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屎尿・下水研究会の活動の歩み(4)

講話者:地田 修一*

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

 例会での講話のエッセンスを紹介していきます。今回は,第25−36回例会分です。

第25回(平成16年1月16日)楠林勝二
「屎尿という文字の探求」

 私は古書店を経営しています。「屎尿」という文字のルーツを迫って,中国及び日本の古典を探索してみました。
 紀元前13世紀の殷時代に記された中国の古代文字の中に,「屎」と「尿」の原型となる象形文字があります。殷墟から発掘された亀の甲羅や牛,鹿などの骨にこれらの文字が刻まれていたのです。
「屎」の原型は,人の尻から大便が出る様をかたどっています。また,「尿」の原型は,人の前の方から小便がほとばしっている様を表しています。

「屎」と「尿」の象形文字(『ごみの文化・屎尿の文化』より)

「屎」や「尿」の「しかばね」垂れは人体を表しており,人体から排泄された「食べたもの(米)」や「飲んだもの(水)」という意味が込められています。
 紀元前4世紀の中国の思想家・荘周の書『荘子(そうじ)』の知北遊篇に,「屎溺」という文字が出てきます。これは「しにょう」と読み,意味は「屎尿」と同じです。「溺」の字は,放物線を描いて小便を垂れる様のイメージです。
 奈良時代の古事記・「須佐之男命の勝さび」の項に,「屎まり散らしき」とか「屎なすは」との文があり,「尿」を「くそ」と読ませています。同じことが,日本書紀にも述べられています。ここでは,「陰(ひそか)に自ら送糞(くそま)る」とあり,「くそ」の漢字として「糞」を用いています。「まる」という言葉は,排泄をする行為を表しています。
 同時代に編集された万葉集に出てくる歌の中に,「屎鮒(くそふな」という言葉が出てきますが,これは屎を食った鮒のことを指しています。別の歌に,「倉立てむ 屎遠くまれ」という一節がありますが,これは「倉を立てようと思っているので,屎(くそ)は遠くでしなさい」ということです。
 なお,尿の訓読みには,「いばり」,「ゆばり」あるいは「しと」があります。
 最近,「し尿」と「屎」の字をひらがなで書くことが多いですが,「屎」の字の由来はたいへん古く,また人体に密着した字でもありますので,ぜひ「屎尿」と漢字で全部表記していただきたいと考えています。

第26回(平成16年3月2日)小野川尊
「発展途上国における屎尿由来の寄生虫事情」

 戦後しばらくまでの日本は寄生虫王国といわれるほど回虫に感染した人が多くおり,昭和25年で約60%の人が回虫を保有していました。保健所も赤痢をはじめとする伝染病対策に追われ,寄生虫にまでは手が回らないという状況でした。
 そうした中で,日本寄生虫予防会が中心となって,全国の小・中学校をはじめ各地域において寄生虫の集団検査をし,駆虫活動をしてきました。その結果,昭和35年度では20%台,45年度では0.2%台と,短期間で寄生虫保有者が激減しました。この成功は,世界の寄生虫学者から驚異的なこととみられました。

寄生虫の発育史(『ごみの文化・屎尿の文化』より)

 家族計画国際協力財団と日本寄生虫予防会が協力して,アジア寄生虫予防機構を設立しました。日本で成功した寄生虫予防対策を足がかりにして,地域の環境衛生を改善し健やかな子供の成長と母体の健康を喚起し,ひいては家族計画の円滑な実践に繋げていこうとするものです。まず,台湾で試み的に実施し,次いで韓国で大成功し,このプログラムはアジア全域に普及していきました。さらに,タンザニアを中心としたアフリカ,メキシコなどの中南米の国々へと拡大し,やがて中国へも及びました。
 中国での寄生虫対策に関わりました。便所(簡単なもの)の屎尿を汲取って農地に撒いていましたが,農地の土壌をとって調べてみると,寄生虫卵がたくさん検出されました。ここで栽培された野菜の葉には,寄生虫卵が結構付いていました。よく洗わないで生野菜を食べると,寄生虫卵が人体に入ってしまいます。腐熟させるなどの措置を取り糞便中の寄生虫卵を殺して,衛生的に安全な下肥にしてから農地に撒くことが肝要です。
 豚トイレも見ましたが,豚に人の糞便を食べさせて処理しているので,豚の保有している回虫卵が人に感染してしまいますので要注意です。

