屎尿・下水研究会

TOP

屎尿・下水研究会の概要

お知らせ

発表タイトル

特別企画

企画図書類

更新履歴


発表タイトル

分科会
屎尿・下水研究会



第55回 屎尿・下水研究会

航空写真にみる下水処理場用地

地田 修一 氏

会員各位様
 

日時: 3月13日(金) 18時30分〜
場所: TOTO新宿ショールーム(スーパースペース)
     会議室(プレゼンテーションルーム)
演題: 航空写真にみる下水処理場用地
講師: 地田 修一 氏(本会会員)
内容: 現在、下水処理場として使われている処はそれ以前、どんなところだったのでしょうか。それは水田、埋立地、工場、旅館街など様々である。当時の航空写真や絵図などから、東京の処理場用地及びその周辺の景観を読み解いてみたい。

第55回屎尿・下水研究会報告

航空写真にみる処理場用地

 3月13日(金)、標記のタイトルでの講話会を東京・新宿のTOTO新宿ショールーム・会議室(プレゼンテーションルーム)で実施しました。講師は当会会員の地田修一氏です。東京(23区)の処理場の用地が以前どのような土地利用形態であったのかを、古い航空 写真などをもとに読み解いていただきました。講話の概要は次のとおりです
@ 三河島:水田(大正十一年稼動)。三河島村村史に、「東京市が処分場用地として隅田川 に面している土地を探していることを知った地主六十二名が土地の買上げ願いを提出した」と記録されている。
A 芝浦:海面埋立て地(昭和五年稼動)。大正十二年から埋立てを開始し昭和四年に完了した芝浦第三号埋立地の一画に建設された芝浦ポンプ所が始まりである。
B 砂町:海面埋立て地(昭和六年稼動)。海岸から四百m沖合いに造った人工島で、陸地とは専用道路で繋がっていたほか、着船場が設けられていた。
C 小台(現 みやぎ):煉瓦用原料土採掘跡地(昭和三十七年稼動)。宮城地区には明治二十年頃から煉瓦工場が数多く立地し、付近の田畑の表土も原料土として採掘された。処理場用地には、大小の池が点在していた。
D 落合:工場跡地(昭和三十九年稼動)。二〜三の小工場が立地する戦災を受けた跡地で、回りは住宅地であった。
E 森ヶ崎:旅館街+養魚場(西側施設、昭和四十二年稼動)、海面埋立て地(東側施設、昭和五十年稼動)。明治三十二年に鉱泉が発見され、その後、保養地、旅館街として発展した地域であったが、戦中は軍需工場の宿舎として利用された。海苔養殖業も昭和三十七年に全面補償となり終焉した。
F 新河岸:工場跡地+水田(昭和四十九年稼動)【浮間:昭和四十一年稼動】。手前の広大な水田には、その後、高島平団地が造成された。新河岸川に架かる早瀬橋は木橋で、時代劇の映画撮影がたびたび行われていた。交通機関は、赤羽駅からはバスで徳丸橋まで、東武東上線も成増などの駅から途中までしかバスがなく、バス停から二十〜三十分ほど歩いて通勤しなければならない辺鄙なところであった。
G 小菅:屎尿処理場跡地ほか(昭和五十二年稼動)。
H 葛西:海面埋立て地(昭和五十六年稼動)。
I 中川:工場跡地(昭和五十九年稼動)。
J 中野:刑務所跡地(平成七年稼動)。
K 有明:海面埋立て地(平成七年稼動)。
L 新河岸東(現 浮間):国立研究所跡地(平成十三年稼動)。
M 処理場の呼称の移り変わり:汚水処分工場(明治四十一年頃)→ 汚水処分場(大正十一年頃)→ 下水処理場(昭和二十七年頃)→ 処理場(昭和三十七年)→ 水再生センター(平成十六年)。

運営委員 地田修一 記





第55回屎尿・下水研究会報告 「航空写真にみる処理場用地」
                     平成21年3月13日(金)

