読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
屎尿・下水研究会の活動の歩み(5)
講話者:地田 修一*
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
例会での講話のエッセンスを紹介していきます。今回は,第37〜48回例会分に加えて特別企画1回分です。
第37回(平成17年9月2日)稲村 光郎
「大正八年の屎尿問題−その定量的検討」
東京市における屎尿の汲取り料の各家庭からの徴収は,遅くとも大正7年には一部で始まっていましたが,翌8年9月に組合員数600名を擁する東京糞尿肥料組合が有料化を実施し,本格化しました。また,屎尿事情の窮状をみかねた東京市自身が屎尿の汲取りに乗り出したのもこの年です。大正8年は屎尿問題にとって節目の年だと言えます。屎尿は貴重な肥料として,江戸時代以来,汲取る農民が謝礼(野菜や米あるいは金銭)を持って来る慣習になっていたものが,何故このようなことになったのでしょうか。
第一次世界大戦(大正3〜7年)後の急激な賃金上昇が,屎尿の輸送費等の高騰を招き,「屎尿の価格」が引き合わなくなり,輸送距離の長い千葉県など他県への移出・販売が滞るようになってきました。一方大正8年以降,戦後の平和気分の中,アメリカで絹ブームが起こり蚕糸等の輸出が増え,農村も未曾有の好景気に恵まれました。東京近郊の農家が白米を食べられるようになったのもこの年からだといいます。
硫安などの化学肥料が国産品も含めて非常に安価になったことを反映し,大正12年からの5〜6年間で国内での化学肥料の消費量は2倍に増加しています。農民が直接汲取りに行ける都市近郊農村は別として,屎尿の肥料としての利用は価格的にますます不利になってきました。窒素成分比を考慮すると,屎尿は高価なモノとなってきたのです。
こうしたなか屎尿の汲取りの停滞が生じ,国民新聞(大正9年6月5日付け)は,「全市の悪臭排泄物を溝へ押流す 隅田川の色が変ろう」との見出しで,隅田川や東京湾への屎尿の投棄,病院による患者屎尿の投棄,丸の内地区における溝渠への投棄など,様々な不法投棄が行われていたことを報じています。
汲取りの有料化の弊害として,中には最初から農家に販売するつもりがなく,汲取り料だけの獲得をめざした悪質な汲取り業者も登場してきました。昭和初めの東京市報告では,需要のない冬季を中心に,東京市内の汲取り屎尿量の半分以上が行方不明であると書かれています。このことが昭和5年の法令改正(屎尿の自治体処理の義務化)をもたらしました。すなわち,屎尿が法的にも廃棄物として扱われるようになったのです。
東京府・市の人口と府内屎尿消費量の経時比較 (『ごみの文化・屎尿の文化』より)
特別企画(平成17年9月26日)神山 圭一
「屎尿処理技術の歩み」
江戸でも京都でも,屎尿はそれぞれの都市の周辺の農地に肥料として撒かれていました。屎尿は,処理されるものではなく有効利用されるものだったのです。
ところが明治に入ると,東京でも全部の屎尿をその地域内の農地に運んでいたかと云うと,少しあやしくなってきます。京都,大阪ですと,もっとひどくなってきました。そこで,汲取り屎尿を原料として硫安を作る施設や屎尿を乾燥して肥料とすることが検討され,東京では昭和8年に屎尿処理施設ができています。しかしこの後戦争が勃発し,屎尿処理を行うという動きさえもなくなりました。
戦後,「屎尿を直接農地に撒いてはいけない」と云う勧告がGHQ(連合軍総司令部)から出されました。屎尿に寄生虫の卵が含まれていたため,これを直接農地に撒くことにより回虫などの卵が生鮮野菜に付くことを嫌ったためです。都市部の屎尿を何とか処理しなければいけないと云う気運になりました。
当初の処理目標はBOD120mg/l,浮遊物質100mg/l程度で,色とか窒素とかリンとかについてはほとんど意識にありませんでした。汲取ってきた屎尿を嫌気性消化し(一次処理),固液分離した後,濃度の薄い上澄みの部分(脱離液)は好気性処理である散水濾床法でさらに有機物を分解(二次処理)する方法が多く採用されました。沈殿した濃厚な部分は脱水処理されました。昭和30年代は,各市町村に屎尿処理施設を一箇所と云うことで造られていきました。
