発表タイトル
分科会
屎尿・下水研究会
第44回 屎尿・下水研究会
船の便所
松田 旭正 氏
日時: 12月1日(金) 18時30分〜20時30分
演者: 松田 旭正 氏(本会会員)
演題: 船の便所
漁船、千石船、大名の御座船、川越夜船、玉川上水の川船などから最近の船舶まで、詳細な文献調査あるいは聞取り調査を行った結果をいっきょに公表。
会場: 東京ボランティア・市民活動センターB会議室
船の便所
松田 旭正
平成18年12月1日(金)、東京・飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターで屎尿・下水研究会が開かれました。今回のテーマは「船の便所」で、講話者は本会会員の松田旭正氏(元小平市役所)です。
膨大な資料を駆使しての講話でしたが、その目次は、T 和船の歴史と便所、 U 家舟と小型漁船の便所、 V 玉川上水の通船、 W 新河岸川の舟運と川舟の便所、 X 現代の大型船とレジャーボート、 Y 東海道中膝栗毛にみる舟の便所 です。今回は講話者自らが纏めた要旨を次に記し、報告に代えます。
四方海に囲まれた日本においては、有史以来、船は日本人の生活に欠くことの出来ない大切な道具(船)であり、江戸時代には多くの和船が造られ、明治の中期頃まで千石船の名称で、物流事業の中心的役割を果たした。明治以降、西洋の造船技術を取り入れ、さらに操船技術と気象観測の発達、港湾の整備により世界の海運王国となった。
しかし、第二次世界大戦で日本の商船や艦船は壊滅的な打撃を受け、昭和20年(1945)8月の終戦と同時に、日本本土は海外からの帰国者を輸送する船が皆無の状況にあった。港は空爆で破壊され、日本海沿岸で使用可能な港は舞鶴港と仙崎港のみであった。
「帰国船は戦前の老朽貨物船を急遽、客船として改造した。多くの帰国者の乗船により、船内の便所設備は不足し、船舷(ふなばた)から糞尿を直接海に排泄する状況であった。大部分の帰国船は、船舷が糞尿で黒く染まって入港した。」と、地元の漁師さんは話してくれた。
また、「漁船は最近まで便所の設備のないのが一般的で、東支那海方面で操業するトロール船等は、艫(とも)からロープや船舷に掴まり排泄し、海水が尻を洗ってくれた。時化(しけ)の時や夜間の用便は、波にさらわれ行方不明者が時々出ることもあった。」とも、話してくれた。
海で働く人達の、船内で発生する屎尿の排泄の場を水中(海中)とすることを穢れとしない観念は、陸で屎尿を川屋から川に流して浄める手続きと合致し、日本人の古代神道的清浄の観念が引き継がれている。
江戸時代、生産地から物資を積み込んで消費地の江戸や大阪に運ぶ千石船の船乗りは、多くて14、5人程度で船内に竃(かまど)は設けてあるが、便所は必要としないで直接海に排泄した。
江戸時代の船で、便所らしき設備のある船は西国大名が参勤交代に使用した御座船で、船尾の後ろ左舷甲板に長方形の穴が水面に向けて開けてあり、立派な蓋がしてあった。この便所は殿様や将軍以外の人々が使用し、殿様やお姫様はもっぱら樋殿(ひどの。船内の一間を排泄専用所とした部屋)で、「おまる」、「樋筥(しのはこ)」で用をたした。
川船では新河岸川の舟運が江戸時代から川越、江戸間の物資輸送に重要な役割を果たしていた。客を乗せる「川越夜船」は、川越から江戸浅草の花川戸までおよそ一昼夜(約20時間)で、乗客は6、70人を定員とし、午後3時頃川越を出発し、船頭は6、7人が同乗していた。新河岸川の川越ヒラタ船は、川船には珍しく艫(とも)の甲板に長方形の穴が貫いて川に直接排泄出来るようになっていた。穴の場所は、船頭が櫓を使い舵を扱うので、女性の用便は勇気が必要であった。
玉川上水にも一時期船の運航があり、多摩川の羽村堰から四谷内藤新宿間に、明治3年(1870)4月15日から通船した。江戸の漢学者・林鶴梁の乗船日記にも、船に厠があると記している。乗船者の屎尿が上水を汚さない配慮として、「舟毎ニ便桶壱ツ宛用意仕置…」と通船申請書に記されている。
近年、船舶から生ずる汚水の海上処分が海洋汚染の原因として国際的に問題となり、日本国内においては、海洋汚染等及び海上災害の防止に関する法律により関係法令も整備され、海の環境が保全される体制になってきた。