 3月13日(金)、標記のタイトルでの講話会を東京・新宿のTOTO新宿ショールーム・会議室(プレゼンテーションルーム)で実施しました。講師は当会会員の地田修一氏です。東京(23区)の処理場の用地が以前どのような土地利用形態であったのかを、古い航空 写真などをもとに読み解いていただきました。講話の概要は次のとおりです
主な資料: ・東京都下水道局文化会機関誌『水声』に掲載した、        「写真を読むシリーズ」(地田修一)
「職場界隈探訪シリーズ」(地田修一、小松建司、高橋敬一)
      ・『東京の下水道100年のあゆみ』東京都下水道局 昭和57年
東京(23区)の処理場用地
   三河島: 水田(大正十一年稼動)
   芝浦 : 海面埋立て地(昭和五年稼動)
   砂町 : 海面埋立て地(昭和六年稼動)
   小台(現 みやぎ) : 煉瓦用の原料土採掘跡地(昭和三十七年稼動)
   落合 : 工場跡地(昭和三十九年稼動)
   森ヶ崎: 旅館街+養魚場(昭和四十二年稼動)、 海面埋立て地(昭和五十年稼動)
   新河岸: 工場跡地+水田(昭和四十九年稼動)【浮間:昭和四十一年稼動】
   小菅 : 屎尿処理場跡地ほか(昭和五十二年稼動)
   葛西 : 海面埋立て地(昭和五十六年稼動)
   中川 : 工場跡地(昭和五十九年稼動)
   中野 : 刑務所跡地(平成七年稼動)
   有明 : 海面埋立て地(平成七年稼動)
   新河岸東(現 浮間) : 国立研究所跡地(平成十三年稼動)
処理場の呼称の移り変わり
 汚水処分工場(明治四十一年頃)→  汚水処分場(大正十一年頃)→  下水処理場(昭和二十七年頃)→  処理場(昭和三十七年)→  水再生センター(平成十六年)

1. 三河島処理場用地買収のエピソード(「江戸・東京の下水道のはなし」技報堂出版)

 現在の三河島処理場の所に敷地が決まるまでの経緯が記録(「三河島村村史」)に残っている。『 東京市が処分場用地として隅田川に面している土地を探していることを知った当時の三河島村の地主六十二名が土地の買上げ願いを東京市に提出している。明治四十二年三月のことで、時の市長は尾崎行雄である。これを受けて同年三月二十日に処分場敷地として、五万三千坪の地域を決定した。ところがこの決定に対して、当時の村長松本雄太郎氏はほか有志は、これは明らかに地元の発展を阻止するものであるとの説を起こし、地主諸氏と鳩首協議の結果、三月二十八日、五十四名の連署をもって敷地の位置を変更してほしい旨の嘆願書を市に提出した。これは、当初の案では処分場用地が村内を東西に貫通する位置にあり、村が分断されてしまうとの感があったからだと思われる。結局、今の三河島処理場の位置になったが、買い上げた土地は六千坪増え、五万九千坪である。 』
【三河島辺りを描いた浮世絵】
  【三河島処理場用地の遠景(明治末年)】
  【三河島処理場の航空写真(昭和二十二年)】

2. 芝浦処理場用地周辺の海面埋立て(芝浦水再生センター界隈の今昔: 「水声」)

