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平成20年度 小平市ふれあい下水道館・特別講話会

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平成20年度 小平市ふれあい下水道館・特別講話会




平成20年度 小平市ふれあい下水道館・特別講話会のあらまし



 かねてより話題になりながらなかなか実現に至らなかった「一般市民の方々を対象とした講話会の開催」が、ようやく実施の運びとなりました。「ふれあい下水道館」の講座室(定員25名)において、土曜あるいは日曜の午後に2時間の「特別講話会」の枠を設けることにしました。講話者の派遣は日本下水文化研究会に依頼し、講話会開催の広報は「市報 こだいら」を媒体にして行うということにしました。
平成20年度は4回開催しました。
 なお、特別講話会の席上、資料として、第1〜第3回では「文化資料―1 トイレと下水道の歴史」(屎尿・下水研究会作成)を、第4回では「多摩のあゆみ 特集・多摩の下水道」(たましん地域文化財団刊行)を配布しました。



第1回 日本のトイレ発達史(10月4日、森田英樹氏)

(1)厠の原風景
 野山を歩いていて便意や尿意を感じた時、やむを得ずその場で用を足すという行為(いわゆる野糞や立小便)を行うが、これが屎尿処分の原点でしょう。やがて一定の集落ができてくると、そこいらじゅうでするわけにはいかないので、野外の特定の場所で排泄するようになりました。縄文時代の貝塚から糞石(大便が化石になったもの)が出土することがあります。生活の場に隣接している貝塚やごみ溜めの付近を、トイレ代わりに使っていたのではないかと推察されます。人口密度も低く、自然の分解作用にまかせておいても、環境汚染を引き起こすことはありませんでした。
 このように家の外で用を足すのが、奈良、平安時代ぐらいまでの庶民の生活スタイルでした。国立博物館に『餓鬼草紙』と称される絵巻が伝わっています。絵には老若男女が排便をしている所に伺便餓鬼が群がっている、平安末期の京の街角が描かれています。排便をしている人の足元をみると、当時の庶民のほとんどが裸足か草履であったにもかかわらず、高価な高下駄を履いています。これは、この場所がすでに糞尿で溢れているため足元や着物を汚さないように履いたものと思われます。住民の暗黙の了解の上で特定の排泄場所、つまりトイレの位置が決められていたのではないでしょうか。
 時代は遡りますが、飛鳥時代の藤原京遺跡で、長さ1.6m、幅50p、深さ40pほどの穴から「ちゅう木(糞べら)」が発掘され、土壌中からも寄生虫卵が検出されたことから、この穴はトイレの跡であると認定されました。「土坑式トイレ」といわれるものです。四つの杭跡があり、杭に踏板を渡して用を足していたものと思われます。

(2)屎尿を水に流す
 厠(かわや)の語源は「川屋」です。川の上につくった便をする所という意味です。縄文時代前期の5500年ほど前の鳥山貝塚(福井県若狭湾の三方五湖)から、「桟橋式トイレ」が発掘されました。桟橋の杭跡の周辺から多くの糞石が出土したことから、桟橋からお尻を突き出して排泄していたと考えられています。水に流すということでは、一種の水洗トイレです。このようなトイレは、今日でも東南アジア地域でみることができます。
@ 奈良時代の水路式トイレ
 奈良時代の貴族の屋敷では、絶えず水が流れている道路側溝に堰を設け、築地塀の下の暗渠から屋敷内に水を引き込み、築地塀に平行した木樋の中に水を流し、この上に屋根をかけてそこで排泄をしていました。大便がそのまま流れ出ていかないように、少し先に穴を設けて沈澱させ、その上澄み水を元の道路側溝に戻していました。道路側溝や沈澱穴の掃除は、雨の降った日の翌日に、囚人たちを使って行っていたそうです。
A 高野山式トイレ
 平安時代の初期に空海上人が開山した高野山の寺院や民家では、谷川の水を竹筒などで、まず台所や風呂場に配水し、その余り水を便壷のない厠の下に流し、排泄した屎尿をこの水とともに近くの川に流し去っていました。トイレの異名である「高野山」は、ここからきています。しかし、交通が便利になり参詣人も増加した昭和になると、糞塊の堆積や赤痢などの伝染病の多発が社会問題化し、浄化槽や下水道で処理するようになりました。高野山式トイレは、戦後も日本の各地で、少数ではあるが残存していました。

