屎尿・下水研究会

TOP

屎尿・下水研究会の概要

お知らせ

発表タイトル

特別企画

企画図書類

更新履歴


読み物シリーズ


シリーズ ヨモヤモバナシ



屎尿・下水研究会の活動の歩み(6)

講話者:地田 修一*

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

 例会での講話のエッセンスを紹介していきます。今回は第49〜60回例会分です。

第49回(平成20年1月24日)大島 善徳,ひろ ゆうこ
「トイレのひみつ刊行のいろいろ」

『トイレのひみつ』は学習研究社の「まんがでよくわかるシリーズ」の一環として刊行された小学生向けの学習教材です。小学校図書館や公立図書館に寄贈されている非買品です。学習指導要領による「総合的な学習の時間」で活用してもらうことを期待して企画されました。協賛(制作費用を負担)されるところは大部分が私企業ですが,『裁判のひみつ』のように行政組織の場合もあります。
 シナリオが漫画化されていますが,写真や図,コラム記事,豆知識などが散りばめられており,トイレのことがわかりやすく説明されています。この本ができるまでの流れは,@資料収集 A登場人物や章立てなどの構成案を作成 B登場人物と場面の設定C取材・調査 D作画(キャラクターの考案,下絵・コマ割り,色の確定,ペン入れ,色つけ,表紙の作成)E工場の様子などの背景画を写真から絵におこす Fコラムの件成 Gセリフの入力,ルビつけ,豆知識作成などの入稿用原稿の作成 H校正・印刷・製本 であり,この間およそ半年間かかっています。

漫画

 このシナリオがこんな漫画になると云う例です。【シナリオ】:2学期が始まって間もない頃。ほかにはだれもいない静かな道。正太が歩いている(後ろ姿)。あせりつつ,そろりそろりと歩いている。/(ト書き)今井正太,小学校5年生。/正太「(自分に言い聞かせるように)もう少しだ!‥うっ。」/ その後ろから,友香が小走りに駆けてくる。/(ト書き)白井友香,小学校5年生。正太の幼なじみ。/ 友香 正太に気づく。正太の妙な歩き方を不審に思う。友香,正太に近づく。/ 友香「おっ,正太じゃん。どうしたの?」/友香 正太の肩をたたく。正太,びくっとする。

第50回(平成20年3月27日)稲場 紀久雄
「旧下水道法制定の経緯」

 明治20年6月,中央衛生会は「下水道に対する上水道の優先と云う方針」を明確に打ち出しました。その理由は,@上水道は下水道より即効性がある(参上水道には収入の道があるが,下水道にはない B上水道は,下水道より技術的に衛単である などです。
 ところが,日清戦争に勝利し台湾を領有するに至って,ペスト(ペスト菌を運ぶ感染鼠とそれにたかる蚤が媒介)襲来の恐れが強まり,事態は一変しました。明治29年初頭,ペスト患者が検疫体制を潜り抜けて横浜に上陸しました。ペストが台湾から何時潜入するか,情勢は緊迫していました。明治30年2月,中央衛生会の席上で後藤新平は「汚水の排除と塵芥汚物の掃除は,ともに汚物掃除法で当たりたい。汚物掃除法は下水管理の一般法である。下水道は大都市に逐次強制的に完全な施設を整備させたい。下水法案は,このための特別法である」と,審査報告しています。しかしこの時は,議会への提案は見送られました。その後,後藤は台湾総督府に異動しリーダーを失い,しばらく法案は埃をかぶることになります。
 こうした中で,ペスト上陸の脅威はいよいよ現実性を増してきました。下水法案は明治32年10月3日に,また汚物掃除法案は10月9日に内務大臣に答申されました。審査の結果,財政措置などの積極条項は削除され,極めて実益の乏しい形式論理的なものとなってしまいました。この年の11月5日,遂にペストによる死者が出ました。下水法案は,国会審議の過程で名称が下水道法と変わったものの,ほぼ原案のまま通過し明治33年4月1 日に施行されました。
 下水道法は,下水道事業を明確に公共事業と位置づけ,必要な場合には内務大臣に都市に対する築造命令権を与えるなど権力的なものでした。下水道事業の全経費は租税で賄うとされていました。さらに,屎尿の受け入れを原則として対象としておらず,屎尿の受け入れはあくまでも例外的な措置でした。

