会のロゴ

特定非営利活動法人
日本下水文化研究会 分科会 屎尿・下水研究会
Japan Association of Drainage and Environment
日本下水文化研究会は新しい人と水との関係を考えていきます。
Smart Water Use and Drain Keep the Environment Healthy

TOP

屎尿・下水研究会の概要

お知らせ

発表タイトル

特別企画

企画図書類

日本下水文化研究会 HP

関西支部
HP

更新履歴


発表タイトル

分科会
屎尿・下水研究会



第50回 屎尿・下水研究会

旧下水道法制定の経緯

稲場 紀久雄 氏

日時:3月27日(木)18時30分〜
場所:TOTO新宿ショールーム(スーパースペース)・会議室
講師:稲場 紀久雄 氏(大阪経済大学教授、本会評議員)
演題:「旧下水道法制定の経緯」
内容: 明治33年に制定された旧下水道法の基本的な考え方ならびに同時に制定された汚物掃除法との兼ね合いについて考察する。




旧下水道法制定の経緯

稲場 紀久雄(大阪経済大学) 

[その1]地獄図:コレラ上陸とペスト襲来

   【要旨】

(1) コレラ上陸

 100年という歳月に隔てられた私達の環境の懸隔をレイチェル・カー・ソンは、次のように述べている。
 「19世紀の終りから20世紀のはじめにかけて伝染病が流行したころ(略)いたるところ病菌が溢れていた。いま発癌物質でいっぱいなのと同じだったが、病菌は人間が意識的に環境にばらまいたのではなかった。人間の意思に反して、病菌はひろがっていったのだ。これに反して、たくさんの発癌物質は、人間が環境に作為的に入れている。そして、その意思さえあれば、大部分の発癌物質を取り除くことができる。」(『沈黙の春』、269頁、新潮文庫)
 この指摘は、100年前は細菌汚染による悪疫が、現在は有害人工化学物質が私達の生命と生態系に脅威を与えている構図を的確に表しており、わが国の歴史に照らしても大筋では正鵠を射ていると言える。
 明治10年(1877)6月来日したE・S・モースは、『日本その日その日』(東洋文庫171)の中で日本の都市の環境の清潔さを次のように賛嘆した。
 「あらゆる階級を通じて、人々は家の近くの小路に水を撒いたり、短い柄の箒で掃いたりする。日本人の奇麗好きなことは常に外国人が口にしている(略)。汽車に乗って東京へ近づくと、長い防海壁に接して簡単な住宅がならんでいるが、清潔で品がよい。田舎の村と都会とを問わず、富んだ家も貧しい家も、決して台所の屑物や灰やガラクタ等で見っともなくされていないことを思うと、うそみたいである(略)。日本人の簡単な生活様式に比して、我々は恐ろしく大まかな生活をしている為に、多くの廃物を処分しなくてはならず、而もそれは本当の不経済である。」
 明治維新から明治10年までは、海外との交流が徐々に盛んになり、都市活動も活発化していったが、周辺の都市環境はモースが賛嘆するほど清潔であった。ところが明治10年代に入ると急変する。
 コレラの流行が繰り返されるようになり、為政者は国家体制を揺るがす元凶と震え上がった。
 内務省衛生局編纂の『明治10年虎列刺病流行紀事』によると、流行の端緒は、明治10年9月初旬、長崎港に入った英国艦船からコレラで死んだ水夫の遺体が密かに降ろされ、日本政府の了解なく埋葬された事件だったと記している。
 西南戦争は終結に向かいつつあったとは言え、西郷軍はなおも政府軍に決死の戦いを挑んでいたため、鹿児島に近い長崎港は厳戒下に置かれていた。日本政府は、入港した英国軍艦の動静を注視していたが、埋葬を阻止することはできなかった。
 コレラ菌は、世界最強を誇るイギリスの軍艦から体力を消耗していた両軍兵士に伝播した。西南戦争は9月24日西郷隆盛の自刃で終結したが、既に多くの政府軍兵士がコレラ菌に感染していた。帰還を急ぐ兵士は、検疫陣の制止を振り切って、全国に凱旋した。コレラ菌が蔓延した理由は、対等に列強諸国と渡り合えなかった非力さと未熟な検疫体制にあった。事情は、外国航路の船舶が出入りする貿易港でも同じである。
 こうしてコレラは、明治10年に続いて明治12年、15年、18年、19年と流行した。特に明治19年の流行は、患者約16万人、死者約11万人という凄まじい状況であった。コレラ菌が皇居に侵入することを恐れた政府は、夜昼の区別なく予防対策に懸命であった。
 『明治19年虎列羅病流行紀事』は、その惨状を次のように伝えている。「東京ハ三日ヨリシテ十五区内ノ患者百名以上トナリ十八日ヨリハ二百以上ニ上リ三十一日ニハ終ニ三百以上ニ達シ翌九月一日二日ノ三日間ニ渉レリ(略)避病院ハ既ニ悉ク充満スルモ患者ヲ送ルノ輿ハ相連絡シテ殆ント人ノ往来ヲ妨ゲ各所ノ火葬場ハ日夜火ヲ絶タザルモ奮棺未タ尽キス新棺早ク山ヲ為シ其惨状実ニ言フニ堪エス」
 政府首脳は、コレラが国家の存立そのものを揺るがす事態を目の当たりにして、近代上下水道の整備がわが国の発展に不可欠であることを痛感した。
 公衆衛生行政の祖・長与専斎は、岩倉遣外使節団の随員としてロンドンをはじめヨーロッパ諸都市の上下水道を見聞し、わが国でも産業革命の進展と共に西欧型の近代上下水道の導入が必要になると考え、その導入の方法を模索していた。
 長与は、明治15年に勃発したコレラの猛威を前に、いよいよ近代上下水道導入の必要性を痛感し、3つの布石を打った。
第1:近代下水道のパイロット・プラント神田下水の建設に踏み切ったこと。
第2:腹心の部下・永井久一郎をヨーロッパに派遣し、上下水道事業の法律・財政制度を研究させたこと。
第3:最先端の上下水道技術の指導者をイギリスから招聘したこと。わが国の衛生工学の父と仰がれるW・K・バルトンの来日がこの結果実現した。
 長与は、国家を疲弊させるコレラの猛威を克服するために熟慮を重ねた。神田下水の設置は、長与の細心にして大胆な性格を示している。彼は、神田下水の建設前はむしろ下水道推進論者であったが、神田下水の経験を契機に慎重論に転じ、最終的に上水道整備優先政策を選択した。長与は、如何なる理由でこのような決断を下したのか。
 ここでは、長与が凄まじいコレラの猛威を前にしてさえ、近代下水道の整備に慎重であった事実を特に強調しておきたい。

