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シリーズ ヨモヤモバナシ



番外編:マンホールのヨモヤモ 海に囲まれた日本には船が必要です

講話者:石井英俊*

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

1.はじめに

 乗物をデザインしたマンホールの蓋が意外と多いのに気が付きました。いろいろ集めてみると飛行機・ロケット・SLなど多彩な乗物が登場します。その中でも圧倒的に多いのが「船」です。周囲を海に囲まれ急峻な山々に道を妨げられた日本では,古くから重要な交通手段でもあったんですね。ということで,今回は船を取り上げてみましょう。

2.「北前船」が活躍していました。

 青森県の佐井村は下北半島の西側にあり,津軽海峡に臨み,下北半島の「斧」の刃に当たる部分にあります。国の名勝,仏ヶ浦のあるところといった方がわかりやすいかもしれません。マンホールの絵は木造の帆船が荒波にもまれているものです(写真−1)。北前船がこんなところまで入ってきたのかな?と思いましたが,古くから北海道とのやり取りがあったということです。今でも大間から函館に連絡船がありますね。佐井港に到着する港でバスの中から発見,仏ヶ浦への観光船への乗り換え時間に走って撮りに行きました。

写真−1

 酒田市のマンホールは以前「山居倉庫」の描かれたものを紹介しましたが,こちらのふたにはその倉庫と米俵を満載した船が描かれています(写真−2)。港に流れ込む新田川沿いの山居倉庫には船が直接接岸し,荷物を出し入れしていたとのことです。米どころ庄内平野で取れた米はここに集められ,北前船で京・大阪に送られていたのでしょう。船の帆に描かれているのは「さ」の字,酒田市の市章です。昔だったら本間家の紋章が描かれていたのでしょう。

写真−2

 美川町は石川県南部の手取川河口に位置し,かつては港町として栄えた街です。江戸時代は北前船の寄港地で加賀の国の中心として賑わっていましたが,明治期には金沢に移ってしまいました。このふたの写真を撮る適当なところが見つからず,撮ったのは旧国道の手取川橋のそば,車の合間を縫って撮りました。写真−3のマンホールには北前船や日本海が図案化して描かれています。奥に見える山は白山でしょうか。現在は松任市他と合併して白山市になっています。

写真−3

 兵庫県北部の日本海に面している竹野町です。城崎温泉からさらに山陰本線を下って竹野駅に着きました。駅前に船の模型が飾ってあったのですが,意識もせずに町の探索に,川を渡って街中に入りました。見つけたマンホール(写真−4)には帆船が描かれていました。この地は北前船の入るところだったんですね。竹の浜に出てみると猫埼半島に囲まれた静かな港がありました。北前船の資料を展示した「北前館」もありました。2005.4.1豊岡市に合併しました。

写真−4

 海だけではありません。大きな川でも船は荷物の運搬に大きく貢献していました。山形県西部の最上川中流にある町,大石田町は最上川の河川交通の要として栄えました。江戸時代幕府の船役所がおかれ,現在も土蔵造りの家が川沿いに並んでいます。大石田町のマンホールには積荷を満載して最上川を下る船と周りにはサクラが描かれています(写真−5)。積荷はベニバナでしょうか。現在は観光船下りが行われていますが,松尾芭蕉も『奥の細道』に「五月雨をあつめてはやし最上川」と詠んでいますよね。今も四季折々の舟下りを楽しめます。サクラは町の花になっています。

写真−5

 新潟県の東北部,阿賀野川の中流域にある津川町は,かつては会津藩領でした。会津街道を陸路運んできた物資はここで船に積み替えられ,阿賀野川を下って新潟に出ました。会津の西の玄関口だったんですね。写真−6の津川町のマンホールにはその様子が描かれていました。阿賀野川を下る帆掛け舟と,後ろにそびえる岩山は麒麟山でしょうね。このマンホールは職場の同僚が撮ってきてくれたもの,私は磐越西線から幅の広いゆったりした阿賀野川を眺めてきました。2005.4.1鹿瀬町・上川村・三川村と合併し,阿賀町になっています。

写真−6

 埼玉県の中南部,川越市・所沢市など13市町の下水を処理する,荒川右岸流域下水道のマンホールです(写真−7)。かつて使われていた荒川の舟運に使われていた帆船でしょう。「荷船」と呼ばれ,大きなものでは全長20mを超えるものもあったそうです。霞ケ浦の帆曳き船は横に進むということでしたが,こちらは普通の船と同じで,舳先を前にして進んでいます。両者を見比べてみてなるほど違うものだということがわかりました。埼玉県の流域下水道は,処理区ごとにマンホールを変えているようで,その土地の特徴をよく表現してくれています。

