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第48回 屎尿・下水研究会

「町触」にみる江戸の小便所

栗田 彰 氏

日時: 12月7日(水)18時30分〜
場所: 東京ボランティア・市民活動センター B会議室
演題: 「町触」にみる江戸の小便所
講師: 栗田 彰 氏
内容: 当研究会刊行の下水文化叢書−9−「江戸下水の町触集」の著者である栗田彰さんから、この本のエッセンスをお聞きするとともに、膨大な町触に目を通し、その中から下水に関するものを拾い集め、読み下し文にし、著者の「註」と「ひと言」をつけるにあたっての苦労話を語っていただく。




「町触」にみる江戸の小便所

栗田 彰
@ 延享5年3月9日の御触
A 宝暦13年11月27日のもの
B その次の町触が、前の町触の翌日(11月28日)に出されたもの
C 天明4年3月25日の御触
D 天明4年4月3日です
E 寛政元年閏6月9日の町触
F 享和元年11月4日のもの
G 享和3年9月22日のもの
H 天保13年10月10日のもの
I 文久元年6月26日のもの
J 慶応3年7月27日のもの

 平成19年12月7日(金)、東京・飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターにおいて、第48回の屎尿・下水研究会例会が行なわれました。講話者は、本会評議員の栗田彰氏にお願いしました。栗田氏は、一年前の平成18年12月に本会・下水文化叢書の第9号として、『江戸下水の町触集』を刊行されていますが、今回の講話は、せっかく『江戸町触集』(塙書房刊)から拾い出しながら、ページ 数の関係で割愛せざるを得なかった「小便所」に関する話です。講話の骨子はつぎのとおりです。

 @ 『江戸町触集成・全20巻』に載っている「小便所」についての記述は、全部で11件である。
 A 朝鮮通信使が来る(1748年9月)にあたって、小便所を中橋広小路と浅草広小路に六箇所置くことに決めているので、その外の町々では拵える必要はない(1748年3月9日)。
 B 15年後にも二つ出ているが、いずれも同じく朝鮮通信使がらみのものである。こちらでは、小便所の設置場所や数については変わりがないが、小便所を軽く囲い、水場を付けて、汚れていない手拭を置いて、町人が世話をするようにと触れている。
 C どうもこれらの小便所は、朝鮮通信使が江戸に来たときに臨時に設けられたもののように思われる。その後も、朝鮮通信使は江戸に度々来ているが、小便所についての町触はない。
 D  1764 年2月6日の町触に、「小便無用(立ち小便禁止)」などの札は外しておくようにとあり、この頃にはまだ江戸の町には小便所が作られていなかった。
 E 「江戸市中の道筋や裏店の路地、辻々、土手下などへ、小便溜の桶を埋めて置いて、田畑の肥やしにしたい」の願いが出たので、町奉行所が町方に「差し障りの有無」を問い合わせている。(1784年3月25日)。
 F  これに対する町方からの返答書は、「前々から小便溜が埋め置かれていて、掃除の者が汲み取っている」町が、小網町3 丁目など23ヶ町と深川の町々のうちに160ヶ所ある と云っている(1784年4月3日)。このことから、江戸でも小便が肥料として使われるようになってきたことがわかる。ただ、江戸市中で小便所のある所はまだ少なくて、道端の「下水」(下水路)に小便を垂れ流しにするのが普通だった。
 G 1801年11月4日の町触には、小便所の雛形の絵図が載っている。箱形の小便壷を作り、そこから地中に埋め込んだ筒で小便を油樽へ流し、小便をそこへ溜めると云うものである。さらに、小便樽には松の厚板で作った蓋がされている。
 H 小便所を積極的に作らせようとした、こんな町触も出ている。「小便を流し捨てることがないよう、小便を溜める樽の埋め場所を、家主とよく相談をして決めるよ手うに。」(1803年9月22日
 I 1842年10月10日の町触を読むと、堀端の河岸地にも小便所や雪隠が作られており、また町中の雪隠や小便所は、町人だけでなく、幕府の役人たちも利用していたことがわかる。
 J 1861年6月26日の町触からは、幕末頃には江戸の町々のあちこちに小便所が作られ、ここから汲取られた小便は肥料に使われ、また小便を肥料として売ることがかなりの稼ぎとなったことが推察される。
 K  江戸の町で小便所が作られるようになったのは江戸時代中期の後半からであり、一般的に使われるようにと なったのは江戸時代後期になってからである。

(運営委員・地田  修一 記)