昭和30年代の後半からは「屎尿処理施設からの放流水質をもっときれいにしなさい」と云うことになり,脱離液の処理がそれまでの散水濾床法から活性汚泥法に切り替えられました。やがて,一次処理の段階から活性汚泥法で処理(但し,事前に屎尿を20倍ほどに希釈した後に)すればよいのではないかと云うことで,一部の都市で実施されました。
近代的な屎尿処理施設(『ごみの文化・屎尿の文化』より)
さらに昭和50年代は入ると,放流水質ばかりでなく水量も加味した総量負荷を低減できる処理技術が求められるようになり,低希釈処理あるいは無希釈処理が各水処理メーカーから提案されるようになりました。そうした中で開発された生物学的脱窒素法(槽内の一部に嫌気状態を作り,硝酸性窒素を脱窒菌の働きで分解し窒素ガスとして大気に放散する)は,活性汚泥法の処理機能を大幅に拡大した画期的な変法です。
昨今,膜分離技術が普及していますが,塩素消毒でも死なないクリプトスポリジウムを除去できますし,屎尿に含まれる恐れのある病原性微生物の除去にも有効です。
第38回(平成17年10月7日)堀 充宏
「都市近郊における下肥の利用」
葛飾・江戸川・足立地域は,昭和30年代まで農地が多く残り,農村としての景観を保っていました。江戸時代以来,水田開発が進み近代になっても水田稲作が盛んに行われ,肥料として下肥が専ら使われてきました。それは,江戸(東京)という大都市を控え,そこから排出される屎尿が一年中,絶え間なく供給されたと云う事情(水運が発達し大量の下肥を船で運ぶことができた)と,この地域が低湿地で堆肥を作る草山がほとんどなかったことに起因しています。「下肥の呑み倒れ」と云う古老の言い伝えにある下肥の連用に伴う窒素過多による稲の倒伏が心配されつつも,下肥は使い続けられました。
昭和40年代まで,葛飾区新小岩,堀切,江戸川区小松川,葛西などでは蓮根を栽培する水田が多く見られました。元肥として3月下旬に下肥を大量に投下し,初夏にも追肥として下肥を入れました。たいへん富栄養化した水田だったと思われます。蓮根のほかにクワイや水せりを栽培する水田もありました。
綾瀬川を帆走する肥船(『ごみの文化・屎尿の文化』より)
東京東郊で作られるネギ(白軸が長い)は,春に種を播いて冬に収穫するのが主流でした。3月中旬に元肥として下肥をたっぷりと撒いておき,その後も1ヶ月に1度施肥するので非常に多くの下肥が必要でした。『東京府農事要覧』に元肥として1反歩につき30荷の下肥を施すとあり,これは稲を作る水田の1.5倍の量に当たります。
キュウリやナスなどの夏野菜では,苗を本畑に定植後,1週間に1度の割合で下肥を与えました。
下肥を運ぶ船は,昭和30年代まで活躍していました。戦時中,下肥運搬船が不足したことから「農民汲取り制度」が実施され,各農家が直接割り当てをもらって下肥を汲む方法が取り入れられ,牛車やリヤカーが下肥運搬に使われました。また,下肥の供給が千葉県,埼玉県など広い範囲に及ぶようになった昭和10年代以降は,トラックや貨車による輸送が主力となり,肥船で下肥を運ぶと云う風景は次第に少なくなっていきました。
第39回(平成17年12月2日)上田 恵一
「ヨルダンにおける下水処理水の灌漑利用」
定年退職後,JICAのシニアボランティア活動に参加し,中東のヨルダンに3年弱滞在し,下水処理水の灌漑利用に関する技術援助に携りました。
ヨルダンは大きな川から離れており,アカバ湾でかろうじて海と接しています。英国が統治を始めた1920年にはわずか20万人程度であった人口が,現在では540万人以上に膨れ上がっています。その大きな原因は難民の流入です。生活用水に使える量は世界ワースト第6位で,慢性的な水不足に悩まされています。ただでさえ少ない地表水の70%以上は農業用水に利用されています。年間降水量300〜600mmの北部地域に降った雨は地下に浸透し,地下水として流れ下り窪地で湧き出します。これがオアシスです。しかし,今では湧水量が減り,ナツメヤシも枯れる状況です。
