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屎尿・下水研究会の活動の歩み(2)

講話者:地田 修一*

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

1.はじめに

 例会での講話のエッセンスを紹介していきます。今回は,第1−12回例会分です。なお,それぞれに挿入した写真や図は,屎尿・下水研究会が編著した『トイレ考・屎尿考』(技報堂出版,2003),『ごみの文化・屎尿の文化』(技報堂出版,2006),『トイレ』(ミネルヴァ書房,2016)から多くを引用しました。

第1回(平成10年10月3日)石井明男
「史料にみる東京の屎尿処理の変遷」

 東京においても,かつては屎尿が肥料として広く使われていました。ところが,明治,大正,昭和と時代が進むにつれ,近郊農地の減少と化学肥料の普及により,農地還元する屎尿処分量が年々減少してきました。
 昭和5年に汚物掃除法が改正され,屎尿の処理処分が自治体の義務となり,昭和8年に綾瀬作業所が造られ180kl/日の汲取り屎尿(汲取り屎尿量の3%に当たる)が活性汚泥処理されるようになりました(昭和18年まで稼動)。さらに,昭和28年に砂町下水処理場内に屎尿を微生物の働きで嫌気性消化する屎尿消化槽(処理能力は2,700kl/日,汲取り屎尿量の約1/4に当たる)が完成し,昭和57年3月(当時の下水道普及率は76%)まで運転されました。

屎尿投棄船(『トイレ』より)

 しかし,農地還元や屎尿処理施設や下水道で対応しきれなかった汲取り屎尿は,やむを得ず海洋投棄されました。戦中・戦後の一時期中断されましたが,平成11年3月に海洋汚染防止の観点から廃止されるまで続けられました。昭和40年代に入り,トイレの水洗化要求に応える形で,個別処理としての浄化槽が一般家庭に普及し始めました。
 一方,屎尿の抜本的な受け皿としての下水道の普及は,昭和30年には16%であったが40年には35%と倍増し,以後,23区内における普及率を年、2%アップすることを目標に整備を進めた結果,平成7年3月に概成100%を達成しました。ちなみに,平成15年度末での多摩地区をも含めた東京都全体の下水道普及率は99.5%です。
 現在,わずかに残っている汲取り屎尿と浄化槽から発生する汚泥は,バキュームカーで収集され1箇所に集められ,前処理を行ったうえで希釈し下水道幹線に投入されています。

第2回(平成11年1月29日)地田修一
「屎尿の嫌気性消化処理と消化汚泥のコンポスト化について」

 東京都は政府機関・資源調査会の勧告を受ける形で,砂町下水処理場の敷地内に昭和26年から「屎尿消化槽」を造り始めました。嫌気性消化処理は「日本古来の屎尿処分法である農地還元に近代科学の息吹を与えて改善し,病原菌,回虫卵を殺滅し,悪臭,汚色を除き,しかも肥料成分である窒素,リン,カリウムをそのまま保有させて土壌に還元できる方法」であるとのコンセプトのもと,消化汚泥のコンポスト化(民間に委託)が当初から組み込まれていました。
 最終的な処理能力は2,700kl/日で,当時の23区の汲取り屎尿量の約1/4に当たります。この事業は昭和28年に運転を開始し,57年3月に惜しまれながら廃止されるまでの29年間継続されました。
 消化槽は内槽と外槽とに分かれており,内部を37℃に加温すると20日間で消化が完了します。加温用の蒸気はボイラー室(熱源は消化ガス)から送られます。消化汚泥は30日ほどかけて天日で乾燥させます。次の工程からがコンポスト化の作業です。
 これを更に露地で20cmほどの厚さに敷きならし,再び20日ほど天日乾燥させた後,これを円錐形の小山に積み上げ,45日ほど堆積しておきます。対流作用によって堆積物の表面から空気が入り込んで上方に抜けていき,内部が好気的に保たれます。好気的発酵が起こり,堆積した山の内部は70℃ぐらいまで温度が上がり(一次発酵),70%程度だった含水率が50%ぐらいに低減します。次にこれを粉砕し,コンクリートを打った天日乾燥床に運び,約2cmの厚さに薄く敷きならします。秋の晴天日では丸一日で,手で握るとパラパラと落ちる状態(含水率35%程度)になります。

