屎尿・下水研究会

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第20回 し尿研究会の定例会

「トイレ考・屎尿考」出版記念会

内容:  「トイレ考・屎尿考」の出版については、昨年の春より準備を始め、このたびようやく、(株)技報堂出版より発刊 の運びとなりました。つきましては、執筆関係者ならびに「し尿研究会」会員を中心に来賓の方々も交えて、この本の出版を記念するささやかな会を下記の通り 企画いたしました。なにとぞご参集のほどお願いいたします。

式次第
1.出版に至った経緯の説明
2.祝辞
3.記念講演「京都の屎尿事情」山崎達雄氏(60分)
 ビデオの放映:「し尿のゆくえ」(昭和35年の屎尿事情)(25分)
4.懇談
5.おわりのあいさつ
 日時;平成15年4月27日(日) 14:00〜16:00
 場所;喫茶「ルノアール渋谷パルコ横店」マイ・スペース




京都の屎尿事情

(山崎達雄)
1 はじめに
2 屎尿はいつ頃から肥料として活用されたのか
3 屎問屋と高瀬川
4 屎尿を巡る享保の争論
5 天明の大火
6 コレラの流行と屎尿
7 違式註違条例による屎尿の運搬規制
8 お雇い外国人による防臭薬の発明
9 山城屎尿購売同盟会と屎尿の市営化

司会:山崎さんは、京都府にお勤めで現在、亀岡地方振興局長です。
 3年ほど前に、ゴミに携わる人たちに衝撃を与えた本が出版されました。東京のわれわれは、その本で山崎さんの存在を初めて知りました。本の名は「洛中塵捨場今昔」(臨川書店)、京都1200年のごみ処理を、古文書をひも解き、書いたものです。
 最初、下水文化研究会の運営委員会で話題になりました。当時、ゴミを生活や文化面から捉えて勉強しようという気運が出て来て、この本はわれわれの仲間で、非常に新鮮でありました。そこで、下水文化研究会にお招きして、講演をしていただいたことがあります。
 また、今回の「トイレ考・屎尿考」にもお願いをして、「京都の屎尿」のことについて書いていただきました。
 それでは、山崎さん、お願いします。

1 はじめに

 私の勤めております亀岡は、明智光秀が織田信長を本能寺に攻めたときの居城です。トロッコ列車で来て、城址等を散策し、保津川下りで嵐山に戻る。是非一度お訪ね下さい。
 さて、「京都の屎尿」に関するお話ですが、公衆便所の変遷、伝統的な京野菜や宇治茶のおいしさを育てた屎尿、更に屎尿風俗等いろいろあります。本日は、屎尿研究会の地田会長の勧めで、「トイレ考・屎尿考」に京都の屎尿について書かせていただきました。その内容を古文書で確認する形で、京都の屎尿処理史を簡単に紹介たしたいと考えています。
 京都は永い歴史がありますが、私は主に近世、江戸から明治、大正、昭和初期にかけての京都のごみ、屎尿の歴史を研究しています。京都は平安の時代から都なので、他の都市に比べて資料は多数残っています。
 しかし、中世以前は、貴族の日記等に、ごく稀にごみや屎尿に関する記述が残されているだけで、極めて断片的です。そんな制約もあって、村文書や町文書等、一次資料が多数残る近世から始めています。なお、古文書を引用される場合は、読み違いもありますので必ず原典に当たってください。

2 屎尿はいつ頃から肥料として活用されたのか

 屎尿の肥料としての効果を伺うことのできる記述は、古事記等にもありますので、その効果はかなり昔から知られたものでした。しかし、実際に広範囲に利用されたのは、14世紀頃と考えています。
 京都の三大祭の一つ、祇園祭で有名な八坂神社に、古文書が残されています。その中の至徳2年(1385)、の禁制に、南北朝の終わり頃になりますが、「大道において肥やしを積むこと」を禁止しています。私は、この「肥やし」を「屎尿」と考えています。神戸大学の高橋先生は「堆肥」とされていますが、私は人糞、屎尿で、鎌倉期から、屎尿が広く利用されたのではないかと推定しております。
 今後、更に調査を進めなければいけませんが、肥料として屎尿を活用するには、運ぶ道具、つまり桶が必要です。小泉和子さんらの「桶と樽の研究会」によれば、桶は12世紀から13世紀頃に大陸、中国から伝わり、15、6世紀には関東に伝わりました。京都では14世紀頃です。桶が広く使用され始めたのは南北朝、鎌倉期あたりで、この頃になると、屎尿は桶で運ばれ、肥料として使われたと推測しています。
 また、現在の愛知県である尾張地方の農書に、「百姓伝記」(岩波文庫)があります。その中の不浄集に、「繁昌の地ちかき所の不浄を取て、田畑を作り、万作毛を耕作する村里は、五穀・せんざいをおもふまゝに作り得る」とあり、江戸、京都、大阪の周辺農村では屎尿を手に入れられるので、肥料に恵まれ、農業が大きく発展するとされています。近世になると、屎尿は広く肥料として使われたことは確かであります。