(3) 移動式便器(ひのはこ、おおつぼ、しとづつ)
 平安時代の貴族は、寝殿造の邸宅に住んでいました。寝殿造の建物には、トイレと呼べる特定の設備がなく、大便用には「ひのはこ(樋筥)」、小便用には「おおつぼ(大壷)」や「しとづつ(尿筒)」という移動式の便器が用いられました。今日の「おまる」や「しびん」です。御簾と呼ばれる「すだれ」のようなもので広い部屋の一部分を仕切り、その陰で用を足していたのです。「おまる」の中身は、使用人が捨てていました。

(4) 汲取りトイレ
 野外でするのか、家の中でするのかの違いはあるにしても、屎尿は長らく「捨てるもの」でしたが、鎌倉時代末期から徐々に樽や壷に溜める「汲取りトイレ」に移行していきました。「肥料価値のある屎尿を確保する」という見地からです。麦を裏作とする二毛作が、鎌倉時代末期から盛んに行われるようになり、生産性を高める工夫や地力維持への関心が高まりました。中国の宋王朝ではすでに屎尿を肥料として使っていたことから、鎌倉時代から行われていた日宋貿易によって、中国から「屎尿の肥料化技術」が日本に伝えられたものと推測されます。従来の、草を刈って田に敷き込む刈敷や草木灰に加えて、速効性のある屎尿を追い肥として使用する農業技術が次第に広まっていきました。
 西本願寺蔵の『慕帰絵』に汲取りトイレが描かれています。南北朝時代のものです。トイレの外観は竹の柱に板壁をはりつけ、屋根は板葺きで、内部は土を掘った上に板を渡し、下の穴に屎尿を蓄えるようになっています。同じく南北朝期の『弘願本法然上人絵伝』(堂本家本)に「厠の念仏」という場面があります。トイレの外観は不明ですが、内部は板敷きで中央に板製の便器があり、一人の僧侶が高下駄を履いて用を足しています。ともに母屋とは別棟の外トイレです。日本古来の建築様式である農家建築では、外トイレや 軒下トイレが一般的であり、家屋内に定置したトイレを設けるようになったのは武家建築(書院造)になってからです。

(5) 江戸時代のトイレ
 江戸時代になると、農村での屎尿の利用が全国的に定着しました。屎尿と作物(米や野菜)を媒介とした、都市と農村を結ぶ「リサイクルの輪」ができあがりました。「屎尿をまけば作物がよくとれるので、農家はお金を払ってでも手に入れたかった」という状況の中で、やがて、屎尿を汲取って農家に売る業者が生まれてきました。屎尿は「廃棄物」ではなく、値段がついて取引きされる「有価物」となったのです。
 江戸の場合、長屋で大人20人の店子が生活していたとすると、共同の外トイレの屎尿を売り払って得られる収入は、一年間でおおむね1両から1両2分でした。一人前の大工の1ヶ月の収入が2両程度の時代にです。個人の家の場合は、野菜などとの現物交換が多かったようです。
 屎尿の代価は、江戸ではすべて大家のものでしたが、京都周辺では大便は大家のもの、小便は店子のものでした。関西では農家も小便を欲し、小便桶と大便所が別々に設置される場合が多かったようです。そのため、女性も小便桶に向って立って小便をしていました。

(6) 明治時代のトイレ
 洋式の水洗便器が輸入され始めたのは明治の中頃です。また陶器製の水洗便器が国産化されたのは大正に入ってからです。いずれにしても、明治期ではトイレの水洗化はごく一部であり、一般庶民の住宅にまで普及することはありませんでした。

