屎尿・下水研究会

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環境講座(10)

企画:屎尿・下水研究会

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

平成26年度の講話

I 有料トイレのルーツ 〜公衆トイレの あり方を考える〜
      (平成26年10月19日,山崎達雄氏)

 最近,多目的機能を有する有料トイレが各地で設置されていますが,戦後直ぐの京都・大阪で既に利用されていました。そこで,有料トイレのルーツを探るとともに,今後の公衆トイレのあり方を語ってもらいました。

新しい形の公衆トイレ
「オアシス@akiba」は,東京・千代田区が8年前に設置した100円トイレ(スタッフが常駐)で秋葉原駅前にあり,1日当たりの利用者は男性200人,女性40人です。経営的には赤字ですが,外国人が利用するファクターもあり,来る2020年の東京オリンピックに向けて改善を考えているとのことです。
 長野県・軽井沢の観光会館にも100円トイレがあります。1日当たり140人の利用者があり,化粧室,着替え室もあります。
 名古屋駅の近くの10円トイレは,料金を入れる人がほとんどいないようです。
 京都,清水寺の完全自動洗浄有料トイレは,システムは整っているが利用者は1日100人に満たない状態です(平成24年に廃止されました)。

近世の貸し雪隠
 落語に出てくる江戸の「開帳の雪隠」が有料トイレのルーツ(但し,これは稀なケースで大半は無料でした)かと思われます。歌川広景の「江戸名所道外尽」に公衆トイレが描かれています。
 幕末の京都(人口50万人)には,辻小便桶が3,500箇所置かれ,ここで女子も立って小便をしました。臭気はひどかったらしい。石川県・金沢にも似たような辻小便桶があり,屏風絵に描かれています。
 これらはいずれも私設で,設置者は溜まった尿を肥料として売却あるいは自家使用していました。

小便桶から辻便所(公衆便所)へ
 明治に入り外国人との交流が増し,屋根を設け囲いをした公衆便所がみられるようになりました。近代的な公衆便所のはしりは,浅野氏(浅野セメント創業者)が横浜に設置したものでしょう。京都では小便桶を整理・改善し,690箇所の私設の公衆便所へ移行しました。その後,京都で開催された第4回内国勧業博覧会を契機に,京都市は私設の公衆便所を買収して,公設化しました。ちなみに現在,京都市には96箇所の公衆トイレがあります。

博覧会・共進会の有料便所
 第5回内国勧業博覧会(明治36年,大阪)では,有料便所が設置されました。皇族方がお出でになり,欧米人も来場することを考えてのことです。洋式の高等便所は,男子便所が10銭,女子便所(化粧室付き)が15銭でした。有料便所(上等,中等を含む)が15箇所だったのに対し,無料便所は6箇所だったそうです。
 東京勧業博覧会(明治40年,入場券10銭)では,有料便所が乱立しました(設置者が複数で競い合い,姿見や化粧室を置いた処もありました)。3銭の模範高等便所は利用者が少なかったため,途中で2銭に値下げしたそうです。有料便所に関わる人件費も賄えない程度の収入で,営業を中止する処もありました。
 一方,無料便所は不潔であったにもかかわらず,混んでいたとのことです。これを反省して,東京大正博覧会では,有料便所の設置をやめ,代わりに無料のきれいな便所を設置しました。しかしその後の他都市で開催された博覧会では,あいかわらず有料と無料の両方の便所を設置しています。総じて,博覧会の入場料に比べて,便所の使用料が相対的に高過ぎるきらいがありました。

内国勧業博覧会の高等便所が駅に広がる
 東京市が明治39年に,東京・浅草橋駅前に番人を置き1銭を徴収する有料公衆便所を開設しました。絵葉書から得た情報ですが,駅の有料トイレ代が2銭のとき,路上での立ち小便に対する罰金は50銭でした。