第27回(平成16年3月5日)中村隆一・地田修一
「大正末・昭和初期の屎尿事情」

 有価物であった屎尿が一転して廃棄物視され,有料で処置せざるを得なくなった大正末・昭和初年における藤原九十郎氏と高野六郎氏の活動の足跡を追い,屎尿問題の本質に迫ってみました。
(1)藤原九十郎氏の活動
 京都帝国大学医学部衛生学教室を卒業し,ドイツに留学後大阪市役所に入り,衛生試験所長,衛 生部長,保健局長を歴任しています。昭和3年の『都市問題』に掲載された藤原氏の「都市の屎尿処分問題」と題する論文(講演速記録)は,次のように提言しています。

内務省式多槽便所(『ごみの文化・屎尿の文化』より

「肥料としての処分法は,経済的見地からは最も良策の一つであるが,生肥を厳禁して貯留槽を設置すべきである。貯留する場合,屎尿中の病原細菌や寄生虫卵は,屎尿自身の腐敗発酵によって比較的容易に死滅する。貯留が長期にわたって液状化してもアンモニア保留法やアンモニア吸収剤を併用すれば糞尿の肥料的価値を損なうことなく,かえって完全な腐敗発酵を助成し,直ちに作物に施用しても良好なものとなる。汲取り屎尿を全然無価値なものと見なして海上放棄する簡易な方法もあるが,下水管に投入して下水と共に処理 する方法が,過渡期の手段として,最も時季に適したものであろう」。
(2)高野六郎氏の活動
 明治42年に東京帝国大学・医科大学で細菌学を専攻し,卒業後伝染病研究所,北里研究所,慶応大学教授を経て,大正12年に内務省に入っています。防疫課長,予防局長を歴任しています。高野氏は,昭和6年の『都市問題』に掲載された「便所はどうすればよいか−都市の屎尿問題と改良便所−」と題する論文(講演速記録)の中で,衛生的な改良便所(4枚の隔壁で仕切られているコンクリート製の長方形の箱)を提案し,次のように語っ ています。
 「この便所の効果は,汲取り口に達した屎尿が既に病原菌の消毒が終わっていることにある。これを築造するのに50〜60円を要するが,その保健上の利益,便所清潔向上の効果は多大であるから,少しばかりの出費を惜しむべきでない」。
 この改良便所は,戦中・戦後で約3万個が設置されました。しかし残念なことに,管理の悪いものが多く,また槽の隔壁が破壊されたものも少なくなかったそうです。

第28回(16年6月4日)地田修一・稲村光郎
「工藤庄八氏と武藤暢夫氏の屎尿処理分野における活動と貢献」

 ともに戦後の混乱期に屎尿処理分野において,行政あるいは研究のそれぞれの立場で活躍された方々です。
(1)工藤庄八氏の活動
 工藤氏のご自宅でインタビューしました。戦後,GHQ(連合軍総司令部)がつくった経済安定本部で清掃事業の近代化について話し合われ,屎尿運搬の機械化・屎尿処理の衛生化が提言されたこと,昭和29年の清掃法制定のこと,バキュームカーが導入され清掃事業が近代化していった話,全国都市清掃会議の設立のこと,汲取り屎尿の砂地処分のこと,屎尿消化槽導入の経緯などを伺いました。「厚生省から頼まれて,バキュームカーの試作 車の改良を川崎市の費用で行いました。農配班から車1台,運転手,作業員,監督員をそれぞれ1名ずつ特別に来てもらい,午前は本来の仕事に,午後は機械化の研究資料を作る実験に従事してもらいました。今の川崎市清掃局施設部の始まりは,バキュームカーの実験室であったわけです。ホースは太さ2インチ,長さ15mはなければだめでした」。

開発当時のバキュームカー(『トイレ考・屎尿考』より)

(2)武藤暢夫氏の活動
 1949年に神奈川県衛生研究所は,腸管系伝染病および寄生虫予防のために,屎と尿を別々に分離できる便器を開発し,尿は追液肥としてそのまま利用し,屎は堆肥化するなど衛生的に処理した後に施肥することを試みました。児玉威先生の発案です。実験のために取り付けた屎尿分離式便所の数は約100基で,回虫卵の保有率の推移,屎尿の性状変化,便所の使用上の難易や欠点,肥効性などを実証しました。厚木市における4年間(昭和24〜28年)の追跡結果では,回虫卵保有者率は非設置のそれのほぼ1/2以下でした。

屎尿分離式便器(『ごみの文化・屎尿の文化』より)