3 屎問屋と高瀬川

 昭和初期でも、京都の屎尿を農村から汲み取りに行くのに、かなりの時間がかかったそうです。長岡京辺りから汲み取りに行くのに、約7時間もかかったとの記録もあります。近世は、今以上に不便ですので、京都に屎尿を汲み取りに行くのは大変であったことは容易に想像できます。このため、農村に屎尿を手配するため、京都に屎問屋が生まれいます。この屎問屋は、交通の要所、当時は、船運が盛んでありましたので、高瀬川沿いや伏見に生まれています。
 高瀬川は、慶長16年(1610)頃に開削が行われましたが、開削当時に、高瀬川と淀川を結ぶ伏見に、三軒の屎問屋が生まれています。また、京都の中心部である四条通の高瀬川沿いにも屎問屋がありました。この屎問屋は、「宇治ニ糞問屋四十五軒アリ、市内四條糞屋町ト相諮リ、国外ニ販出シテ巨利を貪ル」と資料にあります。宇治茶のもつ甘み成分には、窒素肥料が不可欠です。宇治にあった屎問屋は、四條高瀬川の屎問屋と図り、京の屎尿を独占し、巨利を得ようとする問屋もいたのでしょう。

4 屎尿を巡る享保の争論

 近郊農村にとって、京の屎尿は大変魅力的な存在でありましたが、その入手には屎問屋の存在が無視できなくなります。この屎問屋は、屎尿を巡って大きな争いが生まれますが、その原因にもなります。享保8年(1723)、将軍吉宗の時代ですが、現在の枚方・高槻にあたる摂津・河内と山城との間で、大きな争いが生まれています。この時、山城の村々が京都町奉行所に出した願文があります。
 争いの直接的な契機は、分からない部分があります。高瀬川周辺の11ヶ村は、高瀬川開削時に用地を提供した由緒により、高瀬船による小便の運搬について、特別な発言権を有していたと思われます。ところが、高瀬川沿いにある荷物の揚浜を利用して、乙訓や宇治、更には摂津・河内に小便が運搬されました。肥料の不足を懸念した高瀬川11ヶ村は、その差し止めを求めて高瀬船を管理する角倉与一に対して訴え出ています。同村の特別な権利を認めさせていますが、これが一つの契機となり、山城の農民達は、小便だけでなく、屎尿も含めて摂津・河内への移出禁止を京都町奉行所に訴え、認めさせたのです。
 この資料によれば、当時の屎尿の汲み取りシステムがよく分かります。京都の町を四つに区分して、周辺農村が責任をもって屎尿を汲み取ります。屎問屋は22軒、屎尿の汲み取りを行う買子は80人に限定し、町の人々が屎尿の停滞等に困る時は、決められた屎問屋が責任を持って解決する取り決めになっています。また、屎尿の汲み取りには、町奉行所が認めた焼印を押した担桶しか使うことができません。山城の農民達による京都の屎尿の独占は永く続かず、翌年の享保九年には汲取は自由になります。これは、山城だけでは、京都の約40万人の屎尿を、適切に処理することが出来なかったためと想像しています。

5 天明の大火

 その後、天明8年(1788)に京都のほとんどを焼き尽くす大火がありました。近世京都には、三つの大火が起きています。年末恒例の歌舞伎の顔見世興行が南座でありますが、天明の大火は、その南座の近くから1月31日に出火し、京都の約8割が焼けました。この大火により、天皇家や公家をはじめ、多くの人が周辺農村に疎開しています。このため、人口も一時的に減少し、また、京都の厠はほとんど潰れ、屎尿の量が著しく減りました。その結果、農民にとって大切な肥料の不足が、再び生まれました。
 天明8年4月に、屎問屋による摂津・河内への糞小便の運搬中止、更には、摂津・河内による汲み取りの差し止めを求めて、山城の村々は、京都町奉行所に訴え出ています。この訴えは認められましたが、逆に摂津・河内側から強い反対が起こりました。山城の400ヶ村、摂津・河内の37ヶ村は、半年以上にわたり争いを続けます。結局、京都町奉行所の裁定で、屎問屋の屎尿の2割、得意先として直接に汲み取りしていた屎尿一日百荷の搬出を認められ、和解しています。
 皆様方も、京都を観光で訪れることがあると思います。京市街地の社寺のほとんどは、天明期以降の建築と考えて頂いて間違いありませんが、屎尿を巡るこんな秘話が、京都にあったことを思い出していただければと幸いです。

