読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
屎尿・下水研究会の活動の歩み(3)
講話者:地田 修一*
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
例会での講話のエッセンスを紹介していきます。今回は,第13〜24回例会分です。
第13回(平成13年12月15日)地田修一
「英仏における水洗便器の技術開発史」
英仏においても水洗便器が普及する以前,長い間,屎尿処分との悪戦苦闘がありました。今回の話の種本(いずれも翻訳本)は,フランスに関しては『トイレの文化史』(ちくま学芸文庫),イギリスに関しては『風呂トイレ賛歌』(晶文社)です。16世紀半ばのフランスでは,トイレを屋根裏に設け各部屋に「おまる」を置き(内容物はトイレに捨てる),階下に糞尿溜めを設置し,トイレと糞尿溜めとの間は丈夫な導管でつなぐことが推奨されていました。しかし,糞尿溜めを設置していない家屋が後を絶たない状況が続き(17世紀後半でも),さらに導管内に糞便が詰まるなどのトラブルも絶えませんでした。ようやくイギリス式水洗便器の設置が義務付けられたのは,1894年のパリにおいてです。
樽に屎尿を溜めるトイレ(『トイレ考・屎尿考』より)
一方15世紀頃のイギリスでは,屎尿を直接,地面や運河に落下させるタイプのトイレ(ラトリン)や「おまる」の使用が一般的でした。1596年にハリントンが水洗便器の原型を考案しましたが普及には至らず,一般的には「パン・クロゼット」(糞便を導管により階下の糞便溜めに落すタイプのトイレ)が,不都合が多かったですが,使用されていました。
1775年,ロンドンの時計職人のカミングズが水洗便器を再発明し,それをブラマが3年後に改良したタイプがその後の定型になりました。
1870年頃,陶器製の一体型のものが製造できるようになり,今日の水洗便器への流れができました。
第14回(平成14年3月30日)鈴木和雄
「海洋投棄とその歩み」
大正末期から昭和初期にかけて屎尿の肥料としての価値が低下し,屎尿が街に溢れる状況を呈するようになり,特に大都市東京では顕著でした。やむを得ず昭和9年頃から,汲取った屎尿をタンカー型の船に積んで沖合いに運び,海洋に投棄するようになりました。
屎尿投棄船には,都が自前で建造したもの【むさしの丸(310トン),優清丸(600トン)】と民間の持ち船をチャーターしたものとがありました。太平洋戦争末期からしばらく中止されていましたが,昭和25年から再開【千代田丸(667トン)を建造】され,平成11年3月まで続けられました。
屎尿の海洋投棄船(『トイレ考・屎屎考』より)
私は投棄監視員として,また実験立会い者として,しばしば屎尿投棄船に乗りました。清掃研究所の実験結果を得て,昭和39年からは投棄に際して硫酸第一鉄粉末を0.1%添加することになりました。これにより,投棄屎尿は速やかに沈降し臭気も低減しました。当初この年開催された「東京オリンピック」期間の臨時的な措置ということでしたが,評判が良く以後も継続されました。全国の自治体へこの方式は普及しました。
戦前・戦後を通じて実施されてきた屎尿の海洋投棄も,汲取り屎尿は平成9年3月末で,汚泥等は平成11年3月末で,それぞれ廃止となり,70年に及ぶ屎尿の海洋投棄は幕を閉じました。
第15回(平成14年7月5日)菅家啓一
「地方都市における下水道整備の経過ならびに中国広州方面への視察報告」
市原市は7つの町村が合併して出来た,石油コンビナートを有する臨海都市(人口28万人)です。下水処理のノウハウは,2万5,000人規模の住宅団地の処理場(ドルトムント型最初沈殿池,散水濾床,無加温消化槽)を手本に学習しました。
現地の地形特性をたくみに活かした雨水排水対策を実施しました。それは,旧海岸線と埋立地との間にある運河の水位を,高潮用ポンプを使って低く下げておくことによって,この運河に流入する小水路の流下能力あげたり,あるいは,潮位の干満による運河の水位変化を利用して,ゲート操作を工夫し運河を調整池化したりすることです。