第29回(平成16年9月24日)平田純一
「衛生陶器のできるまで」

 日本のトイレは明治に入っても木製の非水洗和風便器が主流でしたが,瀬戸,常滑,信楽,赤坂(福岡)などで陶器製便器の試作を試みています。「きん隠し」を半円形にすることで倒れるのを防げることが分かり(明治24年),この形状が現在の水洗式和風便器に引き継がれています。
 明治45年,大倉孫兵衛・和親親子が名古屋の日本陶器合名会社内に,衛生陶器を研究する製陶研究所を設立。試行錯誤を繰り返し,ようやく大正3年に水洗腰掛便器の開発に成功し,TOTO(東洋陶器)は大正6年,現在の北九州市小倉に工場を建てました。ところが,当時は洋式トイレの使い方が分からず,便器の縁に靴のまま乗ってしまう人が多かったそうです。
 現在のような,吸収率が低くしかも焼成収縮率が小さい,衛生陶器に適した溶化素地(陶器に近い材質)が開発されたのは昭和に入ってからです。衛生陶器のような大型のものは骨の部分がきちんとしていないと,作ることができません。貫入(表面のひび割れ)は絶対に許されません。また,乾燥工程と焼成工程とでそれぞれ収縮しますので,あらかじめ計算に入れて設計する必要があります。

議事堂に設置された水洗式腰掛便器(『トイレ』より)

 昭和30年代の住宅建設ラッシュ時に,衛生陶器への啓蒙活動もあって,日本人も洋式トイレに馴れ始め,昭和39年の東京オリンピック開催をきっかけに,ホテルなどの宿泊施設のトイレが次第に洋式になっていきました。

第30回(平成16年10月22日)関野勉
「世界のトイレ博物館を巡って」

 ドイツ・ミュンヘンの「おまるの博物館」は市の中心から離れたアパートの一部屋を陳列室にしていました(1989年当時)。収集したのは館長である弁護士・マンフレッド・クラウド氏です。私が訪問した時は収蔵数5,000個と言っていましたが,最近は1万個に増えているそうです。目玉は,マリー・アントワネットのおまると云われるものです。160万円もしたそうです。
 オーストリア・ザルツブルグ郊外の「ラウフェン・サニタリーミュージアム」に展示されている各種便器は,INAXが刊行した『ヨーロッパ・トイレ博物館』に館長の収集来歴の話とともに紹介されています。

ラウフェン・サニタリーミュージアムの展示室(『ごみの文化・屎尿の文化』より)

 インド・ニューデリーの「スラブトイレ博物館」の特徴は,野外にインドに合った様々なタイプのトイレを陳列していることです。公衆トイレの糞尿を発酵・発生させたメタンガスを取り出して利用する方法が展示されていました。また,糞尿の入った桶を運んでいる女の人(カースト階級の人)を模った彫像もありました。
 名古屋市の名鉄が経営している「リトルワールド」では,少なくとも15ヶ国(日本・アイヌ,韓国,フランス,インド,タイなど)の民家の昔のままの生活状況(トイレも含まれる)を見学できます。また,川崎市の日本民家園では我が国の昔のトイレが野外展示されています。

第31回(平成16年11月24日)八木美雄
「楠本正康先生,簡易水道と浄化槽と」

 楠本正康氏は明治36年長野市に生まれ,新潟医科大学を卒業し助手を勤めた後,内務省に入り木更津保健所長などを経て環境衛生部長を最後に,昭和32年厚生省を退官された方です。「昭和12年千葉県に勤務し,農山村が水でどんなに苦労しているか,水がないために生活がどれだけ無駄が多く暗いものであるかを目のあたりに見せ付けられた。農山村の水の問題に改めて関心を持った」と,語っています【「簡易水道6号」(昭和33年)】。

在りし日の楠本正康氏(『ごみの文化・屎尿の文化』より)

 その後,昭和27年度予算において簡易水道への補助制度を創設され,全国簡易水道協議会発足(昭和30年)や「水道法」制定(昭和32年)に尽力されました。
 退官後は審議会委員として,清掃事業の近代化と経済社会の変貌に対応した廃棄物処理の体系化に心血を注ぎ,昭和45年の「廃棄物処理法」制定に関わっています。
 他方,浄化槽に関わる専門技術者の養成や調査研究を行う(社)日本浄化槽教育センター【後の(財)日本環境整備教育センター】の初代理事長に就任され,合併処理浄化槽の技術開発や昭和58年の「浄化槽法」制定に獅子奮迅の活躍をされました。「小規模な集落下水道の装置や個別処理装置については満足できるものが極めて少なく,特に後者についてその感が深い。研究課題は,屎尿と雑排水との合併処理装置の開発に目標をおきました。屎尿だけの処理だと,雑排水はたれ流しになって水域を汚してしまうからです」と,コメントしています。
 今振り返ってみれば,明治生まれの頑固一徹な楠本先生の強力なリーダーシップがなければ,簡易水道への国庫補助も合併処理浄化槽の開発も容易には運ばなかったことでしょう。楠本先生のとことん現場にこだわり続け,一心不乱に事に当たられたハードな姿勢から,学ばなければならないことは多いのではないでしょうか。