(7) 大正・昭和時代のトイレ
 急速な都市への人口集中による都市部の拡大と化学肥料の普及とがあいまって、屎尿の農地への還元は、屎尿の運搬や消費量の面から、近郊農村でその全部をまかなえる状況ではなくなってきました。さらに、屎尿利用の最大の課題であった寄生虫、消化器系伝染病、蝿の発生などの衛生問題も大きくクローズアップされてきました。
 こうした中で、汲取りトイレを改良する研究が官民で盛んに行われました。「城口式大正便所」、「昭和便所」、「厚生省式改良便所」などがそれです。いずれも、寄生虫卵や病原菌を死滅させるよう工夫を加えたものですが、その普及はわずかなものに止まりました。
 農地への還元量が減って、行き場のなくなった都市部の屎尿を処分するために、緊急避難的な措置として、山林や海洋への投棄が昭和10年頃から行われるようになりました。

(8) 水洗トイレの普及
 昭和30年代からの、浄化槽の設置や公共下水道の建設に伴う「水洗便器」の普及はめざましく、平成17年度末には水洗化率は89%に達し、悪臭や蝿などからはほとんど開放されました。しゃがみ式の和式便器から腰掛け式の洋式便器への移行も急ピッチで進み、さらに、紙を使って尻を拭く方式から尻を水で洗浄する温水洗浄便座へ転換しつつあります。また、節水型水洗便器も開発されています。このように、トイレ空間だけをみれば、実に快適になったといえます。しかしその一方で、屎尿そのもののリサイクルシステムは崩壊し、再び廃棄物視された屎尿は、水洗便器を介して流し去った後、その先で「何らかの施設を設けて処理する」という新たな時代を迎えることとなりました。



第2回 江戸の下水道(12月6日、栗田彰氏)

(1) 江戸の下水道の仕組み
 江戸の町について書かれた本の中に「水道はあったが、下水道はなかった」と、断言するものがいくつかあります。これは、「下水道を水洗便所の利用が可能な施設である」としての記述です。しかし今でこそ、「下水道は屎尿処理が可能な施設である」ということが常識となっていて、下水道の普及した地域では、便所の水洗化が義務付けられているが、東京都区部においても昭和30年代までは、水洗トイレ排水を受け入れ、最終的に下水を処理する下水道のほか、家庭雑排水と雨水のみを受け入れる、下水を単に排除するだけのものとが並立して存在していました。
 江戸の下水道は、下水(屎尿を含まない)を排除するだけのもので、屎尿は汲取られて近郊の農村で肥料として利用されていました。
 町人が多く住んでいた長屋を例にして、江戸の町の下水排除の仕組みについてみると、概ね次のような状況でした。
 長屋の入り口を入ると土間があり、そこに台所がつくられていました。台所で使う水は、長屋の井戸から汲んで水瓶へ運んだものであり、大切に使われました。台所からの排水は木樋や竹筒で家の外へ出し、長屋の路地の真ん中を流れている「どぶ」に排除しました。幅が6、7寸(約18〜21p)ほどの、丸太の杭で支えられた木組みのものや石組みのものです。底が張られ、板の蓋が掛けられていました。ここには、長屋の人々が洗濯や食器などの洗い物をする、井戸端の共同の流し場からの排水も流れ込んでいました。井戸は、江戸時代中期以降になると、掘り抜き井戸も増えてきたが、多くは神田上水や玉川上水の水を汲揚げる水道井戸でした。さらに、雨水もこの「どぶ」に集まってきます。
 長屋の路地から敷地外の「どぶ」に繋がる手前には、桝が取付けられていました。桝は複数の「どぶ」を1ヶ所に集めたり、下水の流れる方向を変える所に設けられました。そして、町境から道路を横切って隣町の「どぶ」に繋がっていました。
 道路を横切るものは「横切下水」といわれ、橋が架けられていました。ちなみに、「雨落下水」は、道路に降った雨や家の軒先から落ちる雨を受け入れていた道路端の今でいう側溝を指します。また、「埋下水」は地面の下に布設した暗渠の下水道のことです。
 このようにして、町から町へと「どぶ」は繋がり、最終的には近くの堀や川に出ていきます。下水が堀や川に流れ出る所には、杭を横に並べて、あるいは合掌造り風に打ち込んであり、ここで下水と一緒に流れてきたゴミを取り除きました。