第51回(平成20年6月13日)竹島 正
「消えゆく下水処理設備を映像に残す」

 東京都・森ヶ崎水再生センターに勤務していた当時,いままで活躍してきた処理設備が,年々,新しい機種に更新され,従来型がどんどん撤去され跡形も無くなっていく状況を目の前にして,「下水処理や汚泥処理をかつて第一線で担ってきた設備を,運転されている状態でビデオに記録する」ことによって,生きた教材として後世に残したいと考えました。
 そこで,現在の担当者が今までの資料を整理してシナリオを書き,運転しているそれぞれの設備の前で,設備の動きなどについて説明を行い,それを私(竹島氏)がビデオに撮り,「映像と音声」とでそれらの設備のありし日の姿を保存することにしました。
 ビデオに残された処理設備の幾つかを次に紹介します(手作りビデオの上映)。
@ミーダー型汚泥掻き寄せ機:昭和42年稼動の最終沈殿池(24池)には,ミーダー型と云う他の処理場では見られない,ユニークな汚泥掻き寄せ方式が採用されています。建設当時は,まだリンクベルト型の導入例が少なく,それまでのサイホン型採泥機のもつサイホン切れと云う欠点を解消でき,しかもサイホン型と同様,水中に駆動部がなく丈夫な構造が着目されたためです。往復運動や掻き寄せ板の上下操件などの制御には,多数のリミットスイッチが使われています。
Aベルトフィルター型真空脱水機:昭和47年に設置された真空脱水機は,機械台数24台を有する,全国的にも有数な大規模な設備群です。石灰・塩化第二鉄の無機凝集剤を用いた汚泥脱水機としては,東京都に現存する唯一のものですが,平成20年度末に休止しました。

休止したベルトフィルター型真空脱水機       (「パンフレット」より)

B多段炉型汚泥焼却設備:真空脱水機から産出される石灰ケーキ用の焼却炉です。高分子凝集剤を用いたベルトプレスや遠心脱水機から産出される高分子ケーキの焼却には不向きであることから,近年,汚泥焼却炉は順次,流動炉タイプに移行しています。東京都では,この2基が最後に残された多段炉となっていましたが,平成20年度をもって休止しました。

第52回(平成20年7月11日)田中 修司
「下水道管路管理の課題」

 公共団体の職員は全体的な計画や指導業務が多く,実務の大部分は民間に委託されています。日本下水道管路管理業協会では,管路管理技士の資格制度を設けています。専門技士,主任技士,総合技士の三段階からなっています。部門としては清掃,調査,修繕・改築があり,実務経験に加えて,学科試験,実技試験,論文などが課せられています。
 管路内には様々な危険が潜んでいます。物理的な因子としては滑る,流される,落下するなど,有毒ガスとしては硫化水素,酸欠など,衛生的な因子としてはネズミ,寄生虫,病原菌,ウイルスなどが挙げられます。管路内の作業環境に関するデータは極めて少ないですが,流量のデータだけでも継続して蓄積できれば大きな価値をもってきます。非接触型のセンサーを駆使してのモニタリングや光ファイバーを用いた神経系統(情報の伝達)の確保などの技術開発が待たれます。
 下水道管の内部を調査したところ,設置してから10年しか経過していない管の45%近くに,なんらかの異常がみられたとの報告があります。施工時あるいはそれとごく近い時期に,、なんらかの問題がすでに生じていたのではないかと考えられます。

高圧洗浄車による管渠清掃 (『東京都下水道局100年の歩み』より)

 各家庭からの取付け管の管体への接続に関して,接続部分の強度や施工面からの再検討の必要性が指摘されています。現在,道路陥没は全国で年間4,000〜6,000件発生していますが,その8割〜9割はこの取付け管の周辺で起きています。さらに,道路を走る車両の総重量制限が20トンから25トンへアップしたことや交通量の増大の影響も無視できません。
 下水道管への地下水の浸入は,従来,処理場に対する水量負荷の増大が問題視されてきましたが,実は,下水道管の劣化の原因にもなっていたことが,最近になってわかってきました。地下水の浸入とともに,管体を覆っていた土砂が管内に流入してしまうため,管の周辺に空洞ができ,個々の管の継ぎ手の連結がゆるみ,管路に凹凸ができてしまい,一定の勾配が保てなくなってしまうのです。

