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廃棄物分野の海外技術協力である「クリーンダッカ・プロジェクト」に携わって
第20講:収集システムを変えることが様々な影響を生ずる例 その1 混合ごみに対応可能な連続焼却炉 −旧江戸川清掃工場建設までの道のり−

講話者:石井明男*

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

 ODAのプロジェクトを考えるときに,東京都の清掃事業の歴史の中から学ぶことが多くある。そこで「東京都の清掃事業を変えるきっかけとなった活動や事件」を年表にまとめた。その中で,興味深い,いくつかの事例を紹介したい。
 収集の効率化のために「厨芥,雑芥の分別収集を混合収集に変えた」が,その結果ごみのカロリーが低くなり焼却炉(当時は固定床炉)での燃焼が不安定になった。様々な対応を試みたが,結局は解決せずに焼却炉を止めなくてはならなくなったため,混合ごみに対応できる機械炉の開発に乗り出した。東京都は実験炉を作り,清掃研究所,大学教授陣,メーカーとで混合芥に適した初期機械式焼却炉の開発に挑んだ。その実験結果をもとに初期機械炉である,旧足立清掃工場と旧葛飾清掃工場を建設したが,結局は思わしい結果を得られず,最後に登場したのが,昭和41年稼働の「連続焼却炉である旧江戸川清掃工場」であった。
 しかし当時の社会状況をみると,この初期の連続式焼却炉にたどり着くまでの避けられない過程であったのかもしれない。

61収集の機械化,そして,厨芥と雑芥の分別収集を混合収集に変えた結果

(1)収集の機械化
1960年頃でも収集の大半は手作業で,作業員が腰を折り曲げてごみ箱からパイスケでごみを掻き出し,車に積み込んでいた。厨芥は,各家庭で台所から持ち出し,直接箱車(または荷車)まで持っていった。昭和35年に厚生省が監修した映像「ごみと生活」3)で当時の様子を見ることができる。
 東京都は昭和33年(1958)から「塵芥収集作業機械化5か年計画」をスタートさせた。その機械化とは第一次収集の段階で,各戸からの人力による箱車(荷車)作業を自動車による各戸収集に切り替えることであった。小型自動車への収集への切り替えが進められたが,さらに密閉式自動排出装置を架装したごみ収集車が昭和34年(1959)から採用された。ごみ収集作業の機械化は昭和36年が最終年で,小型1.5t車を113台導入している。(昭和36年度事業概要)
 しかし,この時の「機械化」では運搬が小型自動車になったことで,各家のごみ箱からパイスケに雑芥を開け,収集車まで抱えてきた積み込みの仕方も,都民が台所から収集車まで厨芥を持ち込むという方法は変わらなかった。
(2)ニューヨークから来日したヘンリーリーブ5tマン氏の指導11),14)
 昭和35年(1960)ニューヨーク市清掃局からヘンリーリーブマン氏が東京都の清掃事業を視察し,「清掃事業の基本的考え方」の助言を行った。その中で,特に「厨芥・雑芥の分別収集の改善と手作業による収集作業の廃止」を助言した。具体的には「据え付け式のごみ箱については不衛生で作業が非効率,環境悪化の原因であるうえに,作業が非衛生的になるので可能な限り早急に撤去して容器収集による,定時収集方式に切り替えるべきだ」としている。
(3)混合収集への移行15)
 東京都は,容器収集による定時収集方式への切り替えを杉並区や品川区で試験的に実験した結果,作業も衛生的になり,住民にも好評であったので,昭和36年から3か年で区部全域に実施した。この時に従来の厨芥・雑芥の分別収集をやめて,混合収集にしている。

写真1旧多摩川清掃工場5) 竣工昭和37年

62.混合収集が焼却処理に及ぼした影響1)

