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第31回 し尿研究会の報告

楠本正康先生と浄化槽

八木 美雄 氏

日時; 平成16年11月24日(水)18時30分より
場所;セントラルプラザ 10階 C会議室
講話者;八木美雄氏(財団法人 廃棄物研究財団常務理事)
演題;「楠本正康先生と浄化槽」
内容; 浄化槽に係わる技術者養成・調査研究等を業務としている財団法人日本環境整備教育センターの初代理事長・楠本正康先生の合併処理浄化槽開発にかけた情熱の軌跡を紹介する。併せて、浄化槽に関連する法律についても概説する。
資料;「楠本先生、簡易水道と浄化槽と」(月間浄化槽 2003年10月号)
   「浄化槽関連法・入門」((財)日本環境整備教育センター、平成16年4月)




楠本正康先生と浄化槽

 平成16年11月24日、東京ボランティア・市民活動センターで「第31回し尿研究会」が開かれました。講師は廃棄物研究財団の八木美雄氏で、テーマは「楠本正康先生と浄化槽」です。八木講師は、厚生省を退官された後(財)日本環境整備教育センターなどを経て、現職の常務理事に就いておられる方で、随筆家としても知られ「水道公論」誌に「土地を歩く」と題する探訪記を連載されています。
 1時間半を超える熱心なご講演でしたが、ここではそのほんのさわりを紹介します。
 @ 楠本先生は、明治36年長野市生まれで、新潟医科大学卒業後母校の助手を勤めた後、昭和12年に千葉県に奉職され、32年に厚生省環境衛生部長で退官されるまで、戦中から戦後にかけての激動期に、わが国の公衆衛生行政に数々の足跡を残された。
 A 「簡易水道発足の思い出」(昭和33年)の中で、「体が余り丈夫でない母親が石畳の狭い路地を通って雨の日も風の日も水を運んでいた姿が目に浮かんでくる。…昭和21年の金沢市に近い林村の簡易水道の通水式の時、その地区の人たち、とくに主婦や老人が涙を流して喜んでくれたことに接し、役人としての幸福が身に沁みた。」と語っている。
 B 昭和41年、63歳にして(社)日本浄化槽教育センターの設立に尽力、初代理事長に就任され、合併処理浄化槽の開発、浄化槽法の制定に獅子奮迅の活躍をされている。「来し方の記」の中で、小型合併処理浄化槽について「各戸に、または小集落にこのような装置を広めることにより、源流県としての長野県の責任は十分に果たせるものと思う。」と述べている。
 C 楠本先生のとことん現場にこだわり続けながら、一心不乱にコトにあたられたハードな姿勢から学ばなければならないことは多いのではないだろうか。
 八木講師自らが執筆した「浄化槽関連法・入門」をテキストとして、浄化槽法制定の経緯、多岐にわたる関連法(廃棄物処理法、建築基準法、都市計画法、下水道法、環境基本法など)との相互関係についてわかりやすく解説された。
 当日、講演を聴かれた小峰園子さん(葛飾区郷土と天文の博物館)から次のようなコメントをいただきました。
 「先日は、貴重なお話を聴かせていただきまして誠にありがとうございます。少し前に楠本先生の本は読ませていただきました。今、調べている「生活改善運動」における簡易水道の指導、監修を行っていたのが楠本先生であり、資料などに何度も先生のお名前が見受けられます。その裏話をお聴きすることができ、非常に勉強になりました。下水道、浄化槽の両観点から近代の、特に高度経済成長期の農村の生活改善(住居改善、集落改善)における政策その他を見ていく必要があると感じました。」

(地田 修一 記)