面的な土地開発が終わった後に,本格的な下水道整備を開始したので,すでに浄化槽を利用している方々に下水道への接続を要請することになりました。しかし,受益者負担金や水洗化工事の費用問題などで,下水道への接続はなかなか進みませんでした。団地の処理場を公共下水道へ取り込む一方で,既設屎尿処理場を改修したり,郊外地域に農村集落排水処理施設を新たに整備したりと,多面的な対応が必要となりました。
合流式から分流式への切り替えに当たっても,様々な問題に遭遇しました。団地の処理場で雨水の混入問題を経験していましたので,このときの知恵が「不明水問題」の解決に役立ちました。また,下水管の最上流部分での滞留現象は,その部分を卵形管に換えることにより解消しました。
汚水処理の仕組み(『トイレ学事典』より)
下水道を市の重点政策へ反映させるには,「費用対効果」を的確に説明できる能力を強化しなければならないことを痛感しました。
中国・広州方面への視察に関しては,@当面は沈殿処理を普及させ,放流後の河川の自浄作用に期待し A河川汚濁の状況を勘案して「将来は二次処理にグレードアップするとのことB下水道整備はBOT方式での国際入札を行いたいとのことCトイレは以前より著しく改善され,きれいになったが,「小便器に大便をするな」との注意書きも見られたこと などが報告されました。
第16回(平成14年10月4日)鈴木清志
「世界のトイレを旅する」
数えてみると30数ヶ国を旅しました。海外旅行を始めた当初はトイレの使い方が分からず,ずいぶん困惑しました。
フランスのある有料トイレでのこと。2フラン(40円)入れるとドアが開き,中に入ると体重を感知して自動的にドアが閉まります。用便を済ませて外に出ると,すぐにドアは閉まりました。耳をすますと,便器を奥に引き込む音,シャワー洗浄する音,そしてドライヤーの風音が聞こえてきました。中の注意書きには,10分経過すると自動的にドアは開きますと書かれていました。
オランダ・アムステルダムでは,歩道上にオブジェ風の仮設男性用小便器が置かれていました。一度に4人が使用できるものです。
アムステルダムの声道に置かれた男性用小便器
(『トイレ考・屎尿考』より)
スペイン・セルビアで民宿に泊った時のこと。腰掛式の洋式トイレの中に英語の張り紙があり,便器の中に紙を捨てないこととあり,足元に屑籠が置いてあり,その中に丸められたトイレットペーパーが捨てられていました。排水管の詰まりを防ぐためだそうです。
中米・コスタリカの博物館で改装(排水管も改善)したばかりのトイレを使った時,「紙は便器の中に捨てるように」とスペイン語で書かれていました。わざわざこんな注意書きがあるのは,昔の習慣で便器の外に捨てる人が多いからでしょう。
タイのトイレは和式便器に似ていますが,金隠しがありません。ドアの方向を向いてしゃがみます。タイでは尻を水で洗います。
この他,インドでの野糞の目撃,中国の公衆トイレでの体験などを具体的に述べられました。
第17回(平成14年12月13日)広瀬祐
「有機性廃棄物のリサイクルと農業利用」
私は西原環境衛生研究所が経営する実験農場(北海道鹿追町,昭和48年開設,屎尿汚泥や下水汚泥の農業利用への実証試験を実施)で長らく責任者として,圃場整備,施肥管理,データ整理を行う一方で,研修,交流,普及啓蒙に携ってきました。
開設からの数年間は,施設や設備の整備で苦労しました。「自然から得られたものは自然へ戻す」との考え方を徹底的に教えられました。汚泥を撒布する農機具の改良・開発も行いました。液状汚泥を雨滴状にして撒くスラリーローリーの開発もその一つで,現在では広く普及しています。
コンポストの撒布(『有機性汚泥の緑農地利用』より)
化学肥料を優先すると土壌の地力の低下を招きますし,農薬をかけ続けると耐性ができてだんだん効かなくなり,薬の種類を変えなければなりません。
屎尿に含まれているリン酸成分は化学肥料のそれと比べて,作物への吸収性に優れ良い件物ができました。下水汚泥の施肥では,窒素分の過多が問題なのに重金属だけが注目されてしまいました。緑色が濃過ぎる葉物は,窒素分過多の影響です。下水汚泥にはカリウム分がほとんど含まれていないので,化学肥料で補い「ソバ」を栽培し18万食の蕎麦を作り,皆さんに食べてもらいました。親近感を持ってもらうことができ,汚泥の農業利
