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第27回 し尿研究会の報告

正末・昭和初年の屎尿事情
 ―藤原九十郎と高野六郎の言論活動と実践―

中村隆一氏、地田修一氏

日時:平成16年3月5日(金)18:30より
場所:セントラルプラザ 10階 B会議室
演題:正末・昭和初年の屎尿事情―藤原九十郎と高野六郎の言論活動と実践―
演者: 中村隆一氏、地田修一氏
内容: 有価物であった屎尿が一転して廃棄物視され、有料で処置せざるを得なくなった時期における両氏の活動の足跡を追い、屎尿問題の本質に迫るものである。




正末・昭和初年の屎尿事情
 ―藤原九十郎と高野六郎の言論活動と実践― を聴いて

 3月5日(金)の例会の講話者は中村隆一さんと地田修一さんで、演題は「大正末・昭和初年の屎尿事情―藤原九十郎と高野六郎の言論活動と実践―」でした。
 日本下水道協会がかって「日本下水道史」編纂のために収集した資料の中から、藤原・高野両氏の「都市問題」誌等への掲載論文に中村さんと地田さんが注目し、昨年「生活と環境」誌に紹介しましたが、今回は、この内容を両氏の活動の意義、当時の屎尿事情を交えて報告されたものです。
 藤原九十郎氏は、京大医学部衛生学教室卒業後、大阪市の保健衛生行政で活躍された方です。昭和3年の「都市の屎尿処分問題」(都市問題)で、腸系伝染病(腸チフスなど)の死亡が、外国に比べて多く、しかも都市部では大正7年〜昭和2年の10年間で、人口10万人につき大阪で2.6人、東京で3.1人の腸チフス死亡者を出しているが、これは屎尿処理の不完全さから発生しているのだとし、「汚物掃除法」を改正し、屎尿処分を自治体の義務とすべきだと主張しています。「汚物掃除法」制定時(明治33年)は屎尿が一部大都市を除き有価物であったため、当分の間ということで当時も掃除義務者に処分が任されていたのです。そのほか、都市における汲み取り屎尿量、その処理方法などについて論じています。
 高野六郎氏は、東大で細菌学を専攻、厚生省予防局長になり、汲み取り式改良便所の開発と普及に努められています。この便所は、昭和2年に発表され、3万個が設置されてました。栃木県の那須のある村では寄生虫保有者が3分に1に減っています。著書に「便所の進化」があります。藤原氏と同じく保健衛生の立場から、汲み取り便所と農地への屎尿の施肥をともに改善するよう主張されています。
 また、質疑応答の中で、「水洗便所の日本での最初の設置はいつか」とか、「日本銀行の屎尿処分は、当時隣接していた水路で船を利用して行っていた」などの興味ある話が出ました。
 なお、藤原九十郎氏について中村さんはインターネットで著作、論文、経歴を調べられたそうです。それで、雑誌「大大阪」(大阪都市協会)で公害、清掃問題に健筆を揮っていたことまではわかったが、その論文の詳細や生・没年も不明なのだそうです。関西支部の会員の方でわかりましたならばお知らせ願います。

大庭 克世(本会会員)




大正末・昭和初年の屎尿事情
 ―藤原九十郎と高野六郎の言論活動と実践―

中村隆一、地田修一
1 藤原九十郎氏の活動
都市の屎尿処分問題(都市問題、昭和3年)の紹介
@ 緒言
A 汲み取り運搬
B 処理方法
C 結論
2 高野六郎氏の活動

 有価物であった屎尿が一転して廃棄物視され、有料で処置せざるを得なくなった大正末・昭和初年における藤原九十郎氏と高野六郎氏の活動の足跡を追い、屎尿問題の本質に迫ってみました。