(2) 江戸の堀・川と現代の下水道
 江戸の町は、現在の東京からは想像もできないほどのたくさんの堀や川が流れ、これらが下水道幹線の役割を果たしていました。
 現在の下水道との関連をみると、たとえば、王子(現・北区)付近で石神井川から分岐し、中里(現・北区)・尾久・日暮里(現・荒川区)・根岸(現・台東区)を経て、三の輪(現・台東区)で山谷堀と思川とに分かれていた「音無川」の跡は、日暮里付近から三の輪付近までが「音無川幹線」になっています。三の輪付近で「分水堰」を超えた下水は、「山谷堀上流」跡につくられた「雨水渠」を通じて、日本堤ポンプ所へ入ります。日本堤ポンプ所には、「浅草新堀川」跡につくられた「元浅草幹線(雨水渠)」からの下水も入ってきます。日本堤ポンプ所から排水された下水は、「山谷堀下流」の跡につくられた「雨水渠」を通って隅田川に流し出されます。「分水堰」を超えない下水は、南千住(荒川区)付近から三河島処理場に繋がる幹線に合流して、三河島処理場で処理された後、隅田川に放流されます。
 このように、江戸時代に下水道の役割を果たしていた堀や川の多く(浅草新堀川、谷田川、小石川など)は、現代の下水道に引き継がれています。
 江戸の下水道(どぶ)は、雨水排除を主眼に整備されていました。家庭からの雑排水は、現在と違って水を大切に使っていたので、「どぶ」に流される量はごく少量(たとえば、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、さらに残ったものは植木に撒いた)であり、屎尿が下水に含まれることもなく、下水といってもそれほど汚れてはいなかったと思われます。また、雨水の一部は、溜めておいて防火用水や道路の散水に使われていました。



第3回 明治以降の東京における下水道整備のあゆみ(1月8日、地田修一氏)

 時代が江戸から明治に替わっても、下水道は江戸時代の板棚や石組みのままでした。
(1) 銀座煉瓦街の洋風溝渠
 明治5年(1872)2月、和田蔵門付近(現・千代田区)から出火、銀座・京橋・築地(現・中央区)一帯が消失しました。この大火を機に、東京を外国風の不燃建築物によって近代都市化することをめざし、銀座に煉瓦街を建設することになりました。明治6年(1873)10月のことです。街路には洋風の溝渠が造られました。
 煉瓦街の道路は、表通り(現・銀座通り)が幅15間(約27m)で、横町通りが幅10間(約18m)と8間(約15m)、裏通りが幅3間(約6m)であり、裏通り以外は車馬道と人道が分けられていました。
 道路両側には、洋風の石造りの溝渠が設けられました。車馬道と人道との境界石の下に暗渠が設けられ、数条の支溝が横に通じていました。暗渠の中は、潮の干満により常に流れが生じ、不潔なものが停滞することのない構造となっていました。
 表通りや横町通りは洋風の溝渠でしたが、裏通りは蓋のないU字形の溝渠でした。
 官築の煉瓦家屋には便所や台所が設けられていなかったので、入居者がそれらを木造で建て増しをしたそうです。便所は汲取り式でした。台所からの汚水は、支溝を通じてU字溝や暗渠に流れ込みました。
 銀座煉瓦街が完成したのは明治10年(1877)頃です。当初は、東京府全域に外国風の不燃建築物化を進める計画でしたが、財政難と住民からの不評により、煉瓦街の建設は銀座一帯だけとなってしまいました。