第53回(平成20年9月25日)小峰 園子
「農村改善運動とトイレ・上下水道」

 江戸時代の農村では,現在でも一部の地域に残っていますが,汲取り式の外便所が使用されていました。屎尿は定期的に汲取られ,下肥として一滴残らず大事に農地に施肥されていました。一方,上水(飲料水や雑用水)は,湧き水や農業用水に頼るところが多かったようです。明治に入っても,下肥は貴重な肥料として利用されました。
 トイレが水洗化される以前(大正,昭和前期),わが国では様々な改良便所が考案されました。
@城口式便所:便槽が密閉されていて,微生物の働きで寄生虫卵などを死滅させることができる
A大正便所:便槽に日印を付け,汲取りの時期がわかるようにした
B文化便所:跳ね返りをなくす工夫をしてある
C内務省式改良便所:便槽が隔壁によって複数に仕切られており,3ケ月ほど経過したものを汲取る。この間に,寄生虫卵,消化器系伝染病菌が死滅する
D昭和便所:大便器の下の配管を湾曲させ,トラップの役割をもたせた。隔壁により3槽に仕切られていた
E簡易水洗便所:洗浄水として家庭雑排水を用い,便池を設けず,そのまま下水道に流す などがあります。
 戦後,GHQ(連合軍総司令部)の主導による生活改善運動が,栄養改善,居住改善から家族計画,人生儀礼に至るまで,清潔,合理化,簡素化をモットーに強力に推し進められました。トイレの改善に関しては,厚生省式3槽型便所や屎尿分離型便所が推奨されました。ともに,雑誌「家の光」の昭和31年9月号の別冊「生活改善グラフ工夫実践」において,図をふんだんに使って手作り方法が紹介されています。

生活改善グラフ工夫と実践(『肥やしのチカラ』より)

 農村においてかつて行われていた,水源からの天秤棒による飲料水の運搬や非衛生的な農業用水路の利用を解消するためには,近代的な水道(簡易水道を含む)を引く必要があります。この間題を扱った『生活と水』と題する,厚生省後援のドキュメンタリー映画のビデオをこれから見ていただきます。(映画『生活上水』の上映)集落の皆が総出で勤労奉仕をして,水源から水道管を引くなどした「簡易水道」造りを克明に追った画面は,きちんと管理された水道が設けられることによって,労力が軽減され衛生的になり,いかに生活が明るくなるかを端的に示しています。

第54回(平成20年12月4日)関野 勉
「ユニークなトイレマーク」

 わが国において,トイレを示すマークが日本工業規格で統一されたのは,つい最近の平成14年になってからであり,それ以前には様々なトイレマークを見受けることがありました。ましてや,海外を旅行していると,その土地の風俗などが凝縮されている個性豊かなユニークなマークに遭遇する機会があります。
 フィンランドのホテルのロビーにあったトイレの扉を手で触れると,明らかな凹凸がありました。そのマークは木製で,扉から3cmほど出っ張っている30cm四方ほどのものでした。目の不自由な人でも,触れることによって判断できるようにと云う発想からと思われます。マークの他に,文字のサインも添えられていました。
 オランダの「レンブラントの館」のトイレのマークは画家・レンブラントが描いた絵に由来したもので,男性用には兵士が立って小便をしている絵が,女性用には看護婦らしき人がしゃがんで小便をしている絵が,表示されていました。他にマークのみで表示している例として,@男女の服装をマーク化したもの(ポルトガル,ロシア,イエメン)A男女の持ち物をマーク化したもの(トルコ:男はパイプ,女はハイヒール)B男女の顔をマーク化したもの(モロッコ)Cトランプの王と女王を用いたマーク(インド)があります。

男女の服装をマーク化(『トイレの自由研究』より)