1 藤原九十郎氏の活動

 当初、藤原氏のことについての情報がごくわずかしかなかったものですから、インターネットを使って経歴とか著作とか論文とかを調べてみました。
 まず経歴ですが、長崎県の五島列島・福江市の離島・久賀島の出身です。京都帝国大学医学部衛生学教室を卒業しており、学位論文は「畳の衛生的研究」です。どうもいわゆる臨床医ではないようです。ドイツに留学後、予防医学、公衆衛生の普及を痛感し、大阪市役所に入り、衛生試験所長、衛生部長、保健局長を歴任し、昭和37年に厚生省医務局近畿出張所長を最後に退官しています。
 著作、論文においては、「酒の栄養率について」(大阪時事新報、大正15年)、「衣食住の衛生」(大正15年)、「都市塵芥の処理方策」(東京市政調査会、昭和7年)、「都市の空中浄化対策」(東京市政調査会、昭和7年)、「大気汚染防止運動の回顧」(生活衛生、昭和41〜2年)があり、これらに加えて屎尿に関する「本邦都市における屎尿処分の現況と将来」(国民衛生、大正15年)と「都市の屎尿処分問題」(都市問題、昭和3年)とがあります。このほか、地元大阪から出版されていた雑誌「大大阪」((財)大阪都市協会)にも、公害(煤煙防止など)や清掃(塵芥、屎尿処理など)について健筆を揮っています。
 ちなみに、大正末期から昭和7年までの間、大阪市は、関東大震災のため疲弊しきっていた東京市を抜いて、日本一の人口を誇り、関一市長のもと都市問題についてのオピニオンリーダーの役割を担っていました。
 また、昭和13年には推されて大阪ロータリークラブの会長に就いています。さらに、現在も継続していますが、保健衛生関係の分野で功労のあった人に贈られる「藤原九十郎賞」に彼の名前が残っています。

都市の屎尿処分問題(都市問題、昭和3年)の紹介

 彼の論文を紹介する前に、衛生行政のあゆみをみてみたいと思います。
 明治8年、中央に内務省衛生局(初代局長 長与専斎)が設置され、その諮問機関として中央衛生会が発足し、さらに明治12年、中央に対して地方に衛生課を設置、その諮問機関として地方衛生会ができます。ところが、機動力を持ち、上意下達式の警察官吏の性質がうってつけという論理で、衛生事務は警察の管轄下になりました。衛生局サイドから批判の声が上がり、明治23年、一旦は警察の手を離れますが、26年に再び衛生行政の執行権は警察に移り、昭和17年の法改正までこの制度は続きました。
 昭和3年の「都市問題」に掲載された「都市の屎尿処分問題」と題する論文(講演速記録)は、緒言、汲み取り運搬、処理方法、結論の四部で構成されています。保健衛生の観点から消化器系伝染病から説きはじめ、都市の屎尿量、汲み取り難の問題、市営・民間汲み取りの問題点、搬出方法、汲み取り料と経営、販売価格、処理技術、水槽便所、完全下水道への移行、応急的屎尿処理対策にまで言及しています。以下、その要旨を紹介します。

@ 緒言

 「大都市における現在の窮状は、まるで腸閉塞症の患者が長時日の便秘に悩むように、病原菌という爆弾を抱えて導火線の燃え尽きるのを待っているのと変わらない状態である。一個の有機体としての都市の機能は大きな欠陥を内臓しながら奇形的な発達を続けている。」と、汲み取り式便所が住居内にあることに対して、激しい口調でなげいています。
 そして、「理想としては、将来、都市の屎尿は全て下水の一部として速やかに住居より排除し……」、その間の応急策として、「汚物運搬方法と処置方法とに周到の注意と適当な考案とを加えて改善して、疾病の伝播を予防すべきである。」と、しています。さらに、「既存の「汚物掃除法」を改正し、屎尿処分を自治体の義務とすべきである。」と、声高に述べています。
 その理由として、「世界各国における消化器系伝染病による死亡率をみると、下痢腸炎による死亡で日本は第一位を占め、腸チフスにおいても第3位である。」ことをあげています。