「町触」にみる江戸の小便所

栗田 彰

 一年ほど前になりますが、日本下水文化研究会から、下水文化叢書の第9号として、『江戸下水の町触集』を出していただきました。
 会の予算が厳しい中、この会の代表であり、研究会の運営委員でもある地田さんのご努力で、なんとか、刊行にこぎつけていただくことができました。
 地田さん、また、研究会の会員の皆様方に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
 そこで、地田さんから「刊行に至るまでの裏話を、皆さんにお話ししては」と言われたのですが、「裏話」らしい「裏話」が無いンです。
 『江戸下水の町触集』が出来上がるまでの経緯(いきさつ)を申し上げますと、塙書房から『江戸町触集』の刊行が始まったのが、私もまだ現役の頃で、平成6年の2月でした。
 年に2回、1冊ずつ刊行されたのですが、眼を通しているうちに、「下水」に関する町触が結構ありましたので、「これは転記しておいた方が良い」と思いまして、「下水に関する町触」を抜き書きしていました。
 そうしていますと、下水を浚った後の「ごみの処理」ですとか、「下水」は道路に作られていましたから「道路」に関係する町触も転記しておこうと思って、そうしました。それに、「便所」や「屎尿処理」についての町触も転記を始めました。
 これを下水文化叢書として刊行していただきたいと、研究会に話をしましたら、「良いだろう」ということになりました。
 そこで、私には候文などは読み下すことが出来ませんので、下水文化叢書の第1号「江戸 神田の下水』、第8号『江戸の下水道を探る』を出されたノ下さんにお願いをしまして、一応私なりに読み下したものを、監修していただくことにしました。
 ところが、「ごみ処理」や「道路」、「便所」、「屎尿処理」まで、載せようと準備をしているうちに、優に1,000ページを越えるものになってしまいました。これではまるで事典です。
 これでは駄目だと思いまして、初心に戻りまして「下水」の町触だけをまとめることにしました。それでも、300ページを越えるものになってしまいました。
 「裏話」といえば、「読み下し」をするについてのノ下さんとの遣り取り、ということになります。ノ下さんにはいろいろとご面倒をおかけしましたが、これは私にとっては楽しい仕事でした。でも、それをここでお話ししたところで、これはあくまでも私の楽しい思い出話にしかなりません。
 それでは仕方がないと思いまして、せっかく町触集から拾い出しておきながら、このままボツにしてしまうのは惜しいと思った「小便所」に関する町触の話を、地田さんにお断りもしないまま、勝手にさせていただくことにしました。よろしくお付き合いの程をお願いいたします。

