屎尿・下水研究会

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屎尿・下水研究会の活動の歩み(7)

講話者:地田 修一*

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

 例会での講話のエッセンスを紹介していきます。今回は第61〜71回例会分です。

第61回(平成22年9月9日)山野 寿男
「上下水道に関する言葉の起源」

 「水道」は水が流れると云う意味の古い言葉です。上水を引く水路も,下水を排除する水路も「水道」と言っていましたが,江戸で神田上水,玉川上水が普及すると「水道」は上水の意味になりました。「上水」は国字で,漢語の上水には飲み水の意味はありません。
 汚水の意味での「下水」は国字です。茶の湯で不用になって捨てられる水のことを指していた言葉です。下水には,「汚水そのもの」と「汚水を流す溝」との二つの意味がありました。下水は「ゲ+スイ」と云う説と「ゲス(肥料)+イ(井)」と云う説とがあります。「背割下水」と云う表現は昭和40年代に出てきた新しい言葉です。
 1900年の旧下水道法では,下水に屎尿は含まれていません。初めて下水に屎尿が入ったのは,大正11年に通水した三河島汚水処分場で,地方長官の権限で下水に屎尿を入れたことが始まりです。
 大阪・淀川中流右岸は低湿地であり,天正16年に「農地の滞留水を排除するために交わされた文書」に「悪水」と云う言葉が出てきますが,これが最初です。「作物の生育を阻害する水」,「いらない水」そして「飲めない水」と云う意味になりました。
「用水」は文治4年(1188)の『吾妻鏡』に,「排水」は宝暦2年(1752)の『堰堤秘書』に,「清水」は『古事記』や『万葉集』に記述があります。また,「浄水」は『日本霊異記』(819〜824年)に,「溝,渠,樋」は『記紀』や『万葉集』に出てきます。大和言葉の「せせなげ」は1241年頃に生まれ全国に拡大していきましたし,「どぶ」は『日葡辞書』にはなく,1763年に現れました。

第62回(平成22年12月9日)清水 洽
「世界の列車トイレの現状」

 イタリアの鉄道網は,日本と同様に良く整備されています。しかし,概して列車トイレは汚く,鍵のかからないトイレ,開閉できない窓,落書きだらけの車両が結構あります。IC特急や一般自由席の急行,普通列車のトイレは水洗ですが,全て垂れ流しです。最新型の気動車もトイレは垂れ流しでした。さすがに,ユーロスターのトイレは少量の水を使った真空式で,汚物はタンクに貯留されているようでした。
 スイスを走る,フランスのTGVやドイツのICEやユーロシティECなどの国際特急列車の車両のトイレは,真空式でタンク貯留型でした。しかし,その他の国際列車のインターシティ(IC),インターレギオナル(IR)や普通列車のトイレは垂れ流しです。各列車は,路線ごとにトンネルなどでのトイレ使用禁止区間を設けており,車内放送で注意を呼びかけていました。また,私鉄の登山列車にはトイレが無く,それぞれの停車駅のトイレで対応しています。
 ベルギーの国際列車として有名なのが,3国共有運用の高速列車「タリス」です。「タリス」は,パリとブリュッセル間を結び,一部がアムステルダム及びケルンにまで延びています。この列車トイレは少量の水で水洗できる真空式で,汚物はタンクに貯留されます。
 チュニジアの鉄道は,フランスの植民地時代に整備された関係で,フランスの車両が多く使われています。トイレは垂れ流しが多いようです。
 エジプトの列車トイレには,トイレットペーパーが置かれていません。イスラム教徒が人口の大半を占めるため,お尻洗浄用のパイプがあり,踏みボタンを踏むとパイプから水が出る仕掛けになっています。

