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シリーズ ヨモヤモバナシ



大名行列とトイレ事情 〜V 藩主北浦沿岸巡視時の諸準備〜

講話曹:松田 旭正※

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

1.はじめに

「U藩主北浦沿岸巡視記録」の「4 藩主の北浦巡視行程」において,毛利藩主敬親公は嘉永五年(1852)閏二月阿武郡の海岸を石州まで巡視した行程記録を掲載した。この巡視は前年計画されていたが,通行路が豪雨災害のため延期されていたが,この年の農繁期前に実施された。
 藩主,敬親公一行は嘉永五年閏二月二十六日,萩を出発し,五泊六日の行程の内二泊を益田越中(一万二千石)田屋に宿泊した。
 殿様,敬親公の御廻浦につきお座敷並びに,田屋内外の諸準備を,萩藩の当役(家老)から郡奉行へ,内密に指示が出された。
 この資料は個人所有で,筆者が所有者,了解のもとにトイレに関する箇所のみの撮影の許可をいただき,カメラ撮影したもので,原本の囲及び文章は別々に和紙の巻紙に記録されていた,保管状態はあまりよくなく,折れ,ヤケ,シミ,虫,汚れ,が各所にあり読み下し不可能な箇所もあった。






二 藩主(慶親公)の北浦巡視における背景と諸準備についての仕構え記録である。毛利慶親(敬親)は第十三代萩藩主として天保八年四月(1837)〜明治二年(1869)六月まで三十二年間幕末の動乱期に重要な役割を果たしてきた。
 国内では尊王攘夷が論じられ,幕府は諸外国から開国と通商を迫られ,萩藩においては長門沿岸の防御を固める必要から北浦沿岸の巡視準備を始めた。
 巡視時に本陣とした益田越中の田屋は萩藩家老益田幾三郎右衛門介親施(すけちかのぶ)は蛤御門で幕府軍と戦い敗退した。文久三年十一月この責任を負って切腹した。

三 藩主北浦巡視時須佐本陣(田屋)内外諸準備記録

嘉永五年(1852)
  子五月
 殿様慶親公御廻浦につき御座敷
 並び御田屋内外諸仕構記録
       儀之部  壱



書外に添え(添書)
 礼之壱 嘉永五年 子五月(1852)
 慶親公
 御廻浦御引請御次第
            礼印



   
(表紙)「秘書 覚(ひめがき おぼえ) 他見許さず」



益田越中殿田屋御殿之図
   (図の一部)


