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第32回 し尿研究会の報告

平安・鎌倉における屎尿にまつわるよもやま話

相原 篤郎 氏

日時;平成16年12月17日(金)18時30分より
場所;セントラルプラザー B会議室
講話者;相原篤郎 氏(本会会員、東京都下水道局)
演題;「平安・鎌倉における屎尿にまつわるよもやま話」
内容;物語・説話文学や絵巻物などからうかがい知ることのできる古の時代の「屎尿についての認識」を、現代のそれと比較しようとするものである。




平安・鎌倉における屎尿にまつわるよもやま話

 平成16年12月17日(金)、東京・飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターで「平安・鎌倉における屎尿にまつわるよもやま話」と題して、屎尿研究会の第32回例会が行われました。講話者の相原篤郎さんは、本会の古くからの会員の一人です。パワーポイントを用いて資料の絵の一部を拡大して独自の見解を披露するなど、メリハリの効いた講話でした。関連文献のリストも配布されましたが、この分野への造詣の深さがうかがわれました。以下は、その要旨です。
 @ 貴族の家には、主人や女主人が「しのはこ」や「おおつぼ」にした排泄物を処分する樋洗童(ひすましわらは)と呼ばれる女童がいた。樋洗(ひすまし)とは、樋(便器)を洗い清めるという意味である。この言葉は、宇津保物語や紫式部日記に出てくる。同じ役目の人を表す別の言葉として御廟人(みかわやうど)があり、枕草子に出てくる。
 A また、貴族の家には、側溝から流水を屋敷内に導入し再び下流に排水する、樋殿(ひどの)と呼ばれる一種の水洗便所があった。糞便を垂れ流さないように、トラップを設けていたと想定される。
 B 一般庶民は、路上や空地で排泄していた。「餓鬼草紙」にはこのことがはっきりと描かれている。足駄を履いているが、脱糞専用のものであろう。
 C 「慕帰絵」や「法然上人絵伝」には汲取り便所が描かれているが、やはり専用の足駄を履いている。また、衣を掛けるところもある。
 D 一遍上人絵伝には、大勢の人々に取り囲まれ、上人の尿が「尿筒(しとづつ)」に採られているところが描かれているが、これは貴い人の尿は薬効があると信じられていたからである。
 E 「今物語」や「古今著聞集」には、屎尿にまつわる失敗話が載っている。
F 最近刊行された、西山良平著「都市平安京」(京都大学学術出版会、2004年)は、平安京の家と排泄・トイレを述べた一章があり、たいへん興味深い本である。

地田修一 記



平安・鎌倉の絵巻にみる屎尿とトイレ

相原 篤郎
桶洗童
樋殿
野糞
都市の清掃役としてのイヌ
汲み取り便所の出現
尿の薬効
屎尿に関する笑い話
糞尿への賛美
屎尿による健康管理

 今回は主に、10世紀後半〜12世紀・平安時代から13〜14世紀・鎌倉時代にかけての京都の町における貴族や庶民の排泄や便所について、絵巻や物語を資料としてその実態を探ってみました。

桶洗童

 芥川龍之介に「好色」という小説がありますが、これは「宇治拾遺物語」(鎌倉初期)の「平貞文、本院侍従の事」を下敷きにしています。好色で鳴らした平貞文は懸想した女(本院侍従)を忘れ切れずにいたが、その思いを断ち切るためにその女の「おまる」の中身を見れば幻滅するだろうと、家来を使って「おまる」を取り扱う樋洗(ひすまし)からそれを奪い中身を見るという話です。
 「紫式部日記」では樋洗童(ひすましわらは)、「宇津保物語」や「和泉式部日記」では桶洗、「枕草子」では御厠人(みかわやうど)という言葉が使われています。樋洗童は、樋(便器)を洗い清める女童(下女)という意味です。
 貴族の家では主人(男性)や姫君(女性主人)は、今でいう「おまる」を使って排泄していましたが、この後始末をするのが樋洗童で、道路の側溝から屋敷内に引き込んだ流水路で「おまる」を洗っていたと推測されています。この水路は再び下流の道路側溝へ流れ込んでいました。
 「宇津保物語」は、奈良の春日大社へ参詣に向かう男60〜80人、大人の女40人、若い女20人、下女20人という大勢の行列の中に、樋洗が6人同行していたと記しています。

樋殿

 寝殿造の邸宅には便所といえる定まった場所がなく、御簾で仕切られた樋殿(ひどの)と称する一画を設けて、移動便器の「おまる」に排泄していました。おまるは、大便用が樋箱(ひばこ)とか清箱(しのはこ)と、女性の小便用が虎子(おおつぼ)、男子の小便用が尿筒(しとづつ)と呼ばれていました。
 十二単重の着物を着ている女性が「おまる」を使うのはたいへんだったと思われるでしょうが、樋箱にはT字型の支えが付いていて、これに長い裾を掛けて着物の中に「おまる」を入れてしゃがみこんで排泄していました。
 道路側溝から暗渠(木樋)で屋敷内に引き入れた、水路にしゃがんで直接ここで排泄することも行われましたが(貴族の使用人などが)、下流の側溝に排水する前にトラップを設け糞便を垂れ流さないような配慮をしていたと想定されています。ここも樋殿といいましたが、いわゆる「カワヤ(川屋→厠)」の語源はここからきています。

