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第38回 屎尿研究会

都市近郊農村の下肥利用

堀 充宏 氏

日時:10月7日(金)午後6時30分〜
会場:セントラルプラザ 10階 B会議室
演題:都市近郊農村の下肥利用
講師:堀 充宏氏(葛飾区郷土と天文の博物舘)
内容:江戸の町が都市として形成されてくるとともに、人糞尿の処理が大きな都市問題となったが、周辺の農村が肥料として購入したことによって解決され、以後、都市とその近郊農村は密接にリンクされたが、……。




都市近郊農村の下肥利用

 2006年10月7日(金)、東京・飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターにおいて、尿尿研究会(第35回の定例研究会とのジョイント)が行われました。講演者は葛飾区郷土と天文の博物館の学芸員である堀充宏氏にお願いしました。演題は「都市近郊農村の下肥利用」です。
 江戸の町が都市として形成されてくるとともに、尿尿の処理が大きな都市問題となったが、周辺の農村が肥料として尿尿を購入したことによって解決され、以後、都市(江戸・東京)とその近郊農村は、昭和30年頃まで尿尿と農産物とを介して密接にリンクされていたとのこと。講演の骨子は次のとおりです。
 @ 葛飾区周辺では、肥舟がどこの堀割にも見られた。そこで、博物館では地元の船大工に依頼し2分の1の縮尺の肥舟を作り、展示している。
 A 下肥は各地の河岸の下肥売捌人により、世話人を通じて村々に売られた。
 B 富裕な農家が下肥運搬船を所有し、船頭を雇って業として行うようになった。船頭として一人前に操船できるようになるには、3〜4年かかった。
 C 明治以降、中川沿いの村々には下肥仲介業者が多くいた。河岸から内陸への輸送のための馬車屋も多く抱えていた。
 D 下肥をきたないと感じる感覚は、農家を長くしているとなくなるようである。
 E 下肥の代金は盆暮払いであり不作の年には現金で払えず、耕地を手放す農家が多く、下肥仲介業者はきまって川沿いの耕地を多く所有していた。
 F 下肥を運ぶ船が派手な意匠をこらしたものであったり、下肥の売買に携わる人々が豪奪な生活や身なりをしていたことは人々によく記憶されている。
 G 博物館製作の「下肥を用いた堆肥の作り方」を再現したビデオが紹介された。




東京東郊の下肥利用の歴史

堀 充宏

 江戸周辺の農村の人たちが、江戸の町の中心部から排出される人糞尿を肥料として利用するというシステムが確立されたのは18世紀後半のことだといわれています。このことには2通りの評価があります。
 これによって江戸の町は清潔を保たれ、周辺の農村も豊かな農地を手に入れることが出来たという評価と、人糞尿、すなわち下肥を肥料として使うことは寄生虫やはえなどの不快害虫の温床を作り、伝染病などが蔓延した原因を作ったというマイナスの評価です。現象としてはもちろんどちらもあたっていて、どちらが正しいともいいかねるのですが、下肥が使われていたころを不潔で無価値な社会であると評価してしまうことはその後さまざまな場で取り入れられた「清潔で快適な社会」を無批判に肯定してしまうことにつながってしまうような気がします。このことは未来を見据えていく上でけして望ましいありかたとは思えませんのでまず都市近郊農村における下肥利用の優れていた点を見出していくことにしたいと思っています。

江戸東郊と西郊

 寛政元年(1789)、武蔵国葛西領を初めとする江戸近郊の村々の農民たちは勘定奉行に対し、江戸の町の下肥の値を引き下げてくれるよう願い出ました。その後4年間にわたって続く下肥値下げ運動の始まりです。同じころ同じ江戸近郊の多摩地方では米糠値下げ運動が行われていました。
 おなじ江戸の町の近郊にありながら片方では米糠を、片方が下肥を利用していた理由は両者の地形環境に原因があります。多摩地方は山林が多く、耕地を維持するために堆肥を利用していました。この原料である草木も採集が容易で、これを不熟させるための米糠が大量に必要だったのです。これに対して東京東郊の農村には見るべき山林はほとんどなく、低地の耕地を維持するためには河川や池の泥を使ったり、購入肥料に頼るほかなく、そのひとつが下肥であったというわけです。幸いこの地方には縦横に水路がめぐらされていましたから山坂の多い多摩地方や練馬・世田谷などの江戸西郊に比べて船による大量の下肥輸送が容易でした。そこで下肥をあらゆる作物に大量に利用するという、全国的に見ても特異な農業が展開されるようになったのです。