(2) ペスト襲来

 ペストは、皮膚が紫黒色を呈して死亡するため、黒死病と言われた。中世ヨーロッパを疲弊させた恐るべき悪疫で、その脅威はコレラの比ではなかった。
 ペストは、波が打ち寄せるように波状的に日本を襲った。
 1回目は明治27年6月初め。清国の広東に発し、香港に飛び、暫時北上した。
 6月7日、長崎港に一隻の貨客船が錨を降ろした。米国郵船ペリュー号。何の変哲もない入港風景であったが、検疫関係者の表情は厳しかった。香港から来たこの船の船長は、航海の途中、1人の水夫がペストで死に、水葬したと報告した。
 長崎県庁は、直ちに内務省衛生局の指示を仰いだ。内務省は、鳩首凝議のすえ、船内の完全消毒、潜伏期間を考え水葬時から起算して9日間の停船、安全が確認されるまでの出港禁止の措置を指令した。この時はペストは見事に水際で防がれた。
 これには苦い経験があった。前述したように、明治10年、国力も弱く経験も乏しかったので検疫をためらったばかりに、イギリス艦船に発したコレラ菌が西南戦争の従軍兵士に伝染し、政府軍兵士の凱旋と共に全国に蔓延した。2度と繰り返してはならない誤りであった。明治27年のペスト騒動の後、北里柴三郎はペスト菌を発見。その3年後、緒方正規が鼠に寄生するノミからペスト菌が人に感染することを突き止めた。
 ペストの水際の撃退作戦にも限界がある。明治32年11月5日、遂に国内でペストの死者が出た。23才の青年であった。この若者は、台湾の基隆から近江丸に乗り門司に上陸。徳山から汽車で横浜に戻る途中、広島で下車。余程苦しかったのだろう。旅館鶴水館に投宿し、そこで亡くなった。
 2人目の死者は同月8日神戸で、3人目は11日、4人目が12日、いずれも神戸である。神戸と大阪を中心にペストが流行し始めたのだ。原因は、船底に巣くったペスト感染鼠の上陸、さらには陸揚げされた荷粉と呼ばれる船舶内の様々な廃棄物や使い古しの物資などではないかと考えられた。
 内務省はインド、清国、香港、台湾からの古着、古綿、古紙などの輸入を禁止した。株価は物流停滞を見越して下落した。患者は続発し、神戸市では23人中19人が、大阪では44人中41人が死亡した。広島、福岡、和歌山、長崎、静岡でも死者が出た。神戸と大阪の患者合計67人に対し死者60人。死亡率は9割。敗血症を起こしてアッと言う間に死ぬ例もある。
 問題はペスト菌を運ぶ感染鼠とそれにたかる蚤。不潔な都市は、運び屋の絶好の生息場所となる。厭離穢土、欣求「清潔」である。東京市は、鼠の買い上げ計画をスタートさせる。布告には「鼠一匹五銭、区役所ペスト予防事務支所で買い上げ」とある。何10万匹という鼠が駆除されたが、所詮は対症療法に過ぎなかった。
 ペスト襲来は近代下水道導入慎重論を粉砕し、瞬く間に下水道法が制定された。西暦1900年、ちょうど108年前のことである。