第63回(平成23年6月12日)石井 明男
「パレスチナヨルダン川西岸の廃棄物処理改善 ならびにダッカ市の廃棄物処理強化」

 パレスチナの案件は,JICAのプロジェクトです。プロジェクトのサイトはヨルダン川西岸で,17の小さな町が一つの清掃組合を組織して,一括して清掃事業を行うことを目指しています。このプロジェクトはパレスチナ自治政府から日本政府への公式な要請により2005年から始められ,2010年に終了しています。この活動の目的は,自治政府,職員,自治体の組織,社会などのそれぞれの能力を向上させることにあります。
 新しい組織の職員をどう確保するか,処遇はどうするか,事務所,収集機材,埋立地はどうするか,収入源はどうするか,運営はどうするか などを解決していかなければなりませんでした。もっとも難しいのは住民,町,職員,それぞれのコンセンサスを取ることですが,合意形成を取るのに,PRのためのラジオ放送,少し工夫した形のコミュニティ会議,職員説明会などを実施しました。
 ダッカは1,200万人の人口を擁する巨大都市で,業務は清掃事業を改善することです。ここで用いた「仕掛け」は地域ごとの結束を高めるために,また地域住民に理解をしてもらうために,地域ごとに清掃事務所を作りこれを中心に地域住民の自治組織を強化しました。全部で9,000人の清掃職員の安全教育,収集方法の見直しをして,ごみ収集を改善をしていきました。さらに,日本からの無償の100台の清掃車を供与しました。そして,埋立地も一つが新規で建設し,もう一つの既存の埋立地を改善しました。

第64回(平成23年10月23日)新保 和三郎
「東京・下水道よもやま話」

 広報映画「汚いといったお嬢さん」(昭和25年)を作り,下水道事業の重要性をアピールしました。23区内の面積普及率が20%で,処理場は三つ(三河島,砂町,芝浦),ポンプ所は15ヶ所の時代です。昔使っていた汚泥運搬船を売却する事務処理をしたことを覚えています。昭和26年に大手町の事務所にショールームが開設され,家庭雑排水を水洗水として利用する水洗トイレが展示されていました。 昭和33年に,岩波映画が下水道に関する映画(ナレーションはNHKアナウンサーの高橋圭三氏)を制作しました。『東京の水道』(佐藤志郎著,昭和35年,都政通信社刊)の下水道の部の原文を担当しました。執筆に当たって多くの資料を参考にしましたが,良い勉強になりました。
 昭和39年の東京オリンピック開催の準備で,下水道工事は急激に拡大へ向かいました。中小河川の多くが暗渠化され下水道管となりました。昭和37年に下水道局に昇格し,昭和39年度からは下水道料金を水道料金と切り離して徴収するようになり,徴収事務を水道局へ委託しました。下水道予算の拡大に伴い組織,人員が増加し,職員を大量に採用し宿泊研修も実施しました。  財政危機め中にあっても下水道事業はその必要性が理解され,普及率の年2%アップを目標に下水道が整備されていきました。昭和57年は東京の近代下水道開始100年目に当たる節目の年で,これを記念して「地下1世紀1万キロ」の広報番組が作られました。平成7年に,区部下水道100%普及(概成)を達成しました。

簡易水洗便所(『肥やしのチカラ』より)

 東京都提供広報番組「地下1世紀1万キロ」のあらまし:東京の近代下水道開始100周年に当たって製作された番組で,新保さんが神田下水(デ・レーケの指導のもと石黒五十二が設計),長与専斎の松香私志,森鴎外の衛生談,中島鋭治による処分場を含む合流式下水道設計の実施,敗戦時には旧15区の80%が普及したことなどについて,また,李家正文さん(「厠考」の著者)が厠,糞尿の肥料としての利用,西欧との水洗化への認識の相違,財政難・戦争による水洗化の遅れなどについて,さらに,松下行雄さん(東京都下水道局)が水需要の増大,河海の汚染,オリンピック開催(昭和39)に伴う下水道工事の促進,45年の公害国会以後下水道事業が急伸,建設財源が膨大化,荒川以東の普及の遅れ,下水道普及で河川水質が改善,区部は昭和60年代に100%普及を目指すことなどについて,神田,三河島,森ヶ崎などの現地に出向いてインタビューに答える形で説明しています。

第65回(平成24年10月21日)野田 功
「くらしと飲み水」

 水道水は厚生労働省,工業用水は経済産業省,農業用水は農林水産省が所管しています。給水人口が5,000人を超える場合は上水道事業,これ以下の場合は簡易水道事業です。全国ベースでの水道水源の割合は,河川水:26%,ダム湖水:47%,伏流水:4%,井戸水:20%などです。東京都では利根川・荒川水系が3/4を占め,給水系統間や浄水場間をループ化して相互に融通できるバックアップ体制をとっています。
 利根川水系の金町浄水場などでの異臭味障害を解消するため,高度浄水処理(オゾン処理+生物活性炭処理)が導入されるようになりました。
 オゾン処理:オゾンの強い酸化力で臭いや有機物を分解する。
 生物活性炭処理:基本的には,微細な細孔を有する活性炭の吸着能力によって臭いや有機物を処理する方法であるが,粒状活性炭の表面に微生物を繁殖させて微生物による浄化能力(有桟物やアンモニア性窒素の分解)を加味させ,ひいては活性炭の吸着機能を長持ちさせる効果がある。
 近年,膜ろ過法(精密ろ過,限外ろ過,逆浸透など)が,島嶼部での井戸水の塩水障害対策への適用ばかりでなく,区部や多摩地区における小規模浄水場において注目され8箇所で適用されている。メンテナンス性に優れているためである。砧浄水場の緩速ろ過法は膜ろ過法に変更された。
 「飲み水はペットボトル入りの水!」といった風潮が起こり,ミネラルウォーターの消費量が増加傾向にあり,水道事業者としては「蛇口からの水を飲み水に!」といった思いで,貯水タンクをできるだけ経由させずに直接,浄水を蛇口に送水する「直結給水(現在は3階まで)」を実施しています。