嘉永五年子閏二月(1852)
御田屋御殿並内勢海迄之図
〇内勢海と外勢海との同示掲載。
□御殿と山の手小屋との同示掲載。

(内扉)
「相漆(あいぞえ)(添付)嘉永五年(1852)子五月
 殿様慶親公(十三代萩藩主)北浦(山口県の日本海沿岸)巡視につき御座敷ならびに館内外の諸準備記録(義ノ壱)
 @ お渡した内の鍵は御小姓衆(武将や大名の側で護衛や雑用する武士)が預り,外の鍵のことは御小人(おこびと)(調査や警備をする武士)が預かるようにと定めた
   御雪隠(大便所)
 一 もみ紙台
   槍の木にして上に唐金ふんどうの文鎮置くなり,おもみ紙はご先越のお小人より差し出す,落し箱はすくもをつめる
 一 御小用場
   杉の葉をつめる
 一 御用場御上(おかみ)草履お持ち廻りにてすまされるので,用意されなくてもよい
   勘場仕構→(奥阿武宰判の事務所家屋を設けること)
 A 仕構(用意)の事
 一 所務代(萩藩役職・代官)より後付け家屋を設け(建て増し),役職者の外,諸役所の詰所を用意すること
   付記 休憩所については海浜に一軒用意し,諸役所廻り等は先方に行き,事前に準備すること
 一 御殿,御台所付き諸役人の部屋割りは,別紙御殿御座敷絵図によるのでこれを略す
  用楊
 一 山ノ手家屋の後ろに造る用場(大便所)三ヶ所,小用場弐ヶ所,杉の葉詰めにし,諸士(武士)用便所とすること。
 一 御式台(客の送迎時挨拶する部屋)前の喰い違い塀の内に,用場壱ヶ所,小用場弐ヶ所杉の葉詰めにし,同断(諸士用便所も同じとする)
 B
 一 油垰(あぶらたを)(峠)曲り目難所などは,いずれも蓬台(棒二本を板に渡す)を付け整えておくこと
 一 油川・広潟川いずれも土橋にて幅広く蓮台を付け準備すること
 一 玉鴨の廻り道が気になり,かねて道幅が狭く,山側を切り崩し,海側に石垣をつくること
 一 石場前通路狭く山側を崩し海側に石垣を作ること
 一 同所(石場)御駕籠立場(かごたてば)も準備するよう(別図,標準駕籠建場差図あり)
 一 御駕籠台一脚,足無しにして和紙でかくし釘にしてくぎを打つ,道より壱,弐間上り,地ならしをして置くこと
 C
 一 御小用場壱坪位にして青芝垣で整え,小便器は杉の葉詰にしておくこと
 一 「組糸の幕張」は御用場については,土地の掃除を,調え置き,お持ち廻りの御小人は御先越にて,相整えお手持ちの墓なども,公議の分とする
 一 屋敷の床廻りの飾りのことは,外に向いているので同じようにつけられないので,有り合わせの品で済ますようにする
 一 本堂上の間より礼の間までを開け放し,諸士の弁当を食する場所に充てる
   殿様が御出の間は,屏風で仕切りにして内陣(ないじん)(お寺の奥)より一間半の往来のできる間を明け,残らず新しき薄縁(うすベり)(裏をつけ縁を付けた筵)を敷き,御床へ刀掛けを差し出して置く
 D
 一 旦那様,(益田親施)伊豆様(長州藩家老・毛利広包)御休場とし,御往来する所は,黄帝社(中国の黄帝を祀った社)方面,縁側を御通行されるようにする
   追加 同所の御用場は掃除をし,往来には薄縁を敷くこと
 一 下級武士は本堂前通りの縁側より前の土地へ掛け薄縁又前庭へ敷物をして食事をする事
 一 全員へ縁高飯三色煮しめ付にして差し出すようにし,茶は付近の農民にて用意を仰せ付けられ,寺へ運びおく,飯のことは寺にて村人が炊き,縁高(ふちだか)に付け込む。なおまた何度でも来て食する人には迫々盛り差し出しする事
 E
   西之峯御小休場を用意する事
 一 御座所(殿様の座る場所)四方二,三十枚敷芝焼き残し,もとより灰立ち申きぬように行う。中央へ新しい縁(ふち)御座(縁を付けた御座)二,三枚重ね敷にして,上へ毛氈(もうせん)(敷物用毛織物)一枚敷くこと
 一 御小用場は青芝垣にして,小便器に杉の葉を詰めて置く。もっとも,御手水(ちょうず)幕などは公儀(本藩)の分御持廻りのこと
 一 御次の間へ薄縁十枚,御座所より少々持って来て敷くこと
 一 御幕は,御座所の御用ばかりなので,公議より御用意にて御張りなされる
 一 湯茶煮立ては,仮曲土(かまど)を築き,茶碗など用意いたし,御遠見(おんとおみ)の節は火煙風当たりの処(ところ)であるので,細引き(麻をより合わせた縄)にて土を押さえ置く。屋根下地丸竹つづら(つる性木)詰めの事
   御駕籠置き所,御用意として薄縁一枚差し出し置く事
 F
   追加 先年御国廻りの時
   御腰掛になり,このたびは大道より海の方に場所を取られるだろう
   御小用所壱ヶ所
 一 但し,間半(二・七b)・四尺(一・二b)杉丸太・木柱その外上は瓦屋根・御腰掛同様につくる。三方向篠竹・外柴竹・外柴垣つづら詰・開きは竹の開き戸に仕上げ,薄緑切り合わせにして敷くこと
 G
   上の間
 一 御床は猩々排(しょうじょうひ)(黄色を帯びた深紅色)敷物 御鉄砲 二十挺
   但し,胴蘭(どうらん)(銃弾を入れる袋)大縄  ともに
 一 切箔(きりはく)(金銀の箔を切り糊を薄くまいた生地にふり落とす文様)屏風(びようぶ)に用いる    屏風  一双(一対)
   但し,等顔(雲谷等顔毛利氏の御用絵師)
                   花鳥の画
 一 御刀掛  二
 一 御煙草盆 二
 一 丸行燈  一
 一 燭台   一
      一 お湯桶盤(たらい)ならびに御手拭懸け,御手拭きともに
 一 御手水鉢 一
   但し,柄(え)杓(しゃく) 共に
   上,二の間通り後ろ突き当りの縁側に構築する
 一 御仮用場後の縁側の突き当りの御張子(おんはりこ)方の前通りえ九尺に一間の仮御用場を相調え便器のふた等用意し,外は御手水幕囲いにして,内は篠の簀垣(すかき)御通り筋は突き当りの縁側は残らず薄縁を敷渡しのこと
   勘 場(事務所)
 一 右上の間
   旦那様(益田親施),伊豆様(毛利広包)の御  休息所,御召番所に用意仰せ付けられ,お側の内一人請け賜り,出ており,その外の人数が入るときには,御殿詰御通い,お側の内から相務めること
   御上り茶,御台子(茶道具),御茶碗等,二の間後ろ往来する所へ用意する
                       完