コンポスト化作業(『トイレ』より)

 さらに建物の中で2mほどの山になるまで積み上げ,貯蔵を兼ねて熟成させます。おおむね20日間ほど熟成させた後,袋詰めします。
 このコンポストは農林省から普通肥料として認可され,「みやこ有機肥料」という商品名が付けられ全国的に販売されていました。

第3回(平成11年4月16日)鈴木和雄
「東京市綾瀬作業場概要」

 屎尿処理施設は日本独特のもので,昭和初期に京都市十条にでき,次いで東京市葛飾区綾瀬に昭和6年着工,8年竣工の「綾瀬作業所」が稼動しました。屎尿を河川水で希釈後,嫌気的に分解してから,当時としては画期的な散気式活性汚泥法でBODが100mg/lぐらいにまで処理するものでした。設計・施行は西原衛生工業所で,処理量は180kl/日です。しかし昭和19年以降は使用されなくなり,戦後,施設の一部は肥樽の製造所になり,さらに昭和35年からは清掃研究所が一時ここに置かれました。

綾瀬作業所の平面図(『トイレ考・屎尿考』より)

「東京市綾瀬作業所」と題するパンフレットから,当時の屎尿処理の工程を再現してみます。@肥船で運んできた汲取り屎尿をポンプで貯留槽へ送り粗大な夾雑物を除去後,河川水で10倍に希釈し消化槽(嫌気性細菌によって有機物を分解)に送液する。A消化槽で発生したメタンガスは加温用た利用する。B消化槽から流出した液を更に河川水で50倍に希釈し,活性汚泥と混合して曝気槽へ送る。C曝気槽は散気式旋回流で,滞留時間は4.5時間。D沈殿槽の上澄み液は消毒槽へ送る。沈殿汚泥は沈殿槽の中心部から汚泥ピットに送泥され,一部は返送汚泥(返送汚泥率は25%)となる。E余剰汚泥は腐敗室に送り嫌気的に腐敗させる。その後,天日乾燥して堆肥化する。F消化ガスに含まれる硫化水素は水酸化鉄を充満したろ過器を通して除去する。

第4回(平成11年9月3日)鈴木清志
「世界のトイレ見聞記」

 海外旅行が好きでよく出掛けます。旅先で出会ったトイレの幾つかを紹介します。
 アフリカ・ボツワナで現地人集落の近くでキャンプした時,周りの茂みで排泄しました。毒蟻やムカデがいないかを確認し数センチの穴を掘り排泄し終わった後,穴を埋めようとしたら,肝心のモノがありません。周りをみると,昆虫の糞ころがしが私のモノを運んでいました。そう言えばさっき,ブーンと虫が飛んで来る音が聞こえました。匂いを嗅ぎつけて飛んで来たのです。
 フィリピン・ミンダナオ島の山岳民族を訪ねた時,地元ボランティア団体の事務所に泊まりましたが,そこのトイレは自分で水を汲んで尻を洗い,排泄物を流す方式でした。後で聞いた話ですが,尻を水で洗う手順は,右手で手桶を持ち,左手の指先に作った窪みに水を注ぎ,左手を尻の下にもっていき,指先にたまっている水で尻を洗うのだそうです。そして,濡れた尻はそのままで下着を上げるらしい。
 紙を使わずに水で尻を洗う方式は,私が訪ねた国ではインドネシア,タイ,ネパール,インド,トルコで行われていました。

水を汲んで流すトイレ(『トイレ考・屎尿考』より)

