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大名行列とトイレ事情(U)〜I大名行列の諸事情〜

講話曹:松田 旭正

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

1.はじめに

(1)大名行列と主要通行街道
 大名行列は参勤交代を基本とするが,行列の時期,規模,持道具などは幕府が細かく定めていた。また時期は基本原則として外様(とざま)大名が四月,譜代(ふだい)大名が六月ないし八月に行い,隔年,一年ごとに交代であった。
 参勤ルートは時代や通行ルート上(じょう)の大名との関係,また大名個人の好みにより,複数のルートを使用した。
 宝永四年(1707)の富士山の噴火の影響で,中山道を通行する大名が多くなり,東海道の宿場は寂(さび)れ,中山道の通行を幕府は規制するようになった。

 
五街道と主な脇街道(天保1830−安政1854)(図1)


 
旧国名地図・旧国都府県対照表(図2)

(2)旧国名図・旧国名都府県対照表
 明治四年(1871)七月に行われた地方制度改革で全国の藩が廃止され府県が置かれ,中央集権化が達成された。また同年末には北海道の外三府七十二県が置かれた。
 旧国名地図・旧国都府県対照表を(参考図2)比較することが出来る。

2.参勤交代の始まり

 「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は元和元年(1615)時の将軍秀忠が諸大名に下した十三条の制令があるが,その後三代将軍家光の時代,寛永十二年(1636)に制度が確立した。
 大名行列の構成と,規模はどのくらいであっただろうか?大名行列で代表的なものは,参勤交代であるが,参勤交代は大名による将軍への軍事奉仕と考えられ,「大名の行軍」を建前とした。この行軍の構成は,それぞれの,武家の単独基本構成から成り立っていてその基本構成を一騎(馬に乗る身分の武家(ぶけ)の事)と呼んでいた。
 武家には,若党(わかとう)(武家奉公人の最上位,馬に乗る資格がない軽輩(けいはい)),槍持ち,馬の口取り二人,草履取り,指物持ち,具足植(ぐそくひつ)持ち,挟箱(きょうはこ)持ち,手明き中間,など,八人から十人の従者がついている。

 
下図は加賀藩前田家参勤交代(図3)

 騎馬二十騎の参勤ではおよそ二百人の人数となる。例えば加賀藩前田家の石高は全大名中第一位で百万石。第四代藩主前田綱紀(つなのり)の時は行列の総勢四千人,この行列は二列縦隊で約四キロの長さとなった。
 さらに戦(いくさ)に必要な武器のすべてと,野営が出来る体制は常時維持しなければならなかった。
 城を出て戦をするには城の機能をすべて移動しなければならない,また食料や武器も当然移動しなければならないが,大名のセキュリティに必要な器材は最優先に運搬しなければならなかった。

3.大名の食事

 宿泊時の食事は基本的には宿(本陣)が提供するが,殿様の分だけは,中毒や毒殺の事態を警戒して,大名専用のお抱え料理人(図5)を同行し料理を作らせることになっていた。また大名専用の調理道具,食器,膳も携行し,大名行列に「膳所長持(ぜぜながもち)」がある。

 
大名専用の米と大名専用風呂桶(図4)


 
大名専用の「料理人」と食事作業方(図5)

 これは大名の食事を作るための料理道具(七輪,鍋,釜)を入れる長持ちの事である。
 さらに漬物桶には漬物石も入れ,水桶までも運ばせた。なかには焼いた餅を食べるために,炭を起こした火鉢も運ばせた大名がいたとの記録もある。