新橋駅,上野駅,京都駅の高等便所
 明治43年に新橋駅に,2銭銅貨を入れると「使用中」と云う札が出る高等便所が新設され,1日に50人ほどの利用客がありました。化粧室には姿見,帽子掛け,荷物置き場があり,用便紙も備えられていました。西洋式が5つ,日本式が3つでした。
 上野駅のものには,外国人用と日本人用の区別がありました。
 外国人観光客が多く訪れる京都駅(2代目,大正3年竣工)には,2銭銅貨を入れると自動的にトビラが開閉する有料便所(水洗式。洋式が2つ,和式が2つ)が設置されていました。トイレットペーパーも使用されていたようです。新駅見物が市民の間で話題となり,有料便所も評判になりました。流された汚物は駅構内に設置された水槽便所(屎尿浄化槽のルーツ,ろ過処理)で処理され.その処理水が排水されました。

観光京都における外国人誘致のための昭和初期の有料トイレ
 旅館でも,腰掛式の水洗トイレの必要性が認識され始めました。また,京都博物館や丸山公園に有料(5銭)の洋式便所(水洗式)が設置されました。うどん・蕎麦代が7銭の頃です。

戦後の有料便所一四條トアレ〜
 昭和22年,京都・四條の繁華街に開設された「四條トアレ」は,立ち小便対策としての意味合いがありました。使用料は10円。洋風・和風の男女別トイレで,女子用にはビデも付き,幼児用ベットも備えられていました。物品販売や観光案内のサービスカウンターがあり,秋葉原の「オアシス@akiba」の設備をはるかに超える多目的トイレでした。ライターの修理や荷物預かりや伝言カードの預かりなども行なっていました。1日平均106人の利用者で,フランス語で便所を意味するトアレットから名付けられました。

大阪駅前の有料トイレ〜梅田トイレット〜
 開設は昭和24年で,使用料は20円でした。利用者は1日平均200人,多い時は700人。売店の他,小奇麗な待合室があり,お茶も出され商談もできました(1日に4組から5組が利用したそうです)。ここは,林芙美子の新開小説『めし』の題材になった処です。これがさらに発展したのが,現在の休憩室付有料トイレ・「アンジェルベ」です。使用料は1時間300円。着替えもでき,ハーブティーなども飲み放題です。地の利が良いことから,平日の昼間で30分待ちの大盛況です。
 東京オリンピックを控えて,有料トイレ設置の全国展開が今後期待されますが,一例として,別府市の有料トイレ(回数券もあるそうです)の歴史が紹介されました。

これからの公衆トイレを学生に聞く
 「きたない,暗い,こわい,臭い,壊れている」のイメージがあるとのこと。基本は洋式を,防犯対策をもっと,管理も行政が行なうのではなく別の方策(民間にまかせるなど)を考えて欲しいとのことです。

図32 消毒防臭模範便所
(「風俗画報増刊第二編 東京勧業博覧会図絵」(京都府立図書館館所蔵))

 有料トイレの料金は100円程度が妥当なのではないでしょうか。事務所ビルなどのトイレの開放も積極的に検討したらどうでしょうか。今後,休憩室を兼ねた有料トイレが必要とされるのではないだろうか。「トイレは大切に使いましょう!」。



U 下水道マンの東京散歩 〜立川,国立,小平〜
      (平成26年11月16日,地田修一氏)

 講師らが「水道公論」に連載している「下水道マンの東京散歩−職場界隈探訪」の記事の中から,立川,国立,小平の今昔を語ってもらいました。

立川(流域下水道本部・錦町下水処理場界隈)
 立川市の重要文化財に指定されている日本画「立川村十二景」(明治後期から大正前期の情景,馬場吉蔵氏画)を追体験しました。
 「立川駅前の茶屋」:汽車を待つ人たちが利用し,お茶代は2銭でした。若山牧水がここで「立川の駅の古茶屋さくら樹のもみじのかげに見送りし子よ」を詠んでいます。茶屋はその後料亭へと発展しました。
 「所沢街道の八店」:砂川へ通じる道の西側一帯は山林原野と桑畑でしたが,後に,飛行場(大正11年に軍民供用で開港)となります。昭和8年に民間の航空会社は羽田に移転し,立川は軍都へ。
 「多摩川河畔丸芝鮎魚場」:川に屋形船を浮かべ,鵜飼による漁を楽しみながら,とれたての鮎を食しました。昭和10年頃まで続きました。
 「日野の渡し船」:増水する夏季は渡し船。荷馬車を乗せた船がロープに船を引っ掛けて,船頭が一人で棹を操っています。このやや下流にコンクリート製の日野橋が架かったのは大正15年のこと。この橋のたもとに立川市の錦町下水処理場があり,その入り口に「日野の渡し下水碑」が建っています。
 郷土史家・三田鶴吉氏の思い出話(「多摩川中流域の漁労」):近くの河原では,砂利の採掘が行なわれており,当時は手掘りで,木箱に入れ荷馬車で駅まで運んでいました。関東大震災後の東京の復興に貢献しました。

