屎尿・下水研究会

TOP

屎尿・下水研究会の概要

お知らせ

発表タイトル

特別企画

企画図書類

更新履歴



発表タイトル

分科会
屎尿・下水研究会



第41回 屎尿・下水研究会

写真を読む−管きょの建設と清掃

地田 修一 氏
写真にみる管渠清掃作業の歩み(1)
昭和29年の管渠清掃作業
管渠清掃の作業手順
管渠内での清掃作業
写真にみる管渠清掃作業の歩み(2)
清掃作業のアラカルト
一、汚泥をほぐす器具
二、汚泥を掻き寄せる器具
三、清掃作業中のトラブル
四、清掃器具の保管
五、手作りの器具
マス及び取付け管の支障処理
マス工事
写真にみる管渠清掃作業の歩み(3)
清掃作業車の導入
一、自動ウインチの操作
二、作業現場へのトレーラーのセット
三、トレーラー上での操作
四、汚泥を運ぶ

 そろそろうっと強い梅雨の時期となって参りましたが皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
 恒例の例会ですが、下記の通り行いますので、奮ってご参加ください。

日時:平成18年6月9日(金)午後6時30分より
場所:東京・飯田橋の東京ボランティア・市民活動センター B会議室
   電話 03-3235−1171
   (セントラルプラザ 10階)
交通:JR・地下鉄 飯田橋駅下車1分
講師:地田 修一 氏(本会会員)
演題:「写真を読む−管きょの建設と清掃」
  大正9年の神田における下水管敷設工事写真、昭和29年の銀座における管きょ清掃作業写真、昭和30年代前半の清掃作業機械化の揺籃期における写真などを見ながら、古い写真がビジュアルに伝える当時の工事・作業の実態を読み解いていくものです。




例会の報告

 何気ない2枚の古い写真、大正9年の管きょ工事と昭和29年の管きょ清掃、この2枚の写真から当時の工事を行うときの使われている道具や、作業の仕組みが生き生きとよみがえる。
 大正9年の写真から
 開削工事で、あまり深くない 煉瓦積みである 矢板がとびとびであるので地盤が固い トロッコが使われているので比較的に大きい工事 着ているモノで監督者か、工事の親方か、作業員かなどがわかる 看板等から工事がどの辺でおかなわれていたのかわかる
 昭和29年の写真
 写っている時計塔から場所がわかる 黄昏時であることがわかる 時計塔から時間がわかるので季節もわかる 使われている道具から工事の内容がわかる
 等々、解説をしていただくと、何となく納得する。
 古い写真は何気なく見ているが、見る目を変えてみると、すごい情報がたっぷりと記録されていることが改めて感じられた。

 (記 小松)




 この例会に、ホームページを見て参加された学生さんが居られた。映画学科映像コースを選考し、屎尿に興味を持ち、15分の映画として2回生のときは、宮城県のトイレに行けない子供に対する指導を行った先生を取り上げ、3回生では屎尿処理で行われている海洋投棄を取り上げた。今年のテーマを模索中の彼に早速感想をということで、投稿を頂いたので紹介する



新しい発見

大友慎太郎

 今回、屎尿下水研究会の例会「写真を読むー管渠の建設と清掃」に参加させていただいて、お話をきいてまず驚いたのは、江戸の時代を開けて間もない時代に、これだけの技術が汚水の処理に用いられていたと言う事です。
 当時の日本の町並みが、疫病が大量発生していた欧州などと比べて飛び抜けて綺麗であり、来日した欧米人がとても驚いたと言う事は史実として広く知られていますが、それは屎尿に畑への肥料としてのニーズがあったからこそできた事であったのだと思っていた私は、今の下水道のひな形であるシステムとしての屎尿処理技術が明治の時代に既に確立されていたという事実に、単純にハッとさせられました。
 更に、こうして造られたそれらの施設のうちの「和泉町ポンプ所」が、関東大震災や東京大空襲などの時代の節目や天災の被害を受けつつも、今なお神田で現役で稼動しているという事にも、とても驚くと同時に、当時設計されたシステムが現代にも通用するという点に、潜在的とも呼ぶべき日本人の綺麗好きの精神を垣間見た思いでした。
 90年近くも以前になるこうした写真には、今の時代にあらためて見てこそ鮮烈に写るものが多々あります。今回の例会のような視点でこうした写真を見つめ直すと言う事は、今まで気付かなかったような部分に気づけると言う事ではないでしょうか。このような写真が技術史的な観点の元で資料価値のあるものとして再構築されていく事には、技術史として綴っていく以上の意味があるように思います。下水処理施設の原点としてのこれらの資料達には、現代の技術が見落としている様々なヒントが隠されているかもしれません。古い現場の写真が、問題の山積しているこれからの下水処理技術の指針となることも、全くありえない事ではないのではないでしょうか。
 専門技術には全くの門外漢の私ですが、思わずそういった感想が口をついてしまうほどに、今回の参加には多くの発見があったように思います。