(2) 神田下水
 明治10年(1877)から15年(1882)にかけて、全国にコレラが流行し、多数の死者が出ました。明治15年の東京府下のコレラによる死者は、約5千人に上っています。この惨状をみて、政府は下水道整備の必要性を痛感し、明治16年(1883)4月30日付で東京府に対して「水道溝渠等改良ノ儀」を示達しました。これを受け、東京府は下水道改良事業の立案に着手し、内務省御用掛の石黒五十二より設計提案を受け、内務省御雇工師オランダ人ヨハネス・デ・レーケの指導のもと計画案をまとめました。
 事業実施区域は、明治15年(1882)のコレラ流行で大きな被害を受けた悪疫流行の危険性の高い神田地区としました。
 「雨水の排除は在来の排水路を使い、屎尿は汲取り便所のままとし、新たに埋設する暗渠には家庭雑排水のみを排除させる」というもので、本管は煉瓦積みの卵形渠、分管は円形の陶管としました。
 明治17年(1884)11月、東京府知事・芳川顕正は内務卿・山縣有朋に対し「府下溝渠改良ノ儀ニ付伺」として神田下水の事業計画を申請しています。同年11月13日、内務省から東京府に築造認可指令が出され、同年暮工事に着手しました。
  第一期工事(17年度)
 神田区の通鍋町、鍛冶町以西、竜閑町新川以北を対象。予算は5万円(全額国庫補助)。本管 約0.6km、 分管 約1.95km。
第二期工事(18年度)
 神田区の通鍋町、鍛冶町以東、竜閑橋筋新川以北、浜町川筋新川以西を対象。予算は3万円(国庫補助金)、1.2万円(地方税)。本管 約0.4km、 分管 約1.17km。
 東京府は、第三期工事(内神田・錦町・美土代町を対象に、本管約0.7km、分管約2.4km)の予算として国庫補助金5万円を受けたうえで、地方税1.2万円を支出する予定であったが、政府が国庫補助金を不許可としたためやむなく中止し、いわゆる「神田下水」は約4kmの管渠を敷設しただけで工事未了となりました。
 「神田下水」では、下水を処することなく、竜閑川や新たに掘られた浜町川に放流しました。一方、屎尿は、従前どおり汲取られ肥料として利用されました。
 神田下水は、現在も2km余が東京都の公共下水道として機能しており、この内の614mが平成6年3月に文化財保護法により「東京都指定史跡」に指定されました。

(3) 神田下水以降
 神田下水の工事終了後も、雨水排除の下水道整備は続けられました。
 麹町区(現・千代田区)隼町・陸軍省経理部間の暗渠。 四谷区(現・新宿区)元鮫ヶ橋・青山御所裏間の暗渠。 本郷区(現・文京区)駒込追分町・丸山新町間の暗渠と妻恋町暗渠。 浅草区(現・台東区)北田原町・吾妻橋北詰間の暗渠。下谷区(現・台東区)五軒町通り暗渠。 神田区(現・千代田区)一ツ橋通りほか三線路暗渠。