解説項目

一頁
・「慶親(敬親)」,「けいしん」と読み,萩十三代藩主当初は敬親であったが,徳川慶喜(よしのぶ)から名前の一字を拝領し「慶親(よしちか)」としたが,元治元年七月(1864)蛤(はまぐり)御門の変の責任をとって名前の一字を返上し当初の名前に戻した
・「長門沿岸」,山口県の日本海に面した海岸地帯
・「益田越中」,藤原鎌足を始祖とし関ケ原役後,毛利氏に従い須佐に移住,一万二千石が与えられ,永代家老となる三十三代「益田親施(ちかのぶ)」は蛤御門の変の罪を藩主に代わり,切腹した
・「田屋」,給領地を管理するための居住用家屋
・「当職」,萩藩の家老
・「郡奉行」,長州藩の管轄宰判(奥阿武宰判)
・「礼」,儀礼的・社交上のきまり
・「儀」,通知・知らせる
・「諸仕構(しょしかまい)」,もろもろの事項に対応をする
二頁
・「合紋(あいもん)」,符号すること
・「内扉」,表題,副標題,出版社名などが,本扉,文章の内容を内扉
・「相添(あいぞえ)」,添付
・「小姓」,武将や大名の側で護衛や雑用の任についた武士
・「御小人(おこびと)」,江戸幕府の職名の一つ,調査や警備などに当たる
・「儀」,ことがら
・「勘場(かんば)」,江戸時代萩藩の地方支配役所の名
・「所務代」,在地の代官
三頁
・「抽垰」,地名(長州では峠を垰(たを)と呼んだ)
・「油川・広潟川」は,須佐地方の小河川名
・「蓬台」棒を二本に板を渡し,人を上に乗せ担ぐ
・「玉嶋」,須佐村の地名
・「石場」,須佐村の地名
・「同断」,前文と同じ
・「薄様(うすよう)」,薄手の和紙
・「組糸」,より合わせて作った糸
・「仕」,つかまつり
・「諸士」,多くの武士
・「内陣」,寺院の奥の部分
・「薄縁(うすべり)」,辺つき御座のこと
・「黄帝社」,中国の伝説の帝である黄帝を祀った社
四頁
・「縁高飯」,食器に盛り上げた,めし
・「三色煮しめ」,醤油などの煮汁がよくしみ込み味や色がつくように煮た料理
・「郷夫」,村の男
・「猩々緋(しょうじょうひ)」,黄色を帯びた深紅色のこと
・「胴蘭」,装備
・「大縄」,太い縄
・「切箔」,金銀の箔を色々の型に切り糊を薄くまいた地に振り落して文様とする装飾技術,屏風などに用いる ・「等顔」,雲谷等顔(うんこくとうがん) 天文十六年(1547)〜元和四年(1618)日本画家。戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した。毛利氏の御用絵師となった
・「御張子」木型に紙を重ねはり,乾いてから型を抜き取り作ったもの
・「切橡伝」,たるき伝えに構えつかえる
・「簀(す)垣」は,竹などを組んで伴った垣
・「旦那様」益田親施(ますだちかのぶ),益田家当主
・「伊豆様」長州藩家老毛利広包
・「長州藩代官の管轄宰判」奥阿武宰判・当島宰判
・「御台子」茶道具棚物の一つで一式かざるもの
                       以上

 ※日本下水文化研究会