6 コレラの流行と屎尿

 現在はSARSが、世界的に猛威をふるっています。幕末で恐れられたのは、コレラです。コレラは文政年間に日本にはじめて侵入し、京都では、安政6年(1859)9月頃から翌6月頃までに大流行しました。洛中で1900人、洛外で900人が死亡し、江戸でも、3万人の死者を出したといわれます。医学知識のなかった当時、コレラは妖怪変化による仕業と恐れられました。このため、京都では、町挙げて八坂神社にお参りすることもありました。
 西洋医学の影響もあり、明治期に入ると、その伝染の原因として、接触伝染説と非接触伝染説、特に屎尿等の臭気がコレラを媒介するという臭毒説が有力になってきます。このため、明治5年(1872)5月には、蓋なしで肥桶を運搬することが禁止されました。その後、明治9年の「違式註違条例」の制定を巡って、京都府と京都裁判所との間で、厳しい対立も生まれています。

7 違式註違条例による屎尿の運搬規制

 「違式註違条例」とは、現代の私達には聞き慣れない言葉です。「違式」には「御法度に背く」、「註違」には「心得違い」とふりがなが送ってあります。現在の軽犯罪法に当たるものです。京都府は、蓋なしの肥桶の運搬禁止に続いて、明治5年9月には、その運搬は日の出一時間前に限るという厳しい規制を打ち出しました。この時間規制は、京都より人口が密集している東京や大阪でも実施されていませんでしたので、「違式註違条例」の制定に当たり、その妥当性について、京都裁判所が異議を申し出たのです。
 このため、明治6年7月に、京都府は警保寮に照会し、その結果、認められることになりました。この条例のなかで、立小便の禁止も検討しています。式亭馬琴が、京都の女性の立小便姿に驚いたといっています。明治期に入っても、立小便をした女性を裁判所が「叱責」していますので、当時としては広く見られた風俗であったのでしょう。
 立小便については、京都府は、「市街道路ニ猥リ糞尿スル者」を罰しようとします。しかし、警保寮は、「野蛮卑劣之風儀且身体之健康ヲ妨」げるとして肯定しますが、「野外農作其外職業」での立小便はこの限りでないとして、「市中往来筋ニ於テ便所ニ非サル場所ヘ大小便スル者」を規制の対象としています。なお、参考までに、当時の京都市街地における便所数は、大便所205箇所,小便所485箇所でした。

8 お雇い外国人による防臭薬の発明

 明治14年(1881)の京都府統計書には、無蓋による肥桶の運搬に違反した者が438人、科料額は24円15銭とあります。屎尿の運搬規制は厳しいもので、京都の近郊農民にとっては大きな負担でありました。屎尿の臭気の発散を防止する薬が、当時、京都府で農業や医療の指導に当たっていたお雇い外国人の助言を受けて発明されました。防臭薬を利用すれば、運搬時間を緩和する「屎尿運搬規則」が、明治8年3月に制定されています。防臭薬は、京都府舎密局の専売とし、区長を通じて下付を受けます。京都府は12銭で防臭薬の使用鑑札を、160銭で防臭薬3斗2升を交付しています。この「屎尿運搬規則」は明治13年に廃止されますが、おおむね深夜から早朝に運搬時間を限定する規制は明治37年まで存続し、京都周辺の農民を苦しめました。

9 山城屎尿購売同盟会と屎尿の市営化

 低廉で、即効性のあるため屎尿は、滋賀県・大阪府からも次第に需要があったのですか、、価格が高騰し、京都周辺の愛宕、乙訓、宇治、久世郡等の農民達は、山城屎尿購売同盟会を結成し、汲取価格の値下げ・統一化を図っています。その後、屎尿の有価性に着目して、屎尿を市に帰属させ、その収益で下水道等の整備を図る屎尿の市営化事業が計画されます(明治45年に名古屋市で実施)。京都市でも市営化計画は何度検討されますが、山城屎尿購売同盟会の影響もあり、実現されませんでした。その後、市街地における屎尿の停滞が目立ちはじめ、大正11年(1922)8月に京都市による無料の市営化汲取が開始され、屎尿は有価物として終焉を迎え、「汚物」として取り扱われることになります。
 本年3月に、京都で第3回世界水フォーラムが開催されました。世界の人々が快適な生活を送るため、水を使用しないバイオトイレなど、新しいトイレが提唱されています。屎尿の処理がたどった道を探ることが、少しでも新しい屎尿処理のヒントになればと考えております。どうも、ありがとうございました。