A 汲み取り運搬

 排泄される屎尿量について詳細な検討を行い、「都市の成人男子の1日排泄屎尿量を、屎量135g、尿量1350立方pとみなす」のが妥当であり、また、「便所内で溜め置かれている間に、約26%が減少するので、排泄屎尿量に0.47を乗じたものを汲み取り屎尿量とすべきである。」と、しています。これらを勘案すると、「都市人口1人当たり1日の汲み取り屎尿量は、5合7勺(約1.03g)である。」と、みなしています。
 屎尿の汲み取りが停滞するようになった原因を考察して、
 @農村での青壮年者が著しく減少した
 A多少の高値は我慢しても人工肥料を選ぶ傾向がある
 B近郊の農地が宅地化し、屎尿の需要が減少した
 Cわざわざ都市の中央部まで汲み取りに来なくなった
 D農村青年が外見にとらわれて汲み取りを嫌がる風潮がある
 E汲み取り作業の時間が制限されたため、市の中央部のような遠隔地まで行く者が減少した
 などをあげています。
 大都市の屎尿処分をみると、「名古屋、神戸両市のように市営実施のものは別として、東京、大阪、京都、横浜4市の市営の応急汲み取りは、単に一部に過ぎず、大部分は民間業者の汲み取りに放任している現況である。6大都市以外の都市で全部の市営汲み取りを実施しているのは、わずかに新潟、横須賀の2市だけで、応急汲み取りを実行しているのも岡山市その他23に過ぎない。」という現況です。
 屎尿の汲み取り料は「一都市内でも運搬の難易、需要によって異なり一様ではないが、押し並べて比較をすれば、1石(約180g)当たりに換算して、東京市48銭(昭和3年から60銭)、大阪市40銭、京都市40銭、横浜市52銭」です。

B 処理方法

 市営の汲み取りの場合でも「何ら処置を施されずに、直ちに農肥として使用されている。屎尿処理のための特殊施設は極めて微々たるもので、総排泄量の2.5〜5%程度」に留まっています。
 屎尿の処理に関するやや特殊な施設の例は以下のようなものです。
 「名古屋市のものは1日100石規模の腐敗槽に似た浄化装置で処理している。東京市では1日300石の屎尿を浅草区にある屎尿投棄場で下水管に投棄し、三河島汚水処分場で浄化、放流している。大阪市は最初、屎尿を硫酸アンモニアに加工する工場を設立したが、現在は経済的事情により作業を休止している。このほか、大阪市は1日100〜200石の屎尿を汚水処分場に投入し浄化している。京都市は汲み取り屎尿200石を一定度に希釈して曝気浄化する計画をもっている。」 
 「屎尿を加工して用いることがいくつか考案されているが、乾糞肥料、硫安製造などはこの好例で、既に明治末年頃から試みられ、大正7、8年頃の屎尿受難時代に財界の好況を背景として盛んに計画実施されたものである。しかし、その後に進展した製造技術によって、屎尿のような不潔で能率の低い原料を用いなくても、空気中の窒素から極めて安価にアンモニアを製造できるようになり、採算が取れなくなり、現在ではこれら製肥加工事業はほとんど顧みる者もないままに忘却されている。」
 「近年、東京、大阪など大都市の洋風建築物に小規模の汚水処理装置(水槽便所と称される)が設置されるようになってきた。構造は、腐敗槽、酸化槽、消毒槽からなる。6大都市の普及状況をみると、東京市では全屎尿量の2.7%、大阪市4.3%、京都市0.8%、神戸市0.7%、名古屋市1.5%である。」

C 結論 

 最後に、屎尿の処分方法全般について考察し、次のように提言しています。
 「屎尿の処分は、衛生的見地から許容される範囲でなるべく経済的な方法によるべきである。肥料としての処分法は経済的見地からは最も良策の一つであるが、生肥を厳禁して貯留槽を設置すべきである。屎尿中にある病原細菌や寄生虫卵は、貯留する場合、屎尿自身の腐敗発酵によって比較的容易に死滅する。貯留が長期にわたって液状化してもアンモニア保留法やアンモニア吸収剤を併用すれば糞尿の肥料的価値を損なうこともなく、かえって完全な腐敗発酵を助成し、直ちに作物に施用して良好なものとなる。
 汲み取り屎尿を全然無価値と見なして海上放棄する簡易な方法もあるが、下水管に投入して下水と共に処理する方法が過渡期の手段として最も時機に適したものであろう。」