第32回(平成16年12月17日)相原篤郎
「平安・鎌倉における屎尿にまつわるよもやま話」

 芥川龍之介の『好色』は,『宇治拾遺物語』(鎌倉初期)の「平貞文,本院侍従の事」を下敷きにしています。「好色で鳴らした平貞文は懸想した女(本院侍従)を忘れきれずにいたが,その思いを断ち切るためにその女の「おまる」の中身を見れば幻滅するだろうと,家来を使って「おまる」を取り扱う樋洗(ひすまし)童からそれを奪い,中身を見るという話です。貴族の家では主人(男性)や姫君(女性主人)は,今でいう「おまる」を使って排泄していましたが,この後始末をするのが樋洗童で,道路側溝から屋敷内に引き込んだ流水路で「おまる」を洗っていたと推測されています。

慕帰絵(『トイレ学大事典』より)

 寝殿造の邸宅には便所といえる定まった場所がなく,御簾で仕切られた樋殿と称する一画を設けて「おまる」に排泄していました。大便用が樋箱(ひばこ)とか清箱(しのはこ)と,女性の小便用が虎子(おおつぼ),男子の小便用が尿筒(しとづつ)と呼ばれていました。
 『餓鬼草子』(12世紀後半・鎌倉初期)には,崩れた築地塀に沿った道端で老若男女が足駄を履いて排泄している姿が描写されています。零落した家の回りの小路は,共同の野糞場として格好の場所だったのでしょう。
 『慕帰絵』(14世紀半ば,鎌倉後期)には,土を掘ってそこに2枚の板を渡した,屋根を葺き側板のある便所が描かれています。同じような便所が『法然上人絵伝』(14世紀前半,鎌倉後期)にも描かれています。汲取り便所が現れ,人の屎尿が農作物への肥料として本格的に利用され始めたと考えられます。これには屎尿のような液肥の運搬に欠かせない木桶の製作・普及が発達したことも相俟っています。

第33回(平成17年1月14日)仲光克顕
「江戸遺構にみる町屋の下水」

 最近調査された日本橋周辺の町屋の遺跡から検出された下水溝についてお話します。日本橋周辺は江戸の中でも一等地に立地しており,商業地として江戸時代を通じて栄えていました。日本橋周辺は低地であるため,下水木樋の木質が良好に遺存していました。下水溝は,@生活雑排水の処分,A雨水の処分,B敷地区分といった三つの用途のために機能していました。
 日本橋一丁目遺跡では,文献資料からはうかがうことのできない敷地境を,発掘された下水溝関連の遺構を基に特定することができました。
 二丁目遺跡において,下水木樋を中心とした遺構による屋敷割りが,年代が下がるとともに細分化されていった様子がみられました。芥溜めは,下水木樋に繋がった状態で検出されました。
 細分化に伴い,明瞭な屋敷割りが成された建物跡は姿を消し,下水枝樋が増加していったことからすると,長屋のような建物に変容していったことがうかがわれます。

第34回(平成17年2月27日)ノ下重雄
「江戸の下掃除代金の高騰に見る行政の対応」

 江戸近郊の農民たちが江戸の町の下肥を購入するシステムは,18世紀後半には出来上がっていました。ところが,新田開発による草刈り場の減少,不漁続きによる千鰯供給の低下などが肥料不足を招き,割安な下肥に対する需要が高まり下肥代が高騰してきました。江戸の古文書から「下肥値下げ運動」を見てみました。

下肥値段表(『ごみの文化・屎尿の文化』より)

 下掃除人(農民)の代表から町年寄へ「高騰している屎尿の汲取り代を延享・寛延の頃の値段にまで下げてもらいたい」旨の訴えが,寛政2年(1790)にありました。一方,汲取ってもらう側の反論は「家主が下掃除人を自由に変えることのできる,今の慣行が保障されなくなるから」と,言うものでした。
 町奉行所は,下掃除代の具体的金額の決定に官は口出しをしないとの立場から,両者に話し合うよう促しています。両者の何度かの折衝の未,町年寄が寛政3年6月に町奉行へ報告している内容は次のようなものです。「1万9,868人の家主のうち,下掃除人との話し合いがついた者が72%,無料又は農作物を受け取っている者が7% … であった。今までと同様に,家主の考えは下掃除人を変えられるようにしてほしいとのことである」。下掃除人たちは当初の目的をなんとか達成し,ひとまずの決着をみています。
 幕末も近い天保14年の奉行所からの御触れでは,野菜の値段が高騰したことを理由に「今の下掃除代を1割引き下げること」と,具体的な数字を挙げて指示しています。この頃になると,民と民との話し合いだけでは解決が付かない状況になってきたことがうかがえます。