野糞

 一般の庶民は、どのように排泄していたのでしょうか。「餓鬼草紙」(12世紀後半・鎌倉初期。)には、崩れた築地塀に沿った道端で老若男女が足駄を履いて排泄している姿が描写されています。このように、屋敷の裏や町の片隅の空地に排泄の場を定めていました。当時、庶民のほとんどは裸足か草履であったので、履いている足駄は足元や着物の裾が汚れることを避けるための共同使用のものであったと考えられています。零落した家のまわりの小路は、共同の野糞場として格好の場所だったのでしょう。極めて素朴な共同便所であると推定されます。
 この絵を良く見ると、排便時には左足に重心がかかり右足が浮き気味になるため、結果的に右の足駄が横にずれています。このことは、「足の裏から見た体」(野田雄二 著)の実験データに基づいた記述からも裏付けられると私は考えています。その意味で、この絵は排泄風景をよく観察して描いたものであるといえます。

都市の清掃役としてのイヌ

 平安京では、イヌが家庭や街路・墓地で残飯・汚物・死体などを食べて環境を浄化していたそうです(黒田日出男氏)。
 都市では多量の廃棄物が作り出されていたので、イヌは都市に集中していたのです。この廃棄物の中に、人糞も当然含まれていました。イヌ(野犬)が都市を清掃していたのです。イヌが都市の社会的・公共的機能を代替していたのです。他にイヌと同様の役割を演じていたのは、カラスです。
 逆に、集団のイヌに襲われる保護を失った孤児の最期も文献に描かれています。平安京では道路や空地に病者や孤児が捨てられたため、しばしばイヌの餌食となったのです。

汲み取り便所の出現

 「慕帰絵」(14世紀半ば、鎌倉後期)には、土を掘ってそこに2枚の板を渡した、屋根を葺き側板のある便所が描かれています。便所から今出てきたらしい若い僧が足駄を履いて、袈裟を肩に掛けて立っています。
 同じような便所が「法然上人絵伝」(14世紀前半、鎌倉後期)に描かれていますが、便所の前で履いてきた足駄を脱ぎ、便所専用の足駄に履き替えて、さらに着ていた袈裟を便所の側に掛けて用を足しています。まさに、排便中の法然上人の姿で、「厠の念仏」という場面です。
 これらの絵巻が画かれた14世紀後半には、汲み取り便所がはっきりと現れ、この頃から人の糞尿が農作物への肥料として本格的に利用され始めたと考えられます。これには、糞尿のような液肥の運搬に欠かせない結い桶の製作・普及が発達したこともあいまっています。

尿の薬効

 「一遍聖絵」(12世紀末、鎌倉後期)の中に、一遍上人を多くの善男善女が囲んでいる絵があります。良く見ると、上人の股間には「尿筒(しとづつ)」が差し込まれています。上人の尿を頂こうというわけです。尊い人の尿には病を治す薬効があると信じられていたからです。この尿筒も移動便器の一つです。
 「信貴山縁起絵巻」(12世紀後半、平安末期)には、童子が尿筒を捧げ持って僧侶たちの後からついて行く情景が描かれています。これは、僧侶が尿意を催した時のための用意でしょう。

 

屎尿に関する笑い話

 「今物語」(室町)に、こんな話が載っています。「ある説教師が、説法をしている途中で便意を催して御布施を貰わずにそうそうに退席し、便所に駆け込んだが出るのは屁ばかりでした。次ぎの説教中にもやはり便意を催したので、今度はがまんをして屁をしていたが、とうとうがまんできずその場に排便してしまい、はずかしい思いをした」というものです。娯楽のない時代の笑い話です。
 「古今著聞集」(鎌倉中期)には、「ある宮中の女房のところに間男に忍び込んだ法師が、ことに及んで尿意を催し、「おまる」を探したがなくて、とうとう部屋の隅で排尿してしまった。ところが、境の引き戸の孔から尿が隣の部屋に飛び散り、寝ていた別の女房の顔に降りかかってしまった。これに慌てたその女房は、雨が降って来たと大騒ぎをした」という話があります。
 同じ本にこんな話も載っています。こちらは、「智了房という者が、書写するためにある人から「古今和歌集」を借りたが、いつまでたっても返してこない。不審に思って問いただしたところ、尻を拭く紙がなかったので書写した方も原本もそのために使ってしまった」というあきれた話です。
 このほか、「今物語」や「福富草紙」(室町)には、屁をした相手を慮って機転を利かしてその場をとりつくろう話が出てきます。

糞尿への賛美

 三島由紀夫は「仮面の告白」の中で、肥桶を天秤にさげて運搬している汲み取り人と行き会ったとき、たいへん感激し「糞尿は大地の象徴である」と賛美しています。

屎尿による健康管理

 「はばかりながら「トイレと文化」考」(スチュアート・ヘンリ)は、著者が旧中山道を旅したとき見聞した次ぎのような話を紹介しています。
 「長野県の妻籠宿の脇本陣に奇妙な雪隠があった。「明治天皇便所」と書かれた札のかかった広さ2畳ほどのたたみ敷きの間の中央に、陶器製の和式の便所が鎮座している。明治13年に明治天皇が巡行して脇本陣に泊まったときに特別にあつらえられたトイレだ。… その便器には排水孔がない…。あとで、 天皇が用便をすましてトイレを出てから、侍医が検便して天皇の健康を管理していたことがわかった。」