写真を読む−管きょの建設と清掃

地田 修一
          

写真にみる管渠清掃作業の歩み(1)

 「目は口ほどに物を言う」と言いますが、カメラの眼がとらえた写真から発信される情報は撮影した人の意図をはるかに超え多種多様です。見る人が異なれば、また違ったものをキャッチできます。このシリーズで示す解説記事は「写真の読み方」の一つに過ぎません。この一文がきっかけとなって、工事や作業の古い現場写真を発掘し、それに解説記事をつけて保存していく「史料整理」の輪が広がっていけば、下水道の技術史に興味を抱く者として、こんなにうれしいことはありません。なお、このシリーズの執筆に当たっては多くの先輩の方々のサジェスチョンを受けています。

昭和29年の管渠清掃作業

 この写真は、昭和29年当時の東京・銀座における管渠清掃作業の現場を撮ったものである。解説の都合上、写真の個々の映像に番号を付けてある。
 洋服店の英国屋(R)や日劇(S)写真―(大判)のネオンサインが見える。服部時計店の時計台(Q)の針が6時20分を指しており空もまだうす明るいことからすると、初夏のたそがれ時であろう。作業員の服装(M、N)が局(当時の東京都水道局)職員に支給されていたものと異なることから、民間会社への請負作業ではないだろうか。小型発電機によって電球(H)に明かりを灯し作業を行っている。カンテラ(J)もいくつか置いてある。この頃の管渠清掃はまったくの手作業でした。清掃箇所の上流(写真手前)と下流(写真奥)のマンホールに手巻きのウインチ(C、G)を置き、さらに4股(F)を組み滑車を取り付け、ワイヤーロープに曳樽(B)を付け管渠内を曳くことによって汚泥を集め、地上に引き上げていた。

 管渠清掃の作業手順

 何本かの割り竹を針金で繋いで、30〜100mにし上流のマンホールから管渠の中に入れ、下流に向かって送る。下流のマンホールに届いたならば、上流側の割り竹の先端にワイヤーロープを結び付け、割り竹をたぐる。
 下流のマンホールにワイヤーロープが届くと、割り竹から外す。手巻きウインチにこのワイヤーを取り付ける。この時、上流側には曳樽、カルバートスクラッパー(A)などの清掃器具を結び付ける。
 そして、下流のウインチで巻き取り、堆積している汚泥(土砂)を下流に集める。汚泥が流出しないように下流に簡単な堰を作っておき、この堰に溜まった汚泥をマンホールから作業員が管渠内に降り、丸シャベル(E、管径が小さい時には柄を短く縮める)でバケツ(P)または鉄桶に入れて一杯になると、地上に吊り上げる。地上に四斗入りの樽桶(@)をいくつか置いておき、この中に上がってきた汚泥を入れる。
 溜まった汚泥は作業現場近くの道路脇の枠で囲ったところに運び、消毒のためサラシ粉を撒いて、数日間置いて水切りをした後、土捨て場にトラックで運搬する。  なお、ワイヤーロープをウインチで巻き取る時には、マンホールの下部に滑車を付けた支柱を斜めに立てておく。これは、滑車を経ることによって巻き取る力を軽減するためであるが、直接ワイヤーロープが管壁に触れ、ロープが切れたり管壁が傷つくことを防ぐ役目もあった。この時、バリと呼ぶ心張り棒を使って支柱を固定した。
 図―  支柱とバリを使ってのワイヤーの巻き上げ作業

管渠内での清掃作業

 人が立って歩けるほどの大きな管渠では、中に入って汚泥の除去作業を行った。胸当ての付いた股までの胴長靴を履いて、長いゴム手袋をはめ、頭にヘッドランプを付けて、木で作った船型の台船の上に鉄桶を載せて、シャベルで汚泥をすくいこの鉄桶の中に入れた。一杯になると台船を引っ張ってマンホールの下まで運び、地上にいる人がこの鉄桶を手巻きウインチで吊り上げた。
 写真― 菅渠内での清掃作業
 写真― 鉄桶を吊り上げる

写真にみる管渠清掃作業の歩み(2)