(4) 東京市による下水道計画の策定
 明治維新の混乱が落ち着いた頃から東京の人口は増加に転じ、明治21年(1888)には東京市(15区)で130万人、東京府全体で156万人に膨張しました。一方、これを支える都市基盤は江戸時代のままという状態であり、近代都市の建設には下水道だけでなく、上水、道路、河川、橋梁、港湾などの整備が急務でした。
@ 市区改正条例と下水道計画
 ときの東京府知事・芳川顕正は、明治17年(1884)、政府に「市区改正意見書」を提出し支援を要請しています。市区改正とは今でいう都市計画のことです。明治21年(1888)8月に、東京の一元的な都市整備を目標として「東京市区改正条例」が公布されました。
 東京市区改正条例は「条例」となっているが、近代的な都市計画のあり方を定めたものとしてはわが国初の法制です。内務大臣の監督のもとに、東京市区改正の設計・年度計画を決めるため「東京市区改正委員会」を置くことが定められました。
 明治21年10月、第6回東京市区改正委員会において、W.K.バルトン(英国から招聘した内務省衛生局御雇工師)を主任とする7名の上水下水調査委員(長与専齋、古市公威、原口要、山口半六、永井久一郎、原竜太)に、上下水改正についての設計・調査を委嘱しました。
 下水改良については明治22年(1889)7月に、「東京市下水設計第一報告書」が市区改正委員長に提出されています。「分流式とし、雨水は在来の排水路を改造して流し、新たに埋設する下水道管には家庭雑排水のみを流し屎尿は入れない」とするものです。
 第二路線(下谷、浅草及び神田の一部)は、隅田川の中流に放流するので下水の処理が必要であるとし、わが国で初めて下水処理施設(間断向下濾過法)の建設を計画しています。三河島地内にポンプ場を設け、さらに汚水を濾過処理して、荒川に放流するとしています。
 「東京市下水設計第一報告書」は提出後1年余を経て、ようやく明治23年10月、市区改正委員会は計画内容の審議に入るが、財政上の理由から上水道の整備が優先され、下水道改良は延期となり幻の計画となってしまいました。下水道事業に収入財源がなく、工事費も汚水対策だけで350万円もかかるうえ、雨水対策の議論や神田下水に対する批判なども出て、意見がまとまらなかったからです。
 本格的な下水道計画の立案にまで進んだ東京の下水道は、ここでいったん挫折をみることになりました。ただ、当時の大雨による深刻な被害もあり雨水吐工事などは延期もできないので、在来溝渠の補修などは東京府で施工しました。
A 下水道法の公布
 「東京の下水改築はなお未着工で、浚渫も不十分である」という市街状況の中で、明治33年(1900)4月に下水道法が施行されました。下水道の使用を強制することにより、社会全体の公衆衛生を保持していこうとする考え方が強く打ち出されています。しかし、事業主体は、下水道整備が急務とされる「市」に限定されていました。
 この旧下水道法は、昭和33年(1958)の新法制定まで、長くわが国近代下水道建設の根拠法となったが、公共事業の原則にのっとり施設の使用を住民に義務付ける一方で、建設ならびに維持管理に要する財源に関する条項が欠落していたことが、下水道財源の安定的な確保を妨げることとなり、この後の下水道の普及に少なからぬ影響を与えました。
B 下水道整備への機運
 明治23年11月に財政上の理由から上水道の整備が優先され、下水改良は延期になっていたが、その後の東京市の発展は目覚しく市街地の中心には高層建築が建ち、水洗トイレもかなりつくられ始めました。しかし、その多くは近くの池とか堀に未処理で流しているのが実情でした。
 当時は降雨時の惨禍が頻発しており、この面からも下水改良の機運が高まってきました。
C 東京市下水道設計の策定
 先行した上水改良が明治31年11月には大部分を竣工し、一部(神田区及び日本橋区)に通水したことを受け、明治32年〜37年にわたってあらためて下水改良に関する実施測量調査(資料収集、人口調査、測量など)が行われ、調査がほぼまとまった明治37年2月、市区改正委員会は、中島鋭治(東京帝国大学教授)に「東京市下水設計の調査」を委嘱し、明治40年3月、「東京市下水設計調査報告書」が提出されました。
それは、
 「計画人口は300万人で、排除方式は家庭雑排水、屎尿、雨水を1つの下水道管に流す合流式とし、3つの排水区【第一区(芝、麻布、赤坂、麹町、四谷、牛込、小石川、本郷、日本橋、京橋、神田の大部、下谷の一部)、第二区(下谷、浅草、神田の一部)、第三区(深川、本所)】に分け、第一区は芝浦ポンプ場より第七台場沖に送水し直接放流、第二区は三河島汚水処分工場で、第三区は砂町汚水処分工場でそれぞれセプチックタンク処理(腐敗槽の一種で、汚水中に存在する嫌気性菌の作用で汚水を分解させる処理法)を行う」
と、いうものです。
 また当時は、屎尿は汲取られた後、周辺の農村に運搬されて肥料として利用されていたことに配慮しながらも、
 「屎尿を下水道に流入させることは外国では慣例になっているが、わが国では重要な肥料であり、従来から下水道に排除する習慣がなかった。しかし、時勢の推移にともない、近年は水洗便所を設置するところが増加する傾向にある。屎尿を下水道に収容しても、欧米の実例からも水質的に大差がないので、本計画においては収容してもよいものとする」
と、しています。
 この「東京市下水設計調査報告書」が、市区改正委員会(設計、財源、衛生の3部門の特別委員会を設ける)での検討を経て一部修正され、基本計画としての「東京市下水道設計」が告示されたのは、明治41年4月のことです。
D 東京市下水道設計の一部変更
 この計画もいざ実施という段階で、またもや財政問題に悩まされました。東京市が要求していた工事費に対する二分の一の国庫補助が三分の一に削られたうえ、下水道税をとったらとの意見もあったが実施に至らなかったからです。また、折からの打ち続く大雨による甚大な洪水の被害もあり、設計変更を余儀なくされました。
 ときの市長・尾崎行雄の固い決意により、明治44年(1911)にようやく「東京市役所内に下水改良事務所を設置し、下水改良に関する事務を開始する」ことを告示し、明治44年5月、「第一期下水道改良事業」として第二区の工事実施を決め、認可を申請しました。
 しかしその直後、第二区全域にわたって改めて測量を実施するとともに、新たに「下水改良工事顧問会」を設置(明治44年9月)し、「東京市下水道設計」が再検討されました。大正元年11月に第二区下水改良工事設計原案の既定方針を変更し、大正2年5月に「東京市下水道設計」の変更を告示しました。さらに、同年11月には既定計画変更案について内務・大蔵両大臣の認可を得ています。
 主な変更点は、次のとおりです。
 @ 排除方式    一部地域を分流式とする
 A 計画最大降雨量 31.7mm/時を50mm/時に改める
 B 汚水処分方式  汚水処理方式が、セプチックタンク処理法から撒水濾床法(砕石を敷き詰めた濾床表面の好気性微生物の作用で汚水を分解する処理法)に変更された
 C 事業費     第一期工事の総事業費:680万円
 D 工期      第一期工事の工期:明治44年度〜大正7年度(8ヵ年)
 この変更に際しては、主任技師・米元晋一が明治44年8月から翌年8月まで海外に出張し入手した欧米諸国の下水道に関する最新情報が取り入れられています。
 なお、下水改良事務所の所長は東京市役所助役が兼務し、この下に総務課と工務課が置かれ、明治45年8月には新庁舎が竣工しました。
 この設計は、大正2年11月7日に内務・大蔵両大臣の認可を得、本格的に工事が開始されることとなりました。同年12月25日には、下谷区龍泉寺町での浅草幹線および浅草区内での新堀南幹線の工事が着工されています。
 こうして、神田下水の中断以来、長い冬の時代を過ごさざるを得なかった東京の下水道は、ここにようやく長いトンネルを抜け、今日の下水道事業につながる大事業がスタートを切ることになりました。
 紆余曲折を経た三河島の用地問題も大正3年1月に至り、三河島汚水処分工場用地53841坪、幹線埋設用地2683坪を買収して、ようやく最終的に決着し、大正3年(1913)6月から三河島汚水処分工場の建設工事が始まりました。
 さらに、東京市直営の製管工場が、大正2年に操業を開始し、手詰めのコンクリート管を工事現場に支給するようになりました。