第66回(平成25年3月26日)平田 純一・地田 修一
「川柳と俳句にみるトイレ・屎尿」

 トイレ・屎尿・下水を題材にした川柳と俳句を鑑賞しました。紹介された主な旬は次のとおりです。
川柳では,
@ 水洗浄便座:日本のおしりは世界一きれい / 不便です立てば流れる新便器 / 体調を告げる便座も出てきそう
A トイレ:困るもの大してる時宅急便 / ケータイに水の流れとドアの音 / トイレにもショパン流れるこのお宅 / トイレどこ?だけをメモして行ったパリ / 厠って書いてる前でトイレどこ / 銀行は金もトイレも貸し渋る B  公衆トイレ:連れションとどこか似ている大連立 / 無防備な男が並ぶ駅トイレ/ マーキングみたいおしっこバスツアー
C  便座:息子が帰り便座あがって母うれし / 停電を冷たい便座に教えられ / 猛暑日は冷えた便座でおもてなし
D  登山:山の水だけど飲むなと書いてある / 立ちションに罪悪感はない登山
俳句では,
@  トイレ: しばしこもりて雪国の厠の香 / 厠から布団に帰るみち瞼しい /         花八手かつて厠のありし場所(とこ)
A  屎尿:肥汲みの汲んでしまひし年暮れて / 元日や餅で押し出す去年糞 /       立ち尿(いぼ)る老女の如く恋いこがる
B  肥船:古郷や霞一すじこやし舟
C  ごみ:ハンカチほど春雪載せて厨芥車 / グノー聴け霜の馬糞を拾ひつつ,
D  下水:水浄む放流口の都鳥 / 処理水の庭に親しき鴨の陣 / 処理場の水輝ける星月夜 / 処理水の疎水となりて螢舞ふ
E  ユーモア: しんがりに厠の神の旅立たれ / 二股に尿(しと)の岐れて冬を老ゆ / 令嬢の犬線蔭に便催す,

第67回(平成25年10月20日)岩堀 恵祐
「改善された富士山トイレ問題」

 富士山にふさわしくないものの筆頭に挙げられるのは「富士山のトイレ」ではないでしょうか。新五合目の公衆トイレは循環式水洗トイレですが,山頂のそれは素掘り式で屎尿は放流・浸透させ,また,25箇所(静岡県側)の山小屋トイレのほとんども屎尿を放流・浸透するものでした。
 山小屋トイレの改善や携帯トイレによる持ち帰り実験の提案(平成8年度)及び屎尿処理装置を一体化したトイレ(自己完結型トイレ)の実証実験の必要性の指摘(平成9年度)がなされたことを踏まえて,平成10年度に静岡県では「富士山トイレ研究会」を立ち上げ本格的な実験・調査に入りました。
 平成10年度は杉チップ式トイレの実証実験と利用者の意識調査を,11年度は山頂の公衆トイレの屎尿運搬や脱臭実験を,12年度はオガクズ式,杉チップ式,水循環式トイレの実証実験と利用者の意識調査,13年度はオガクズ式,水循環式トイレの実証実験と利用者の意識調査をそれぞれ実施しました。

オガクズ式トイレ(『トイレ』より)

 4年間の調査結果を基に,静岡県知事に最終報告書(当面は汲取りトイレと自己完結型トイレとの併用を提案)を提出しました。これを受け行政側は,富士山トイレの改善に向けた法的整備・予算措置を行ないました。
 山頂の公衆トイレは,今のところは屎尿を溜めておいて5合目まで運び出さざるを得ないが,最終的には,屎尿の減量化を図り乾燥物にし,小さな袋に詰めて用を足しにきた人に渡して,下山時に5合目まで持って行ってもらい,そこで処理するのがベターであろう。
 静岡県側の山小屋24箇所のトイレは平成17年度までに改善され,その内訳はオガクズ式が11箇所,カキ殻循環式が7箇所,焼却式が2箇所,オガクズ式+焼却式が3箇所,オガクズ式+土壌循環式が1箇所です。なお,山梨県側の山小屋18箇所も平成18年度までには全部が改善されています。設置に当たっては,行政側から大幅な補助金が出されています。