 『江戸町触集成・全二十巻(塙書房)』に載っている「小便所」についの町触は、全部で11件ありました。
 一番最初に出て来ますのが、

 @ 延享5年(1748)3月9日の御触です。

 江戸時代の中期になります。朝鮮通信使が、九代将軍家重に拝謁するために、この年の6月に江戸へ来ることになり、そのときの諸々(もろもろ)の注意事項のうちの1つに「小便所」について触れられています。その部分だけを読んでみます。
 ※朝鮮通信使は、将軍の代替わりごとに、派遣された。
 ※[注意事項]道の悪いところを直しておく。川筋の船は並びよく繋いでおく。物干しからの見物は禁止。火の用心をする。火の番小屋の銅鑼は外しておく。町火消の小旗などは引っ込めておく。など。
 『一、朝鮮人通り道筋のうち、小便所、中橋広小路、浅草広小路、両所にて、六箇所相極め候。その他(ほか)の町々にて小便所拵(こしら)え候義、無用に仕る可く候』
 という条項です。
 この町触では、「小便所」は中橋広小路と浅草広小路に、6箇所と決めているから、この他の町々では、小便所を拵える必要はない、と言っています。
 この「小便所」は、町触の文章だけでは、朝鮮通信使のための「小便所」なのか、朝鮮通信使の行列を見物する江戸市民のためのものかはわかりません。
 この「朝鮮通信使」の江戸城までの行列のコースなのですが、何処から何処を通って江戸城まで行列をしたのか、その記録をみつけることができませんでした。
 「朝鮮通信使」に関する本を図書館で、5、6冊借りまして、眼を通しますと、
 @ 宿舎は、初めは馬喰町の「本誓寺(ほんせいじ)」だったのが、正徳元年(1711)以来、東本願寺とその周辺の寺になったという記事がありました。この町触が出された頃は、東本願寺が宿舎だったことになります。
 A 通信使の一員が書いたものの中に、江戸城へ向かうのに、第1の城門を入ると、見物する男女が群がっていて、第2の城門を入ると、立派な屋敷の大きな瓦屋根が空高く光り輝き、第3の城門にいたれば、これが江戸城である、と記録されたものがありました。
 B 日本橋の白木屋では「朝鮮通信使」の行列を見物するために集まった得意客に、酒、茶、料理でもてなし、そのことが評判を呼んでいた、と記されたものがありました。
 C 江戸城から東本願寺へ戻る「朝鮮通信使」一行が、本町を通る絵が残されている、と書かれた物がありました。絵も載っていました。
 これだけのもので、行列のコースを推測することは、はなはだ心許(こころもと)ないのですが、「朝鮮通信使」の一行は、東本願寺や周辺の寺々に宿泊していましたから、「浅草広小路(現・浅草雷門前)」を集合場所にしていたのだと思います。そこから、「奥州道(現・《江戸通り》)」を通って、『第1の城門』と記されていた「浅草御門(現・浅草橋)」から、「本町通り(現・《江戸通り》の東側)」を西に向かい、「本町三丁目(現・日本橋室町二丁目)」で、「大通り(現・《中央通り》)」に出ると、南に折れて、「日本橋」を渡り、「白木屋」の前を通って、「中橋広小路(現・《中央通り》と《八重洲通り》の交差点)」で、休憩をした後、隊列を整え、また大通り(現・《中央通り》)を戻って北に向かい、「白木屋」の筋向かいを西に折れて、『第2の城門』と記されていた「呉服橋御門」を通って、大名屋敷地を通り、「和田倉御門」の前から、2度、鉤の手に曲がって、『第3の城門』と記されていた「大手御門」から江戸城へ入ったのではないでしょうか。
 帰りは、大手御門を出ると、東に向かい、常盤橋御門を出ると、南へ折れて、本両替町(現・日本銀行前)で東へ曲がり、駿河町を通って、越後屋呉服店の前で北へ折れ(絵に残されている)、本町三丁目で東へ曲がり、そこからは、江戸城へ向かったときに来た道を、浅草広小路へと戻ったのではないかと、推測してみました。
 「浅草広小路」が集合場所であり、解散場所でもあったこと、「中橋広小路」が休憩所であったことから、両所に「小便所」が拵えられたのではないでしょうか。
 将軍の代替わりに拝謁をするのは(江戸中期以降)、朝鮮通信使だけではなく、琉球使節やオランダ商館長もいたわけですが、どういうわけか「小便所」のことは朝鮮通信使のときの町触にしか出て来ません。ということは、朝鮮通信使のための「小便所」だったのかも知れません。
 ※「朝鮮通信使」についての参考書
 東洋文庫『海游録』姜在彦(カンジェオン)・平凡社
 『新版朝鮮通信使往来一江戸時代260年の平和と友好』辛基秀(シンギス)・明石書店
 『日本大百科全書15』小学館
 岩波新書『朝鮮通信使一江戸日本の誠信外交』中尾宏・』岩波書店
 『徳川幕府事典』東京堂出版
 『朝鮮通信使紀行』杉洋子・集英社
 その次の町触は、15年後の同じく江戸時代中期の、

 A 宝暦13年(1763)11月27日のものです。

 これは前回と同様に、朝鮮通信使が、十代将軍家治に拝謁するために、明くる年の2月に江戸へ来るので、そのときの諸々の注意事項のうちの1つに「小便所」について触れられたものです。
 内容は前回と全く同じです。

 Bその次の町触が、前の町触の翌日(11月28日)に出されたものです。

 『一、中橋広小路小便所三箇所、浅草広小路小便所三箇所。右六箇所は軽く囲いを致し、手水場を付け、また、手拭い白きを差し置き、町人が世話を致すべきこと』
 と、あります。
 ここでは、「小便所」の設置場所や数については変わりないのですが、「小便所」を軽く囲い、手水場を付けて、白い(汚れていない)手拭を置いて、町人が世話をするように、と触れています。
 この『手拭い白き』は、『江戸町触集成』の原文では『手拭白衣差置』となっていたのですが、小生の読み下し文を監修してくださったノ下さんは「白衣」は「白き」の読み違いだろう、と指摘をしてくださいました。漢字の「衣」と、平仮名の「き」の崩し字が似ているので、編集者が読み違いをしたものだろうと言うのです。
 ところで、「小便所で世話をする」って、どうするンでしょう? 手を洗うときに柄杓で水を掛けてやることぐらいしか思いつきませんが…。こういったことをみますと、この「小便所」はやはり朝鮮通信使のためのものだったように思えます。
 それも、朝鮮通信使が、江戸へ来たときに、臨時に設けられた「小便所」のような気がします。確たる根拠はありません。
 町触が『小便所、中橋広小路、浅草広小路、両所にて、六箇所相極め候。その他(ほか)の町々にて小便所拵え候義、無用に仕る可く候』と言っていることから、推測してみただけです。
 どういうわけか、わかりませんが、この後の町触には、朝鮮通信使が江戸に来るというものはあっても、「小便所」については何も触れられていません。
 ただ、宝暦14年(1764)2月6日の町触では、町なかの貼り札などは外しておくように、と言っています。その貼り札の中に『小便無用札』が例示されています。
 「小便無用」の札が江戸の町なかに貼られているということは、立ち小便をする者が居たということになります。言い換えますと、このころには、まだ江戸の町なかには「小便所」が作られていなかった、ということになると思います。
 朝鮮通信使は慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで、12回来日したそうです。使節の人員は300〜500人にのぼったそうです。
 次は江戸時代後期になります。