4.大名の雪隠

 雪隠の名称にはいろいろあった,例えば厠(かわや),手水場(ちょうずば),後架(こうか),等と呼び,越後では閑処(かんしょ)などとも呼んでいた。
 参勤交代の嚆矢(こうし)は加賀藩ということになっている。加賀藩の歴代藩主が参勤交代を行った回数は百九十回,江戸時代後期には約二千人程度が編成され,平均十二泊十三日を要したといわれている。
(日本最大の大名行列・加賀藩前田家)
 江戸までの道中は凡そ二週間近くかかったので,携帯用トイレなどを持ち運んだ。
 加賀藩十一代藩主,治脩(じしゅう)の行列が上田宿(長野県上田市)のはずれで,トイレが急に必要になり,近くに殿様が使えるトイレがなく,仕方なく「農家の裏に葦簀(あしす)囲に致し,土を掘り杉葉を下に敷き申し候」というトイレを急造した。
 殿様が使用している問二人の侍がボディガード を勤めた。

 
図は携帯用トイレの模型,図左が大便用,右が小便用

 大名が道中使うトイレは現在の様式トイレの型をした高さ約三十六センチ,長さ約六十センチ,幅三十センチの腰かけることが出来る台で,腰をおろす位置のところに大小の穴が瓢箪型にあいていた。
 また紀州藩徳川御三家,三千人の大移動の旅道具には藩主の便器を持参した。
 便器は○印をつけた長持ちに入れ,周囲に張り巡らす幕まで用意していた。
 一般の殿様は本陣に行列が近くなると「先番」と称する侍が,長持(ながもち)に雪隠の抽出筥(ひきだしばこ)を入れたものを持たせて,上雪隠(かみせついん)へ取り付ける。「先番」の侍は本陣に乗り込むと同時に,乾いた砂を筈(はこ)に入れ両便(べん)を受けるようにした。
 大名が到着されると両便を達せられる,先番の侍は,再びその砂を樽詰めにし国元に持ち帰った。幕末,将軍家茂(いえもち)が大阪湾を船で移動した時,将軍が用を足したおまるは海に投げ捨てられた,との記録がある。
 福岡藩黒田家では,領内を通過する多くの九州諸大名に対して御馳走を施した。行列の先触れ隊の到着が伝わると,藩の担当から宿場に人足や馬の手配が命じられ,道中に柴垣囲いの藁葺き屋根付の野雪隠まで整備した。長州藩毛利家では「木造の仮設雪隠」を主要街道に配置した。
 行列では「風呂」の後ろに「小休旗印」を持った者がいる。休憩時に使用された旗で,大名が道中で用を足す時に立てられた旗である。大名が本陣までに用を足す場合,御虎子(おまる)を使用するか,幕を張って用足しをした。
 大名行列においては,道中,予想もしない珍事が起こることはいつの時代も変わらない,尾張藩第二代藩主徳川光友(みつとも)は,〈旅行(たび)いずかたにても他の雪隠(せついん)へ御入りの事なし〉他の便所には絶対に入らなかった。
 専用の折りたたみ式トイレを挟み箱にいれ,家来にかつがせて持ち歩いた。便意を催すと自分で指示して「あそこに立てろ」,野中は茂みの中,提の陰,などに立てさせた。
 このトイレは良く出来ている。
 石ころが多い地面では,畳二枚分ほど石をどけさせ,柱を立て,もへぎ色の幕をはる。
 野原に幕をたてても目立たぬよう,萌黄(もえぎ)色の迷彩テントであった。このテントの中に短い柄の鍬をおいていた。光友はお供を近くに寄せ付けず,一人で仮設トイレに入り用をたした,大便が出ると自分で短い柄の鍬(くわ)で土をかけ石まで撒いて擬装した。尾張藩はおおらかで合理的なものを好む藩風だから,このような記録も残っている。(参考文献:日本偉人言行資料)



 
 

 