死海の付近を流れているヤムルーク川が大きな水源となっていますが,水門管理はイスラエル側が行っています。ミネラル分が多いので浄水場で脱塩処理してから供給しています。ヨルダンの人口の7割がこの地域に住んでいますが,その半分の人たちの飲料水はこれでまかなわれています。この地域の残りの人たちは井戸水を使っています。
アカバ湾の北の乾燥地帯の地下2,000mのところに淡水の化石水が埋蔵されており,将来のヨルダンの水資源として期待されています。
世界遺産・ペトラ遺跡近くの下水処理場の処理水を灌漑用水として利用するにあたっての技術調査を担当しました。2万世帯の住民と観光客から排出される下水を,オキシデーションディッチ法による間欠曝気・嫌気好気変法で処理していました。
下水処理水は,あらかじめ用意したアシ原に導水して,アシの地下茎を伝わせて土壌中に浸透させ,土壌の自浄作用により高度処理するものです。下水処理水中の窒素成分や感染性細菌をかなり除去できます。アシ原で高度処理した水を取水して,細いパイプを張り巡らせた3種類の試験栽培畑(家畜飼料用のトウモロコシ,牧草のアルファルファ,豆のピスタチオ)に導水し,点滴方式(必要最小限の水を植物の根の傍の土壌に浸透させ,根から素早く吸収させる)で散水しました。このほか切花栽培畑への供給も考えられています。
第40回(平成18年3月17日)関野 勉
「トイレマナーとトイレ文化」
中川米造は『笑い泣く性』(玉川選書95,1979年)の中で,「放尿や脱糞は単なる生理現象ではない。文化の影響を受けている」と言っています。『旧約聖書の申命記』に,「用を足すとき,武器と共に鍬を備え,外に出てかがむとき,それをもって土を掘り,向きを変えて,出た物を覆わなければならない」とあります。また,『新約聖書のマタイ伝』には,「口に入る物は人を汚さず,されど口より出ずる物は,これ人を汚すなり」(中略)イエス言い給う「なんじらも今なお悟りなきか,凡そ口に入る物は腹にゆき,遂に厠に棄てられる事を悟らぬか」とあります。
ヒンズー教の『マヌの法典』には,「決して風,火,ブラーフマナ,太陽,水あるいは牛を見ながら,大小便を排泄してはならない」とあります。『ハディース』は,預言者ムハンマドの語った言葉として「厠に清めの水を置くこと。水で洗うこと。右手で洗うことの禁止」を伝えています。
道元の著した『正法眼蔵』には,「大小便を洗うことを怠ってはならない。用を足した後は,竹の「へら」を使えばよい。また,紙を用いることもあるが,ほご紙,文字の書いてある紙はいけない」とあります。
『ビルディング読本』(大正15年)には,水洗トイレの黎明期を反映してか,事細かな注意事項が列挙されています。例えば,@腰掛け式の大便器には,入口の方を向いて必ず腰をかけること A大便器の中には,大便用の紙以外に何も棄てぬこと B小便のときは,必ず立つべき処に立ってすること C小便器の中に,煙草の吸殻や爪楊枝などを捨てぬこと など。この時代には,家庭内に未だ水洗トイレが少なく,まして学校には水洗トイレが設置されていないので,勤務者のビルディング内マナーが必要だったのでしょう。
第41回(平成18年6月9日)地田 修一
「写真を読む−管渠の建設と清掃」
ここに示した解説記事は「写真の読み方」の1つに過ぎません。工事や作業の古い現場写真を発掘し,それに解説記事を付けて保存していく「史料整理」の輪が広がっていくことを願います。
これは昭和29年当時の東京・銀座における管渠清掃作業の写真です。清掃箇所の上流と下流のマンホールに手巻きウインチを置き,さらに四股を組み滑車を取付け,ワイヤーロープに曳樽を付け管渠内を曳き汚泥を集め,地上に引き上げていました。
枡や取付け管の支障処理では,割り竹の先に「島田」が付けてあり,これをくるくる廻して堆積物をほぐしました。現場に向かうのにミゼットが配車されたのは昭和35,6年で,それ以前は自転車でした。
手巻きウインチによる管渠清掃作業 (『東京の下水道・100年のあゆみ』より)
東京都で管渠清掃車が導入されたのは昭和30年で,小型トラック(トヨペット)とその後ろに連結されたトレーラーとで一組になっており,それぞれに自動ウインチと滑車付きのアングルが搭載されていました。完全な手作業の段階から高圧洗浄作業へと進む過渡期の方式です。