国立(北多摩二号水再生センター界隈)
 郷土史家・原田重久氏の論文「国立大学町の開発事情」(『多摩のあゆみ』第6号):国立の発祥地である谷保村は甲州街道沿いの純農村で,国立駅前に広がる文教地区一帯はかつて雑木林。肥料としての落葉の採取地や薪炭材の供給地として定期的に伐採し維持されてきた,通称ヤマと呼ばれていた処です。開発話が持ち込まれたのは大正13年で,80万坪余が学園都市用地として買収されました。昭和27年に文教地区に指定されました。
 地元在住の山口瞳氏の随筆(『行きつけの店』):「ロージナ茶房」は画廊喫茶であり,骨董に目が利いても店内をアンティークで飾りたてるような愚かなことをしない。だから若い人も気易く入ってこられる。… いま「文蔵」(焼き鳥屋)は国立の名物になり名所になりかかっている。そこは町の誰もが気軽に遊びに行ける集会所のようになっている。前者は文教地区,後者は旧谷保地区にある店です。国立の文化的風土は,この二つの店に代 表されるように異なった顔をもっています。

小平(ふれあい下水道舘,多摩川上流水再生センターの高度処理水が流れる玉川上水の界隈)
『郷土こだいら』(小平市教育委員会):武州多摩都小川村の名主小川弥次郎が村内を流れる用水に水車をかけたのは明和2(1765)年のことです。田が少なく,生鮮野菜の産地としては江戸に遠すぎ,したがってこの辺りの主要農産物はムギ,ヒエ,アワ,ソバなどの雑穀であったので,これを製粉しないと商品にならない。弥次郎はそこに目をつけて水車を利用しての製粉を思いつきました。手回しの臼しかなかったところへの水力利用の水車の出現は,村にとってはまさに「産業革命」でした。
 玉川上水は,貴重な歴史的土木文化遺産として平成15年に「国の史跡」に指定されました。これに先立つ平成11年にすでに,玉川上水周辺の雑木林を含めた一帯は,東京都歴史環境保全地域に指定されています。
 旧鎌倉街道は東福寺の南でJR中央線の西国分寺駅にぶつかるが,およそ1km南に進んだ国分尼寺跡前の木立の中に凹状の200mほどの旧道跡が残されています。
 予期せぬ情報収集:「国分寺情話」と題する詩を書いた色紙を,姿見の池近くの蕎麦屋で見せてもらいました。その一節に,『歩いてごらんよ むさし野は 風が耳うつまわり道 鎌倉街道陰に泣く 落ちる枯れに似るような 一葉の松のものがたり 多摩の流れにあゝ風が舞う』と。

図33 再生水の玉川上水への導水口


V 水環境と農業
      (平成26年12月14日,田中康男氏)

 農業に肥料は不可欠なものであるが,適正に使用しないと水環境を悪化させてしまいます。肥料がどう作られ使った後どこへ行くのかを追いながら,農業と水環境との関係を考えてみました。

レ・ミゼラブルと下水道
 ビタトル,・ユゴーの「レ・ミゼラブル」(1862年刊)では,主人公のジャン・ヴァルジャンが重症のマリウスを背負いながらパリの下水道を逃げ歩く場面辺りで,話の筋とは無関係な下水道論が延々と展開され,「動物や人の排泄物を水に流さないで,土地に施せば全世界の人間を養うことができるだろう」と云う含蓄のあるフレーズが述べられています。

江戸時代の肥料は?
 「大江戸リサイクル事情」(石川英輔著)によると,江戸の水環境がきれいだったのは屎尿を汲取って農地に施肥する「屎尿のリサイクル」がうまく廻っていたからだそうです。

