屎尿・下水研究会

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環境講座(6)

企画:屎尿・下水研究会

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

下水道に関する講話(2)

U 東京・下水道よもやま話
     (平成23年10月23日,新保和三郎氏)

 講師の新保和三郎さんは昭和26年に東京都水道局下水課に入られた方で,東京都が下水道事業を戦後本格的に展開するに当たり模索した行財政計画の軌跡を振り返っての感慨をざっくばらんに語っていただきました。
 冒頭,新保さんも出演している広報番組「こんにちは東京 地下1世紀1万キロ」(昭和57年,テレビ朝日,30分)を上映したほか,テキストとして屎尿,下水研究会・文化資料−3「論考−トイレと下水道−」(第2〜3編は新保さんの論文)を席上配布しました。

東京都提供広報番組「地下1世紀1万キロ」
 東京の近代下水道開始100周年に当たって製作された番組で,新保さんが神田下水(デ・レーケの指導のもと石黒五十二が設計),長与専斉の松香私志,森鴎外の衛生談,中島鋭治による処分場を含む合流式下水道設計の実施,敗戦時には旧15区の80%が普及していたことなどについて,また,季家正文さん(「厠考」の著者)が厠,糞尿の肥料としての利用,西欧との水洗化への認識の相違,財政難・戦争による水洗化の遅れなどについて,さらに.松下行雄さん(東京都下水道局)が水需要の増大,河海の汚染,オリンピック開催(昭和39)に伴う下水道工事の促進,45年の公害国会以後下水道事業が急伸,建設財源が膨大化,荒川以東の普及の遅れ,下水道普及で河川水質が改善,区部は昭和60年代に100%普及を目指すことなどについて,神田,三河島,森ヶ崎などの現地に出向いてインタビューに答える形で説明しています。
 このほか,公共下水道の整備が遅れたことによる浸水被害の多発や多くの未水洗化便所を抱えている地域(周辺6区)の担当課長や一般住民の方々も出演し,下水道の早期実現を訴えています。

「東京・下水道よもやま話」
 昭和26−35年頃【職員数553名(昭和26年)】
 広報映画「汚いといったお嬢さん」(昭和25年)を作り,下水道事業の重要性をアピールした。当時の下水課は既存施設の維持管理で手一杯でした。23区内の面積普及率が20%で,処理場は三つ(三河島,砂町,芝浦),ポンプ所は15ヶ所の時代です。カーボン紙での複写,計算はソロバンが主で,掛け算・割り算はタイガー手回し計算機で行なっていました。
 昔使っていた汚泥運搬船を売却する事務処理をしたことを覚えています。現場へ行くには,近くは自転車や荷車で,少し遠いところは都電を使いました。昭和26年に大手町にトイレットショールームが開設され,家庭雑排水を水洗水として利用する水洗トイレが展示されていました。
 昭和27年に下水道使用料を改訂し,それまでの水道料金の10分の3の一律の料率を,処理地区は10分の3,未処理地区は10分の2.5(その後に2に)と二つの区分に分けました。下水道事業に公営企業法が適用されたのは昭和27年です。三崎町での屎尿の下水道管への投入に関連して,その統計資料を作成する事務を担当しました。
 昭和33年に,岩波映画が下水道に関する映画(ナレーションはNHKアナウンサーの高橋圭三氏)を制作しています。清掃部局との合併の動きもあったが,昭和34年に水道局内で下水道本部へ昇格しました。これに関連して,「下水道は上水道と一体である」,「下水道事業の在り方」,「東京都下水道財政の推移」などの諸論文の原文の執筆に関わりました。
 これらの論文は席上配布の文化資料−3に復刻されています。「東京の水道」(佐藤志郎著,昭和35年,都政通信社刊)の下水道の部の原文も担当しました。これらの執筆に当たっては多くの資料を参考にしましたが,良い勉強になりました。