昭和30年代の後半に高圧洗浄車(2トンあるいは4トン車に高圧水発生装置,水タンク,ホースリールなどを搭載)が導入され,抜本的な完全機械化へと飛躍しました。さらに,マンホールの下に集めた汚泥をバキュームカーで吸引するようになったのは,昭和40年代の半ばになってからです。高圧洗浄作業には大量の洗浄水が使われますので,場合によっては給水車(10トン車)が同行することがあります。
下水道工事が直営から請負に代わったのは,昭和20年代の後半です。しかし,当初の請負は,役所の担当者が地元説明,施工法,竣工検査の書類作成,受検方法さらにはその後の処置法まで指導しなければ工事がスムーズに進捗しませんでした。請負者が本当に力をつけてきたのは,東京オリンピックの後からです。そしてつぎの段階として,責任施行制が導入されました。
第42回(平成18年9月8日)石井 英俊
「銀輪で集めたマンホール蓋のデザイン」
趣味のサイクリングの途上,路上で見付けた下水道のマンホール蓋をデジカメで撮り続けて10数年になります。パソコンを駆使して整理・分類したコレクションから,厳選したほんのサワリの100種類ほどを紹介します。
マンホール蓋の模様は,元来滑り止めのためで,せいぜい下水道管理者としての市町村の紋章をアレンジする程度でしたが,近年,それぞれの自治体のご当地ソングとして,地方文化を発信・アピールする媒体として位置付けられ,そのデザインが競われています。また,カラーマンホール蓋も結構見受けられるようになりました。
技術的にも複雑なデザインをかたどることができるようになり,サイクリングをしていても,この町にはどんなデザインのマンホール蓋があるのか期待しながらの路上ウオッチングになります。距離を稼ぐサイクリングではなく,マンホール蓋のデザインを収集することが目的になってしまいました。
小平市のマンホールデザイン
サワリのサワリは次の通りです。
.祭り・伝統行事:花火(古河),凧揚げ(見附),大綱引き(上尾),幌獅子(石岡),角兵獅子(月潟),御柱祭(諏訪湖流域)など。
風景:浅間山(軽井沢),大菩薩峠(塩山),矢切の渡し(松戸),霞ヶ浦と帆掛け舟(土浦),太平洋と日の出(大網白里)など。
歴史・名所:時計台(札幌),ハクチョウ(水原),クジラ(昭島),飛行機(所沢),ぶんぶぐ茶釜(館林),遣欧使節船(石巻),伊豆の踊り子(天城湯ヶ島),太平記の里(千早赤坂)など。
ジョーク:ツバメ(燕),カラス(鳥山),サが九つ(草津)など。
第43回(平成18年10月5日)斉藤 健次郎
「ロンドンの下水道とバザルゲットの業績」
ジョセフ・ウイリアム・バザルゲットは「ロンドンの下水道の父」と言われた土木技術者で,1819年にロンドン郊外で生まれ,30歳のとき民間コンサルタントから首都下水道委員会に転職します。この頃のロンドンは,屎尿を下水道へ強制的に流入させた施策が裏目に出て,テムズ河の水質汚濁がかえって進んでしまったばかりでなく,コレラの大流行を誘引し,その対策が議論されていました。1859年から,「テムズ河の両側に下水道幹線を建設し,下水をロンドンまで逆流してこないテムズ河のはるか下流にまで遮集」する事業に携わります。最盛期に到達した大英帝国がその威信と名誉にかけて成し遂げた国家的大事業でした。
J・W・バザルゲット(『物語下水道の歴史』より)
この遮集幹線は,途中,幾つかの中継ポンプ場を設けましたが,自然の勾配を巧みに利用した自然流下式の管渠です。南岸系統は1865年に,北岸系統は1868年にそれぞれ稼動しました。この事業の完成により,コレラの発生は激減しました。しかし,この遮集事業は未処理下水の放流であったため,テムズ河の河口域が水質汚濁で悩まされることになり,1882年,王立首都下水処分委員会はついに未処理放流を禁止し,下水は沈殿処理し,発生した汚泥は海洋に投棄することになりました。
バザルゲットは55歳のときナイト(卿)の称号を授かり,70歳まで勤めました。
第44回(平成18年12月1日)松田 旭正
「船の便所に関する話題」