 他に,尻割れパンツ(幼児用)の中国,トルコ・エフェソスの古代ローマの公衆トイレ遺跡やトルコ・トプカピ宮殿のトイレが紹介されました。

第5回(平成11年12月10日)森田英樹
「都繁昌記(天保九年)に見る汲取りの状態」

 江戸時代の京都における汲取りの様子を伝える文献として,『都繁昌記』【中島棕隠,天保8年(1837)】があります。原文は漢文です。現代語訳してみましたので抜粋して紹介します。
 小便桶2つと旬の野菜を盛った篭を担ぎ,おおっぴらに声高らかに道を通行する賎夫がいる。その言葉は速く,また省略が多い。(略)よくよく注意して聞けば,「大根と小便」,「茄子と小便」,「野菜と小便」などという言葉であって,これらを互いに交換しようというのである。(略)それぞれの家の夫婦や娘は,すぐにその声を開き,家を出て小声で「小便」と呼ぶ。そしてまず,その交換する野菜の名をたずねる。その品が考えに合えば「入って尿を汲みなさい」という。彼は尿の量をたずね,少なければ荷物を入口に降ろし,一つの桶を下げて家に入り,小便壷や溜め桶に行き,汲み終わると,大根何本,茄子何個,野菜何把と報告する。娘は詳しく尿の量と野菜の量がつり合っているかを調べ,もし多ければ当然異論はなく,もし少なければ「さらにもっと加えなさい」という。彼はたいてい承知せず,娘も許さない。やがてお互いに罵り合うようになる。極端な者は,桶を傾けて尿を便所に戻し注がせ,小便取りが尿をがめつく取れないようにする。(略)これは,ほかでもない。都の昔からの習慣で,あらゆる費用を節約するところから来ている。(略)

小便買い(『トイレ』より)

 肥取りにとってもまた同じである。大便は尿より価値があるために,そのお返しとして「もち米」を渡す。(略)これらはすべて都の郊外の小作人の仕事である。山城国の農業は,おおむねこの下肥によるものである。
 伏見左右の村民などは,京都からやや遠い。そのため屎尿を運ぶ者は,いつも高瀬川の水運にゆだねられている。数十桶を満載し,悪臭が漂い,川の流れに従って船が下る。(略)糞問屋もある。四條小橋の南側にある。(略)そこの糞尿は,鴨川べりの街や,大小の娼家,飲み屋,旅館,劇場など幾千の便所から出たものである。(略)

第6回(平成12年3月3日)鈴木和雄
「糞尿史−遷都は糞尿汚染からの逃避だった」−

 約1330年前,琵琶湖西南の近江大津宮に天智天皇が遷都(667年)したが,壬申の乱後,天武天皇が突如南下し大和国飛鳥に戻り,飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮を造営(672年)しました。近江大津宮の命はわずか5年,そして飛鳥浄御原宮も22年で移っています。日本初の都城制を採用した藤原京でも16年,次の平城京は少し長くて74年,そして長岡京が10年です。どれもしっかりとした計画を立てて建設されたと言われていますが,何故,こんなに頻繁に遷都を繰り返したのでしょうか。

古代王都のトイレ(『ごみの文化・屎尿の文化』より)

 本講話のサブタイトルがこの謎を解く一つの鍵となっています。仏教が伝来し仏像を鋳造するようになり,その際の精錬や鍍金による鉱毒・有害ガスの発生による環境汚染,工夫・人民の排泄する糞尿処理の行き詰まりからくる衛生状態の悪化,そしてこれらに起因する病気が蔓延したのではないでしょうか。結果的に人心が荒廃し行政力を失い,政治の刷新を図るため,新天地を求めて遷都を重ねていったものと考えられます。

第7回(平成12年6月9日)地田修一
「郷土史料に見る下肥の流通と肥舟」

 江戸時代,下肥は神田とか本所,深川などから肥船に載せられて郊外に運ばれました。下肥を積み込んでいた河岸の一つに和泉河岸があります。神田川の和泉橋(今の秋葉原駅のそば)のたもとにあった河岸です。なにも下肥だけでなく,米や薪などを扱う河岸がヅラッと並んでいて,その上流側の隅で下肥を扱っていました。このほかに,三囲稲荷のそば(隅田川),三味線堀,道三堀の河岸が有名でした。
 肥船は,中川,江戸川,荒川,綾瀬川とか,あるいはそれらの支川である新河岸川や芝川を遡って,農村地帯の河岸(下肥河岸と呼ばれた)へ向かいました。下肥河岸の一つに岩淵河岸があります。岩淵は昔,岩槻街道の宿場として.また荒川の渡船場として,さらに河岸としても賑わっていました。下肥もこの河岸で扱っていました。
 この岩淵の隣に志茂という地区があり,昔農村でして多くの農家は自分で肥船を持っていて,下肥を江戸の中心地まで汲取りに行って岩淵河岸とか新河岸川沿いの河岸まで運び,その周辺の農家に売っていたそうです。農業半分,下肥業半分だったそうです。