肥料増産と人口爆発
@空気から窒素肥料ができる!世界を変えた発明 窒素ガス(大気中の)と水素ガスを高温高圧下で触媒を用いて直接化合させてアンモニアを生成するハーバー・ボッシュ法は,その後の世界を変えた大発明(1906年)です。これにより窒素肥料の合成が可能となりました。
 このほか,鉱物由来のリン酸肥料,カリ肥料も工業生産されるようになり,農地の生産性が高まりました。農作物の増産が可能となり,人口も上昇に向かい(20世紀の100年間に世界人口は16億から63億と4倍近く増加しました),これを養うためにさらに肥料が増産されることとなり,現在では1960年に較べて窒素肥料は10倍,リン酸肥料は4倍になっています。
A日本の肥料需給の状況
 日本では,リン鉱石もカリウム鉱石もすべて輸入に頼っています。リン鉱石:中国,ヨルダン,モロッコから80%を輸入。カリウム鉱石:カナダから80%を輸入。さらに窒素肥料も50%は輸入(主に中国から)。

肥料が引き起こす環境問題
 過剰な施肥に伴う肥料分の水環境への流出は,富栄養化現象(アオコや赤潮の発生)の原因の一つとなっています。
 大気に舞い上がったアンモニアが硝酸となり,酸性雨が降り森林を枯らしたり,湖を酸性化することが社会問題になっています。また,一部はN2Oガスになるが,これは温暖化ガスの一つ(CO2の300倍の温暖化効果をもっています)です。
 このほか,肥料成分が硝酸態になって地下水を汚染することがあります。硝酸態窒素を過剰に含んだ地下水を飲用(規制値は10mg/l)すると,特に乳幼児ではチアノーゼ(血液中の酸素が欠乏して鮮紅色を失い皮膚が青色になる)を起こすことがあります。

これからどうしたら良いのか?
@都市でできること
 下水汚泥をコンポスト化し,これに含有される窒素,リン,カリウムを農地に戻し再利用することが,近郊都市の一部で実施されています。
 神戸市では下水汚泥中のリン酸成分を結晶化して肥料を作っており,福岡市でも同様の試みを行なっています。
 コンポスト化もリン酸の結晶化も,ともにコスト問題を抱えています。
A農業でできること
肥料を節約しよう
 肥料の施肥は必要最小限にとどめるべきです。土壌診断によると,有効態リン酸がすでに過剰に蓄積している畑地がかなりあるそうです。あえて施肥する必要のない畑地が増えているのです。適正施肥の励行は,農家側の理解と努力が必要です。
 作物が直接利用できないリン酸化合物を特定の微生物の力を借りて,有効態リン酸に変換する研究が進められています。肥料を施肥せずに農地に蓄積されているリン酸を活用しようとするものです。

家畜糞尿から肥料を作ろう
 日本の畜産業は,牛を500万頭,ブタを900万頭,ニワトリを3億羽飼育しています。これらから大量の糞尿が発生するが.それらに含まれている肥料分は施肥した化学肥料とほぼ同じ量だそうです。発生した畜産汚水は農家単位で生物処理されています。豚糞尿の多くはコンポスト化され,付近の農地に施肥されているが,地域によっては,例えば宮崎県などでは生成されたコンポストが過剰となっている処もあります。

図34 屎尿の連鎖網
(はばかりながら「トイレと文化」考,文芸春秋,1993.6)

 これらとは別に有効成分を回収する技術があります。汚水に空気を吹き込むとアルカリ性(PH8)になり,リン酸とマグネシウムとアンモニアとが結晶化(リン鉱石と同じ成分です)してくるが,この物質はステンレスなどの金属の表面に付着する性質があり回収できます。また,珪酸とカルシウムとを重合させた資材を汚水の中に入れると,リン酸がこの表面に吸着され高濃度のリン酸肥料(乾燥させ粉末にします)ができます。脱色・消毒作用もあり,一石三鳥の効果が望めます。現在,実証実験を養豚農家で行なっています。

畜産分野の過剰な窒素を減らそう
 家畜に与える餌の成分をうまく調整し,勿論,肉質に影響しないことが前提ですが,排泄物中の窒素を削減させようする試みがあります。餌のアミノ酸のバランスをうまく整えれば,排泄される窒素分を減らすことが可能とのことです。
 また,ヒターゼと云う酵素を餌に添加すると,排泄物中のリン酸が減少することがわかってきました。
 これらの新しい試みが農家へ普及するか否かは,経済性とPRとにかかっています。