写真−7

 京都府の南部の木津町,伊賀の山から流れ出た木津川が大きく湾曲しています。JR関西本線と奈良線,片町線が交差し,京都・大坂・奈良の関西と中京の名古屋を結ぶ鉄道の要衝です。鉄道が開通する前も,古くは木津川から淀川への舟運により奈良地方から大阪への荷物と人を運ぶ起点となったところ,マンホールに描かれているのはその頃の船の様子です。振り分け荷物の旅人の座る先には米俵,威勢の良い船頭が櫂を操っています(写真−8)。2007.3.12山城町,加茂町と合併,木津川市になりました。

写真−8

 写真−9の枚方市のマンホールは市の花の菊と淀川の舟運の様子が描かれていると,私はそれで納得していたのですが,市勢要覧に載っていた広重の絵に同じものがありました。淀川の「くらわんか船」だったんですね。淀川を行き来する三十石船に漕ぎ寄せ,.船客に「めしくらわんか」と酒などを売りつけたといいます。そして同じページに「東海道は五十七次,枚方は五十六次目」とも書かれています。大坂夏の陣の後江戸幕府が定めたそうで,伏見,淀,枚方,守口が加わりました。

写真−9

 現代の貨物船が登場するのが豊橋市の3種類あるうちの一枚です。写真−10のマンホールには貨物船が描かれています。豊橋港が輸出する事の積み出し港だからと思いましたが,実は日本一の自動車輸入港だそうです。いわゆる逆輸入車が多いんでしょうか。現在は両隣の蒲郡港と田原港を合わせ「三河港」となったそうです。豊橋のマンホール,「吉田城と手筒花火」(「城」で紹介),「公会堂と路面電車」と合わせ,市の発展の3部作最終編という感じですね。

写真−10

3.帆船の雄姿が描かれています

 私の行きつけの飲み屋さんのマスターと話をしていて,横浜市のマンホールには「日本丸」が描かれていたと開きました。その日本丸が描かれたマンホールは,横浜市の水道のマンホールでした(写真−11)。下水の「ベイブリッジ」のマンホールを見つけた後,みなとみらいのビル群の間を自転車で走って,歩道の上で見つけました。日本丸メモリアルパークまで行きましたが,ちょうど帆を下したところ,タイミングが良ければマンホールにあるような凛々しい姿の日本丸を見ることができたのに,残念でした。

写真−11

 木古内町は北海道南西部の津軽海峡に臨む町です。地名はアイヌ語「リロナイ」(潮の差し入る川)に由来します。北海道新幹線の開通を知らせるニュースの中で,木古内駅が映し出されたのですが,駅前に青いマンホールがあるのを見つけました。北海道に行った際に途中下車,駅前で撮ることができました(写真−12)。絵柄は「海を進む咸臨丸」です。咸臨丸は勝海舟らを乗せアメリカまで往復した船として知られていますが,幕末この地で座礁・沈没したそうです。

写真−12

 北海道南部,渡島半島の日本海側の港町の江差町です。地名はアイヌ語「エサシ」(コンプまたは突出した岬)に由来します。北海道にはもう一つ「えさし(枝幸)町」がありますが,そちらはオホーツク海側にあります。江差町のマンホールには帆船と岩が描かれています(写真−13)。帆船は明治初めの戊辰戦争の際に江差沖で暴風のために座礁・沈没した幕府軍の開陽丸です。現在の船は復元されたもので,引き上げられた遺物など35,000点を展示しています。しめ縄の掛けられた奇妙な形の岩はカモメ島にある瓶子岩で,ニシンについての伝説の伝わる岩です。訪れたのは五月の連休の後,ちょうど桜が満開の江差城と,ニシン漁で賑わった頃の跡が残る街並みをゆっくりと楽しむことができました。

写真−13

 神奈川県三浦半島の付け根にある横須賀市,写真−14のマンホールには黒船ととともにペリー提督の肖像も描かれています。市内久里浜にはペリー公園,「ペリー上陸の地」の碑がたてられています。横須賀市には花や木が描かれたマンホールもあり,三浦半島の丘陵地を走っていて見つけた「ペリーのマンホール」は「レア物」かと思ったのですが,その後市内の繁華街や住宅地でも見つけることができました。通称「どぶ板通り」の側溝のふたにも黒船の描かれたものがあります。

写真−14

 静岡県東部,伊豆半島南東端にある下田市のマンホールにも黒船が描かれていました(写真−15)。煙突からモクモクと煙を吐き外輪を回し,帆もいっぱいに張って航行している黒船です。江戸末にペリーが四艘の黒船とともに来航したのがここ下田,下田港の南側に記念碑がたてられていました。カラーのマンホールは職場の同僚が撮ってきてくれました。黒船来港を機に開港した下田港,当時の歴史を示す下田条約締結の了仙寺とアメリカ領事館が置かれた玉泉寺はともに史跡(1951.6.9)に指定されています。

写真−15

 時代を遡って,「臼杵の石仏」で知られる臼杵市のマンホールには,帆船とカボスの実が描かれていました(写真−16)。石仏を見に行った駐車場で撮りました。臼杵はかつて九州を席巻した大友宗麟の居城(丹生島城)があったところ,宗麟は海外貿易で得た富で九州を制覇しました。描かれているのはその南蛮船(リーフデ号)でしょう。カボスは臼杵の特産品,野津町との合併後アラカシに代わって市の木に指定されました。

