屎尿・下水研究会

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環境講座(13)

講話者:屎尿・下水研究会※

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

平成28年度の講話(1)

 小平市ふれあい下水道館・講座室(電話042-326-7411)で行われた講話会のダイジェストです。

I ミミズの話
  【10月16日,柴田 康平 氏(元東京都下水道局)】

 ふだん目にしているにも関わらず,私たちはたいして興味・関心を示しませんが,畑地の土作りに大変寄与しているミミズについて,数々の事例を示しながら,その種類,習性,生態を解説されました。

ミミズ研究の始まり
 ある日,いつもの通勤路を歩いていると,路面に干からびているミミズを見付けました。何故,夏の暑い時にわざわざ路面に出てくるのだろうかと,不思議に思ったのがきっかけになってミミズの研究に入りました。

特徴・分類
 足がなく背骨もなく,環帯があり毛が少しあるミミズは,環形動物門の貧毛細に属します。世界で8千種以上,国内では陸上だけでも50種以上いると云われています。
 タイとラオスの国境を流れるメコン川の河岸には数mにもなるメコンオオフトミミズが生息しています。滋賀県や福井県にいるハッタミミズには98cmのものが発見されています。江戸時代の古文書には4.5mのミミズが出たとの記録があります。

変わったミミズ
 光るミミズ:ホタルミミズ(世界に広く分布),イソミミズ(流れ着いた海藻の下などにいる)。
 コオリミミズ(一生を通じて氷の上で過ごす。北アメリカの海岸沿いの地域で見られる。氷がなければ生きていけない)。
 模様のあるミミズ(ほとんどのミミズでは体表に模様がない)。
 緑色のミミズ(オーストリアなどにいるエメラルドミミズは,成長するとピンクから緑に変わる)。
 糞塔を作るミミズ(東南アジアにいるミミズには糞で塔を作る種類がおり,その高さは20〜30cmにもなる)。

ミミズの散歩
 道路などでミミズが干からびていることがあります。地中から出てきて俳徊して,やがて干からびるのです。ミミズの俳徊行動には,次のようなパターンが考えられます。
@雨後の徘徊:ノラクラミミズなど地中の比較的深い所に棲むミミズにみられる行動。徘徊の理由として,繁殖のための移動あるいは新天地の開拓が考えられます。ミミズは地表面の水分が多いときにしか,無事に移動できません。
A生息土壌が高温かつ乾燥したときの俳徊:植え込みや校庭など人工構造の場所に棲む表層性のミミズで多くみられます。
B年に一度(月齢22.3+−0.7の日をピークとする)の徘徊:鎌倉の2箇所でしか確認されていません。フトスジミミズ,ヒトツモンミミズ,アオキミミズ,ハタケミミズなど表層性のミミズにみられます。

図44 ミミズの徘徊

C9月下旬〜11月中旬の大量死:浅層性のヘンイセイミミズ(10〜15cm)が数百匹単位で死んでいました。
Dシーボルトミミズの春と晩秋の集団移動:雨が降る時期に,素麺流しのように山から集団で下りてくるとのことです。四国,九州でほぼ同時期にみられます。
E地震の前兆としての大量出現:台湾で報告された現象ですが,種類や生態が不明なため,なんとも云えません。
F大雨の後の大量出現:台風などで大量の雨が降り,その後急激に気温が上がったときに,ミミズが路上に沢山這出ることがあります。

ミミズにおしっこをかけると
 ネットで情報を集めてみたところ,多くの方が「ミミズを刺激すると,刺激性のある体腔液を噴射する」現象を体験しているようです。噴射(シャワー)ミミズと言われる種類もいます。

役立つミミズ
 農業でのミミズの効用は,土をかき混ぜ栄養が含まれた糞をすることで,土をふわふわ(団粒構造)にし,作物の生長に役立つ微生物の棲家にもなることにあります。
 ゴミを有用な堆肥に変えるミミズコンポストがあります。台所から出た生ゴミをミミズに食べてもらい,その糞を肥料にするものです。下水汚泥や家畜の糞も処理できます。
 また,土の中の重金属を除去する働きもあると言われています。  ミミズは薬としても利用されており,「地竜」という漢方薬(解熱剤)は古くから使われてきました。
 ミミズの動きを真似た,下水道管内を調査する「ミミズロボット」も作られています。