(5) 昭和前期の下水道事業
 昭和5年に、芝浦汚水処分場が運転を開始し、当初は沈澱処理でしたが、14年に、機械式(シンプレックス式)の活性汚泥処理に切り替わりました。続いて6年には、砂町汚水処分場が沈澱処理での運転を始めています。さらに、すでに稼動していた三河島汚水処分場に、新たに機械式活性汚泥処理(パドル式)が9年に導入されています。
 昭和7年に大東京市が誕生し、下水道行政も広域化しましたが、しばらくは、旧東京市域の東京市下水道のほか郊外下水道および旧12町下水道と、三つの下水道計画に基づいて、下水道事業を行わざる得ない時代がしばらく続くことになります。
 終戦直前の昭和20年の普及率は、ようやく10%に達したところでした。
(広報映画「汚い!と言ったお嬢さん」を上映)

(6) 昭和中期・後期〜平成の下水道事業
 昭和25年に、下水道計画は一元化され、浸水被害と水質汚濁とを克服すべく、開催の決まった東京オリンピック(昭和39年)を目指して、急ピッチで下水道整備がなされました。新たに小台、落合、森ヶ崎の系統が加えられ、散気式活性汚泥法の導入、汚泥の機械脱水・焼却などの技術革新も図られました。その後、荒川以東の葛西、小菅、中川の3系統に下水道建設の重点を移し、平成6年に至り、ついに下水道普及率100%概成を達成しました。
 オリンピック投資で弾みがつき、水質汚濁防止効果への期待からオイルショック後の不況時においても重点施策として位置づけられ、年間の普及率2%アップの掛け声のもとに邁進してきた賜物です。
 平成12年度末での概況は、
 普及人口 :約820万人
 下水道管 :約1万5000q
 処理能力 :約630万?/日
 処理場数 :13箇所
 脱水汚泥量:約3000?/日
です。
(7) 今後の下水道事業の展開
 老朽化し機能低下が著しい管渠や処理施設を再構築し、処理能力の高度化を図り、都市における水辺環境の創出に積極的に関わっていく必要があります。