第68回(平成26年2月21日)石井 明男
「ごみ処理と地域特性」

(内容は省略します)

第69回(平成26年10月19日)山崎 達雄
「有料トイレのルーツ」

 「オアシス@akiba」は,東京・千代田区が8年前に設置した100円トイレ(スタッフが常駐)で秋葉原駅前にあり,1日当たりの利用者は男性200人,女性40人です。経営的には赤字ですが,外国人が利用するファクターもあり,来る2020年の東京オリンピックに向けて改善を考えているとのことです。
 明治に入り外国人との交流が増し,屋根を設け囲いをした公衆便所がみられるようになりました。近代的な公衆便所のはしりは,横浜に浅野氏が設置したものでしょう。
 京都では小便桶を整理・改善し,690箇所の私設の公衆便所へ移行しました。その後,京都で開催された第4回内国博覧会を契機に,京都市は私設の公衆便所を買収して,公設化しました。ちなみに現在,京都市には96箇所の公衆トイレがあります。
 第5回内国博覧会(明治36年,大阪)では,有料便所が設置されました。男子便所は10銭,女子便所(化粧室付き)は15銭でした。有料便所が15箇所だったのに対し,無料便所は10箇所だったそうです。東京勧業博覧会(明治40年,入場券10銭)では,有料便所が乱立しました。3銭の模範高等便所は利用者が少なかったため,途中で2銭に値下げしたそうです。一方,無料便所は不潔であったにもかかわらず,混んでいたとのことです。これを反省して,東京・大正博覧会では,有料便所の設置をやめ,代わりに無料のきれいな便所を設置しました。しかしその後の他都市で開催された博覧会では,あいかわらず有料と無料の両方の便所を設置しています。総じて,博覧会の入場料金に比べて,便所の使用料が高過ぎるきらいがありました。
 東京市が明治39年に,東京・浅草橋駅前に番人を置き1銭を徴収する有料公衆便所を開設しました。明治43年に新橋駅に,2銭銅貨を入れると「使用中」と云う札が出る高等便所が新設され,1日に50人ほどの利用客がありました。化粧室には姿見 帽子掛け,荷物置き場があり,用便紙も備えられていました。西洋式が5つ,日本式が3つでした。上野駅のものには,外国人用と日本人用の区別がありました。外国人観光客が多く訪れる京都駅(2代目,大正3年竣工)には,2銭銅貨を入れると自動的にトビラが開閉する有料便所(水洗式。洋式が2つ,和式が2つ)が設置されていました。

東京勧業博覧会場内の便所(『トイレ』より

 昭和22年,京都・四條の繁華街に開設された「四條トアレ」は,立ち小便対策としての意味合いがありました。使用料は10円。洋風・和風の男女別トイレで,女子用にはビデも付き,幼児用ベットも備えられていました。物品販売や観光案内のサービスカウンターがありました。
 大阪駅前の有料トイレ−梅田トイレット−の開設は昭和24年で,使用料は20円でした。利用者は1日平均200人,多い時は700人。売店の他,小奇麗な待合室があり,お茶も出され商談もできました(1日に4組から5組が利用)。ここは,林芙美子の『めし』の題材にもなっています。これがさらに発展したのが,現在の休憩室付有料トイレ・「アンジェルベ」です。使用料は1時間300円。着替えもでき,ハーブティーなども飲み放題です。地の利が良いことから,平日の昼間で30分待ちの大盛況です。