写真−16

 愛媛県北部の越智平野を占める工業都市今治市,本州と四国を結ぶ「しまなみ海道」の入口です。かつてそのしまなみ海道のむすぶ島々を拠点に瀬戸内海で活躍したのが村上水軍,毛利・大内の「厳島合戦」の勝敗の帰趨を決めたのも,この村上水軍の働きがありました。今治市のマンホールには龍頭の勇ましい村上水軍の帆船が描かれています(写真−17)。今も能島や来島にはその水軍の城跡が残っています。駅のロビーでユルキャラの「バリーさん」と出合うことができました。

写真−17

4.観光船も登場します

 北海道東部の阿寒湖観光基地の町です。写真−18の阿寒町のマンホールには阿寒湖を巡る遊覧船,奥には阿寒岳,そして手前にはエゾヤマサクラが咲いています。以前阿寒湖に行ったときは,ゴールデンウイーク明けだったんですがまだ桜が咲いていました。さすがに春が遅いんですね。桜の代わりに阿寒湖のマリモの描かれた蓋もありました。エゾヤマザクラは町の木になっています。2005.10.11釧路市に合併しました。マリモの実物を見るまでは5cmぐらいの小さなものを想像していたのですが,阿寒湖で観てビックリ,直径30cmほどもある大きなマリモでした。

写真−18

 戸沢村は山形県中央部北寄り,最上川中流域にある山村です。写真−19のマンホールに描かれていたのは最上川の船下りです。ちょっととぼけた感じの船頭さんは村のシンボルキャラ「せんどう君」です。実際の船はこんな小さな船じゃありませんよ。村の中心古口駅のそばの戸沢藩船番所から最上川リバーポートまで,最上峡の一時間の川下りを楽しむことができます。私はマンホールを撮りながら,最上川を右手に最上峡に沿って国道を下りました。「最上川」の幟(のぼり)の無いふたもありました。

写真−19

 関東で舟下りといえば「長瀞のライン下り」です(写真−20)。埼玉県西部荒川の上流にある長瀞町,このあたりの荒川は「岩畳上が知られ,そこから対岸の絶壁を眺めるのもいいのですが,緩急の流れの中を,巧みに舟を操る船頭さんの説明を聞きながら見上げる景色も絶景です。また長瀞には「宝登山神社」がありロープウェイで気軽に登れます。絵柄にも描かれている秩父の山々も見られますが,早春にはロウバイが山を覆い,甘い香りを楽しむことができることでも知られています。

写真−20

 千葉県北西部にあり東京都と江戸川を挟んで接している松戸市,ここには歌謡曲でおなじみの「矢切の渡し」があります。見つけたマンホールにも多くの旅人を乗せていく渡し船が描かれていました(写真−21)。「寅さん」の「葛飾柴又」へ,現在も運行されていてゆっくりと進む船の上からの江戸川の風景を楽しむことができます。松戸市側には茶店もありました。流れの速さに合わせて上流に向かって横切り,ちゃんと向こう岸の船着き場へ連れて行ってくれます。

写真−21

 逆巻く波に櫂を操る船頭さん(写真−22)のマンホールには威勢の良い姿が描かれています。岐阜県の美濃加茂市,このあたりの木曽川は,その景観がライン河に似ていることから「日本ライン」と呼ばれていますが,約13kmの区間を下る「ライン下り」の船頭さんですね。私がこの川沿いを走った時は残念ながら異常少雨で木曽川の水が激減,数メートルの川幅しかなくライン下りもやっていなかったと思います。この絵のような姿は想像ができませんでした。

写真−22

 枚方市の隣,大東市のマンホールにも船が描かれています(写真−23)。淀川の三十石船かとも思いましたが,大東市は淀川には面していませんでした。市内の慈眼寺には「野崎小唄」(東海林太郎さんが唄って昭和初期に大ヒットした)で有名な「野崎観音」があり,昔は「屋形船で参ろう」だったということですから,その野崎まいりではないでしょうか。大阪市内から寝屋川を遡って気軽にお参りすることができたそうです。

写真−23

5.おわりに

 葉山町は神奈川県の三浦半島西岸の保養・住宅地で,長者が崎や森と海岸などの砂浜や磯で多くの観光客を集めます。石原裕次郎氏にちなんだ「裕次郎灯台(葉山灯台)」もあります。「日本のヨット発祥の地」の碑が立つこの海岸では,いつでもヨットのある風景に出合うことができます。葉山町のマンホール(写真−24)にもヨットを中心に市の木・花・鳥の黒松とツツジ,ウグイスが描かれていました。

写真−24

 実はヨットが描かれたふたは他にもたくさんあります。ヨットのほかにも渡し船・漁船などもあったのですが,今回は「紹介記事」の書きやすそうなものを選んでしまいました。次回は他の乗物をご紹介しましょう。

※日本のマンホール文化研究会