用についてきちんと話を聞いてもらえるようにな
りました。
JICAの研修で,50数ヶ国,約500人近い研修生が鹿追の農場を訪れてくれました。私自身の視野も広がりました。下水汚泥資源利用協議会においても,啓蒙活動を積極的に行いました。
ローコストで実施できるコンポスト化技術を確立する必要があります。「資源化製品の需要や流通は利用者が決める」との考え方に立たなければなりません。下水汚泥コンポストが普通肥料になったと云うことは,廃棄物ではなく有用な肥料として位置付けられたことを意味します。
海外を視察したことを踏まえて比較検討すると,品質基準の必要性やバイオマス生産を奨励することの意義を痛感します。地球温暖化防止に関連して,有機性廃棄物の資源化がどのように貢献できるのかを真剣に考えてみなければなりません。デンマークでは,化石燃料重視からバイオマスエネルギー重視への転換を考えています。
第18回(平成15年1月30日)長谷川清
「下水管の清掃業に転身して」
私は1925年に米国・シアトルで生まれ,その後両親とともに帰国し東京で育ちました。昭和23年に大学を卒業し乳業会社に入りましたが,父の急死により昭和40年にサラリーマンから経営者(日米産業と管清工業)になりました。日米産業はバケットマシンやロケットなどを輸入・販売し,管清工業は都庁関係の管掃除や民間ビルの排水設備の掃除をしていました。社会の縁の下の力持ちに徹し,ビルの屋内排水管や駅のトイレの詰まりなどを解消する作業を見てまわりました。
当時の下水管の清掃は,バケットマシンや土木用ウインチと鉄筒とで行っていました。1967年に米国・ダラスで「下水管の埋設時期,材質,管径,スパンの長さなどを記入したカードを使って管理していること」を見聞して感心しました。さらに,手作りのTVカメラ(パーツは全て日本製)で下水管の内部を撮っていたのにはびっくりしました。さっそく,国産化に取組みました。TVカメラ調査で,管渠内の様々な情報が得られることがわかりました。手鏡で覗いていた時代には考えられないことでした。1970年に高圧ジェットによる洗浄法が出現し,バケットマシンは後退しました。
高圧洗浄車による下水管の清掃
(『TOKYO・下水道物語』より)
1981年に下水道管路維持研究会が発足しましたが,後に類似の3つの団体を統一しました。1994年に,(社)日本下水道管路維持管理業協会として建設省の認可を受けました。私は前身も含めて会長を12年間務めました。
第19回(平成15年3月19日)栗田彰
「江戸小噺から拾った雪隠と屎尿」
江戸小咄は,江戸時代初期から幕末までの間に900冊余も刊行されています。雪隠や屎尿に関するものを幾つか紹介します。
「雪隠」:花見帰りの客が後架(便所)を借りに来るが,その前にその家の亭主が汚してしまい,思案の結果,「この所大便無用」という張り紙を出したと言う咄です。
「はやり物」: この咄に出てくる「裏」というのは長屋の裏にある雪隠のことで,「裏心がつく」というのは大便を催したという意味です。
「有馬の身すぎ」:有馬温泉で二階に泊まっている客の小便を取って歩く,新手の商売(節を抜いた竹竿を下から差し出して,そこに小便をさせる)の咄です。
有馬の身すぎ(『トイレ考・屎尿考』より)
「小便」:夜中に小便がしたくなり外に出ようとしたが,雨戸が凍っていて開かない。そこで,小便をかけて溶かして雨戸を開けて外に出たが,もう何も用がなくなったという咄です。
「辻番」:辻番の脇で小便をしている者がいるので番人が文句を言うと,「ここに小便をした跡があったからだ」と理屈を言うので,「今,叱った跡(後)だ」とやり返す咄です。
「大小」:大家さんが肥取りから肥代の前借りをしていて,その取立てを受ける咄です。肥取りは村に帰れば庄屋なので,大家に対して庄(小)屋をかけた大小の酒落が落ちになっています。
第20回(平成15年4月27日)山崎達雄
「京都の屎尿事情」