タンカー形式の肥船(Fトイレ』より)

 岩淵の対岸の埼玉県・戸田市の博物館から刊行されている資料にこんなことが書かれていました。『慶応3年,関東取締出役が「下肥商人が掃除代や下肥代を吊り上げているのはけしからん。また,肥船の船頭が川の水を入れて増やして薄くなったのを売って歩く者がいるが,そういうことをしてはだめだ」と言っていた。下肥河岸には下肥売捌き人がいて,肥船の船頭と農民との仲立ちをして手数料を取っていた。また,今の戸田市域の笹目村に50艘,内谷村に12艘の肥船があった』。『東京府志科』(明治5年)によると,東京府下の川船の総数は6,545艘であり,そのうち肥船は1,564艘で,実に全体の約1/4を占めていました。
 農家や下肥業者は代金を支払って,屎尿を汲取っていました。1年分の屎尿の値段は明治28年で,大人35銭,子供はその半分となっており,複数の家族の場合,これに人数を掛けた額でした。

第8回(平成12年9月8日)関野勉
「下水とトイレットペーパー」

 日本では現在,年間100万トンほどのトイレットペーパーが生産されており,1人当たり年間8.04kgの使用量になります。昭和48年のオイルショック時では,トイレットロールが19万トン,ちり紙が29万トンでした。これが逆転したのは昭和53年になってからです。60%ほどが下水道に流れ,下水処理場で処理されています。そのほか,30%程度が浄化槽に,10%程度が汲取りトイレに行っています(平成25年度末の全国下水道普及率 は77.8%に向上しています)。

トイレットペーパーなる言葉の新聞広告  (『トイレ考・屎尿考』より)

 日本のちり紙は手漉き紙の頃から各地で生産され,奈良,京では吉野紙などの薄紙がちり紙として上流階級に使用されていました。庶民向けには,漉返し紙の代表である「浅草紙」などが各地で生産されて,いろいろな名称で生産・販売されてきました。
 明治32年5月1日付け『中央新開』の「化粧紙」の広告に「目下欧米各国に流行するトイレットペーパー」なる文言がみえます。また,明治43年旧新橋駅から下問駅までの列車に乗車した見聞記に,列車の厠に支那製の紙をつないで小巻にしたものがあったとの記録があります。日本でトイレットロールが生産された記録は,大正13年3月のことで,「当時,国内にはトイレットペーパーを製造する製紙会社は一社もなく,(略)最初は原紙のまま,神戸市の島村商会に納め,同社が巻加工を行って汽船に積み込んでいた」と云います。

第9回(平成12年12月15日)河村清史
「屎尿処理技術の動向」

 200〜300のデータの平均値をみますと,収集した屎尿及び浄化槽汚泥の性状は,BODで15,000mg/lと4,470mg/l,窒素で3,940mg/lと1,060mg/l,リンで洪3mg/lと149mg/lとなっています。
 昭和30年代には嫌気性消化処理(水による希釈倍率は20倍程度)が急速に普及しました。しかし,長い処理日数を要し広い施設面積がいることや臭気問題などから,化学処理や好気性消化処理に替わっていきました。40年代に入ると,高温で空気酸化する湿式酸化処理が出現しました。後半には凝集分離,オゾン処理,活性炭吸着が取り入れられるようになりました。
 昭和50年代には,COD総量規制に対応した凝集分離処理や標準脱窒素処理(希釈倍率は10倍程度)が導入されました。さらにMLSS濃度を高くして高BOD負荷での処理を目指した高負荷脱窒素処理が開発され,希釈倍率が2〜3倍に低減されました。60年代になると,高MLSS濃度の固液分離への対応として,膜分離技術が導入され施設がコンパクト化されました。