第70回(平成27年11月8日)八木 美雄
「城と上下水」

 八王子城跡がきっかけとなり,城探訪にすっかり魅せられてしまいました。近々,千早城(大阪府)を訪ねることにしていますが,これで「日本100名城」踏破となります。
 城は土を盛って土塁を築きますが,その土を得るために掘った部分が堀(濠)になります。すなわち,城は堀と土塁で囲まれた外敵から身を守るための構造物です。
 明治政府は明治6年に廃城令を公布し城の破却を進めました。さらに,太平洋戦争時の大空襲によっても失われました。現在,江戸時代から現存している天守は,弘前,松本,犬山,丸岡,彦根,姫路,備中松山,松江,宇和島,松山,丸亀,高知のわずか12城しかありません。ちなみに,松本,犬山,彦根,姫路,松江の5城は国宝,その他は重要文化財となっています。天守は地域のランドマークになると云うことで,全国で79の天守が再建されています。
 日常生活に加えていざという時の龍城に備えて,城には井戸が設けられていました。水手曲輪として厳重に防備されるとともに,水源が枯れないように尾根の堀切や樹木伐採が厳しく規制されていました。江戸時代になり天下が統一されると,領内統治に便利な地に城を構えるとともに,城下町に水を供給するために都市施設としての上水(江戸の玉川上水,金沢の辰己用水など)を整備しました。
 雨水に関しては,石垣は排水を怠ると水圧によって崩壊を早めるおそれがあるので,背面に栗石を込め排水用の樋を設置したりしていました。低平地での城下町においては内水排除のため,江戸の本所の場合では,竪川,大横川,十間川が開削され,さらに南割下水,北割下水が設けられていました。汚水については,城郭には常設のトイレはなく,移動式の「おまる」が利用されていたようです。往時,汚水の大部分を占めていた糞尿は,肥料として活用されていたことが遠因にあったのかもしれません。
 なお,戦国時代の篭城戦では,人ばかりでなく軍馬が排出する糞尿によって,城内の衛生状態の悪化(糞詰まり)を招きました。小田原の北条氏が浜居場城(箱根山中にあった)の城掟で,「人馬の糞水,毎日城外へ取出し,いかにも綺麗に致すべし,但し,城一矢の内に置くべからず,遠所へ捨る事」と規定しています。ここで,「一矢」とは約60mですから,屎尿を捨てるにあたって大変な労力を必要としたことでしょう。

第71回(平成28年11月20日)蛭田 廣一
「玉川上水と小平」

 神田上水の給水域を越えて江戸の町が広がってきたことへの対応策として,承応3年(1654)に開削されたのが玉川上水です。ときの玉川水道奉行・伊奈忠治のもとで,実際の工事を行ったのは玉川庄右衛門・清右衛門兄弟です。羽村で多摩川に堰を設けて取水し,約43kmを開渠(8ヶ月で開削)で四谷大木戸まで流し,その先は石や木の水道管を虎ノ門まで埋設((工事期間7ヶ月)し,江戸の四谷,麹町,赤坂,芝,京橋方面に給水しました。
 玉川上水の管理は,当初は上水を開削した玉川家に任せられていましたが,不正を理由に水役を罷免され,お家断絶となってしまいます。その後は,普請奉行(あるいは作事奉行)配下の上水方が行うようになりました。
 上水見回り役(水番人)を置くようになったのは1739年からです。水使用料を集めたり,見回りを行ったり,芥止めにかかったゴミを取り上げたりしました。また,分水口を開けたり塞いだりする時には,村々に知らせるとともに,その作業に立会いました。

玉川上水(『パンフレット』より)

 カマスに入れた石灰を馬に積んで運ぶために,新たに通されたのが青梅街道です。箱根ヶ崎と田無の間には,かつて宿場がありませんでした。新たな宿場を開くべく,狭山丘陵麓・岸村出身の小川九郎兵衛がリーダーとなって,明暦3年(1657)から小川村開拓に着手しました。潅漑・生活用水は,青梅街道・南方の玉川上水から引いてきました。用水路の脇に洗い場を設け,水を汲んで各家の台所まで運び,飲み水や煮炊きに使いました。小川村の名主・小川弥次郎が村内を流れる分水に水車をかけたのは,明和2年(1765)のことです。水田が少なく,ムギ,ヒエ,アワ,ソバなどの雑穀が主要農産物でしたが,これらは精白,製粉しないと商品になりません。そこに目をつけた弥次郎は,水車を利用して雑穀を加工しようとしたのです。
 玉川上水の水量が減って水位が下がり,堀の洗掘が進んだり,分水がし難くなってきました。小川分水でも,文化3年(1806)に,従来より上流のしかもより低いところに分水口を移しています。
 小金井橋のたもとに「名勝小金井桜」という碑が建っていますが,小金井桜と云ってもその半分は今の小平市域です。小金井桜の一番の中心であった茶店兼旅館の柏屋(2階に上がっての花見,分けても夜桜見物が江戸時代では最良の行楽であった)も小平に所在しています。
 一時,玉川上水にも通船が許可されましたが,わずか2年後の明治5年5月未をもって廃止されました。通船に伴い明治3年,小平監視所から玉川上水の北側に沿って桜橋(小平市内)までの約5.5kmにわたって新たに新堀用水が掘られ,ここから分水されるようになりました。

※屎尿・下水研究会幹事