江戸時代,農村に屎尿を手配するため,京都に屎問屋が生まれています。当時は舟運が盛んでしたので,四条通りの高瀬川沿いや淀川と高瀬川を結ぶ伏見などにありました。
山城国の農民たちは,小便だけでなく屎も含めて摂津や河内への移出禁止を京都町奉行所に訴え認めさせますが,屎尿の独占は長くは続かず,翌年の享保9年には汲取りは自由になります。これは,山城だけでは京都の約40万人の屎尿を適切に処理することができなかったためと想像されます。
明治に入ると,公衆衛生,特にコレラ予防の観点から,京都府は蓋の無い肥桶による屎尿の運搬を禁止します(明治5年)。さらに,運搬時間を深夜から日の出の1時間前に限りました。京都府違式註違条例が明治9年に施行され,便所でない所に大小便をする者(罰金は24円55銭)や屎尿の運搬時間の規制に背く者(罰金は24円15銭)を厳しく罰しています。明治13年に屎尿運搬規則は廃止されますが,運搬時間の規制は明治37年まで存続しました。
京都府達式註違条例の図解(『トイレ考・屎尿考』より)
屎尿の汲取りの多くは,農家などが得意先と年間契約を結び,年末に糯米や野菜さらには現金で精算していました。また,汲取り権の売買もでき,屎尿を確保するため敷金をあらかじめ納入する場合もありました。
その後,市城の拡大による周辺農地の減少や化学肥料の普及により,市の中心部では屎尿の停滞が見られるようになりました。大正11年より,京都市営の緊急汲取りが実施されるようになりました。当初は無料でしたが,大正13年からは有料となりました。山城屎尿購買同盟会(明治34年結成,汲取り価格を協定化しその高騰を防ぐことが目的)も解散しました。今思えば,日本型循環社会崩壊の前触れです。
第21回(平成15年6月13日)小松建司
「便所の神様」
東京・品川にある東光寺を訪ねました。境内に「東司(便所)守護 鳥瑟沙摩大明王」と書かれた説明板が建っていました。この難しい漢字は「うすさまだいみょうおう」と読むのだそうです。住職も居ないようで,この寺のどこに祀ってあるのかは分かりませんでした。便所に宿る神様は,便所神,厠神,雪隠神,開所(かんじょ)神などと言われています。
鳥瑟沙摩大明王の説明板 (『ごみの文化・屎尿の文化』より)
便所の神様を祀っている寺社を調べたところ,24ほどありました。静岡県・伊豆湯ケ島にある「明徳寺」に参詣してきました。山門のある立派な寺で「東司の護神 うすさま明王堂」と書かれた看板を掲げたお堂があり,そこに便所の神様が祀られていました。賽銭箱の奥に,またぎ棒があり,これをまたぐと「下の世話を他人にしてもらわなくても済む」と言われているそうです。ここで,便所の神様のお札を2枚買ってきました。1枚は文字のみのもの,もう1枚は神様の姿が描かれたものです。昔,親戚の家の便所でこれと似たものを見たことがあります。
神道の世界では,「いざなみ」の屎から「はにやすびこ」(土の神)と「はにやすびめ」(土の神)とが,尿から「わくむすひ」(穀物の神)と「みつはのめ」(水の神)とが生まれたと言い,このうちの「はにやすびめ」と「みつはのめ」とを便所の神様としています。
その後仏教が伝来し,北の守り神である「うすさま明王」が帝釈天の築いた糞の城を食い破って仏様を守ったということから,「うすさま明王」が便所の神様として崇められるようになりました。
栃木県小山市における雪隠参りでは,「出産後,便所に赤飯や塩などを供え,箸を添えて,生まれた赤ちゃんを連れてお参りをし」,その時そこで,「汚物を食べさせる真似」をするそうです。このような厠神信仰は,栃木や長野や群馬で多く見られます。
第22回(平成15年9月5日)関野勉
「トイレのグッズ」
私の手持ちの「トイレグッズ」を100点ほど展示し,それらの入手経路や故事来歴を披露します。
高知の「つればれ」:土産物店で見付けた,着物姿の女性3人の立ちションの土人形です。
金沢の「厠神」:男神・女神一対の厠神で,金沢の友人が仏具店で買ってくれました。
金沢の厠神(『ごみの文化・屎尿の文化』より)
便器のミニチュア:知人が椅子型と本型の腰掛け便器(木製)を作ってくれました。
洋便器のキーホルダー:文具店でも販売されています。