 芝浦水再生センターは、芝浦第三号埋立地(大正十二年から埋立てを開始、昭和四年に完了し、その後高浜町と命名)と呼ばれていた一画に、昭和三年に造られた芝浦ポンプ所に始まります。当初は下水の仮処分を目的にしていたので、沈澱池が二つ、汚泥槽が一つあるだけでした。
さらに、これを処理場に拡張する工事が継続して行われましたが、これはこの頃の航空写真です。画面中央から上部にかけての一帯が処理施設の工事現場だと思われます。画面の右上部が高浜運河で、左手前には品川駅の広い構内が見え、水面とおぼしい所が残っています。運河が構内まで入り込んでいたのでしょう。……
東京府が隅田川の永代橋下から、沖合の台場へとつづく澪筋をさらいはじめたのは明治二十年。内湾が東京港として変貌をとげる、築港工事の第一歩といえる。…… 澪筋は浚渫したものの、隅田川が吐く土砂はたえまなく、しだいに水底は浅くなる。ついには、わずか百トン級の船しか入港できないほど港の機能が低下。東京市は明治三十九年から大正六年にかけて、再び澪筋の浚渫とともに船舶の泊地や航路の拡張など、河口の改良工事にのりだす。このときの浚渫土砂はほとんどが芝浦一帯の海辺に投入され、ザッと三十七万坪の埋立地が造成された。…… 震災後に再開された河口改良工事は、五千トン級の船舶が入港できる水域と港湾施設の確保に邁進する。昭和十年に工事が完了したあと、さらに八十三万坪の埋立地が内湾をおおった。(「さまよえる埋立地―江戸TOKYO湾岸風景史―」石川雄一郎著 農山漁村文化協会)
【江戸切絵図 高輪辺り】
【芝浦処理場辺り 昭和初年】
【空から見た芝浦汚水処分場(昭和三十年代)】

ページのはじめへ

3. 砂町処理場の昭和二十八年ならびに三十七年の姿(写真を読む: 「水声」)

【砂町処分場用地(大正末年頃)】
【空から見た砂町汚水処分場(昭和十年)】
【別紙資料を参照】

4. 小台(現 みやぎ)処理場は煉瓦用土掘削の跡地(みやぎ水再生センター界隈の今昔 「水声」)

 明治の東京においては、官公庁を中心に新しい西洋建築が次々と建てられ、煉瓦の需要が急激に起こりました。宮城地区は、川を挟んで消費地と隣接しており、さらに、川沿いから煉瓦の原料土を産出するため、煉瓦の生産に適していました。明治二十年頃には煉瓦工場が続々と建設され……近代的な設備を備えた工場が出現し始めたのは、明治中期を過ぎてからです。…… 
 みやぎ水再生センターの川向うに豊島五丁目団地が建っていますが、以前はここに硫酸や人造肥料をつくる工場がありました。その工場は明治二十九年から操業を始めていますが、宮城地区の人々はこの工場から出される煤煙による煙害に悩まされることになりました。…… 耕作できなくなった田畑の土を近隣の煉瓦工場に売る農家が続出し、土を大八車に積んで工場に運ぶ姿が多く見られたそうです。そのため、土を掘った跡の穴に水が溜まり、村の半分くらいが池に変わってしまったそうです。そんなところに、昭和十年代から、研磨材工場や顔料工場などが進出してきました。…… 
 昭和二十五年に建設省の認可をとった「東京都市計画下水道」では、「小台処理場」になっており、建設予定地も足立区南宮城町に変わっています。用地の買収を昭和二十六年二月から始めています。建設予定地の航空写真には大小の池が点在し、社宅と思われる建物がみえます。
   【小台処理場用地(昭和二十八年)】
 【空から見た小台処理場(昭和五十六年)】

5. 絵地図にみる森ヶ崎処理場用地(絵地図にみる森ヶ崎界隈今昔 「水声」)