[その2]黒死病ペストの恐怖の前に拙速に形式的に成立

   【要旨】

(1)近代下水道法形成史概略

 1−1:1877年(明治10年)のコレラ流行から水道条例が制定された1890年(同23年)まで

 コレラは、西南戦争が終結する間際に検疫体制の不備から長崎に侵入し、全国に広がった。コレラの流行は、この時から毎年のように繰り返されるようになった。
 内務省は、明治10年8月27日に『虎列刺病予防法心得』(達乙第79号)を府県に発し、予防の万全を図った。この心得に付録『消毒薬及ヒ其方法』が付いており、その中の『第3、便所芥溜下水等』という次の規定がある。
 「(下水溝渠ハ)日々之ヲ疎通シ水ヲ灌テ洗浄スヘシ、甚シク汚穣ノ滞塞シタル所ハ石炭酸ヲ注クヲ良トス」
 内務省は、更に『便所下水芥溜等修繕浄除ノ方法』を設け、同年12月28日乙第171号により府県並びに東京警視本署に通知した。同本署は、翌年の5月9日に東京府知事と連署で『飲料水注意法』を出した。この注意法は、飲用の井戸水が汚水や汚濁物、あるいは便槽の侵出液で汚染されないように注意事項をまとめたもので、下水道とも密接に関係している。
 内務省は、引き続いて明治13年9月10日に先の心得を充実させた『伝染病予防心得書・清潔法大意』(達乙第36号)を通達した。
 この大意の冒頭には次の記述がある。
 「土地ノ不潔ハ伝染病ヲ蔓延セハムルノ媒介タリ是ヲ以テ其病発生スルトキハ必ス家屋ヲ清潔ニシテ溝渠、芥溜、厨?等ノ汚物ヲ掃除セサルヘカララス是清潔法ヲ要スル所以ナリ」
 この大意は、コレラ、腸チフス、ジフテリア等伝染病の種類毎に清潔法と養生法を記述するという形で構成されている。下水溝渠の規定は、虎列刺の項の第6条と第7条で、次のように書かれている。
 「第6条下水溝渠ハ石若クハ堅実ノ木材ヲ用テ有底ノ放水樋ヲ設ケ遠隔ノ地ニ流注セシメ汚水ノ地底ニ滲入スルヲ防クヘシ。其樋上ハ蓋ヲ以テ密閉スヘシ。若シ其接合密ナラサレハ却テ其間ニ腐敗気ヲ停蓄スルカ故ニ此ノ如キモノハ寧ロ上面ヲ開放シテ大気ニ曝スヲ以テ愈レリトス。但塵芥ハ必ズ溝渠ニ投棄セシムヘカラス。」
 「第7条溝渠ハ注意シテ塵芥ヲ除キ淤泥ヲ俊フヘシ。且ツ其泥芥ハ溝側ニ留置カスシテ人家遠隔ノ地ニ搬送スヘシ。然トモ炎熱ノ候ニ当テ日中ニ泥芥ヲ撹動スルハ悪臭ヲ発シテ空気ヲ汚濁スルノ恐アルニヨリ必ス他ノ時候ニ於テ之ヲ浚除スヘシ。」
 以上の規定から、明治10年代初頭は清潔の確保を重視し、下水路の清掃や修繕に重点が置かれていた。このように、如何にして清潔を確保するかという課題は、下水道法の最も重要なテーマの1つであった。
 明治10年代中葉になると、以上のような姑息な対症療法でなく、ヨーロッパ先進都市が採用している近代下水道の整備が必要だという意見が強まった。
 内務省は、この世論を受け、神田下水というパイロット・プラントを試作する。だが、明治19年に財政が悪化し、同時に過去最悪のコレラの流行に見舞われた。内務省は、同年5月『虎列刺病予防消毒心得書』を通達(第321号)し、翌20年8月増補改定したが、一連の措置は、当時の有識者には姑息としか映らなかった。衛生局長長与専斎は、抜本的対策の樹立の必要性に迫られていた。中央衛生会は、神田下水の経験や先進諸国の実情、コレラ流行阻止の緊急性を熟慮し、財政悪化という現実を踏まえて明治20年6月30日、内閣総理大臣と内務大臣に『東京ニ衛生工事ヲ興ス建議』を出した。建議書は、下水道に対する上水道の優先という方針を明確に打ち出し、その後の流れを決めた。建議は、「虎列刺病ノ予防タル衛生工事即チ上水ノ供給下水ノ排除ヲ以テ骨子」とするが、同時に両方の整備を行うことは「費額浩繁ニシテ其出所ニ苦ム」として次の理由から上水道優先を妥当とした。