 昭和36〜41年の頃【職員数2,527名(昭和39年)】
 昭和39年の東京オリンピック開催の準備で,下水道工事は急激に拡大へ向かいました。中小河川の多くが暗渠化され下水道管になりました。
 昭和37に下水道局に昇格し,昭和39年度からは下水道料金を水道料金と切り離して徴収するようになりました。但し,徴収事務は水道局へ委託しました。

 昭和42〜60年の頃【職員数4,913名(昭和58年)】
 下水道予算の拡大に伴い,組織,人員が増加しました。職員を大量に採用し,宿泊研修も実施しました。提案制度を創設し,職員からの建設的なアイデアを募り実務に取り入れました。財政危機の中にあっても,下水道事業はその必要性が理解され,普及率の年2%アップを目標に下水道が整備されていきました。
 昭和57年は東京の近代下水道開始100年目に当たる節目の年で,先ほど見ていただいた「地下1世紀1万キロ」の広報番組はこのとき作られたものです。

 昭和60年〜現在
 平成7年に,区部下水道100%普及(概成)を達成しました。
 私は退職後,ある会社に勤務しながら趣味の油絵を本格的に描くようになり,所属する美術団体の活動にも主体的に参加しています。
 それにしても最近のトイレの便座は,腰掛け式で温水洗浄型となり立派ですね。水洗便器であってもきちんと掃除をしないと臭気を発する原因となります。それと,男であっても座ってすることをお勧めします。座ってすることで,トイレの汚れを大分押さえることができますから。

文化資料−3「論考−トイレと下水道−」
 第1編 トイレの文化人類学的考察(平田純一 著)
1.しゃがみ式と腰掛け式の分岐点
2.しゃがんでいたことを証明可能か
3.洋風便器の苦難
4.トイレの日欧比較
5.回虫の功罪
6.日本のトイレの紆余曲折
7.かわやは正式名称か隠語か

 第2編 下水道事業の経営(新保和三郎 著)
 下水道は上水道と一体である −下水道事業機構の在り方−
 下水道の使命,下水道事業経営の実態,上下水道事業の関連性,機構合理化の方向,清掃事業との関連(三崎町における下水道への屎尿投入があるが,… あくまで暫定措置として実施しているものであって,下水道管理上からは勿論,都民の反対陳情も熾烈であって早急に禁止しなければならない状況にある),下水道事業の将来(上下水道は一体として運営されるべきことが結論しうるのである。… やがて下水の浄化水を直接上水の原水に用うる方法も強ち夢物語ではなくなり,上下水道は動脈と静脈の相関性を実現することになるかも知れないのである)。

 下水道事業の在り方 −東京都下水道経営の現状と将来−
 下水道の使命,東京都下水道の沿革,下水道経営の現状,下水道経営の将来(下水道自主財政の基礎確立に注目せざる国家,地方公共団体当局の再認識と,更に利用者たる都民の負担義務の遂行にまつ外ないと考えられる。かくして下水道事業の特異な性格を知り公営企業としての経営強化をはかることが肝要となる),下水道事業の会計について,上下水道の関連性について,各都市における下水道機構の現状,下水道事業と清掃事業との機構の在り方。

 東京都下水道財政の推移
 市区改正による事業の成立,戦前における下水道財政,戦後における下水道財政,最近の論調をめぐって(起債の許可枠の拡大,国庫補助の大幅な増額が必要とされる)。

図19 下水道の広報映画「汚いと言ったお嬢さん」

 東京都下水道受益者負担金制度について
 下水道受益者負担金制度の意義,東京都下水道受益者負担金制度の実施経過,受益者負担金制度実施と地方公営企業並びに都市計画税制,使用料制度等の財政政策との関係,昭和29年度予算における下水道受益者負担金概算について,下水道受益者負担金制度実施上の諸問題(当面においてはこれが実施は困難視されうることが結論しうるが将来において,これらの諸問題に解決を見出しうれば下水道建設の促進に影響するところ極めて大きなものがあるといえよう)。

 第3縞 東京・下水道歴史散歩(新保和三郎 著)
1.下水道の歴史に取り組む・新保和三郎氏
2.今に生きる−デ・レーケがつくった神田下水−
3.バルトンの墓
4.昼休みの散歩 中島博士の墓地を訪ねて
5.中華なべ−小さな歴史の語るもの−
6.地下鉄工事現場から煉瓦造り下水管が出土