糞型の棒タイ:糞に蝿がとまったデザインで金色に塗ったもので,研究仲間から入手。
バキュームカーのミニチュア:玩具メーカー・トミー製のものです。
便所掃除の絵葉書:大正時代の日本の商家の便所を描いたもので,パリの友人から入手。
お尻の看板:晴海の見本市会場に展示されていたものをいただきました。
小便小僧のミニチュア:ベルギー・ブリュッセルで買い求めました。
うんち人形:スペイン・バルセロナでクリスマス用品として販売されていました。
赤ちゃん用尿器:ウズベキスタンで見付けました。中国・カシュガルにもありました。
洋便器のキーホルダー:スウェーデン・ストックホルムで買ったプラスチック製のもの。
トイレットペーパーの1850年代の復刻品:オーストリア・ザルツブルクの便器工場を見学した時にもらいました。B6判型の本の形をした左側にミシン目のあるものです。
ハイタンク洋便器のミニチュア:イタリア・ローマの玩具店で購入した鉄製のものです。
海綿:ギリシャ・アテネからクルーズすると,どこの島々でも売っていました。地中海地方では昔,これで尻を拭きました。
馬桶(マートン):中国・西安で陶器製の,また楽山で木製の実物を買いました。
股割れズボンを履いた子供の土人形:中国で買った珍しいものです。
糞鎮:マレーシアの街中の土産物店で買った鉄製の文鎮です。
第23回(平成15年10月31日)佐々木裕信
「浄化槽法制定の経緯と現状」
浄化槽法が制定されてから,ちょうど20年を迎え,浄化槽をとりまく状況も大きく変わりました。当初,この法の目的は単独処理浄化槽の適正管理にありましたが,平成12年の法改正により合併処理浄化槽のみが浄化槽として規定され,従来の屎尿のみを単独処理する浄化槽の新設は原則的に禁止されるに至りました。
昭和54年,全国浄化槽団体連合会が取り纏めた「浄化槽法案要綱試案」をたたき台として,立法化が進められました。昭和57年,「浄化槽法」が議員立法として提出され,翌年,成立しました。浄化槽工事業及び浄化槽保守点検業の登録制度や浄化槽清掃業の認可制度が整備されるとともに,浄化槽設備士と浄化槽管理士の国家資格などが創設されました。
浄化槽(『トイレ学大事典』より)
平成14年3年末現在の浄化槽の設置基数は882万基であり,そのうち約80%が単独処理浄化槽で,残りが合併処理浄化槽です。生活雑排水が垂れ流されている状態は,早期に改善されるべきです。そのためには,浄化槽整備計画の策定事項,浄化槽の設置・維持管理から汚泥処理までの国及び地方公共団体の責務事項,単独処理浄化槽の合併化に向けた事項,浄化槽設置者責任の見直し事項および罰則強化事項などを,今後,浄化槽法の中に取り込むことが課題ではないかと思います。
第24回(平成15年12月4日)平田純一
「しゃがむ姿と日本人−日本人はなぜしゃがんで排便するのか−」
日本人は,何故,排便をしゃがんでするのだろうか?このことを突き詰めていくと,「日本人は,しゃがむ姿勢をとることが習慣であった」ことに行きつきます。ブルーノ・タウトも『日本の家屋と生活』の中で「しゃがむ姿勢はヨーロッパ人にこそきついが,日本人には何のことはない休息の姿勢なのである。(略)この人達にとっては,しゃがんでいることは,我々が椅子に腰掛けているのといっこうに変わりがないらしい」と,指摘しています。蹲踞(そんきょ。しゃがむこと)の姿勢を長い時間し続けるには,かかとを地面につけなければなりません。日本ばかりでなく,アジアやアフリカやオーストラリア先住民に見られます。
「蹲踞」でしゃがむ姿勢(『ごみの文化・屎尿の文化』より)
正座が普及する(江戸時代中期から庶民にも儀礼として定着)以前の日本人の最も普通の座り方は,「あぐら(下腿を交差して座る)」とあったと考えられます。竪穴住居で暮らしていた頃の縄文人の一般的な生活姿勢であったと想像されます。
現在でも日本人の半数は蹲踞の姿勢をとることが可能ですが,近年,椅子に腰掛ける生活が普及してきたことから,今後,次第に減少していくでしょう。そんなに遠くない将来に,しゃがんで排泄できない時代が来るでしょう。
※屎尿・下水研究会幹事