地に整備され、汚物処理装置を取り付けた車両は、5350輌にまで達しています。全汚物発生量の75%が衛生的に処理できるようになったわけです。
 現在、JR、私鉄とも列車トイレは100%循環式か貯留式が採用され、車輌基地でバキューム車で最寄の屎尿処理場へ運ぶか、あるいは下水への放流で対処されています。したがって、垂れ流しの車輌は1台もありません。その結果、安心してレールに近づき鉄道写真を撮ることができるようになりました。
 ところで、欧米の列車トイレは、一部の特急列車を除いて、いまだにほとんどが「垂れ流し式」です。