楠本先生、簡易水道と浄化槽

八木 美雄 (財)廃棄物研究財団
プロローグ
1.楠本正康先生
2.簡易水道への思い
3.退官後、浄化槽への情熱
エピローグ

プロローグ

 平成15年3月、世界182ヶ国から約2万4千人が参加して、第3回世界水フォーラムが盛大に開かれました。同フォーラムでは、世界で約12億人が安全な水の供給を受けておらず、また約24億人が適切な衛生サービスの恩恵に与っていない現状が明らかにされています。
 ところで、数10年前の日本の農村部も、同じような状況にありました。(財)日本環境整備教育センター初代理事長・楠本正康先生は、医学生だった頃に農村部の疲弊ぶりをつぶさに見られ、公衆衛生を終生のテーマとすることを決意されました。そして、後年になると、世界水フォーラムでも主要検討課題となった安全な水の供給と衛生サービスの向上に向けて、簡易水道と浄化槽の普及に渾身の力を注がれています。

1.楠本正康先生

 楠本先生は、明治36年(1903)4月20日、長野市で生まれています。旧制長野中学校、旧制松本高校を経て、昭和8年(1933)に新潟医科大学(現新潟大学医学部)を卒業され、同大学病理学教室助手を勤められました。当時、昭和4年に始まった世界恐慌の荒波は我が国の農村にも波及し、追い打ちをかけるように、昭和6年と9年の東北大凶作は農村を一段と疲弊させていきました。
 楠本先生は、次のように語っておられます。「…かつて病理学実習のため八郎潟沿岸(秋田県)に行った際、初めて農村生活を見てその貧しさに心をいためた。その後、病理学教室の助手になってからは、毎年学生をつれて各地の風土病や寄生虫を現地に出かけて調査した。…多くの農家は、八郎潟の沿岸で見たと同様に、陽もろくにあたらない不衛生な古い建物で、…井戸が少なく、長野県でもよく見られたように、小川の流れを使っている家も少なくない。それに、新潟県は有名な米の産地でありながら、農家は売り物にならない「しいな米」を粒選びして取り除き出荷している。そして、このしいな米と粟などが常食である。これでは病気の多いのも当たりまえだと思った。私はこんな生活に対する同情を通り越して、むしろこのような農村社会の構造に憤慨に近い気持ちを持っていた。」こうした心境のところに、恩師の川村教授から内務省での勤務の話が持ち込まれました。「…たとえ微力であっても、川村教授がいうように、中央官庁で医者の立場から町や村の人たちも健康で、家庭内でも和やかな生活が送れるように努力してみたいと決心した。」
 かくして、楠本先生は、昭和12年に千葉県に奉職され、昭和32年に厚生省公衆衛生局環境衛生部長で退官されるまで、戦中から戦後にかけての激動期、以下に記すように、我が国の公衆衛生行政に数々の足跡を残されることになります。
○ 全国で初めて設置された木更津保健所の初代所長を勤め、保健所運営の基礎を築かれ、戦後、昭和22年には、保健所法を全面改正し、戦後荒廃していた保健所の再建整備を推進しています。
○ 昭和26年7月から昭和32年5月まで、厚生省公衆衛生局環境衛生部長の要職を勤められ、食品衛生、環境衛生関係営業、理美容、水道、廃棄物など多岐にわたる行政分野に関して、超人的とも思えるほどの活躍をされています。
○ 昭和28年には、と畜場の衛生確保のための「と畜場法」の制定、し尿処理場への国庫補助制度を創設されるとともに、昭和29年には、明治33年制定の汚物掃除法を全面改正して「清掃法」の制定に尽力されています。さらに、昭和32年、「美容師法」、「環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律」の制定にも尽くされています。
○ 水道行政にも熱心に取り組まれ、昭和27年度に簡易水道への国庫補助制度を創設し、昭和32年の水道法制定にも心血を注がれています。