第55回(平成21年3月13日)地田 修一
「航空写真にみる処理場用地」

 東京都の処理場用地が以前どのような土地利用形態であったかを.古い航空写真などをもとに読み解いてみました。
 その一覧は以下の通りです。三河島:水田(大正11年稼動),芝浦:海面埋立(昭和5年),砂町:海面埋立(昭和6年),小台(現みやぎ):レンガの原料土採掘地(昭和37年),落合:工場跡地(昭和39年),森ヶ崎:旅館街+養魚場(昭和42年)/海面埋立(昭和50年),浮間;工場跡地+水田(昭和41年)/新河岸(昭和49年),小菅:屎尿処理場跡地ほか(昭和52年),葛西:海面埋立(昭和56年),中川:工場跡地(昭和59年),中野:刑務所跡地(平成7年),有明:海面埋立(平成7年),新河岸東(現浮間):国立研究所跡地(平成13年)。
 芝浦処理場は,芝浦第3号埋立地(東京港築港の浚渫土で造成)の一画に昭和3年に建設された芝浦ポンプ所に始まり,当初は仮処分を目的にしていたので,沈殿池が2つ,汚泥槽が1つあるだけでした。
 砂町処理場の用地は,関東大震災後の震災復興事業の一環として施工された,海岸から400m沖合いに造られた埋立地で,当初から着船場がありました。陸とは細い専用道路(流入管渠が埋設)で結ばれていました。
 小台処理場の建設予定地には大小の池が点在し社宅と思われる建物も見えます。この付近からレンガの原料土を産出したため,レンガ工場が続々と建てられましたが,その一画です。

小台処理場用地(『下水道マンの東京散歩』より

 森ヶ崎処理場の西地区の用地は,昔,旅館,料理屋が建ち並ぶ鉱泉場があった一画で,養魚場から旅館・「大金」にかけての辺りです。昭和37年に,この近くの海面の漁業権は都に買い取られましたが,その一画を埋立てたのが東地区です。
 これは,新河岸処理場の前身である浮間処理場に開設当時勤務していた方の思い出話です。「処理場の南側には大きな建物がなく,晴天の日には3キロ先の成増の厚生病院まで見通すことができました。処理場付近には花が一面に咲き誇り,まむし,蛙,アメリカザリガニが生息するなど,自然が一杯溢れていました。新河岸川の土手は砂利道で,早瀬橋はところどころ踏み板が破損している木橋で,しばしば時代劇の撮影が行われていました」

第56回(平成21年6月18日)清水 洽
「列車のトイレ」

 明治5年,新橋〜横浜間に鉄道が開通しましたが,車両にはトイレが付いていませんでした。ごくわずかな例ですが,英国から輸入した車両にはトイレ付きのもありました。
 大正末から昭和初期にかけて,トイレ付きの電車が現れ始めます。難波〜和歌山,新宿〜小田原間などの比較的長距離の電車にトイレが付きました。いずれも汚物は垂れ流しでした。
 昭和25年に「垂れ流し式」トイレからの屎尿の飛散状況を調査したところ,列車のすれ違い時やトンネルや鉄橋の走行中には,レール上には落下せず,窓や列車の雨樋部分にまで舞い上がっていることが明らかになりました。国鉄は流し管の改造に取り組み,昭和26年,大宮〜高崎間で改良型流し管のテストを実施しました。飛散範囲が格段に小さくなることが分かりました。昭和40年,清掃法が改正され,列車を運行する者に対して適切な屎尿処理を行うことが義務付けられました。

列車トイレの循環式タンクー(『トイレ』より)

 昭和33年より電車特急こだまの運転が開始されたほか,新幹線の建設計画が具体化され,貯留式(タンク式)と粉砕式(消毒式)との試作が始まりました。昭和35年からこだま型特急とブルートレインに付けられました。しかしこれも汚物を粉砕・消毒こそしますが,垂れ流すことには変わりがありませんでした。
 昭和36年,新幹線の車両にタンク式トイレが採用されました。さらに,昭和42年から,新幹線を含めて在来線車両に順次,「循環式」(便器の洗浄水として,タンクの中に設けたフィルターを通して水のみを吸い上げて,繰り返し利用することでタンクの容量を小型化したもの)への改造が開始されました。  現在,垂れ流しの車両は1台もなく,JR・私鉄とも列車のトイレは,「循環式」か「貯留式」が一般的です。車両は基地に戻り,バキューム車で最寄りの屎尿処理場へ運ぶか,下水放流で対処しています。