 当時,雑芥だけを焼却していた東京都の焼却炉(清掃工場)では厨芥も含む混合芥を焼却することになり,焼却が不安定になり,運転に支障をきたした。
(1)旧石神井清掃工場,旧板橋清掃工場,旧多摩川清掃工場で起こった機器の故障
 雑芥を前提していた設計ごみ質は平均水分20%,低位発熱量1,000〜1,200cal/kgだったので自燃ができていたが,混合芥は平均水分55%〜60%,平均600Cal/kg(昭和38年平均)になったので安定した焼却ができなくなった。

図1旧多摩川清掃工場 煤煙防止設備5)
図2 旧多摩川清掃工場 断面図5)
写真2 旧板橋清掃工場7)昭和37年竣工
図3 旧板橋清掃工場 煤煙防止設備7)
図4 旧板橋清掃工場 断面図7)
表1 混合芥の焼却により発生した問題と対応
表2 焼却炉の寿命

 旧石神井清掃工場では,昭和39年度に混合芥になり,不安定な燃焼による煤煙が増加して,防止対策としてジェットスクラバー(機械式集塵機)を設置,汚水は凝集沈殿施設を導入したが,問題の解決には至らなかった。旧石神井清掃工場は混合芥の対応ができず,昭和40年9月に閉鎖した。
 昭和37年竣工の旧板橋清掃工場においても,昭和30年竣工の旧多摩川清掃工場においても混合芥の焼却の解決には至らずそれぞれ昭和46年3月,昭和44年4月に閉鎖するなど,いずれも短命に終わっている。
(2)実験炉によりデータ収集
 混合芥の焼却のために火格子を稼働式にして,ごみの撹拌や移動を機械によって行う,初期機械炉建設のために大崎清掃工場に実験炉を建設,早稲田大学の教授,東京都立大学の教授の指導を仰ぎ,清掃研究所・施設部の職員で3か月間にわたり実験を行った。

 この実験の結果をもとに,昭和39年(1964)に東京都は,初期機械炉である旧足立,旧葛飾工場を建設した。  しかし運転してみると
(1)混合芥に対応ができず安定燃焼ができなかったこと
(2)炉に気密性がなく,また後燃焼部の灰出しが手作業(ダンパロストル)で気密性がないので燃焼の制御ができなかったこと
(3)ごみの撹拌ができないので安定した焼却ができなかったこと
(4)燃焼ガスによる機器の腐食,酸度の高い排水による機器の腐食が解決できなかったこと
(5)湿式の機械式集塵(ベンチュリースクラバー,マルチサイクロン)では煤煙処理ができなかったこと
 などで継続運転ができず,思わしい結果を得られなかった。

写真3 旧足立清掃工場6)竣工昭和39年
図5 旧足立清掃工場 煤煙防止設備 多段式洗煙塔6)
図6 旧足立清掃工場 断面図6)
表3 初期の連続式機械炉の足立,葛飾工場の特徴と寿命

63.「清掃審議会」9)で清掃工場の改善を検討,初期連続機械炉の建設

(1)清掃審議会での検討
 昭和38年「清掃工場の規模及び焼却炉構造について」の答申には,焼却炉が備えるべきこととして
@ 混合ごみを焼却できる構造
A ごみを完全燃焼(熱灼減量が10%以下)する構造を備える
B 公害防止(除塵は煙が見えない程度の集塵)装置を備える
C 従来の不衛生な作業環境の改善する
D 安全作業を確保する
E 経済性を考慮する
F 廃熱回収,余熱利用を検討をする
を提言している。

写真4 旧江戸川清掃工場4)昭和41年竣工
図7 旧江戸川清掃工場断面図4)