 おもしろい絵地図があります。これは大正末から昭和初期にかけての森ヶ崎地区のようすです。この絵地図は観光宣伝用絵はがきの袋に描かれたものですから、旅館街が大きなスペースを取っています。実際は「養魚場」がこの地区の大半を占めていました。
 現森ヶ崎水処理センター(西)は、養魚場から旅館「大金」にかけてと思われます。養魚場に(西)水処理施設がスッポリとはいる広さです。「鉱泉病院」は戦後、労災病院となり、水処理センター正門と道をはさんで建っています。「鉱泉病院」の跡地は、労災病院職員宿舎となっています。
 養魚場の北側が防波堤で、森ヶ崎の海岸線が広がり、東側が新呑川です。この海は、江戸前の豊かな漁場であり、江戸時代から続く「のり養殖(浅草のり)」の産地でした。ヒビと小さな漁船が点在する水面が海岸から望めたことでしょう。(昭和三十七年に全面補償となり、浅草のりも終焉)。
 そして、絵図に描かれていて、今は無い旅館や料理屋の数々、それに芸者置屋など、職場界隈はまさに当時は三業地だったわけです。  森ヶ崎の思い出(地元の人): 森ヶ崎は、子供の頃の遊び場でよく通ったものです。梅森バス(梅屋敷と森ヶ崎間を結んでいた)で終点が「大金」の前です。裏の池でメダカやザリガニ捕りをしました。春先は潮干狩り。アサリは、よくだしのでる最上ものです。漁場も豊かで、スミイカが大漁で船が沈みそうになって戻ってくるのを見たこともあります。戦後の復興期に海は汚れ、昭和二十八年頃には海水浴はダメになり、わが家も生業(漁業)から離れました。
 【森ヶ崎地区の絵地図(大正末〜昭和初期)】
 【大森森ヶ崎海岸(大正末〜昭和初期)】
 【森ヶ崎処理場用地(昭和三十七年】

6. 新河岸処理場の昔の姿

 この航空写真には、板橋区北部が写っています。左から右へ新河岸川が流れ、舟渡町の新日鉄東京工場の様子をとらえることができます。区画整理された四角形の中に、大きく見えるのは工場、同じ大きさで規則正しく並んで見えるのは志村、坂下、蓮根などの住宅団地です。写真下の部分は武蔵野台地が低地に続く斜面林です(赤塚公園など)。川と台地の間の規則正しい方形は、「徳丸田んぼ」と言われたところです。…… 徳川幕府の直轄地(鷹場)が、明治三年に民間に払い下げられ水田地帯(3百ヘクタール)へと変わりました。ここに、日本住宅公団の高層団地が建設され始めたのは昭和四十一年のことです。(「写真は語る」板橋区教育委員会)
・ここに一枚の写真があります。弁天塚から新河岸川の向こう側にある和光純薬工業株式会社・東京工場を遠望するもので、工場の裏手には荒川の土手が見られます。この工場は、昭和三十九年に移転しています。(「水声」)
・その当時、処理場の南側は大きな建物がなく、晴天の日は三キロ先の成増厚生病院まで見通せる状況でした。処理場付近は花が一面に咲き誇り、まむし、蛙、アメリカザリガニ等も生息するなど、自然がいっぱいあふれていました。新河岸川土手は砂利道で、早瀬橋はところどころ踏み板が破損している木橋で、たびたび時代劇の撮影が行われていました。通勤については、交通機関は赤羽からはバスで徳丸橋まで、東武東上線は成増、下赤塚、東武練馬等からは途中までしかバスはなく、大部分の人はそれらのバス停から歩いて通勤していました。(「新河岸水再生センターのあゆみ」)
【空から見た徳丸田んぼ(昭和三十五年頃)】
【新河岸処理場用地の一部(和光純薬工場)の遠望(昭和三十年代)】
【新河岸処理場用地(昭和三十九年頃)】(「新河岸水再生センターのあゆみ」)

7. その他の処理場

(7−1) 落合処理場

 【落合処理場用地(昭和三十五年)】
 【空から見た落合処理場(昭和五十六年)】

(7−2) 小菅処理場

【屎尿処理場があった頃の遠景(昭和十年頃)】
 【空から見た小菅処理場(昭和五十六年)】

(7−3) 中川処理場

【中川処理場用地(昭和三十八年)】
 【空から見た工事中の中川処理場(昭和五十六年)】

ページのはじめへ