 C 天明4年(1784)3月25日の御触です。

 これは、江戸市中の道筋や裏店の路地、辻々、土手下などへ、小便溜の桶を埋めて置いて、小便を汲み取り、田畑の肥やしにしたいと、葛飾郡今井村の者が願い出たので、町奉行所が町方に、差し障りの有無を聞いたものです。
 「町触」というと、何となく、現在の法律とか条令のようなものと思いがちですが、そういうものもありましたが、中には通達のようなものもありましたし、次に申し上げるような、町方から奉行所への「返答書」もあります。
 『江戸町触集成』に載っているものは、町の名主さんたちが、町触や返答書などを控えとして記録しておいたものですから、「町触集」とは言っても、現在の「六法全書」のようなものとは違います。そのことを、ちょっとお断りして置きます。
 さて、その次は、いま申し上げました、町方からの「返答書」です。

 D 天明4年(1784)4月3日ですから、

 奉行所から訊ねられてから7日から8日後(あと)のことになります。返答書の内容をみますと、
 ○ 「前々から、小便溜の桶が埋め置かれていて、掃除の者が汲み取っている」町が、小網町三丁目など23ヶ町と、深川の町々のうちに160ヶ所ある。
 ○ 「家持や地借等の者が畠などを持っている所では、銘々が小便溜の桶を埋め置いていて、自分達で汲み取っている」という町が、山谷浅草町ほか7ヶ町と品川宿にある。
 『江戸町触集成』では「山谷浅草町(さんやあさくさまち)」となっているのですが、町名としては「浅草山谷町(あさくささんやまち)」だと思います。
 ○ 「小便溜の桶を埋め置いても、差し障りがないと言っている」町々が本所新町(ほんじょしんまち)など、12ヶ町である。と返答をしています。
 この「返答書」が言っている「前々から」が、いつ頃のことなのかは分かりませんが、天明(1781〜1789)の頃には、江戸でも小便が肥料として使われるようになっていて、江戸の町の中にも「小便所」を設置していたところが、何箇所かはあったということがわかります。
 この「返答書」の中で、『前々から、小便溜の桶が伏せ置かれていて、掃除の者が汲み取っている町が、小網町三丁目など23ヶ町と、深川の町々のうちに160ヶ所ある。』と言って、町名が具体的に揚げられています。
 「畑などを持っている者が銘々で小便桶を埋め置いている町」も、「小便桶を埋め置いても差し障りがないという町」も、町名が具体的に揚げられていますが、ここでは、「前々から、「小便溜の桶が伏せ置かれていた町」が、どの辺りの町だったのかを見たいと思います。
 ○ 小網町三丁目=現・中央区日本橋小網町。首都高の「箱崎ランプ」。江戸時代には下総の「行徳」へ行く船が出た河岸がありました。
 ○ 両国橋広小路=現・中央区東日本橋二丁目。両国橋西詰。江戸でも有名な繁華街でした。
 ○ 下柳原同朋町(どうぼうまち)=現・中央区東日本橋二丁目内。神田川南側沿い、両国広小路の近くにあった町です。
 ○ 馬喰町四丁目=現・中央区日本橋馬喰町一丁目。浅草橋交叉点南西。この町につきましては、後で触れます。
 ○ 須田町二丁目=現・千代田区神田須田町一丁目。須田町交叉点南東。この町につきましても後で触れます。
 ○ 浅草新旅籠町=現・台東区寿三丁目。《春日通り》と《国際通り》の交叉点北東。旅籠の多い町でした。
 ○ 下谷町(まち)一丁目・同二丁目=現・台東区上野四丁目。アメヤ横町内。「山下」と言われた繁華街に近い所です。
 ○ 下谷車坂町(ちょう)=現・台東区上野七丁目。上野駅構内。ここも「山下」に近い所です。
 ○ 本所緑町四丁目・同五丁目=現・墨田区緑三丁目。《三ッ目通り》三之橋北西。河岸地。
 ○ 本所菊川町=現・墨田区立川四丁目・菊川三丁目。大横川西側沿岸。河岸地。
 ○ 本所柳原(やぎはら)三丁目=現・墨田区江東橋五丁目。大横川東側、首都高7号線南側。河岸地。
 ○ 江戸橋広小路=現・中央区日本橋一丁目。江戸橋南詰。ここも有名な繁華街です。
 ○ 勘左衛門町(勘左衛門屋敷)=現・中央区銀座四丁目。数寄屋橋交叉点北東。外堀の河岸地だった所です。
 ○ 本八丁堀三丁目・同四丁目・同五丁目=現・中央区八丁堀四丁目。京葉線「八丁堀」駅南側。「八丁堀」の北岸の河岸地でした。
 ○ 岡崎町=現・中央区八丁堀三丁目。日比谷線「八丁堀」駅西側。「八丁堀」の近くです。
 ○ 本湊町(ちょう)=現・中央区湊一・二丁目。隅田川・亀島川合流点西側になります。
 ○ 南八丁堀三丁目=現・中央区入船一丁目。京葉線「八丁堀」駅南側。「八丁堀」の南岸の河岸地でした。
 ○ 東湊町(ちょう)一丁目=現・中央区新川二丁目。亀島川東側沿岸です。
 ○ 南新堀二丁目=現・中央区新川一丁目。日本橋川・隅田川合流点南西側にありました。
 ○ 深川町々の内160ヶ所=江東区深川地区内。160ヶ所は不明。
 いずれも、河岸地ですとか、繁華街のような場所でしたので、そういう所には「小便所」があったようです。
 この中に「馬喰町四丁目」・「須田町二丁目」という町が出て来ます。「馬喰町四丁目」は現在の浅草橋南詰め辺りになります。「須田町二丁目」は現在の万世橋南詰になります。