(2)初期連続焼却炉の始まり
 清掃審議会の答申をもとに,清掃局は連続式の初期焼却炉である旧江戸川清掃工場(昭和41年(1966)竣工)建設に取り組んだ。問題の解決となった主な点は
(1)従来の腐食に悩まされた湿式集塵装置から集塵性能が高く,排水を生じない乾式の「電気集塵機」と「マルチサイクロン」を煤塵除去施設として導入したこと
(2)発熱量の低いごみの焼却に備え,2段の「特殊階段式乾燥ストーカ」の導入とストーカがごみを送るときに反転,撹拌,ほぐし,混合を行えるようにしたこと
(3)燃焼火炎の輻射熱とストーカ下からの高温空気で乾燥を行ったこと
(4)ごみを燃焼行程でほぐし撹拌する「かき慣らし装置」を導入したこと
があげられる。ごみ焼却炉の成果で,機械学会から表彰されている。
 旧江戸川清掃工場は平成5年(1993)に閉鎖した。27年間の寿命であった。

終わりに

 雑芥を混合収集に変更したが,焼却炉の当初の設計仕様が混合芥焼却に適していなかったために焼却が不安定になったが,多くのハードルをこえて初期の連続焼却炉の旧江戸川清掃工場にたどり着いた技術的側面からの経緯を紹介した。
 この一連の活動は昭和35年から昭和41年の6年間に起こったことである。当時の時代背景は,昭和39年の東京オリンピックの開催に備え,東京都は衛生的な街づくりに向かって清掃事業の近代化改革を急いだ。し尿の収集の機械化,防臭対策,ごみ収集では,ごみ箱を撤去してプラスチック容器収集の導入,道路清掃の重視,道路面洗浄,河川清掃,東京湾内のし尿投棄の禁止を実施した。さらに,オリンピック開催期間中も毎日収集,早朝,夜間収集をも導入,繁華街収集を行い,期間中はし尿取り扱所を閉鎖した。また大型船舶のし尿は湾内投棄ができないので,はしけ船により収集を行っていた。

表4 清掃事業の変化のきっかけとなった活動,事件(1879−2000)

 混合収集導入はこのようは時代に行われた。混合芥の焼却は旧石神井,旧板橋,旧多摩川清掃工場では解決できないことがわかり,しかし更なる問題は初期の機械炉である旧足立,旧葛飾清掃工場でも解決しないことであった。そして最終的には旧江戸川清掃工場にたどり着いた。
  (次号に続く)


参考文献
1.東京都清掃局 東京都清掃百年史 東京都環境公社 2000
2.東京都清掃局技術係長会 東京都の清掃技術 その原点を語る 2000
3.厚生省監修 映像「ごみと生活」昭和35年
4.東京都清掃局 東京都江戸川清掃工場(パンフレット)1961
5.東京都清掃局 東京都多摩川清掃工場(パンフレット)1957
6.東京都清掃局 東京都足立清掃工場(パンフレット)1959
7.三機工業株式会社 東京都板橋清掃工場(パンフレット)1957
8.田熊汽缶製造株式会社 ゴミ焼プラント
9.石井明男 都市と廃棄物 トイレヨモヤモバナシ 第14講 プロジェクトの安定性と継続性を目指した活動 Vol.50,No.9 2020
10.石井明男,眞田明子 クリーンダッカ・プロジェクト(JICAプロジェクトヒストリイシリーズ)佐伯印刷 2017
11.東京都清掃局 ヘンリーリーブマン講演速記録 昭和36年
12.稲村光郎 廃棄物学会誌掲載 東京都における清掃技術と行政 廃棄物学会 Vol.11,No.6 2000
13.稲村光郎 廃棄物資源循環学会誌掲載 1964年東京(オリンピック)大会のごみ・し尿対策 廃棄物資源循環学会 Vol.31,No.3 2020
14.磯辺咲菜 昭和35年ニューヨークから来日したヘンリーリーブマンの指導の意義 第25回廃 棄物資源循環学会研究発表会 2014
15.「街を清潔にする運動推進本部」積水化学工業ごみ「清掃革命は始まっている」昭和39年 六月社


※元東京都清掃局,元ダッカ廃棄物管理能力強化プロジェクト総括,元スーダン国ハルツーム州廃棄物管理能力強化プロジェクト総括,元パレスチナ廃棄物管理能力強化プロジェクトフェーズU総括,現東洋大学大学院博士後期課程