第35回(平成17年6月3日)安彦四郎
 「劇映画に見る下水道」

 欧米の劇映画には,しばしば下水道が登場します。下水道が暗くて汚いというイメージからか,強奪,脱獄,怪奇または戦争などの舞台の一部とし,時には,鰐,ねずみの大群,正体不明の物体,エイリアンなども出没します。
 『汚い!と言ったお嬢さん』は,昭和25年,東京都水道局によって企画・制作された劇映画風の広報映画で,記録映画としても大変貴重な作品です。当時の区部の下水道普及率は11%弱であり,次々と写し出される処理場の散水濾床法やシンプレックス式・パドル式などの曝気装置や汚泥の天日乾燥のシーンが懐かしく感じられました。

汚い!と言ったお嬢さん(『ごみの文化・屎尿の文化』より)

 『レ・ミゼラブル』(原作はビクトル・ユゴー)の数ある映画化の中でも,1957年・フランスで製作されたジャン・ギヤバン主演の同名ものが決定版です。主人公のジャン・バルジャンが重傷のマリウスを背負いながら,偶然見付けたマンホールの蓋から下水管に入り逃げ歩くシーンは真に迫っています。
 『第三の男』(1949年,イギリス,キャロル・リード監督)は,下水道を舞台にした史上空前の傑作です。ウイーンの花弁のように開くマンホール蓋がたびたびスクリーンに登場します。犯人を追跡する捜査員が越流堰をロープで一斉に降下するシーン,下水幹線にこだまする捜査員の甲高い声,犯人が逃げ惑うシーンなど何度観ても飽きさせません。
 『地下水道』(1957年,ポーランド,アンジェイ・ワイダ監督)は,反ナチスドイツへのレジスタンス運動をドキュメンタリータッチで描いた,舞台の大半が下水管内の異色の映画です。

第36回(平成17年7月8日)安藤茂
「市井にあって環境衛生を考えた西原脩三氏を語る」

 一民間人の立場でありながら,常に,屎尿や下水の処理に関する先端の課題を見出し,自らあるいは委託により実験を繰り返し,それを解決すべく,たゆまぬ努力を惜しまなかった西原脩三氏は,まさに市井にあって日本の衛生工学を育んだ人と言えるでしょう。
 西原氏は明治16年東京で生まれ,築地工手学校(夜間)を卒業後,埼玉県庁,内務省,朝鮮の公務員,鬼怒川水力電気会社,東京市役所などで土木技術者として働きました。東京市役所では下谷竜泉寺通りの下水道幹線敷設工事に従事し,工事現場での下積みの苦しみを経験し「将来は民間で活躍したい」との考えを持つようになりました。
 大正6年に,渋谷の自宅に西原衛生工業所を設立しました。12年に大森の馬込に転居。この頃,東京の下水道が完備するには100年を要するので,その間の対策として「汲取り屎尿を科学的に処理することの必要性」に考えが至り,自宅の庭先で堆肥法,活性汚泥による屎尿処理,屎尿の消化処理などの実験を試みています。

消化実験装置(『ごみの文化・屎尿の文化』より)

 昭和5年,東京市の綾瀬作業所(屎尿処理場)の工事を受注。これは,屎尿を河川水で60倍に希釈し活性汚泥法で処理する施設です。
 戦後,米軍が進駐してきましたが,代々木のワシントンハイツ,成増のグラントハイツ,立川基地などの汚水処理施設(散水濾床法)の建設を米軍から請負ました。これは戦前,アメリカの下水処理関係の専門雑誌を取寄せて購読するとともに専門家と文通していたため,西原氏の名前がアメリカで知られていたからです。さらに,昭和29年に室蘭市から促進消化法(特許を取得している)の屎尿処理施設の建設を受注しています。
 昭和32年に西原衛生工業所から汚水処理部門を分離独立させ,西原環境衛生研究所を設立し,自ら新会社の陣頭に立ちましたが,残念ながら昭和40年に逝去されました。
 なお,西原氏の念願であった屎尿汚泥や下水汚泥の肥効試験を実際の農地で実証するため,社では昭和47年に北海道鹿追町に土地を購入し,試験農場を開設しています。

※屎尿・下水研究会幹事