U 玉川上水と小平
   【11月20日,蛭田 廣一 氏(元小平市役所)】

 平成16年は,小平市の礎となった小川村の開拓に着手してから360年の節目の年です。新田開発に不可欠であったのが玉川上水からの分水です。小平市史編纂に携ってこられた講話者(元中央図書館長)から「小平と玉川上水との関わり」について,数々のエピソードを交えて語っていただきました。

玉川上水と野火止用水の開通
 すでに利用されていた神田上水の給水域を越えて,江戸の町が広がってきたことへの対応策として,承応3年(1654)に開削されたのが玉川上水です。ときの玉川水道奉行・伊奈忠治のもとで,実際の工事を行ったのは玉川庄右衛門・清右衛門兄弟(幕府の資金7,500両に加えて,玉川兄弟が自己資金を拠出)です。
 羽村で多摩川に堰を設けて取水し,約43Kmを開渠(8ヶ月で開削)で四谷大木戸まで流し,その先は石や木の水道管を虎ノ門まで埋設(工事期間7ヶ月)し,江戸の四谷,麹町, 赤坂,芝,京橋方面に給水しました。
 玉川上水が完成した1年後に,当時,老中職に就任していた川越藩主・松平信綱の家臣・安松金右衛門が野火止用水を開削しました。今の小平監視所近くから分水し新河岸川まで,わずか40日で掘ったと記録されています。全長24Km,玉川上水に比べて幅も狭く深さも浅いものです。

図45 現在の玉川上水の流れ

玉川上水の管理
 玉川上水の管理は,当初(1654−1739年)は上水を開削した玉川家に任せられていましたが,不正を理由に水役を罷免され,お家断絶となってしまいます。一時(1768年まで),町奉行の下に置かれた水役が管理していましたが,その後は普請奉行(あるいは作事奉行)配下の上水方が行うようになりました。
 上水見回り役(水番人)を置くようになったのは1739年からです。水使用料を集めたり,見回りを行ったり,芥止めにかかったゴミを取り上げたりしました。また,分水口を開けたり塞いだりする時には,村々に知らせるとともに,その作業に立会いました。

小川村の開拓と小川分水
 青梅で採れた石灰は江戸城の白壁に使われました。カマスに入れた石灰を馬に積んで運ぶために,新たに通されたのが青梅街道です。この街道の箱根ヶ崎と田無の間には,かつて宿場がありませんでした。そこで,新たな宿場となる新田を開くべく,狭山丘陵麓・岸村出身の小川九郎兵衛がリーダーとなって,明暦3年(1657)から小川村開拓に着手しました。
 青梅街道の両側に家を建て,家の回りに屋敷林(杉,竹,ケヤキ,カシ)をめぐらせ,冬の季節風を防いだり用材として利用しました。また,短冊状の畑の奥の雑木林にはクヌギ,コナラなどの落葉樹を植え薪や木炭にして燃料とし,その落葉や下草は肥料にしました。地下水位が低く水に恵まれない土地でしたので,潅漑・生活用水は,青梅街道・南方の玉川上水から引いてきました。用水路の脇に洗い場を設け,水を汲んで各家の台所まで運び,飲み水や煮炊きに使いました。

武蔵野新田の開発と分水
 幕府が新田開発を積極的に奨励したこともあり,今まで入会地であったところが,次々に開拓されていきました。玉川上水は元々,江戸への飲料用水を送水のために開削されたものですが,地下水位が低い武蔵野台地の新田にも分水されるようになりました。分水は多い時で33を数え,玉川上水の流水量のおよそ半分が分水されていました。

水車の出現
 小川村の名主・小川弥次郎が村内を流れる分水に水車をかけたのは,明和2年(1765)のことです。水田が少なく,ムギ,ヒエ,アワ,ソバなどの雑穀が主要農産物でしたが,これらは精白,製粉しないと商品になりません。そこに目をつけた弥次郎は,水車を利用して雑穀を加工しようとしたのです。

分水口の普請
 分水の取水口は,板の柵で囲って土留めをして流水の勢いからの浸食を防ぎました。分水口には上げ下げできる戸板が設けられていて,分水への取水量を調整しました。ほぼ10年毎に,分水口の普請が行われました。