 この間の神田川右岸(南河岸)が、俗に「柳原」と言われたところで、江戸時代には昼問は古着の露店が並び、夜になると夜鷹が出没した所として知られていました。
 その、柳原を詠んだ川柳に
 ○ 小便をたるづめにする柳原〔安永8年〕=1779。
 というのがあります。いま申し上げた町触が出される5年前に詠まれた句です。そのころに、柳原には「小便所」が出来ていたのかも知れません。「前々から、小便溜の桶が埋め置かれて」いたと言えるでしょう。
 「馬喰町四丁目」と「須田町二丁目」と「柳原」との関係がハッキリとしませんが、この「返答書」が出された頃には、古着店の並ぶ柳原土手に、古着を買いに来る人が多かったので、柳原の古着店の裏側にも、樽を埋めた「小便所」が出来ていたものと考えられます。
 いま、「古着を買いに来る人が多かった」と、申し上げましたが、江戸時代には普通ではなかなか着物を新調することなど出来なかったそうです。大抵の人は古着で間に合わせていたそうです。古着も、さらに古くなれば赤ん坊のオシメにしたり、雑巾にしたり、とにかく、物はトコトンまで使い切ったようです。
 この後(あと)の時代になってからの、「柳原の小便所」を詠んだ川柳をいくつかご紹介しますと、
 ○ 両側で小便をする柳原〔柳多留三二〕=文化2年(1805)安永8年から26年後。
 店の前(表側)では、客が古着を値切るだけ値切っておいて、挙げ句の果てに何も買わずに帰ってしまいました。こういうのを俗に「小便をする」と言っていました。
 店の裏側の土手下には「小便所」が出来ていました。ですから、店の両側で「小便をする」というわけです。
 ○ 小便は向ふへしなと柳原〔柳多留四四〕=文化5年(1808)
 この句も同じことを詠んでいます。小便をする(古着を買わない)なら、向こう(店の裏側の小便所)でしな、と言うわけです。
 ○ このところ小便たれろ柳原〔柳多留八七〕=文政8年(1825)
 この句は、言葉通り、そのものズバリです。柳原には「小便所」があることを詠んでいます。
 ○ 小便に後ろを見せる古着店〔柳多留一三四〕=天保5年(1834)
 この句は、古着を買わずに、「後ろを見せて」店を出ること(小便をする)と、店の後ろにある「小便所」を見せて、「ここが小便所だよ」と教えていることの、両方の意味に取れそうな気がします。
 このように、柳原の「小便所」が川柳に詠まれたと言うことは、柳原には「小便所」があるということが、江戸の人たちによく知られていたのだと思います。
 町触に戻ります。

 E 寛政元年(1789)閏6月9日の町触では、

 浅草の住人が、江戸府内の往来や町屋の端々、木戸際、空き地など差し障りのない所に、醤油樽や酒樽を置いて、小便溜桶にし、小便は毎日汲み取り、近在の肥料にしたいという願い出です。この前段で「…御府内中、往来小便の儀、只今まで、みだりに仕り来たり候につき、第一往還道筋の不浄にも罷りなり、見苦しき儀もこれあり候。…』と言っていますので、このころには、まだ、「小便所」のある所は、江戸市中にも少なくて、道端の「下水」に小便を垂れ流しにするのが、普通だったのかも知れません。
 この町触は浅草の町人から、町奉行所への「願出書」なのですが、これについて、町奉行所がどういう回答をしたのか、その記録は『江戸町触集成』には載っていませんでした。
 次は、