清掃作業のアラカルト

一、汚泥をほぐす器具

 昔は道路が現在のように舗装されていなかったので、砂とか砂利が雨マスを通して下水管渠に入ってきたので汚泥といってもかなり硬く締まった状態になっていた。このため、昔はマンホール蓋の下に穴の開いた中華鍋のような形の中蓋を設置して、土砂が管渠に入るのを防いでいるところもあった。
 こんなところでは最初から汚泥を掻き寄せる器具を使うことができないので、汚泥をほぐすための器具が必要となった。「8の字」とか「コンペイ糖」とか「スプリングスクラッパー」が使われた。
 「8の字」は、ワイヤーロープを短く切って8の字の形に折り曲げたもので、これをワイヤーロープに取り付けて汚泥をほぐした。汚泥がほぐれて隙間が広くなると、「8の字」の本数を2本、3本と増やしてだんだんと隙間を大きくしてから、頃合いをみて曳樽などの清掃器具を使用した。
 「8の字」で汚泥をほぐした後、「コンペイ糖」と呼んでいた器具を使ってさらに汚泥をほぐす作業を行わうこともしばしばあった。「コンペイ糖」は、直径5pくらいの鉄の棒にお菓子のコンペイ糖のように長さ2pくらいのイボイボの突起がが沢山ついているものである。
 スプリングスクラパー(21)も汚泥をほぐすために使われたが、効果はそれほど高くなかった。毛ブラシは、管渠清掃の仕上げの段階で使ったものでしょう。
 写真― スプリングスクラッパーと毛ブラシ

二、汚泥を掻き寄せる器具

 「カルバートスクラッパー」は、管渠の大きさに合わせて直径250o、300o、400oと、いろいろなサイズがあった。お椀のような形をしていて、凹んでいる部分に汚泥を溜めながら下流に集めてくる仕掛けである。汚泥が集まり過ぎて、引っ張ることが難しくなることがしばしばあった。
 管渠の口径が大きくなると、曳樽を使った。口径500o以上からでしょうか。いくつかの大きさがあった。大きな管径であっても、はじめは小さいサイズの曳樽を使い、管渠の隙間が大きくなるに従って、だんだんと大きいサイズのものに変えていった。

三、清掃作業中のトラブル

 汚泥をほぐしてから清掃器具で汚泥を集めてくるわけであるが、汚泥が柔らかくて沢山集めてしまい、手巻きウインチで引っ張りきれなくなることがあった。このような時は、一旦作業を中止し、下水が溜まってくるのを待って、ワイヤーロープを上流側や下流側に交互に動かし、汚泥をほぐした。どうしてもワイヤーロープを引っ張りきれない時は、穴を掘って管渠を掘り出してその部分を壊して汚泥を取り除いたこともあった。

四、清掃器具の保管

 一日で作業が全部終らなくて翌日にかかる時には、マンホールの足掛け金具を利用しバリなどを渡し棚を作り、それに籠、支柱、清掃器具などを載せておいた。ワイヤーもウインチから外してマンホールの中に入れ、ウインチは道路の脇に置いた。

五、手作りの器具

 昔は器用な人が出張所に沢山いて雨が降って作業ができない日には、竹を割ったり、支柱を檜で作ったり、つるはしの先やノミを研いだり、「8の字」、「コンペイ糖」、「島田」など、いろいろな器具を職員が作っていた。
 写真― 曳樽
 写真― カルバートスクラッパー

マス及び取付け管の支障処理

 「マスが詰まったので処理してほしい」との連絡を受けると、ミゼットのオート三輪車に割り竹、浚渫器、バケツなどを積んで運転手1人と作業員2人のチームが現場に向かった。
 マスや取付け管の詰まりは、下水がマスから溢れて初めて気が付くことが多いので、詰まっているものが硬くなっている。そこで、バケツに水を汲んできて水を加えて堆積しているものを柔らかくした。
 詰まりを取り除く時に使う割り竹の先には「島田」が付けてあり、割り竹をくるくる廻し、「島田」を上下左右に動かし堆積物をほぐした。この「島田」は、割り竹を女性の髪型の一つである「島田」のような形[α]に折り曲げたものである。
 現場を調べた結果、マスではなくマスと下水管との間の取付け管が詰まっていることが分かると、マスを開けて割り竹をマンホールの方向に入れて詰まっているものを竹で突ついてほぐした(図― )。
 マスの掃除では、手動のつかみ式浚渫器(写真― )で汚泥をあげる。硬く固着している場合は、鉄製の突き棒で柔らかくしてから浚渫した。
 ミゼットが配車されたのは、昭和35、6年である。それ以前の支障処理では、自転車に乗って現場に向かった。初めは割り竹を引きずって運んでいたが、道路が車で混んできて危なくなったので、その後は輪に巻いて肩に担いで運んだ。
 写真― 割り竹を使っての支障処理
 図― 取付け管の清掃作業
 写真― つかみ式浚渫器