W 下水処理技術の発展
    (平成27年1月18日,佐久間真理子氏)

 下水を排除する考えは古代からありましたが,下水処理の始まりはそれほど古いことではありません。TGS(東京都下水道サービス)で研修業務に携わっている講師に,簡易な処理から高度処理までの下水処理技術の発展を辿ってもらいました。

水環境と下水処理
 下水道には三つの役割(生活環境の改善,浸水の防除,公共用水域の水質保全)がありますが,ここでは公共用水城の水質保全についてみていきます。

 昭和30年代の東京・世田谷:屎尿の多くは汲取りで,その他の生活雑排水のほとんどは排水路を通じて川や海に垂れ流されていました。
 河川の汚濁が進む:昭和30年代の高度経済成長に伴い,河川の水質汚濁が進み,隅田川のボートレースが中止になったり,源頭水がなくなった小河川には投棄されたゴミが溢れたりと,都市生活にも悪影響を与えるようになり大きな社会問題になりました。
 下水道の整備:水質汚濁を解決する対策として,下水道の整備が求められるようになりました。特に,昭和39年の東京オリンピックを契機に急ピッチで進められ,水再生センターが次々と建設されました。
 多摩地域でも,昭和30年代後半になると人口が急増し,自浄作用では処理しきれないほど多量の生活雑排水が多摩川に流入するようになりました。多摩川流域には6つの水再生センターが建設され,中流域の多摩川原橋での下水処理量は河川流量の半分を占めています。
 多摩川原橋地点でのBODの経年変化:水質の汚れを表す指標の一つにBODがあり,有機物の量を表しており,代表的な環境基準項目です。環境基準が定められた昭和46年当時から環境基準(C類型・BOD5.0mg/l)を超える値が続いていたが,その後の下水道の普及に伴い水質は徐々に改善されてきました。平成13年にB類型(BOD3.0mg/l)と規制ランクが厳しくなったが,現在ではこの基準値も下回っています。ちなみに,C類型はコイが生育できる状況,B類型はサケ・アユが生育できる状況を示しています。
 多摩川の水質改善に伴い.アユの遡上数も増え,平成19年には200万匹,平成24年には1,000万匹を超えたと推定されています。

下水道の史的変遷
 ヨーロツパでは糞尿を肥料として使わなかったので,道路の浅い溝などに捨てたり,窓から道路に投げ捨てていました。このため,道路は汚物まみれで不衛生でした。下水は,居住地から離れた所へ排除・放流されるだけでした。

 ロンドンのコレラ大流行:1849年と1853年に発生。川の下流を水源としている水道会社では死亡者が大きく,川の上流を水源としている水道会社では死亡者が小さい,と云う傾向がありました。川の下流を水源としている水道会社の利用を停止することで,流行の拡散を防ぐことができましたが,これを契機に抜本的対策としては「下水は処理しなければならない」との考え方が生まれました。
 日本では江戸時代に,農民が都市部の屎尿を汲取り,農地に施肥するリサイクルシステムが定着し,大正の半ばまで続きました。

下水処理の方式
 沈殿→ろ過→散水ろ床→活性汚泥法と進化し,現在では,有機物ばかりでなく窒素やリンの積極的な除去が志向されています。

 標準活性汚泥法:活性汚泥中の通性嫌気性細菌は,水中に遊離酸素と結合型酸素が混在している場合,遊離酸素を優先的に利用して有機物を酸化分解します。

 嫌気−好気法:好気的条件では,活性汚泥は必要とされる以上のリンを細菌の体内に取り込みます。一方,遊離酸素も結合型酸素も存在しない嫌気的条件では,その蓄積したリンを放出します。嫌気と好気の状態を繰り返すことにより,リン含有率の高い活性汚泥をつくり,リンを水中から除去するものです。

 循環式硝化脱窒法:アンモニア性窒素は硝化細菌の働きにより硝酸にまで分解されるが,水中に遊離酸素がなく結合型酸素のみ含まれる場合,脱窒細菌がこの結合塑酸素を利用して,有機物を酸化分解します。このとき,硝酸は還元されて窒素ガスとなり空中に揮散し,水中から除去されます。