 即ち、
 (一)上水道は、下水道より即効性がある。
 (二)上水道には収入の道があるが、下水道にはない。
 (三)上水道は、下水道より技術的に簡単である。
 この建議を根拠にして、水道条例が制定され、明治23年2月13日法律第9号をもって公布された。神田下水の教訓がこうした形で生かされたのである。

 1−2:1890年(明治23年)から1900年(同33年)まで

 水道条例が公布された後、長与はバルトンを内務省衛生局の顧問技師に任じ、上水道だけでなく下水道の計画・設計に対しても地方の技術指導を委ねた。これがいわゆる後の認可制度の先駆けである。こうした対応を除いて、日清戦争終結後まで特に目立った動きはなかった。内務省がこの間に検討した下水道法関係事項は、明治24年3月に『清潔法施行標準』を通達しようとした事のみである。ところが日清戦争で台湾を領有するに至って、ペスト襲来の恐れが強まり、事態は一変した。
 明治29年の初め、ペスト患者が検疫体制を潜り抜けて横浜に上陸した。ペストが台湾から何時潜入するか、情勢は緊迫していた。
 内務大臣樺山資紀と拓殖務大臣高島鞆之助は、中央衛生会に同年12月23日に下水法案を、翌24日に塵芥汚物掃除法案を諮問した。当時の中央衛生会会長は長与専斎、衛生局長は後藤新平。
 中央衛生会は、審査委員会を設け、両法案の関連性から同じ委員が審査に当たる方針を決めた。
 委員は、窪田静太郎、森林太郎、後藤新平、長谷川泰、中浜東一郎の5人。
 後藤は、審査を通して両法案の内容を変えてしまった。明治30年2月28日中央衛生会の席上、後藤は概略次の審査報告を行った。
 「汚水の排除と塵芥汚物の掃除は、共に汚物掃除法で当たりたい。従って汚物掃除法は下水管理の一般法である。下水道は、大都市に逐次強制的に完全な施設を整備させたい。下水法案は、このための特別法である。」
 後藤は、公的管理を前提とする西欧型近代下水道の創設を念頭に置いていた。彼は、下水道は非収益事業だから強制しない限り完全な施設が整備されるわけがないと考えていた。そこで、建設資金として50年賦の公債発行権を市に認める条項を改正案に入れた。償還財源は、もちろん租税である。同時に、原案より一層明確に使用義務を打ち出した。中途半端な下水道ではなく、本格的な施設の緊急整備を意図していたからである。この言葉から考えると、後藤は、長与よりはるかに西欧的な考えの持ち主だった、ようだ。中央衛生会は、改正案を2月22日ほぼそのまま大臣に答申したが、この時は議会提案は見送られた。その後、後藤は台湾総督府民政局長に抜擢され台湾に去った。台湾では翌32年4月台湾下水規則が成立した。後藤というリーダーを失った国内では、改正案は埃をかぶることになる。しかし、ペスト上陸の脅威は、現実性を増していた。明治32年9月、中央衛生会は2つの法案の審査を改めて始めた。その結果、下水法案は10月3日、汚物掃除法案は同月9日内務大臣に答申された。審査に当たった人は前者11人、後者10人。前回の5人の内、後藤と森の名前がない。森は、不遇で小倉にあった。いわゆる小倉時代である。
 審査の結果、法体系は踏襲されたが、財政措置などの積極条項は削除された。法律目的は、ペスト菌の蔓延を防ぐために特に「土地の清潔」の保持が強調された。ペスト菌の運び屋は、感染鼠と蚤。不潔な都市は、運び屋の絶好の生息場所。厭離穢土、欣求清潔である。土地の清潔が重視されたのは、当然と言えよう。しかし、法案は、重要な法益部分が骨抜きにされた、極めて実益の乏しい形式論理的なものであった。11月5日、遂にペストによる死者が出た。この時の流行は、神戸と大阪の患者合計67人に対して死者60人。流行としては小規模だが、死亡率は9割と極端に高かった。敗血症を起こして瞬時に死ぬ例もあった。
 下水法案は、国会審議の過程で名称が下水道法と変わったものの、ほぼ原案のまま衆議院と貴族院を通過。明治33年4月1日施行された。わが国の近代下水道法は、黒死病ペストの恐怖の前に極めて拙速に形式的に成立したものであった。