汚泥再生処理センターのイメージ図(『トイレ考・屎尿考』より)

 その後,従来の屎尿処理施設に対する国庫補助が廃止され,屎尿,浄化槽汚泥および生ごみなどの有機性廃棄物を併せて処理するとともに,資源を回収することを目的とした「汚泥再生処理センター」(水処理設備,資源化設備,脱臭設備などから構成される)が平成9年度から国庫補助の対象になりました。

第10回(平成13年6月15日)森田英樹
「トイレ異名と総合トイレ学」

 トイレを表す言葉が多いのは,排泄行為を婉曲的に表現しようとしたからです。私の調査では,方言まで含めると1,114語にのぼります。
 一例を挙げれば,便所,厠,雪隠,手水,憚り,西浄,東司,川屋,後架,御不浄,閑所,手水場,不浄所,思案所,化粧室,樋殿,うつしどころ,おとどけどころ,WC,トイレ,トイレット,お便所,おとう,御用場 などです。
 方言では,あっぱじゃ(新潟),いきがめ(熊本),うっしゃ(長崎),おわらきま(和歌山),かんじゃ(鹿児島)などがあります。

李家正文署『厠(加波夜)考』の表紙(『ごみの文化・屎尿の文化』より)

 隠語では,さんのじ,さんさん,じんきゅう,ずばちょう,すみれ,ぴょんそん,れいと,わしんとんかふぇ などです。
 形態や特徴では,あくば(灰汁場),しょうべんだわら(小便俵),まんねんかわや(万年厠),かじょうべんじょ(火浄便所),すぎのは(杉の葉),こうべん(公便),こうやさん(高野山),ゆどの(湯殿),とぐちべんじょ(戸口便所),にほんばし(日本橋)などです。
 トイレ研究は,@便所学の時代,A厠学の時代,Bトイレ学の時代の3期に分けることができます。@には,『建築衛生工学』(大澤一郎・櫻井省吾,1924),『臺所便所湯殿及井戸』(大澤一郎・櫻井省吾,1927),『新時代の住宅設備』(増山新平,1931),『台所浴室及便所設備』(増山新平,1938),『便所の進化』(高野六郎,1941)が,Aには,『習俗雑記』(宮武省二,1927),『厠考』(李家正文,1932),『異態習俗考』(金城朝永,1933)が含まれます。Bは昭和50年代の終わり頃からで,TOTOやINAXなどの文化事業や日本トイレ協会,日本下水文化研究会の研究活動が盛んになりました。
 こうした中で私が提唱したい総合トイレ学は,建築学や衛生工学や民俗学や歴史学それぞれ個別の視点でのトイレ研究ではなく,一つの哲学・思想・視点をもって有機的に構築するトイレ研究です。各国史的な研究ではなく,いわば世界史的な研究を目指すものです。

第11回(平成13年7月13日)鈴木和雄
「衛生に関わる生活と奇習」

 渡来人によって中国や朝鮮から高度な医学的知識がもたらされ,それらを基に『医心方』や『倭名類聚抄』が平安時代初期に編纂され,日本の漢方医術が次第に整備されてきました。しかし,天然痘のような急性感染症の場合,成すすべが無く,加持祈祷,神仏に頼ることしかできませんでした。中世における「衛生に係わる風習」について,日本ばかりでなくヨーロッパの事例も紹介します。
@赤絵:天然痘を防ぐために鎮西八郎為朝等の絵を赤色で描いたものを戸口に貼って置きます。赤い色には神通力があると信じられていたのです。昭和初期までこの風習がありました。
Aお歯黒:歯を,五倍子(ふし)の粉を金ヶ水に混ぜた液を筆で,真っ黒に染める風習です。既婚婦人の間で女のたしなみとして,昭和初期まで続きました。口臭を防ぎ,虫歯予防にもなっていたらしい。平安時代からの長い習慣です。五倍子とは,ワタアブラムシ科の昆虫がうるし科のヌルデの若葉に寄生して作る「虫こぶ」のことで,タンニンを多く含みます。金ヶ水は硫酸第一鉄液のことです。
B婦人の静脈血を抜き取る:中世のヨーロッパでみられた奇習です。この時代,静脈血は黒血と言われ嫌われていたのです。紀元前かららしいが,定着したのは13世紀頃からです。宮廷の医師がランセット(刃針)で静脈を切開して行いました。
Cビデ(婦人性器の洗浄器):股間の泉水ともよばれた,1700年前後のフランス・都市部の貴婦人の間で流行った奇習です。寝室に置きました。婦人が小用をすませたり,ある行為の前後にこれで性器を洗浄しました。