 F 享和元年(1801)11月4日のものです。

 ここには小便所の絵図が雛形として載っていましたので、『江戸町触集成』から、コピーしたものを、皆様のお手元に配布いたしました。このコピーの470ページの下段の最後から2行目から最後の行にかけて、「表裏に限らず、小便家壷これある場所を、云々』とあります、
 「小便家壷」は、「小便承壷」の読み違いでしょう。これも、先ほどの「手拭い白き」と同じように、監修者のノ下さんが「小便家壷」とはいったい、何なのか。「家壷」なんてえ言葉はない、そう考えられまして、これは、きっと、「承」と「家」の崩し字が似ていることから、この『江戸町触集成』の編集者が「承」を「家」と読み違えたのだろうと判断してくださったのです。
 こういうことは、私には気が付かないことでして、言われてみて、『古文書解読字典』を見ますと、なるほど、両方の崩し字はよく似ています。
 このことは、雛形の絵図に「承壷」と書かれているのを見れば、気が付くことなのかも知れませんが、私などにはなかなかそこまでは気が廻りませんでした。
 それから、大変おこがましいのですが、この町触の、私の【読み下し文】、=もちろん、ノ下さんが監修してくださっています=と【註】もコピーしておきましたので、お暇な折にでも目を通していただければありがたく存じます。
 この町触は、神田小柳町と橋本町の住人が、江戸府内の木戸際や空き地など、差し障りのないところへ、家主の指図どおりに、「小便所」をつくりたい、という願い出を記録したものです。
 この「小便所」というのは、雛形の絵図でもお分かりのとおり、箱形の「小便壷」を作り、そこから地中に埋め込んだ筒で小便を油樽へ流し、小便をそこへ溜める、というものです。小便樽には松の厚板で蓋をしておくと言っています。
 小便は在方(砂村・荒村?・亀井戸村)のお百姓に、肥やしとして渡す、そのほか、何処の町の小便樽は、誰に汲み取らせるということも決めておく、などといったものです。
 この願い出に対しての「返答書」は、現在の「神田駅」周辺の町々の名主からのものが載っているだけで、他の町のものは載っていません。
 「返答書」の内容は、「小便所」を作っても、さしたる故障はない、ただ、願い人が奉行所の威光をかざすようなことをしてはならない、町役人(名主・家持)と対等に話し合って「小便所」の設置を決めるように、としています。
 また、この「願出書」の後段では、江戸府内に十箇所ほど、出商人(であきんど)に無料で湯茶を差し出す休憩所を設けると言っております。
 これが「小便所」とどういう関係にあるのか、よくわかりませんが、小便をお百姓さんに肥料として渡した、その代金で休憩所の経費を賄うというのでしょうか。
 この願い出書の雛形の図を見ますと、「小便壷」というのは「便器」のようなもので、その脇に樽を埋め込んで、そこへ小便を溜めるというもののように思います。
 この町触で言っている「小便壷」というものがどのようなものかは、お手元にお配りした写真と絵図を御参照下さい。
 左側の上の2枚の写真(次ページ参照)は、江戸東京博物館の五階に展示されている『両国橋西詰』という大きな模型の中につくられている「小便所」です。雪隠の脇にある箱形のものが「願出書」の雛形の絵図にある「承壷」だと思います。同じような「雪隠」と「承壷」が『両国橋西詰』の模型の北側と南側に作られています。
 先ほども申し上げましたが、『両国橋西詰』は人出の多い繁華街になっていましたから、「小便所」は早くから作られていたのだと思います。
 下の模型の写真は、同じく5階に展示されている『町の構成と施設』という模型につくられている「小便所」です。こちらは、雪隠と一棟(ひとむね)になって、木製の小便器が据えられた「小便所」になっています。
 模型は両方とも「江戸時代後期(年号は表記されていない)」を想定して創られたものだそうです。


 右の絵図は、両方とも花咲一男氏の『江戸厠百姿』からコピーしたものです。土蔵の脇に「小便所」がある方は、幕末の安政5年(1858)に刊行された『通俗漢楚軍談』という読本に載っている挿絵で、もう一つのものは、明治23年(1890)に刊行された『再来膝栗毛』という本の挿絵だそうです。江戸の町の「小便所」がどのようなものであったかが、お分かりいただけるかと思います。
 次の町触は、

G 享和3年(1803)9月22日のものです。

 この町触は、前(享和元年(1801)11月4日)の町触を受けています。
 「神田小柳町と橋本町の住人が、江戸の町々に「小便所」を設けることを願い出ているけれども、小便は肥やしになるので、農作物を作る上で欠かせないものであり、人々のためになるので、その点をよく考えて、小便を流し捨てることがないよう、小便を溜める樽の埋め場所を、家主とよく相談をして決めるように』と、前の町触から2年も経ちてから、町年寄が名主達に改めて指示を出したものです。「小便所」を積極的に作らせようとしたのかも知れません。
 但し、「御成道筋には無用とする」と言っています。
 御成道筋というのは、将軍が上野の寛永寺や芝の増上寺へ墓参りなどで外出するときに通る道筋です。いくら、肥やしは大切とはいっても、「小便所」などは、将軍の目には触れさせたくなかったのでしょう。