(2)形式論理に立つ近代下水道法

 下水道法は、ペストの恐怖を前にして、西暦1900年(明治33年)汚物掃除法とともに誕生した。下水道法は、条数が全部で11条という短い法律であったが、次の3つの原則で貫かれていた。
 第一:民営排除の原則
 第二:使用義務賦課の原則
 第三:公共事業の原則
 これを要するに、下水道法は、下水道事業を明確に公共事業と位置づけ、必要な場合には内務大臣に都市への築造命令権を与える(第11条)など権力的なものであった。こうなったのは、ペストという亡国の悪疫の予防を大前提にしていたためだ。このような視点に立っため、下水道事業の全経費は、租税で負担するものとされ、条文中には費用負担に関する規定が一切なかった。完全な公的管理の体制である。論理的には明快だが、現実的には役に立たない。形式論理的だと言う理由は、この点にある。下水道の制度としては、平安時代の延喜式にまで逆戻りしたと言える。江戸時代に完成した公私両セクターの協働管理体制は、完全に姿を消した。官尊民卑の時代風潮も、このような体制の実現に寄与したことだろう。公は常に正しいが、民は信用出来ないという誤った確信である。ともかく、全てが公費負担であるという建前が、結果的にその後の事業展開の支障になり、下水道事業の歴史は資金確保対策のみが重視される観を呈するようになった。
 下水道法のもう1つの特徴は、下水道法が汚水管理に関して汚物掃除法の特別法に位置付けられていた点である。下水道法は、「土地の清潔を保持するため、汚水雨水を疎通する」ことを目的としていたが、ここで言う「汚水」とは、汚物掃除法に規定する汚水であった。汚物掃除法は、「清潔の保持」を目的とし、「汚物」として「塵芥、汚泥、汚水及び屎尿」を管理する法律であった。従って下水道法上の下水道でない一般の溝渠は、汚物掃除法によって管理された。
 ここで、注意したい点は、下水道は屎尿の受け入れを対象としていなかったことである。いわゆる雑排水や工場排水などの排水が対象だったのである。屎尿の受け入れは、例外的な措置だった。だから後に、便器使用料制度が生まれたのも、この点に根拠がある。極論すると、下水道法は、雑排水下水道を制度の根幹としたものだったのだ。最後に、事業主体を原則的に市に限り、町村は例外的に法律を準用することにしていたことを付言しておきたい。ここには、ペストの悪影響を受け易い大都市に限って、速やかに近代下水道を整備して行くという後藤的な方針の片鱗が残っているのである。


   生涯を衛生に捧げた長与専齋            衛生工学の父W・K・バルトン
  生涯を衛生に捧げた長与専齋        衛生工学の父W・K・バルトン

      ペストに備えて完全装備の看護婦(士)さん            長与の後継者 後藤新平
ペストに備えて完全装備の看護婦(士)さん     長与の後継者 後藤新平