第57回(平成21年9月17日)松田 旭正
「明治の改革にみる屎尿の文明開化」

 明治に入り政府は,それまで慣習として行われていた無蓋での屎尿運搬や立小便を法律により規制しようとしましたが,それらを改めることは一朝一夕ではいきませんでした。英国公使館から外務省へ宛てた「昼間,便所汲取り人が公使館前を通る際に,臭気が館内にはいり,来客時には特に迷惑するので,通行禁止にしてほしい」との申し入れなど,外国人からの類似の苦情が絶えませんでした。
 明治5年,政府は軽犯罪を取締まる「違式?違条例上(罰金刑もある)を制定しました。屎尿・下水関係では,「川や掘や下水へ土・瓦・礫を投棄する者」,「居宅前の掃除を怠り,下水を浚わない者」,「蓋のない糞桶を搬送する者」,「便所でない場所へ小便をする者」,「店先や往来に向かって,幼児に大小便をさせる者」などの項目があります。
絵を使って分かり易く解説した「画解き五十余箇条」を出して,周知徹底を図っています。当初,三府五港(東京,京都,大阪,横浜,神戸,長崎,新潟,函館)で施行され,その後,他の県にも及ぶようになりました。

京都府違式?達条例『トイレ考・屎尿考』より

 施行時期やその内容は各県により異なっており,此の条例に対する評価(「受け入れ」あるいは「反発」)に微妙な違いがあったことを覗わせます。
 東京府では,明治5年11月13日より全54条を施行しています。
 横浜では,この条例以前にすでに立小便をなくすため,明治4年11月,町会所の費用で辻々に公衆便所(当時は公同便所と呼んだ)を順次新設し,明治5年4月時点でその数は83箇所にのぼりました。ただし,4斗樽(約72リットル)大の桶を地面をわずかに掘り下げて埋め込み,板囲いをしただけの簡易なものでした。その後それらを統廃合し,屋根を付け,桶を瓶に換えるなどの改善を図り,橋のたもと40数箇所に設置しました。
 京都府では,明治5年より独自に屎尿の運搬時間を厳しく規制していましたが,9年12月からこの条例を改め,防臭薬を使用すれば,昼間の屎尿運搬を可としました。

第58回(平成21年12月10日)中村 隆一
「水琴窟を訪ねて」

 水琴窟の原型は「洞水門」(一種の排水設備)であり,小堀遠州(1579〜1647)が考案したものと言われています。江戸初期に始まり,文化文政時代に流行し,明治・大正で盛んになり,昭和初期に衰微しました。平山勝蔵東京農業大学教授らが昭和12年頃,鳥取県の尾崎邸で,また昭和31年頃,東京・品川の吉田邸(旧安田邸)で水琴窟を再発見し造園雑誌に論文を発表しています。  一般の人々に水琴窟の存在が広く紹介されたのは,昭和58年に朝日新聞の東京版に「水の音色,江戸の風雅,旧吉田記念館」と云う記事が掲載されたのが最初でしょう。
 演者(中村氏)は今までに,水琴窟ブームの発端となった「品川歴史館(旧安田邸)や「旧今井家」をはじめ,「木曽古文書歴史館」,「大橋家苔涼庭」,「深田邸」などの多くの水琴窟を直接訪ね,その由来を開き,その音色を自分の耳で確かめ,その都度探訪記として纏めてきました。

水琴窟の模式図(『パンフレット』より

 歴史的な文献には記録を一切留めていない水琴窟ですが,現在,全国に200余箇所あります。愛知県が最も多く,次いで岐阜県,東京都,京都府の順になっています。そのうち,江戸時代に造られたものは,わずかに16箇所です。
 成立の経緯を推測すれば,雪隠などから出てきて縁先の手水鉢で手を清めます。ところが縁先であり,茶室の傍でもある場合,水をただ捨てたままにして置くのは具合が悪い。そのため,排水機能としての洞水門が考えられたのではないでしょうか。構造は瓶を逆さにして土中に埋め,上部に穴を開けその穴から水が流れ込み,土に浸み込みます。ある時,音が出ていることに気付き工夫が凝らされ,粋,わび,さびと云った風雅の境地に進んでいったものと思われます。

