発表タイトル
分科会
屎尿・下水研究会
第57回 屎尿・下水研究会
明治の改革にみる屎尿の文明開化
松田 旭正 氏
会員各位様
日時: 9月17日(木) 18時30分〜
場所: TOTO新宿ショールーム(スーパースペース)
会議室(プレゼンテーションルーム)
演題: 明治の改革にみる屎尿の文明開化
講師: 松田 旭正 氏
内容: 明治維新になり、政府は、居留地の外国人から、蓋のない肥桶の運搬に対する苦情を受け「違式?違条例」を発布し、東京府はじめ3府5港で施行した。これにより公衆便所の増設などの対応がなされたが、公文書館の資料を駆使してこの実態を明らかにする。
第57回屎尿・下水研究会報告 明治の改革にみる屎尿の文明開化
松田 旭正 氏
平成21年9月17日(木)、TOTO新宿ショールームのプレゼンテーションルームにおいて、標記の講話会が開かれました。講師は当会監事の松田旭正氏です。明治初期政府は、それまで慣習として行われていた無蓋での屎尿運搬や立小便を法律により規制しようとしましたが、それを改めることは一朝一夕ではいきませんでした。本講話は、この状況を当時の公文書を駆使して辿ったものです。概要は次のとおりです。
@ 英国公使館から外務省へ宛てた「昼間、便所汲取人が公使館前を通る際に臭気が館内に入り、来客時には特に迷惑するので通行禁止にしてほしい」との申し入れなど、外国人からの類似の苦情が絶えなかった。
A 明治5年、政府は軽犯罪を取締まる「違式?違(いしきかいい)条例を制定した(罰金刑もあり)。屎尿・下水関係では、「川や堀や下水へ土・芥・瓦・礫を投棄する者」、「居宅前の掃除を怠り、下水を浚わない者」、「蓋のない糞桶を搬送する者」、「便所でない場所へ小便をする者」、「店先や往来に向って、幼児に大小便をさせる者」などの項目がある。絵を使って分かりやすく解説した「画解(えとき)五十余箇条」を出し、周知徹底を図った。
B 当初、三府五港(東京、京都、大阪、横浜、神戸、長崎、新潟、函館)で施行され、その後、他の県へも及ぶようになった。
C 施行時期やその内容は各県により異なっており、この条例に対する評価(「受入れ」あるいは「反発」)に微妙な違いがあったことを覗わせる。
D 東京府では、明治5年11月13日より全54条を施行している。
E 横浜では、この条例以前にすでに立小便をなくすため、明治4年11月、町会所の費用で辻々に公衆便所(当時は公同便所と呼ぶ)を順次新設していた。明治5年4月時点で、その数は83箇所にのぼった。しかし、4斗(約72リットル)樽大の桶を地面をわずかに掘り下げ埋め込み、板囲いをしただけの簡単なものであった。その後それらを統廃合し、屋根を付け桶を瓶に換えるなどの改善を図り、橋のたもと40数箇所に設置した。
F 浅野総一郎は知事の許可を得て、横浜の公衆便所の貸下げを受け、本格的な改造に着手した。明治12年、装いを新たに63箇所の公衆便所が竣工した。汲取られた糞尿は、横浜近郊および千葉県下に輸送され、肥料として農家に売られた。こうして、公衆便所(明治28年頃からは共同便所と呼ばれた)は整備されていったが、なかなか旧習は改まらず、警官の仕事の主なものは放尿取締りであるかのごとき有様であったという。
G 京都府では、明治5年より独自に屎尿の運搬時間を厳しく規制していたが、9年12月からこの条例を改めて施行した。防臭薬を使用すれば、昼間の屎尿運搬も可能とした。
H このほか、浜松県、岩手県、熊本県、浜田県、白川県などの条例を詳しく調べ、各地方ごとに、条例の内容、施行範囲、周知状況などに違いがあることを明らかにした。
運営委員 地田修一 記