第4回 ふれあい下水道館の役割と世界の水事情(2月15日、松田旭正氏)

 小平市は、荒川水系と多摩川水系の分水界をなす台地上にあり、市域の大部分には自然河川が流れていません。わずかに市域の縁辺部が、石神井川、黒目川、仙川、野川のそれぞれの源流地帯となっているだけです。農業用水は、市の中心部を貫通して流れている玉川上水からの分水に依存してきました。
 家庭雑排水は、土壌に浸透させる「吸込み」式により処分していました。その結果、人口が増加してきた昭和30年代に至り、地下水汚染が深刻化し、井戸水が使えなくなってしまい、上水道を設置したいとの要望が次第に増えてきました。その一方で、一部の家庭雑排水は用水路を経由して、そのまま中小河川の源流に流出したため、河川の水質汚濁が顕在化しました。
 そこで、昭和45年から流域下水道事業の一環として、公共下水道の整備に着手し、20年後の平成2年に、汚水整備事業は完了しました。多摩川流域は合流式で北多摩二号処理場において処理し、また、荒川流域は分流式で汚水は清瀬処理場において処理し、雨水は雨水幹線を通じて河川に放流するという、二通りの整備手法で実施しました。
 下水道を建設するに当たっての起債(借金)が次の世代へ引継がれることになるので、下水道管を直接見ることができる施設を造り、下水の流れている管渠の実態やその下水がどのようにして処理されていくのかを、市民に理解してもらう必要があるのではないかとの意見が各方面から寄せられました。
 種々検討された結果、地域参加型の「ふれあい下水道館」(地上2階、地下5階建)が建設されました。開館は平成7年です。下水道を通して、これからの環境教育にも積極的に関わっていこうというコンセプトのもと、「見える下水道」館を目指しています。
 展示内容は、
 入口周辺:せせらぎと湿地
  両脇の湿地には汚れた水を再生する植物の葦が茂り、水路には「メダカ」が泳いでいる。
 1階:エントランスホール(ミニ水族館、水琴窟)
  多摩川上流に棲むイワナ、ヤマメ、ニジマスが泳ぐ大型水槽や水琴窟が置かれ、清流の音と映像により入館者の心をなごませてくれる。
 2階:コミュニティホール
  水に関するミニ図書館があり、休憩場所としても利用できる。
 地下1階:講座室
  下水を処理する微生物を観察できる顕微鏡と映像モニターとを一体化した装置があり、課外授業や講話会が行われている。
 地下2階:展示室(くらしと下水道)
  私たちの暮しと下水道との関係を、江戸時代から現代まで知ることができる。映像や模型で説明している。
 地下3階:展示室(小平の水環境)
  水を求めて武蔵野の荒野に掘った「まいまいず井戸」の模型や井戸掘り道具の実物がある。
 地下4階:特別展示室(近代下水道前史)
  江戸時代から明治に入ってからの日本の近代化に伴う下水道の夜明けが、絵や写真とその解説によりわかり易く展示されている。
 地下5階:実物の下水道管渠に入れるコーナー
  日本で初めての実物の下水道管(内径4.5m、地下25m)の中に入れる体験コーナーである。下水道管内の水圧に耐えられる扉(潜水艦のハッチと同様な構造)が二重に設置されている。
です。
 このほか、世界の水事情について、バングラデシュにおける飲料水の砒素汚染の実態やエコサントイレの普及活動ならびに東南アジア地域における稲作の多毛作化に伴う、灌漑用水としての地下水の過剰汲上げによる塩害などの話題提供がありました。