2.簡易水道への思い

 廃棄物関係の方々には、簡易水道という言葉に馴染みが薄いかもしれません。若干の解説を加えると、簡易水道事業とは、水道事業のうち、給水人口が101人以上5千人以下の小規模な水道のことで、主として農山漁村部において整備が進んでいます。ちなみに、平成12年度末現在、全国に8,979の簡易水道事業があり、64万人の人々に一日も休みなく給水しています。
 楠本先生は、「簡易水道6号」(昭和33年4月発行、簡易水道協議会)の中で、水道に対する熱き思いを次のように語っています。「長野市に水道の水が出るようになったのは、たぶん大正4(1915)年だったと思う。…今でも初めて蛇口からほとばしり出る水に対する驚異に似た嬉しさと感激を忘れることはできない。そして、体が余り丈夫でない母親が石畳の狭い路地を通って雨の日も風の日も水を運んでいた姿が目に浮かんでくる。おそらく、子供心にも水運びに骨を折っている母親の苦労がなくなる嬉しさであったに違いない。その後、長い間水には縁のない立場にもあったし、その時の感激もただ記憶として残っているに過ぎなかった。ところが、昭和12(1937)年に千葉県に勤務し、その頃重要な問題だった伝染病予防の仕事で農山村を廻っている間に、農山村が水でどんなに苦労しているか、水がないために生活がどれだけ無駄が多く暗いものか、ということを自分の仕事を通して目のあたり見せつけられ、私の子供時代の水道に対する記憶が、再び新しい感激としてよみがえってきた。昭和19年に石川県の衛生課長に転じた。赴任する前に、先ずやってみたい仕事として頭に描いたことは、農山村の水の問題だった。」
 昭和26年7月、楠本先生は、水道行政も所管する厚生省公衆衛生局環境衛生部長に就任され、昭和27年度予算において簡易水道への補助制度を創設されています。
 簡易水道への国庫補助は、戦後の戦災復興とも重なって、都市部での水道布設をも促進する結果となり、全国的な水道建設ブームを引き起こしました。ちなみに、水道普及率で見ると、昭和25年度に約25%であったものが、昭和35年度に50%を超え、東京オリンピック開催の昭和39年度には66.7%と急ピッチで水道は普及し、平成12年度末現在、96.6%に達しています。
 その後、楠本先生は、昭和30年の全国簡易水道協議会発足に貢献され、昭和32年5月の水道法制定を最後に、厚生省を退官されました。

3.退官後、浄化槽への情熱

 厚生省退官後、楠本先生の情熱は、水道以外の環境衛生行政分野に向けられていきました。経済審議会、建築審議会、公害審議会、生活環境審議会、中央環境衛生適正化審議会などの委員を歴任され、重要かつ緊急を要する政策決定に積極的に参加されました。
 中でも、清掃事業の近代化と経済社会の変貌に対応した廃棄物処理の体系化には、心血を注がれ、昭和45年の「廃棄物処理法」の制定に多大な貢献をされています。
 他方、水環境の改善と浄化槽の質的向上を図るため、浄化槽にかかわる専門技術者の養成や調査研究を行うために、昭和41年には、63歳にして、(財)日本環境整備教育センターの前身である(社)日本浄化槽教育センターの設立に尽力され、初代理事長に就任されています。以後、現場での陣頭指揮を含め、合併処理浄化槽の開発、昭和58年の「浄化槽法」の制定に獅子奮迅の活躍をされています。
 先生は、嫌気ろ床接触ばっ気方式による小型合併処理浄化槽の開発経緯について、山紫水明の郷里・長野県に思いをはせ、次のように語っておられます。「日本は下水道の規模の大きい汚水処理装置については、欧米諸国のそれに劣るものではない。部分的にはむしろ優っている点も少なくない。ところが、小規模な集落下水道の装置や個別処理装置については満足できるものは極めて少なく、特に後者についてその感が深い。わたしは昭和37,8年ころからこれらの研究に手を付けていかなければならないと考えるようになった。昭和38年の欧米旅行の際、アメリカでシンシナチの環境衛生研究所やロンドンで王立水質研究所を訪れて説明をききつつ見学した。とくに王立研究所では各戸個別用の何種類かの装置を試作し、比較研究していた。これはいい勉強の機会となった。…研究課題としては、し尿と雑排水の合併処理装置を目標とした。し尿だけの処理だと、し尿以上に水の汚濁源となる雑排水はたれ流しとなって水域を汚してしまう。雑排水だけの処理となると、数日に一回汚泥を引き抜けば、かなりの成績は得られるが、そうなると管理に金がかかって実行はできない。…ここに合併処理を研究対象としたひとつの理由がある。…これならば下水道と全く同様で、下水道の敷設を待っている人たちにも応えることができるのだ。

