屎尿・下水研究会

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第11回 特別企画

屎尿・下水研究会 平成20年度特別企画報告

平成21年02月22日


小平市ふれあい下水道館・特別講話会への講師派遣

 予ねてより屎尿・下水研究会の幹事会の席上でしばしば話題になりながら、なかなか実現に至らなかった「一般市民の方々を対象とした講話会の開催」が、このたびようやく実施の運びとなった。年度当初の活動計画には挙がっていなかったが、本会本部の監事・松田旭正氏のご尽力により小平市の「ふれあい下水道館」の講座室(定員25名)を借用できることとなり、急遽、屎尿・下水研究会の平成20年度特別企画として取組むこととなった。
 土曜あるいは日曜の午後に、2時間の「特別講話会」の枠を設けていただき、講話者の派遣は当研究会が自主的に行い、講話会開催の市民への周知は小平市が「市報 こだいら」に広報することにより実施したものである。平成20年度は、下記のとおり4回開催した。
 第1回特別講話会:10月4日(土)
 「日本のトイレ発達史」 森田英樹氏
  古代から昭和期までの日本のトイレの移り変わりを話した。
 第2回特別講話会:12月6日(日)
 「江戸の下水道」 栗田彰氏
  江戸の町には、下水(家庭雑排水+雨水)を排除するための下水道が造られていたことを話した。
 第3回特別講話会:1月18日(日)
 「明治以降の東京における下水道整備のあゆみ」 地田修一氏
  屎尿を下水道に受け入れ、汚水処理を行う近代的下水道の整備に向けての歴史的経過を、東京を事例として話した。
 第4回特別講話会:2月15日(日)
 「ふれあい下水道館の役割と世界の水事情」 松田旭正氏
  発展途上国の厳しい水循環の現状を通して、ふれあい下水道館の役割を提案した。

 それぞれの講話の概要は、次のとおりである。

1. 日本のトイレ発達史
@ 先史時代:鳥浜貝塚(福井県若狭湾)から多数の糞石が発見されたことから、ここに桟橋型水洗トイレがあったことが推測される。
A 古代:厠(川の上にトイレを作り、排泄物を流し去る「川屋」が語源)という言葉から、日本のトイレの原型を想像することができる。かつて高野山にあったトイレは、この形式のものである。
B 平安時代:貴族の寝殿造の邸宅では、大便用には「しのはこ」、小便用には「おおつぼ」と呼ばれる持運び式の便器を使用した。一方、京の庶民は野外の特定の排便場所で行っており、この時、高下駄を使用した。
C 鎌倉時代の末期:肥料としての屎尿を確保するため、汲取り便所が登場する。
D 戦国時代:屎尿を農地に還元するリサイクルシステムの萌芽がみられる。
E 江戸時代:江戸の長屋では汲取られた屎尿の代価はすべて大家のものとなったが、京都周辺では大便は大家のもの、小便は店子のものとなった。
F 明治時代:洋式の水洗便器が輸入されたのは明治の中頃である。
G 大正・昭和前期:化学肥料の登場により、屎尿はやっかいものになり始めた。衛生的に農地還元するための改良便所の研究が盛んに行われる。
H 現代:水洗式便器の普及によりトイレ空間は、悪臭,蝿などから開放されたが、屎尿は有価物から処理すべき廃棄物となった。


2.江戸の下水道

@ 江戸の下水道と現代の下水道の違い:江戸の下水道は、下水を排除するだけものであった。ただし、屎尿は下水道に受け入れなかった。
A 江戸の町の下水は、町中の下水道から堀や川を通じて隅田川や神田川などに流れ出て、最終的には海へ流されていた。
B 町中の下水道のしくみ:台所の流しから落ちた下水は、敷居の下に作られた木樋(あるいは竹筒)を通って路地の下水道に流れ出る→ 路地の下水道(幅18〜21cm。丸太の杭で支えられた木組み。場合によっては石組み)には木の蓋がされていた→ 共同井戸の流し場からの洗濯や洗い物の排水も路地の下水道に流れ込む。
C 路地の下水道は、長屋の奥にあった町境の下水道や長屋の脇の下水道へ、あるいは表の道路端の下水道に繋がっていた。
D 外の下水道に繋がる手前には、桝が取付けられている所もあった。
E 雨落下水:道路に降った雨や家の軒先から落ちる雨を受け入れた道路端の下水道。
F 横切下水:道路を横切る下水道。
G 埋下水:暗渠の下水道。
H 町境の下水道は、町から町へと繋がりやがて近くの堀や川に流れ出るようになっていた。
I 下水と一緒に流れて来るゴミを取除くために、下水が堀や川に流れ出る所には杭を並べて、あるいは合掌造り風に、打ち込んであった。
J 江戸時代に下水道の役割を果たしていた堀や川の例として、入谷・浅草・蔵前を流れていた浅草新堀川、染井・駒込・田端を流れていた谷田川、谷中・根津を流れていた藍染川、大塚・小石川を流れていた小石川などがある。これらはいずれも、現在の下水道の幹線になっている。