第59回(平成22年1月21日)谷口 尚弘
「米元晋一と当時の最先端技術−合理式と散水濾床法の導入−」

 東京市技師であった米元晋一氏は,明治44〜45年,欧米各国(6ヶ国・48都市)に下水道調査のため出張し,帰国後,阪谷芳郎東京市長に出張復命書を提出しています。
 その後,雨水量の算定手法の見直しや下水処理方法を再検討する仕事に携り,その中で,「合理式」や「散水濾床法」など,当時の欧米の最先端技術をわが国で最初に建設された三河島汚水処分場の設計に導入することになります。
 雨水量の算定については,ドイツで研究され欧米各地で普及しつつあった「合理式」(長期間の雨水量データから降雨曲線を作成するとともに,流入時間,流下時間,遅滞係数などの項から成る理論式に基づき算定する)に準拠すべきことを下水道顧問会議に提言しています。
 当初,三河島汚水処分場の処理方式はセプティックタンク(腐敗槽,24時間滞留)と接触濾床法(間欠的運転)とで計画されていました。米元氏は欧米における最先端情報に基づき,セプティックタンクを沈殿池(滞留時間6時間)に,接触濾床法を本格的な生物学的処理法である散水濾床法(連続的運転)に変更しています。ちなみに,大正10年に草間偉氏が欧州留学から帰国し,活性汚泥法を日本に紹介しますが,もうこの時すでに,設計変更がきかない段階にまで工事が進んでいました。

散水濾床法(『江戸・東京の下水道』より)

 恩師の中島教授が病に倒れたため,大正6年から母校の東京大学の講師を兼職し「下水道学」を講じています。大正4年に臨時下水道改良課長に就任し,さらに同9年,水道拡張課長兼務となります。ところが,東京市大疑獄事件が起き連座する職員を出し,大正10年に辞職を決断するに至りました。
 退職後は,全国の多くの公共団体の顧問として上下水道事業を指導しています。特に名古屋では,草間氏とともに活性汚泥法の実験を指導しています。戦後は,西原衛生工業所の顧問として亡くなられるまで勤務し,民間サイドから上下水道のみならず,浄化槽の技術開発ならびにその普及に関わりました。

第60回(平成22年3月25日)齋藤 健次郎,菊池 隆子,石井 明男
「日本の水処理の基礎を築いた柴田三郎博士」

 柴田は明治32年に茨城県日立市に生まれ,大正14年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し東京市に入っています。衛生試験所を経て下水道の仕事に就きます。昭和17年,三河島汚水処分場長に就任し,同19年に退職しています。
 昭和6〜8年の内務省と警視庁との協力による「下水懇話会」の活動は興味深いです。全国数百の工場排水を採取し,自宅に小さな実験室を設けて分析に明け暮れた,ことが晩年の対談で語られています。昭和8年,水道協会常設調査委員会の「下水試験法協定に関する委員会」の委員となり下水試験法の原案を作成し,水道協会誌(昭和15〜16年)に11回にわたって『下水試験法注解』を連載しています。この中に,安定した溶存酸素測定法として「柴田・ミラ一変法」が挙げられています。
 戦後,GHQ(連合軍総司令部)の指導のもと,経済安定本部資源調査会の中に衛生部会が設置され,柴田氏は汚泥消化や屎尿消化の研究をしていたことから,富山の疎開先から呼び出され,「屎尿の資源化等に関する」小委員会の座長となり,「屎尿の嫌気性処理」について勧告しています。これを受けて東京都は,昭和26年から処理能力2700kl/日の屎尿消化槽を建設し,ここで汲取り屎尿の1/4を昭和57年まで処理していました。
 また,長年にわたる工業排水に関する研究成果が認められ,同じく資源調査会で委員長として「水質汚濁防止に関する勧告」を纏めています。立法作業は厚生省の手に委ねられましたが反対意見が多く,その成立は昭和33年制定・公布の水質二法(経済企画庁が策定した水質保全法,工場排水等規制法)にまで待たねばなりませんでした。
 学位論文は「下水浄化における活性汚泥の化学的研究」で,昭和15年に母校の東京帝国大学から取得しています。また,昭和18年に唯一の著作である『工業廃水』(青年書房)を,さらに昭和23年には翻訳書の『工業廃水処理』(コロナ社)を刊行しています。
 昭和26年に経済安定本部を退いた後は,コンサルタントとして民間企業の廃水処理施設の設計・指導にあたっていましたが,昭和59年に物故されました。

※屎尿・下水研究会幹事