5.大名の風呂

 大名行列で「風呂」とあるのは大名が入る風呂で,大名は宿泊する本陣の風呂には入らない。国元から運んできた大名専用の風呂を,本陣の中に持ち込み入浴し,風呂に使う水は布で漉して使った。加賀藩の場合水まで持参したとの資料がある。 五右衛門風呂と呼ばれる風呂があるが,鉄釜を竃(かまど)に据え付け,下から薪を炊き沸かす風呂のこと である。
 水面に浮かんだ木製の底板を踏んで入浴するか,木製の下駄を履いて入浴する方法もある。大名の場合は危険だから据え風呂に入ることはなく,直接焚かれた風呂に入るのではなく,別の場所で沸かしたお湯を桶で運ばせ,風呂に入らせた。
 本陣に持ち込んだのは風呂だけでなく,風呂から出て大名が座るための腰掛や風呂からお湯を汲み出して体に掛けるための手桶まで運ばせた。
 大名専用の風呂を運ぶ人足はおよそ四人であった。

6.大名行列に予備として必要な物

 

 大名御換乗物 一丁  御夜具長持 一棹,御 明ヶ長持(予備の長持ち)一棹,母衣蚊帳(ほろかや)(矢を防 ぐために鎧の背に負うかやの様なもの)一荷,近 習用(殿様の側近に仕える者)の日用品

7.御宿割川場兼御徒目付(目付:老中に直属の観察官)

  大藩では宿割,馬割,川割,は二人であった。
 「宿割」とは一足先に宿場へ行き,殿様の泊まる本陣,脇本陣,家臣の階級によっては本陣近くの旅寵(はたご)に配分する役職。
 「馬割」とは近在の村から集めた馬を割り振る役職。
 「川割」とは渡河の順番を決める役職。

 

8. 本陣における移動タイムスケジュール(大黒屋日記抄による)

 中仙道・馬籠宿本陣の様子によると,嘉永二年(1849)三月,加賀藩十三代藩主前田斉泰(まえだなりやす)候が中山道経由した時の状況によると。
 「先荷物」日用品人足は,藩主の行列に先立って,二宿から三宿前に本陣に入り,荷を解いた
 「宿割奉行」行列二千人の宿札をそれぞれの宿に同時期に届けた。「本陣検査役」の一行は,大工,細工人,料理人と共に先行している。
 「御跡小払役」は行列の後から買い物代金の支払いをしてまわる役職
 「御判留人」行列の出発後の不始末を検査し,旅籠の亭主から紛失物や傷物,宿賃の不払・飲食費の踏倒しのないことの確認の請書を取って廻る。また供につく二人の家老の内一人は,藩主の行列の一日もしくは三宿遅れてつく慣例であった。

 

9.大名が宿泊した旅籠(はたご)本陣

 本陣は大名や公家などの休息や宿泊のために設けられたもので,普通の旅籠(はたご)に比べると格段に大きく,建物も立派であった。
 本陣とはもともと戦場において大名のいる所を呼んだもので,武士はいつも戦場にいるよう心掛けなければならないという意味から,大名の休泊する旅籠(はたご)を本陣と呼んだ。

10. おわりに

 「お江戸日本橋七ッ立ち…」の歌に「七ッ立ち」とは夜明け前の,仄(ほの)明るくなった頃を「明け六つ」(昔の時刻は不定時法)夕方は日没後のまだいくらか明るい頃を「暮れ六ッ」と定め,夜中の十二時に相当する時刻を九ッとして,一刻ごとに,八ッ,七ッ,と減っていく,幕末の里程で江戸日本橋と京都三条大橋間は百二十五里二十丁,(メートル法では五百二`)の東海道を十日で歩けることになっていて,毎日平均五十`あるくのが標準とされていた。
 東海道五十三次というが,起点の江戸日本橋と終点の京都三条大橋は五十三次に入れない。五百二`を宿場数五十四箇所で割ると,九・三`,東海道の宿場は約十`間隔で配置されていた。
                       以上


*参考文献
1,実録 参勤交代 別冊宝島
2,大名行列(第31回企画展)川越市立博物館
3,大名行列の秘密 安藤健一郎著 NHK出版 生活人新書
4,旅の民族と歴史2 大名の旅 宮本常一 編著
5,数字で読む江戸時代の東海道 石川英輔
6,幕末百話    篠田鉱造著 岩波文庫
7,美作津山藩第七代藩主 松平斉孝公の行列図