 ちょっと町触から話が逸れてしまいますが、以上のような町触から推測しますと、この頃になると、江戸の町にも、あちこちに「小便所」が出来てきたように思えるのですが、いま申し上げた町触が出された後の、文化(1804〜18)・文政(1818〜30)・天保頃(1830〜44)までの川柳を見ますと、まだまだ、江戸では『小便などは垂れ流し』の状態であったようにも思えます。
 ○ 江戸では無用京都では担桶を出し〔柳多留四四〕文化5年(1808)の川柳です。江戸では「小便担桶」なンか要らねェや、と言っています。
 ○ 小便所流すつもりに先ずきまり〔柳多留七五〕→文政5年(1822)
 「流すつもり」は2通りに解釈できます。1つは、遊郭で遊んでいる者が「居続をしよう(流す)」と決意したのか、もう1つは、町なかにあった「小便所」に張ってある「子卸し」の札を見て、出来チャッタ子を「流産させる(流す)」の意にもとれます。「流す」を「居続け」と取るか、「流産」と取るかで、「小便所」の解釈が違ってしまいます。
 ◇ この川柳が詠まれる11年前の、文化8年(1811)に刊行された、式亭三馬の滑稽本の『四十八癖』の中に、こんな描写があります。
 遊郭へ遊びに行って朝帰りをした男が仲間と別れるところで、「●ヲイおそらば トふりかへつて心ぼそいおもいれにて別れる。
 ○ 横町の小便所にて、はり札(ふだ)をよみながら、いつまでも小便をしてゐれど、よきふんべつも出(いで)ず、こまり入(い)つてゐる。』
 この文句から、町なかの横町に「小便所」があったことがわかります。
 ですから、「小便所流すつもりに先ずきまり」の川柳も、解釈のしようによって、町なかに「小便所があった」ことを詠んだものと、言えると思います。
 ○ 小便の致所(いたしどころ)もなき花の江戸〔柳多留八二〕→文政8年(1825)
 この句では、相変わらず垂れ流しをしていたようです。
 ○ 江戸を見よ小便などは垂れ流し〔柳多留九六〕→文政10年(1827)
 この句では「垂れ流している」ことを威張ってます。
 ○大江戸でちと不自由な小便所〔柳多留一一二〕→天保2年(1831)
 江戸ではまだ「小便所」の出来ているところが少なかったのでしょう。
 ○ そこが江戸菜と取り替える場へ鳥居〔柳多留一二九〕→天保5年(1834)
 京阪では小便が野菜と交換されていましたから、京阪なら小便担桶を置く所へ、江戸では「小便無用」の貼り札がしてある、と言っているのです。
 「小便無用」の札には鳥居の絵(バチが当たるぞ)ですとか、鋏の絵(切ッチャウぞッ)が描かれていました。
 ○ 惣後架大が兼ねてる小便所〔柳多留一三九〕→天保6年(1835)
 この句は、「小便所」は無いけれども、総後架で小便もできる、と言っています。
 川柳ではありませんが、幕末の嘉永6年(1853)頃には一応完成していた(「広辞苑』)と言われている『守貞謾稿』に「江戸の尿」という項がありますので、読んでみます。
 ▽ 江戸の尿
 『因みに云ふ、江戸は尿は専ら溝湟(こうこう)にこれを棄て、屎(し)は厠(かわや)にこれを蓄ふ。屎、俗に「こゑ」と云ふ。こやしの略なり。屎価、こゑ代と云ひ、屎代は家主の有とし、得意の農夫にこれを売る。稀に尿を蓄ふ者あり。皆、代(は)家主に収む。京師は尿は借屋人の有として野菜と代ふる。大坂は屎代は家主、江戸に云ふ地主の有とし、尿は借屋人の有とし、得意農にこれを与へて、冬月(とうげつ)、綿(わた)と蕪菜(かぶらな)とをもつてこれに易(か)へんとす。屎価(しか)、大略十口の屎(し)、一年、金二、三分なり。農地に近き所貴価なり。京坂は路傍諸所尿(によう)桶を置きて、往来の人、尿を棄てず。大坂はこの桶渡辺と云ふ穢多村よりこれを出すこと官許なり。尿をゑたの有とす。江戸は路傍に尿所、稀にあるのみ。』
 〈岩波文庫『近世風俗志(一)P.138>
 ○ 『守貞謾稿』は、岩波文庫の『近世風俗志(1)〜(5)〈守貞謾稿〉』として刊行されています。著者は天保11年(1840)9月に大坂から江戸へ来た人で、東西の風俗を比較して記された本です。
 さて、その次の町触は、