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W 管渠清掃のうつりかわり
      (平成23年12月18日,地田修一氏)

 手巻きウインチの手作業から機械式ウインチを経て,高圧洗浄車に至るまでの管渠清掃作業の変遷を当時の写真を見ながら辿りました。また,管渠清掃に従事している人々に焦点を当てたドキュメンタリータッチのドラマ映画「真夜中の河」も上映しました。

手巻きウインチによる管渠清掃
 全くの手作業で,清掃箇所の上流と下流のマンホールに手巻きウインチを置き,この上に四股を組み滑車を取付け,ワイヤーロープに曳樽を付け管渠内を曳くことによって汚泥をマンホールの下まで集めます。
 ワイヤーロープを上流から下流に通す手順は次の通りです。まず,何本かの割竹を針金で繋いで30〜100mにし,上流のマンホールから管渠の中に入れ,下流に向かって送ります。下流のマンホールに届いたならば,上流側の割竹の先端にワイヤーロープを結びます。そして,割竹をたぐり,ワイヤーロープが下流のマンホールに届くと割竹から外し,下流の手巻きウインチにこのワイヤーを取り付けます。同時に上流側では,清掃器具をワイヤーロープに結び付けます。
 集めた汚泥を鉄桶に入れ,ウインチで地上に引き上げ,地上に置いた四斗入りの樽桶に引き上げた汚泥を入れます。樽桶の汚泥を作業現場近くの道路脇の枠で囲った仮置き場に運び,消毒のためサラシ粉を撒いて数日間置き水切りをした後,トラックで土捨て場へ運搬します。
 人が立って歩けるほどの大きな管渠では,管渠の中に入って汚泥の除去作業を行なっていました。

汚泥をほぐす器具と掻き寄せる器具
 砂とか砂利の流入により硬く締まった状態のときは,汚泥をほぐすために「8の字」とか「コンペイ糖」とか「スプリングスクラッパー」とかの器具が使われました。
 カルバートスクラッパーは,お椀のような形をしていて,凹んでいる部分に汚泥を溜めながら下流に掻き寄せて集めでくる器具で,管渠の大きさに合わせていろいろなサイズがありました。また,管渠の口径が大きくなると,曳樽という器具を使って汚泥を集めました。

マスや取付け管の支障処理
「マスが詰まったので処置してほしい」との連絡を受けると,ミゼットのオート三輪車に割り竹,浚渫器,バケツなどを積んで,運転手1人と作業員2人のチームが現場に向かいました。マスの掃除では,手動のつかみ式浚渫器で堆積している汚泥を除去しました。マスと下水管との間の取付け管が詰まっているときは,割り竹をマスからマンホール方向に入れて詰まり物を取除きました。

清掃作業車の導入
 小型トラック(トヨペット)とその後ろに連結されたトレーラーとで一組になっている清掃作業車が導入されたのは,昭和30年に入ってからです。それぞれに自動ウインチと滑車付きのアングルが搭載されていました。手巻きウインチと滑車を付ける四股部分のみが機械化されたのであって,割り竹や汚泥掻き寄せ器具などは,従前通り作業車に積み込まれていました。手作業から高圧水による洗浄方式へと進む過渡期の作業形態と云えます。

高圧洗浄車の登場
 この技術は,欧米特にドイツにおいて1955年頃から下水道管の清掃に威力を発揮していたもので,日本には昭和30年代後半に導入されました。2〜4トン車に高圧水発生装置,水タンク,ホースリールなどを搭載したもので,これにより管渠清掃は抜本的な機械化へと飛躍しました。
 ホースの先端に取り付けたノズルから高圧水を後ろ向きに噴出させ,その推力で洗浄ホースを前進させ,その後ホースリールで巻き取りながら噴出水で堆積した汚泥をマンホールの下まで集めてくる仕掛けです。
 集めた汚泥は,当初は相変わらず,鉄桶に入れてウインチで地上に引き上げていたが,昭和40年代の半ばになってバキュームカーが導入されました。高圧洗浄車とバキュームカーは,管渠清掃の完全機械化を実現させた車の両輪です。高圧洗浄作業には大量の水が使われます。高圧洗浄車にも水タンク(3m3)が搭載されているが,これだけでは足りないと思われるときは,給水車(10m3)が同行し洗浄水を補給します。