2 高野六郎氏の活動

 高野六郎氏は、昭和17年に茨城県に生れ、明治42年に東京帝国大学の医科大学を卒業しています。細菌学を専攻し、伝染病研究所、北里研究所を経て慶応大学の教授になっていましたが、大正12年、39歳の時内務省衛生局に入り防疫課長になっています。その後、昭和13年、54歳の時厚生省の予防局長に就任しています。
 文筆にも長けておりまして、いろいろ本を書いています。昭和3年に随筆の「屎尿屁」を、昭和16年には名著といわれている学術的な「便所の進化」を出版しています。このほか、「伝染病学及衛生学」、「健康読本」などがあります。昭和35年に76歳で物故されています。
 今日、話します主な資料は、昭和6年の「都市問題」に掲載された「便所はどうすればよいか―都市の屎尿問題と改良便所―」です。これは、文体からして講演の速記録と思われます。彼は内務省に入った時から便所の改良について熱心に取り組んでいます。大正14年には、埼玉県大宮にある伝染病患者を隔離する病院の敷地内に実験所を設けており、昭和2年に「内務省実験所考案 改良便所」と題する中間報告書を出しています。正式の報告書は、7年の「消化器系伝染病および寄生虫撲滅実験報告」です。
 すでに、講演活動の中で、便所の改良についての問題意識を、彼は次ぎのように語っています。「日本の衛生技術ではコレラやペストはピタリと取り押さえるだけの手腕があるにも拘わらず、それでいて赤痢、チフスの流行がやまないのは如何なる訳か、この根本問題に医学者が無頓着であり過ぎたと同時に、一般民衆も然りであった責は免れないのです。」(昭和3年)。あるいは、「便所の中に落ちたチフス菌等はおそらく速やかに死ぬものであろうと、或いは寄生虫卵もいい加減な間に死ぬのではないか、或いは卵から幼虫が孵化するとたちまち死んでしまう、だから、便所というものはそう危険でない、引っ掻き回して置けば折角出てきた幼虫が死んでしまうから良いではないかと、考えてきたのだと思います。」(大正15年)と。
 大宮の実験所での光景を随筆「屎尿屁」の中で、このように紹介しています。「研究所へ大切そうに並べた便池の数が幾千あることか、それが何れも充満と黄金色の糞汁が盛られている。勿論その糞汁中には寄生虫の卵があるし、或いは「チフス」菌が含まれている。・・・… 培養実験とか顕微鏡検査とかをやる。時に或いは糞洗いということをやる。…… 細長いガラス管を差し込んで口で吸い上げる。是は糞吸いである。」
 昭和六年の論文の中では、衛生的に安全な汲み取り便所の要件として、
 @貯蔵能力が3ヶ月以上におよぶこと
 A古い屎尿と新しい屎尿が混ざり合わないような構造であること
 を挙げ、「コンクリート製の長方形の箱で、4枚の隔壁で仕切られている便所」を提案しています。具体的には、「第一室には上方から土管を通して屎尿が落され、それが次室から次室へと押し送られて遂に第五室へ溢れ出す。それまでに三ヶ月を経過する計算である。第五室の上壁に設けた汲み取り口から随意に汲み出す。」ものです。大きさ的には、10人家族では、外径で高さ120p、幅110p、長さ120pの便池が必要です。この便所の効果は、汲み取り口に達した屎尿は、既に病原菌の消毒が終っている点にあります。さらに、「この便池を築造するのに50〜60円を要するが、その保健上の利益、便所清潔向上の効果は多大であるから、家屋を新築するに際しては少しばかりの出費を惜しむべきでない。…… 願わくば、法律の力によってでも、人糞尿がその危険の状態のままで地表及び水流に散布されることを禁ずることにしたいものである。」と、将来への展望を述べています。
 この改良便所は、戦中、戦後で約3万個が設置されたようです。栃木県のある村の例ですと、この改良便所を設置する前の昭和16年の寄生虫卵保有者は42%であったが、翌年に全村の85%に厚生省式3槽改良便所を設置したところ、昭和24年のそれは18.1%に減少し、昭和30年以降は4%前後になったという記録があります。しかし、管理が悪いものも多く、槽の隔壁が破壊されてしまったものも少なくなかったそうです。