 まず、どんな寒いときにも優れた機能を発揮することを明らかにするために、上水内郡戸隠村のある農家に好気性の合併処理装置を設けた。県の部長や課長が現場でこれをみて合併処理機能の素晴らしさに驚いたほどである。…最後に、専門家の間で最も優れたもののひとつとして評価されている嫌気性処理装置について述べよう。上田市郊外の信州大学の桜井善雄博士邸に取り付けられている。この基本はわたしが考案したものではなく、豊橋科学技術大の北尾高嶺教授が京都大学の助教授時代から多年にわたって研究してきた成果である。わたしはこの原理を応用して設けたにすぎない。全容量も小さく、嫌気作用が主体であるうえ、管理も簡単で、しかも2、3年に1回で済むので、ほとんど電力費や管理費の必要はない。…ただ最後に仕上げの目的で小容量のタンク(接触ばっ気槽)で曝気は行うが何程の電力も要さない。…最後に流出する放流水は、透視度が1メートル以上、BODは10ppm以下であり、きれいな川の水とほぼ同様である。
 わたしは各戸に、または小集落にこのような装置を広めることにより、各河川の源流県としての長野県の責任は十分に果たせるものと思う。これもふるさとへの思いにつらなる。」
 そして、水処理行政一元化に関し辛口にコメントされています。「それにしても、国の水処理行政は五省庁八局にもわたる。これを一元化することができたら、国や地方の支出する経費もはるかに少なくてすみ、しかも能率的に水をきれいにすることができるのだ。現に、欧米諸国では例外なく水処理事業は一元的に運営されているではないか。日本でも役人の縄張り根性を排して、コストも安く、水を守ることを急がなくてはならない。」
 今日、水洗便所排水と生活雑排水を併せて処理するための合併処理浄化槽は、下水道と並んで、生活排水対策のための恒久施設として位置づけられるようになっています。今振り返ると、合併処理浄化槽に取組まれ始めた当時、楠本先生は60歳を超えておられました。先生の合併処理浄化槽の実現化に向けられた情熱には、ただただ脱帽するしかありません。
 こうした楠本先生の数々の功績に対し、長野県佐久市の三浦市長は、我が国の農村生活を変えたとして、追悼文集の中で次のように語られています。「厚生省の歴史の中で、簡易水道と合併処理浄化槽の普及という二本のヒットを打たれた功績は特筆すべきであると思います。」

エピローグ

 わたしは、30年近く前、浄化槽関係の委託調査の件で、一度だけ、楠本先生にお目にかかったことがあります。70歳を超えておられたと思いますが、一係員である筆者に対し、情熱を持って、一生懸命、報告書の内容を説明されたのを覚えています。当時、合併処理浄化槽の開発が佳境に入っており、思わず知らず、説明にも熱がこもっておられたのかもしれません。
 ところで、追悼文集や直接仕えた方々の話を総合すると、楠本先生は、一言で云えば、“オッカナイ”人だったようです。時には大声で怒鳴りつけそして議論好きということから、カミナリの異名を奉られ、敬遠される向きもあったようです。
 しかし、振り返ってみれば、明治生まれの頑固一徹な楠本先生の強力なリーダーシップがなければ、簡易水道への国庫補助も合併処理浄化槽の開発も容易に運ばなかったでしょう。昨今、情報化時代といってソフト思考や行動が重視されがちですが、今一度、楠本先生のとことん現場にこだわり続けながら、一心不乱にコトにあたられたハードな姿勢から学ばなければならないことは多いのではないでしょうか…。