下肥運搬船

 その主役が「葛西船」といわれる下肥運搬船でした。現在この葛西船の具体的な姿を物語る具体的な資料としては船の科学館所蔵の「船鑑」を紐解かなくてはなりません。後世の下肥運搬船よりずっと小型の、いかにも城の中までいくことができそうな船の姿が描かれています。
 時代が下って、明治時代以後の東京東郊で活躍した下肥運搬船は「長船」と呼ばれていました。この名称は綾瀬川や中川などの小さな水路を航行するのに便利なように船体を細長く作ったことによります。現在 郷土と天文の博物館に保存されている明治時代の長船の仕様書によると、この船の大きさは約12メートル、幅は2メートル程度で、およそ1メートル50センチ四方程度の船室が設けられていることがわかります。この船室は「せいじ」とよばれていました。人糞尿はこのせいじとしきり1枚を隔てた船倉に貯留されていました。
 長船は明治時代から昭和30年代まで活躍しており、この船を用いた仕事は農家の副業として営まれていました。昭和60年ころはまだこの船を操って活躍した船頭たちが健在で、船の航行の仕方や形状などを聞くことができました。
 そうした聞き書きによると、長船の航行範囲は綾瀬川なら現在の草加市松原団地付近、中川なら松伏町付近まででした。このあたりは感潮域の限界付近でもあり、長船が潮の満ち干を動力として動いていたことがわかります。このほか船の推進力には竿と艪そして、帆を張って風を受け動力としていました。一般的に長船で東京都心に行くときは夜中に出て、早朝東京につき、仕事を済ませて夕方に戻ってくるというのが一般的でした。潮の満ち干を頭に入れていなければなりませんから船頭たちは長く旧暦を利用していたそうです。なかには完全に船だけで生活をしていた人もあって川岸に係留した状態で、とまなどで屋根を作り、風呂はもらい風呂でした。新年になると松の枝を堤防にさして祝っていたそうです。
 下肥の売買にあたっては水増しの不正行為がつきものでした。足立区江北あたりでは「叔父五荷」という言葉が残っていて、叔父さんから買った下肥でも1艘に5荷程度の水増しは当たり前であるということをさしていました。この不正をめぐっては農家と船頭の間にすさまじいやりとりがあり、水を混ぜた証拠として水藻がはいっていないかどうかを農家の人たちが調べようとすると、船頭たちは反故紙を破ってまぜてわかりにくくし、それならと農家の人たちは腕を直接下肥の中にいれてかきまわして綿密に検査します。それでもわからないと最後はなめてみたといいます。なめてみて、水で割っていたかどうか本当にわかったのかどうかは残念ながら聞き漏らしました。

下肥と江戸野菜

 東京の都心部の下肥を利用する、ということは一年間のある一定の期間だけ下肥を使うということではありません。一年中、たえまなく下肥が入ってくることが前提です。ということは、近郊農村では一年中下肥を利用するような農業を行わなければなりません。まわりくどい言い方になりましたが、都市近郊で下肥を使った農業を行うということは稲単作の農業ではなく、一年中さまざまな蔬菜を作る農業を展開するということなのです。
 『東京府下農事要覧』などを見るとそれぞれの野菜に応じてきめこまかな施肥法が研究されていることがわかります。これによるととくに東京近郊に優良な品質のものが多かったとされるねぎと蓮根には同じ面積の稲の1.5倍の下肥を投下しています。夏野菜のきゅうり、なすは江戸川区篠崎から 」飾区奥戸でよいものが産出されましたがここでは下肥のほか「江戸ごみ」と呼ばれた東京都心部の家庭の生ごみを苗床として利用し、促成栽培を行って利益を上げていました。江戸っ子は初物が好きで高いお金で買ってくれたのです。
 このように下肥によって育まれた江戸近郊産の野菜にはほかに、小松菜、亀戸大根、金町こかぶ、山東菜などがあります。

おわりに

 現在、東京のし尿は下水道によって処理され、その末路は私たちの生活からは見えにくい場所にあります。過去の生活のすべてが良かったとはもちろん思いませんが、下肥の農村還元というシステムは都市の人たちからも農村の人たちからもよく見えるところにあったことは間違いなく、その功も罪もとりまく社会に暮らす人たちが自分たちの問題として受け止めることが出来たものでしょう。
 将来、下肥自体を再び復活して農業をやることはできないでしょうが、社会から出た「いらないもの」を生かして「必要なもの」を再生産する思想はぜひとも過去に学んでいかなければならないと思います。