尿の薬効(『一遍聖絵』より)

D飲尿:一種の信仰として存在していました。『一遍聖絵』(12世紀末,鎌倉後期)の中に,一遍上人を多くの善男善女が囲んでいる絵があり,上人の股間に尿筒(しとづつ)が差し込まれています。上人の尿を頂こうというわけです。尊い人の尿には,病を治す薬効があると信じられていたのです。

第12回(平成13年9月14日)高杉喜平
「屎尿汲取り業の顛末」

 昭和22年に復員し家業の百姓(東京の西郊)を継ぎましたが,肥しが手に入りませんでした。幸い,兵隊時代の友だちが貸家を20軒くらい持っていたので,汲取らせてもらいました。だんだん数が増えていき100軒ほどになりました。朝4時頃起きて,リヤカーに肥桶と柄杓を載せて家を出ます。屎尿をもらったお礼として,こちらの方から野菜を置いてきました。23年に馬を買い,7年間ほど荷馬車を便いました。1回で36本の肥桶を載せることができました。しばらく経ってから,木製の水槽を荷台に括り付ける方式にしました。さらに,27年頃2トンのオート三輪車(肥桶を12本積める)を買い,荷馬車との併用となりました。同じ町に,汲取りをしていた農家は100人ほどいました。

肥桶をリヤカーで運ぶ(『寺島町奇辞』より)

 自分の所で使う以上のものは,下肥が足りなくて困っている農家に有料で分けていましたが,そのうち,人を雇って汲取り作業を行うようになりました。汲取りの専業者は三多摩にはほとんどいませんでした。そのうち(昭和26年頃),隣町全域の汲取りをやるようになりました。捨て場は自分で確保することが条件でした。初めは各自治会と個々に契約していましたが,昭和35年からは町役場と直接契約するようになりました。
 昭和36年にバキュームカーを購入しました。25万円もしました。
 当初,農家の肥溜に入れさせてもらっていましたが,化学肥料の生産が復活し農家が下肥を使わなくなってきましたので,昭和33年頃1,000坪はどの土地を買い,深さ15mほどの素掘り穴を自己処分地としました。
 汲取り手数料を取るようになり,1桶20円,半桶15円でした。当初は現金でしたが,その後雑貨店で汲取り券を売るようになりました。
 三多摩の自治体はそれぞれ専用の捨て場を持っていましたが,臭いとか周りの住民からの苦情が絶えず次第に,(嫌気的に発酵処理する)屎尿処理場を建設するようになりました。隣町が合併した立川は昭島と一緒に富士見処理場を造りました(昭和34年)。しかし,すぐにはここに入れさせてもらえませんでした。遠い日野の屎尿処理場で受け入れてもらいつつ,汲取った屎尿の一部は自己処分地に捨てていました。捨て場の確保には苦労しました。汲取った全量を富士見処理場に搬入できるようになったのは,昭和46年になってからです。最盛期には6台のバキュームカーを保持していました。
 下水道の普及とともに昭和50年代に入って汲取り量がだんだん減ってきたため,使えるバキュームカーが1台また1台と減りました。現在でも未水洗トイレの家がまだ残っているほか,工事現場やイベント会場の仮設トイレがあることから,バキュムカー1台を使って屎尿の汲取り作業を続けています。

※屎尿・下水研究会幹事