図35 嫌気−無酸素−好気(A20)法

 嫌気−無酸素−好気法:流入下水と返送汚泥が,まず嫌気槽に入り,リンの放出と有機物の摂取が行なわれます。次の無酸素槽には,好気槽から硝化された液が循環され,その中の硝酸性窒素などの持つ結合型酸素が呼吸に使われ,脱窒が起きます。さらに,好気槽では有機物の酸化,リンの過剰摂取,窒素の硝化が行なわれます。混合液の一部は無酸素槽へ循環されます。有機物,窒素,リンをともに高い効率で除去するものです。



X 台所のディスポーザと下水道
       (平成27年2月15日,清水洽氏)

 講師は21世紀水倶楽部の会員でもあり,10年ほど前から検討を加えてきた本演題について解説していただきました。

問題意識
 トイレからの汚物を流せる下水道で,何故,口に入る前の生ゴミを流すことができないのだろうか?
 生ゴミを粉砕処理し,水と一緒に下水道へ流すことができるディスポーザ導入の是非を考えてみました。
 直投型ディスポーザにより生ゴミを下水道へ投入することの安全性,汚濁負荷量の増加,排水設備,管渠への影響,下水処理場への影響,廃棄物行政との関連性などを検討しました。

ヒヤリング
 北海道歌登町におけるディスポーザ導入の社会実験,ディスポーザメーカーからのコメント,本件に対して関心の高い北海道地区での調査報告,コンサルタントからの提案,群馬県・伊勢崎市における普及の現状,岐阜市での取り組みなど情報収集に努めました。

ディスポーザの現況
 台所から下水管までの間での閉塞に関してですが,生ゴミをディスポーザで処理している時は水を流していますので,勾配10パーミル(1mで1cm下がる勾配)を確保しておけば,問題なく破砕ゴミを流すことができます。
 古くから下水道を整備してきた岐阜市における多くの伏越し幹線でも,通常の管渠清掃を行えば特段のトラブルは起っていないとのことです。
 処理場での汚濁負荷の増加については,BOD,SSとも2〜3割増加があるものの,流総指針の範囲内とのことです。
 また,ゴミ焼却場では,廃棄物から水分の多い生ゴミが除かれたことにより,廃棄物の発熱量が上がり発電量が増加しています。
 一方,下水処理場では汚泥量が増加し,バイオマス利用を増やすことができます。ディスポーザの導入を推進している伊勢崎市や富山県・黒部市では,下水処理場でのバイオマス発電によるエネルギー回収を直投型ディスポーザ普及のうたい文句にしています。

図36 直接型ディスポーザの処理フロー

 東京都,横浜市,大阪市などの下水道を早くから整備してきた都市では,合流式の幹線を多くもっており,雨天時における河川への放流による水質汚濁の問題や下水処理場での負荷の増加等の理由から,前処理設備を完備しているマンションなどではディスポーザの設置を認めているが,直投型ディスポーザは積極的には認めていません。
 ディスポーザの価格にも課題があります。日本では機械の保障と安全面の問題などで3〜5万円となり.取り付け工事を含めると10万円以上となっています。5万円以下ならば.かなりの需要が見込めるのではないでしょうか。



Y 大名行列とトイレ事情
      (平成27年3月29日,松田旭正氏)

 大勢の人々が一斉に行列を組んで旅をした大名行列に際して,行く先々の用場(トイレ)はどのようにして準備したのだろうか。萩の大名・毛利氏に関する古文書(『御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)』をひも解き,その実態を探りました。

参勤交代のコース
 萩から江戸へは,萩から三田尻(防府にあった湊)までは萩往還(山陰路と山陽路とを結ぶ街道)で,三田尻から大阪までは海路で,そして大阪から江戸までは陸路でした。下向(江戸から萩へ)の場合は,大阪・三田尻間の海路を1725年からは陸路に変えています。