 H 天保13年(1842)10月10日のものです。

 これは、前の日に町奉行所から(理由は書かれていませんが)、堀端にある建物の内、願い済(許可を得ている物)以外のものはすべて取り払うように、との御触があったことに対して、その内容を確認するために、町方から奉行所へ指示を仰いだものです。
 その中の1つに『上家これなく、竹、木、炭、薪、置き場に相用い、丸太又は貫、或いは竹矢来などにて囲い込みこれある分/稲荷社 雪隠、小便所、芥溜、紺屋干場、炭団干場、非人小屋。云々』を取り払うのは如何かと存じます、と町方が言っています。これに対して、「河岸地取調掛」からの回答は、『河岸地物置、囲い込みこれあり候神仏は、今般町触と見合わせ取り払い申すべし。雪隠、小便所、芥溜はなるたけ出張(でば)らざるよう致し、差し置き、紺屋干場、炭団干場はそのまま差し置き申すべきこと。云々』というものです。
 この町触から分かることは、堀端の河岸地にも、小便所や雪隠が作られていたこと、また、それらを取り払う必要がなかったということです。と言うのは、この前段にある町方からの伺い書には、堀端の自身番小屋の際にある雪隠などは、非常の時、或いは御成のときに、役人が用を足すこともあるので、取り払ってしまうと差し支えることになる、と言っていたからでしょう。
 町なかの「雪隠」や「小便所」は町人だけではなく、幕府の役人たちも利用していたことがわかります。
 次の町触は、幕末の、

 I 文久元年(1861)6月26日のものです。

 これは、日本橋小網町と長浜町(現・本町一丁目内)の住人から、町々の家主が管理している雪隠・小便所を除き、御成道や御堀端通りなどの大通りや河岸地、寺社門前の空き地などの差し障りのないところへ両便所を建て、これまでに作られている雪隠と小便所をも含めて、その管理を一手に引き受けたい。そうすれば二人建ての雪隠を2,500箇所、小便所を5,000箇所、両便所を管理するための仕事場(会所)8箇所を建てて、農民からいささかずつの下掃除代を受け取り、その管理の経費に充てるほか、年に千両ずつ、幕府へ上納したい、という願い出があったことに対して、町々に差し障りの有無を調べるよう申し付けたものです。
 これに対する「返答書」は葺手町(現・港区虎ノ門四丁目内)の名主からの、『私支配町々御成道筋などを相除き、差し向き、右便所取り建て候場所御座無く候。云々』というものが1つあるだけです。他の町々からの返答があったのか、無かったのかはわかりません。
 この町触からしますと、幕末ごろには江戸の町々のあちこちに「小便所」がつくられていたことと、小便が肥料に使われていたこと、それと、年に千両もの上納金を払うというのですから、「小便を肥やしとして売る」とかなりの稼ぎになったのだと思います。
 また、2人建ての雪隠2,500箇所と小便所5,000箇所を建てる、とも言っています。このことから、まだまだ、江戸の町には、大通りや河岸地、寺社地などでは、雪隠・小便所が不足していたと考えられます。しかし、これは、雪隠や小便所の江戸での必要数ではなく、儲け仕事の算盤勘定かも知れません。
 最後にご紹介しますのは、幕末も幕末、翌年は明治になろうという、

 J 慶応3年(1867)7月27日のものです。

 これは、前の町触にあった、願い人の1人である小網町の周蔵という人が亡くなったので、前年の11月に願い出をいったん取り下げ、12月になって、亡くなった者の息子が願い人になって願い出たけれど、内容を変更したものを、従前の長浜町の平右衛門と連名で、改めて願い出たので、町々に差し障りがないか、返答するように、というものです。
 ここでは、願い出の内容が変更されていまして、両便所を建てることを止めて、「小便所」だけを従前の願い出どおりに建て、これまでに持ち主のあるものも含めて、一手に支配したい、というものです。仕事場(会所)を設けること、冥加金を納めることは従前と変わっていません。
 この町触では、従前の願い出について『追って御沙汰に相なり居り候ところ、…』とありますので、願い出てから今回の再願い出までの7年間、沙汰止みになっていたようです。
 今回の御触に対する町方からの「返答書」はありませんので、これも沙汰止みになったまま、幕府崩壊で、(小便ではありませんが)「お流れ」になってしまったことだと思います。
 「町触」や「川柳」を基にして、江戸の町の「小便所」を見てきますと、
 ○ 江戸の町で「小便所」が作られるようになったのは、江戸時代中期の後半ごろから、
 ○ 「小便所」が一般的に使われるようになったのは、江戸時代の後期になってからのこと、と言えるかと思います。

 以上、大変雑ぱくで、まとまりのない話になりましたが、これで「町触に見る江戸の小便所」の話を終わらせていただきます。ご静聴いただきまして、ありがとうございました。

(本講話は、平成19年12月7日に東京飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターの会議室で行われた屎尿・下水研究会におけるものです。)