橋の普請
 野火止用水が青梅街道を突っ切ってしまったので,架けられたのが青梅橋(1655年架橋。石灰を積んだ馬が通るので当初から石橋)です。
 小平市域には,このほかに小川橋,小川寺(しょうせんじ)裏新橋,三左衛門橋,久右衛門橋,府中橋(鎌倉街道に架かる),喜兵衛橋(五日市街道に架かる)が架かっていました。

小金井桜と花見
 小金井橋のたもとに「名勝小金井桜」という碑が建っていますが,小金井桜と云ってもその半分は今の小平市域です。小金井桜の一番の中心であった茶店兼旅館の柏屋(2階に上がっての花見,分けても夜桜見物が江戸時代では最良の行楽であった)も小平に所在しています。この店は,俳諧人がしばしば集う拠点でもありました。
 柏屋の並びに海岸寺があり,「小金井桜樹」碑があります。碑には,こう刻まれています。「小金井に桜を植えたのは,川崎平右衛門定孝で将軍吉宗のときです。桜の根は堤を守り,花は人々の目を楽しませ,また落ちた花は水の毒を消すともいいます。…」。この碑には,元文2年(1737)に桜を植えたとあります。平右衛門が桜を植えた目的はほかにもありました。それは花見見物の賑わいです。見物人に飲み物や食べ物を売れば,新田農民の収入になります。しかし,広く知られるようになったのは,植樹してから50年くらい過ぎてか らです。この碑も,文化7年(1810)になって建てられたものです。この頃には,茶店などが10数軒立ち並ぶようになりました。
 北側の土手に大きな松があり,その下に「行幸松」碑が建っていますが,明治天皇の桜見物(明治16年)の行幸を記念した碑です。天皇御一行も柏屋旅館で宴会をしたそうです。

水量の減少と水量制限
 玉川上水の水量が減って水位が下がり,堀の洗掘が進んだり,分水がし難くなってきました。小川分水でも,文化3年(1806)に,従来より上流のしかもより低いところに分水口を移しています。

通船計画と通船の実施
 一度に沢山の荷物が運べる船を,玉川上水に通したいと考える商人や有力農民が,度々通船計画の願いを出してきましたが,江戸時代には,飲み水となる玉川上水が汚れては困るとの理由から,許可されませんでした。
 明治となり新政府は上水の管理費を捻出するために,慶応3年に砂川・福生・羽村の名主たちから出されていた通船計画を許可しました。水路幅を整え低い橋は高く架け替え,明治3年4月から羽村〜四谷大木戸間を船が通うようになりました。
 1艘の荷舟には,およそ2トンの荷を積むことが出来ました。最盛期(明治4年10月)には,月に104艘が通ったと云います。東京へは野菜,茶,織物,薪,木炭,砂利,石灰などを送り,東京からは米,塩,魚などが送られてきました。 なかには人を乗せる船もありました。船には便桶を必ず乗せて置くことが決められていました。通船回数は月に6往復でした。

図46 玉川上水の引船道

 ところが玉川上水の汚れがひどくなり,わずか2年後の明治5年5月末をもって,通船は禁止されてしまいました。

新堀用水
 通船開始に関連して明治3年,分水口の数を減らすこととなり,玉川上水の小平監視所から玉川上水の北側に沿って桜橋(小平市内)までの約5.5kmにわたって,新たに新堀用水が掘られ,この用水から分水されるようになりました。

甲武馬車鉄道敷設計画
 明治19年に許可を受けたのは,新宿〜八王子間の鉄道敷設計画(路線は,新宿,和田村,吉祥寺村,関前村,小川村,福島村,石川村,八王子を結ぶもの)でした。停車場は,田端村,松庵村,吉祥寺村,小川村,砂川村を予定していました。その後,馬車ではなく蒸気機関車で牽引する鉄道に変更したい旨の願いを出しています。しかし,沿線住民の反対運動にあって実現しませんでした。
 ようやく武蔵野の原野を突っ切るように新宿〜立川間に開通したのが甲武鉄道で,明治22年4月のことです。中間の駅は中野,境,国分寺のわずか3駅にすぎませんでした。その国分寺と川越とを結んだのが川越鉄道です。国分寺〜東村山間が開通したのは明治27年の暮れです。この時,念願の小川駅か開設されました。

多摩地方の東京府への移管
 東京市民の飲用水の水路である玉川上水の管理権を東京府へ移管し,さらに交通運輸の近道を開いて物産の販路を確保したいと云うことで,多摩地方は明治26年4月1日付けで神奈川県から東京府に移管換えになりました。