行列の規模
 参勤交代や御国廻(藩主の領内巡視。所要日数は17日程度)は,1,000人規模でした。領内での人馬の徴発は,例えば1684年では人夫523名,馬831疋でした。
 参勤交代での領内通行の際には,行列に長柄,鉄砲,持筒.玉箱等が加わったため,この分の人数が増えました。途中での大小の小休止(用便を含む)を計算に入れると,先頭から最後尾まで2kmの行列が時速約5kmで移動したことになります。
 行列は往復とも山口,三田尻で宿泊し,この他各所に設けられた駕籠建場(御国廻の時,藩主が駕龍を止めて休息する場所)や御休所で暫時休息しました。

お茶屋などの施設
 萩藩では「お茶屋」は藩主の休泊施設を指しており,萩往還の「お茶屋」は佐々並,山口,三田尻にあり,この他にも「出茶屋」,「お休所」と呼ばれる施設があり,それぞれに藩主用の御小用所,御仮雪隠が設けられていました。
 近辺に茶屋や民家などがない所では,柴垣で囲った,間口二間に奥行き5〜6間程の,ワラを菰のように編んで覆った小屋の中に,御仮雪隠,御小用所,御手水鉢を設置しました。
 藩主一行の行列が萩を出発しておよそ5kmの処にある最初の休憩地が,「悴坂(かせがさか)御駕籠建場」です。ここは床や囲炉裏を備えた常設の休憩所だった処で,国指定史跡になっており,往時の施設が古図をもとに復元されています。

1742年の御国廻の行程
 9月15日萩御発駕,10月4日帰城,行程17泊18日。合計道程約455.5km,1日平均歩行距離約25.3km。全行程の御泊・御休(トイレ)回数69回,途中にある休憩施設52箇所に用便施設を設けた,とあります。

藩主御国廻の覚え
 藩主が外出する時,本陣や民間の宿などが付近にない場合には,「仮設のトイレを設置する」よう家老から代官へ指示を伝えた記録が残っており,1696年(4代藩主の頃)には,こんな「覚え」が伝達されています。
「お湯殿雪隠の儀,一昨年,上使お通りの行事で使用したものを使うこと。新しく板を取り換え,上塗りして済ますこと。お泊りが替わった所は新しくするよう申し出ること」云々。そして最後に「このたび準備のこと,できるだけ「簡素に」を指示され,すべて一般農民や庶民に迷惑をかけないよう,みんなのためによろしく指示されるよう」と,結ばれています。
 厳しい藩財政と,藩内の実施困難な社会情勢を色濃く反映した文面です。特に,費用の大半を負担する領民は苦痛を感じていました。そのため,7代藩主になってから「御国廻」の行事は廃絶されました。

【参考】
萩の辻便所据付願
 明治の初期,萩では往来で立小便をする者が多く「長州のつれ小便」と言われました。明治12年6月22日,古萩町の吉武亀之助は,郡長の口羽良助に「尿汁桶据付に付御願」の願書を出しています。吉武は「萩の市中・市外とも通路端に尿水が流れ,不浄で臭気もはなはだしい。この溢れ出る尿水を受け溜めれば,田畑耕作の一助になるし,往還筋も自然に清浄になる」と,考えたのです。
 実は,吉武はすでに明治5年に同じような願いを出しており,早速聞き届けられ,数百カ所に据付けています。ところが,年数を経るにしたがい次第に破損し,またいたずらをする者も多く,毎年の修復で経費がかさみ,借財も多く桶据付が中止同様になっていました。
 そうした状況のなかでの再度の願書で,「尿汁桶を各町村455カ所に据付させてもらい,その冥加金(一種の税金)として今年から毎年3円あて上納したい」と云うものでした。
 路上での立小便の風俗習慣が,明治初期の萩市中でも行なわれていたことの証左です。したがって,江戸時代の大名行列において,一般の藩士にもこのような習慣があったのではないかと推察されます。

一乗谷朝倉氏遺跡におけるトイレの復元
 戦国時代の100年間にわたって繁栄した朝倉氏の一乗谷の城下町(人口1万人余,福井県)は,織田信長勢によって炎上させられました。その後この地は放棄され水田となり,遺跡は当時のままの状態でそっくり地下に保存されていましたが,昭和43年から発掘調査が開始され,かつての町並みが復元されました。井戸やトイレも当時の具体的なイメージを膨らませることができます。

図37 藩主毛利敬親公御国廻り行列絵図