3.明治以降の東京における下水道整備のあゆみ

@ 明治前期(近代下水道への模索):暗渠の下水道管を埋設するが、下水(屎尿を含まず)は未処理で放流。銀座煉瓦街の洋式溝渠、神田下水(コレラ対策)。
A 明治後期(近代下水道整備への胎動):東京市下水設計第一報告書(実施せず)、明治33年に旧下水道法が制定(ペストの脅威から)、下水道整備への世論が高まる。
B 明治末〜大正期(近代下水道整備の開始):明治41年に東京市下水道設計が告示、下水管工事(大正2年)及び処分場建設(大正3年)が本格的に着工される、直営の製管工場の操業(大正2年)、大正11年に三河島汚水処分場(散水濾床法)が運転開始。
C 昭和前期(芝浦、砂町汚水処分場の運転開始):芝浦(5年:沈澱処理、14年:機械式活性汚泥処理)、砂町(6年:沈澱処理)、三河島(9年:機械式活性汚泥法)。三つの下水道計画(郊外下水道、旧12町下水道、旧東京市域の東京市下水道設計)。終戦時の普及率:10%。
D 昭和中期〜後期(浸水被害と水質汚濁の克服)下水道計画の一元化(昭和25年)、東京オリンピック開催(昭和39年)を目指して。散気式活性汚泥法の導入(昭和34年:芝浦)、汚泥処理技術の向上(機械脱水、焼却)。
E 概成100%普及の達成(平成6年):オリンピック投資ではずみがつき、水質汚濁防止効果への期待から、オイルショック後の不況時においても重点施策として位置づけられた。平成12年度末の現況(普及人口:約820万人、下水道管:約1万5千km、処理能力:約630万?/日、処理場数:13箇所、脱水汚泥量:約3千?/日。)
F 下水処理の高度化を目指して(水辺環境の創出と下水道) G 多摩地区の下水道整備のあゆみ:単独下水道、流域下水道。



4.ふれあい下水道館の役割と世界の水事情
@ 小平市の水の歴史:荒川と多摩川の分水界にあり、石神井川、黒目川、仙川、野川のそれぞれの源流地帯。「吸込み」による家庭雑排水の土壌浸透により、地下水汚染が深刻化(昭和30年代)し、井戸水が使えなくなり、上水道の設置要請が増加。家庭雑排水は排水路に流れ込み、そのまま中小河川の源流に流出していたので、水質汚濁が顕在化。
A 公共下水道の整備(昭和45年に着手。20年後の平成2年に汚水整備事業を完成。流域下水道事業の一環として、多摩川流域は合流式で、北多摩一号処理場で処理、荒川流域は分流式で汚水は清瀬処理場で処理し、雨水は雨水幹線を通じて河川に放流する、二本立ての整備手法。
B ふれあい下水道館の建設:次の世代へ、下水道建設の事業費の起債(借金)を引継ぐことになるので、下水道施設を直接見ることができる施設を造り、流れている下水の実態やその下水がどのようにして処理されるのかを市民に理解してもらう必要があるとの考え方から、地域参加型の本館が建設された(平成7年竣工)。地上2階、地下5階建て。
C 展示内容:エントランス:小川と湿地、1階:エントランスホール(水の風景)、2階:コミュニティホール、地下1階:講座室、地下2階:展示室(くらしと下水道)、地下3階:展示室(小平の水環境)、地下4階:特別展示室(近代下水道前史)、地下5階(実物の下水道管に入れるコーナー)
D 世界の水事情:バングラデシュの飲料水とトイレの実情、地下水の過剰汲上げの弊害の実例

 なお、特別講話会の資料として、第1〜第3回は屎尿・下水研究会が新たに作成した「文化資料―1 トイレと下水道の歴史」を、第4回は当会会員が執筆者として参画した「多摩のあゆみ 特集・多摩の下水道」を、それぞれ配布した。
 さらに平成21年度においても同様の企画を実施すべく、関係者との協議を進めているところである。

(記:地田 修一 運営委員)