「漁船は最近まで便所がないのが一般的で,東支那海方面で操業するトロール船等は,ロープや船舷に掴まり,艫から排泄し海水が尻を洗ってくれました」とは,知人の漁師の話です。江戸時代,生産地から物資を積み込んで消費地の江戸や大阪に運ぶ千石船の船乗りは多くて14,5人程度で,船内に竃は設けてありましたが,便所はなぐ直接海に排泄していました。海で働く人たちが屎尿を水中に排泄することを穢れとしない観念は,陸で川屋(厠)から屎尿を川に流していることと符合し,日本人の古代神道的清浄の観念に通じています。
江戸時代の船で便所らしき設備のあった船は,西国大名が参勤交代のときに使用した御座船で,船尾の後ろ左舷甲板に長方形の穴が水面に向けて開けてあり,立派な蓋がしてありました。
川越夜船は新河岸川・隅田川経由で川越から江戸・花川戸まで乗客(60−70人)を乗せて一昼夜で運航するヒラタ船ですが,川船には珍しく艫の甲板に長方形の穴が貫いてあり,川に直接排泄できるようになっていました。
日和山公園の復元された千石船(『トイレ』より)
近年,船舶から発生した汚水の海上処分が海洋汚染の原因であるとして,国際的に問題となり海洋汚染等及び海上災害の防止に関する法律により,日本国内においても関係法令が整備され,海の環境が保全される体制になりました。
第45回(平成19年6月年3月1日)石井 明男
「途上国におけるトイレ建設から下水道の整備に至る段階的整備について」
途上国全体の人口の52%がトイレを持っておらず,農村部に限ると2/3にのぼると言います。途上国の人たちの屎尿に対する考え方の日本との違いはどこにあるのでしょうか。それは,@屎尿を汚いものとして扱う A屎尿を処理しないで地下浸透か河川に棄ててしまう B河川は一種の合流式下水道の役目を担わされている C多くの人がトイレを持っていない などです。屋外で排便をするのも問題ですが,その屎尿を適切に始末しないので,寄生虫の保有者を増やしています。
バングラデシュのトイレ(『ごみの文化・屎尿の文化』より)
下水道整備を少しずつ拡張させる「段階的整備というアプローチ」がありますが,今後研究する必要があります。
途上国に導入可能なトイレを次に列挙します。@日本式汲取り便所:集めた屎尿を処理する屎尿処理施設が必要となる。Aベトナム式便所:便所を2個並べ交互に使い,満杯になった方を肥料に使う。 B内務省式改良便所:中国で数多く使われており,寄生虫卵を死滅させることができる。 C児玉式屎尿分離型便所:屎はコンポスト化して肥料に,尿は希釈して肥料とする。D合併浄化槽:途上国では,きちんとした維持管理を行うことが難しいようである。 Eバイオコンポスト便所: 日本では山小屋,河川敷などで使われている。
途上国にトイレを普及させるには,いろいろな障壁がありますが,日本の知恵が利用できる可能性は高いと思います。
第46回(平成19年6月1日)酒井 彰
「バングラデシュでエコサントイレをつくる」
バングラデシュではトイレを持たない人口が20%,あっても非衛生状態のトイレを使用している人口が40%です。現地で普及しているピットラトリンと呼ばれている溜置き式トイレも持続可能なものではなく,衛生的な管理がなされていないものが多いのが実情です。一方,化学肥料の多年にわたる施肥により,農地の土壌が著しく疲弊しています。
そこで,屎尿を農地への肥料として活用することを目的とした,屎尿分離型トイレの導入を図りました。2系統で1セットです。半年毎に交互に使用します。排便の都度,藁灰をまぶします(pHを上げ,殺菌効果をもたらす)。尿は適時汲取り農地に撒きます。大便は半年間の乾燥期間を置いた後に取り出します。黒色のサラサラした乾燥便となります。なお,肛門を洗浄した水は便槽には入れません。
屎尿分離型トイレを造ろう (『日本下水文化研究会・報告書』より)
コミラ地区に15基,スリナガル地区に25基建設しました。オーナー意識を持って管理をきちんとしてもらうため,個人の家庭用トイレに限定しました。
この型のトイレは臭いが少なく,蝿の発生もわずかでした。尿は,化学肥料と比べて大差のない施肥効果(キャベツなどの葉物野菜に対して)がありました。また,良好な乾燥便が得られ,寄生虫卵などの検査を実施し安全性の確認を行いました。
これまで捨てられ環境汚染をもたらしていた屎尿を,土づくりに活用することへの認識は現地でも広まってきました。この考え方に共感した地域では,自分たちで費用を全額負担してでも,このトイレを造ろうと云う動きが出てきました。