マス工事

 マスの設置工事は、昔直営でやっていた。大八車に底塊、側塊、砂利などを積んで3人1組で工事現場に向かう。重いので30分ほどの距離であっても汗びっしょりになるほどであった。工事が終ると、現場の土をタコで固めその上に砂利を敷いておいた。コンクリート管を壊したり穴を開けたりする作業も大ハンマーで叩くとかノミを使うとか手作業で行った。マスも全部コテで仕上げた。
 写真― マス工事

写真にみる管渠清掃作業の歩み(3)

清掃作業車の導入

 東京都で下水管渠の清掃作業が機械化され、管渠清掃作業車が導入されたのは昭和30年になってからである。今の中部と東部第一の2つの管理事務所に、1台づつ配車された。
 写真− 管渠清掃作業車
 小型トラック(トヨペット)とその後ろに連結されたトレーラーとで一組になっており、それぞれに自動ウインチと滑車付きのアングルが搭載されていた。順次、他の事務所にも配車された。
 これにより管渠清掃は、清掃箇所の上流と下流のマンホールに手巻きのウインチを置き、さらに4股を組み滑車を取り付け、ワイヤーロープに曳樽を付け管渠内を曳くことによって汚泥を集め、地上に引き上げる完全な手作業によるものと、この作業車によるものとの2本立ての時代に入った。
 もっとも清掃作業の機械化といっても、手巻きウインチと4股とで行う作業部分のみが機械化されたのであり、割竹、ワイヤー、曳樽(各種サイズ)、鉄桶、シャベル、バリケードなどの作業用具一式は、従前どおり作業車に積み込まれていた。
 次に紹介する4枚の写真は、この作業車が導入された昭和30年代前半のものと思われる。構図がビシッと決まりピントもきっちりと合っているので、相当の腕前の人が撮影したのではないだろうか。完全な手作業の段階から高圧洗浄作業へと進む中間の、過渡期における管渠清掃作業を記録した貴重な映像である。

一、自動ウインチの操作

 写真− 作業車に搭載してある自動ウインチを操作中
 管渠清掃作業車である。幌が半開きになっており、その中で1人が自動ウインチを操作している。作業車の横には「東京都水道局下水部」と書かれている。「下水道本部」になったのが昭和34年12月であるから、この写真は少なくともこれ以前のものであろう。この作業車の後ろにトレーラーを連結して走っていた。

二、作業現場へのトレーラーのセット

 写真− 自動ウインチと滑車付アングルを搭載したトレーラー
 作業現場にセットされたトレーラーである。作業車と同様、ガソリンエンジンで作動する自動ウンインチと、滑車の付いた逆U字型のアングルが搭載されている。すでにマンホールの蓋が開けられ、手前と奥に2つの頑丈な木製のバリケードが設置され作業現場を防護している。バリケードの左には、曳樽で集めてきた汚泥を地上に引き上げる時に使う鉄桶が置いてあり、その中にスコップが入れられている。その右にはこの半分ほどの大きさの鉄桶がみえる。
 その手前にあるのは「コンペイ糖」と呼ばれていた、硬く締まった汚泥をほぐす時に使うイボイボがたくさん付いている鉄製の用具である。
 トレーラーはいつでも作業を開始できるように固定されている。ウインチの先のワイヤーロープを左に辿っていくと、曳樽あるいは鉄砲と呼ばれた鉄製の採泥器が取り付けられているのがみえる。
 バリケードには、作業現場を掃除する竹箒が立て掛けてある。

三、トレーラー上での操作

 写真− トレーラーでの作業
 1人がトレーラーに乗り自動ウインチを操作している。後ろにみえるトラックは、管渠内から引き上げた汚泥を捨て場まで搬送するためのものであろう。
 手前の人は、長いゴム手袋をはめ、股までの長靴をはいている。マンホールから管渠内に入り、作業していたのだろう。帽子のマークからすると、局の人たちのようである。直営の清掃作業であろう。

四、汚泥を運ぶ

 写真− 曳樽で集めた汚泥をリヤカーに積む
 曳樽で集め、地上に引き上げた汚泥をリヤカーに積んでいるところである。一杯になると、この現場の近くに設けた汚泥の仮置き場(板の枠で囲った程度のもの)まで運び、数日間置いて水切りをする。この時、消毒のため汚泥の上にサラシ粉を撒いた。この後、トラックで決められた「土捨て場」まで運んだ。
 ムギワラ帽子の人がいるが、たぶん局の人であろう。この頃はムギワラ帽子も支給されていた。
 写真− 写真集から適当なものを探す