第47回(平成19年9月26日)幹事会
「研究会所蔵ビデオの放映」
準会員・大友慎太郎氏の手作りドキュメンタリー映画「うんこのススメ」を放映しました。そのサワリを紙上上映で。
(一昔前,農家は屎尿を農地に撒いていた。屎尿は自然循環の一翼を担っていた。)
農家の人:「便壷に溜まった屎尿を汲取って肥料として便っていました。土壌は肥え作物が実り,食べ物となりました」(ところが,現在では屎尿は利用するモノではなく,処理するモノと見なされ,ただ汚いだけのモノと解釈されるようになった。)
小学校の先生:「昭和51年から「ウンコの学習」を行うようになりました。きっかけは,便秘気味でお腹が痛いと云う生徒が多くいたことです。学校ではウンコをしないようにしていると云うのです。理由は,汚いとか言われて,いじめられるからなんです。食べ物を摂れば,ウンコとして排泄物が体の外に出ると云う意識がほとんどないのです。自分のウンコを観察させて,何故ウどコができてくるのかを理解させ,その性状を見て自分の体調を見極める力を付けてもらうことにありました」
父兄:「今日のウンコはどうだったと云うような会話が,家庭内で日常的に交わされるようになり,学校のトイレでウンコができるようになりました」(平成14年に環境省は,5年以内に屎尿の海洋投棄を禁止する決定を行う。)
屎尿投棄船の社長:「屎尿そのものが有機物濃度が高いので,これを投棄すると海洋を汚染することになるのだと云うような中身の問題よりも,汚い屎尿をそのまま海洋に投棄するのはなんとなく良くないと云う見た目の問題が先に立っているような気がします」
船長:「屎尿投棄船が港に着くことをいやがるんですよ。自分たちが出したモノを処分すると云うのに」
小学校の先生:「ウンコのことを知らないで生きているのは恥ずかしいことであると,実感して欲しいですね」
このほかに,「常滑焼きの歴史」に関する講話(中野晴久氏,常滑市民俗資料館学芸貞)を会員が撮影したビデオや「昭和36年の調布屎尿処理場」,「三河島処理場主ポンプ室」,「アユが泳ぐ神田川」などのDVDを鑑賞しました。
第48回(平成19年12月7日)栗田 彰
「町触にみる江戸の小便所」
寛政元年(1789)閏6月9日の町蝕では,浅草の住人が,江戸府内の往来や町屋の端々,木戸際,空き地などさしさわりのない所に,醤油樽や酒樽を置いて小便溜桶にし,小便は毎日汲取り近在の肥料にしたいと云う願い出です。この前段で「御府内中,往来小便の儀,只今まで,みだりに仕りきたり候につき,第一往還道筋の不浄にも罷りなり,見苦しき儀もこれあり候」と言っていますので,この頃にはまだ「小便所」のある所は,江戸市中にも少なくて,道端の「下水」に小便を垂れ流しにするのが普通だったのかもしれません。
次の町蝕は,享和3年(1803)9月22日のものです。「神田小柳町と橋本町の住人が,江戸の町々に「小便所」を設けることを願い出ているけれども,小便は肥やしになるので,農作物を作る上で欠かせないものであり,人々のためになるので,その点をよく考えて小便を流し捨てることがないよう,小便を溜める樽の埋める場所を家主とよく相談をして決めるように」と,前の町触から2年も経ってから,町年寄が名主たちに改めて指示を出したものです。「小便所」を積極的に造らせようとしたのかもしれません。
小便所のひな形(『配布資料』より
これは幕末の文久元年(1861)6月26日の町触です。日本橋小網町と長浜町の住人から「御成道や御堀端通りなどの大通りや河岸地,寺社門前の空き地などのさしさわりのない所へ両便所を建て,これまでに造られている雪隠と小便所をも含めて,その管理を一手に引き受けたい。そうすれば,2人建ての雪隠を2,500箇所,小便所を5,000箇所,両便所を管理するための仕事場(会所)8箇所を建てて,農民から些かずつの下掃除代を受け取り,その管理の経費に充てるほか,年に千両ずつ幕府へ上納したい」と云う願い出があったことに対して,町々にさしさわりの有無を調べるよう申し付けたものです。その後,町方からの「返答書」がありませんので,沙汰止みになったのでしょう。「小便を肥やしとして売る」と,かなりの稼ぎになったことが伺われます。
※屎尿・下水研究会幹事