図20 管渠内での清掃作業

管渠清掃作業の民間委託
 昭和40年頃から管渠の清掃作業は,民間業者に委託されるようになりました。汚水枡や取付け管の閉塞処理は長らく自治体の直営作業として行なわれていたが,現在では,この作業も民間に委託されるようになり,管渠の維持管理は民間業者の力に負うところがますます大となっています。

X 下水道マンホール蓋の教えてくれること
      (平成23年11月20日,石井英俊氏)

 20年ほど前から,趣味のサイクリングの途上で見つけた下水道のマンホール蓋をカメラで撮り続けてきた講師が,今までに収集した2,500枚ほどの写真をパソコンで整理,分類したコレクションの中から,関東地方,東京都,東日本大震災前の三陸地方のマンホール蓋のデザインが紹介されました。

はじめに
 マンホールの模様は,元来,滑り止めのためのもので,せいぜい下水道管理者である市町村の紋章をアレンジする程度であったが,近年,それぞれの自治体のご当地ソングとして,地方文化を発信・アピールする媒体として位置付けられ,そのデザインが競われています。また,カラーマンホールも結構見受けられるようになりました。伊勢市で御伊勢参りをデザインしたマンホール蓋に出会ったことが,この趣味にのめり込むきっかけとなりました。
 ジョーク的な絵柄としては「サの字が九つ」で草津,民話的な絵柄としては「桃太郎」の岡山,「金太郎」の南足柄,童謡をモチーフにした「タヌキ」の木更津,同じ「タヌキ」の絵柄はぶんぶく茶釜の館林にも,故事にちなんだものとしては「那須の与一が扇を弓で射る」の高松,同じ「那須の与一」でもこちらは与一の出身地の大田原,日本の中心に関しては「子午線の通る町」の明石などなどです。花・鳥・木の絵柄は似たようなデザインになっているものが多い。
関東地方

@ 茨城県
 水戸(梅と,トが三つでミト).土浦(筑波山と霞ヶ浦と帆掛け舟),古河(花火),石岡(総社宮の獅子),下妻(筑波山と砂沼の桜),笠岡(菊の花),牛久(河童),つくば(筑波山とスペースシャトル),牛堀(米俵を運ぶ舟),麻生(鯉),玉造(ふれあいランド),霞ヶ浦(帆掛け舟と紫陽花),玉里(サギと柿),協和(西瓜),総和(南瓜)。

A 栃木県
 栃木(街並み),佐野(オシドリ),氏家(蛙の雨宿り),小山(唐草模様と馬),益子(焼き物),石橋(グリムの里の赤頭巾ちゃん),都賀(鬼).烏山(カラス),馬頭(馬),那須(温泉とリンドウ)。

B 群馬県
 県流域下水(利根川と上越の山),高崎(山車),桐生(反物と歯車),渋川(日本のヘソ),藤岡(鬼瓦),富岡(製糸工場),大胡(風車),群馬(埴輪),月夜野(ホタル),子持(白井宿の街並み),吉岡(こけし),昭和(利根川と関越道),赤堀(家型埴輪),笠懸(流鏑馬),大間々(桜草)。

C 埼玉県
 県流域下水(古利根川とハクレン),川越(時計台),行田(忍城),所沢(飛行機),岩槻(城),上尾(大綱引き),草加(松並木と百代橋),蕨(中仙道の河童),桶川(紅花),書見(百穴),長瀞(舟下り),栗橋(ハクレン,静御前),嵐山(オオムラサキ)。

D 千葉県
 千葉(大賀ハス),船橋(舟),松戸(失切の渡し),関宿(バラと城),佐原(川とアヤメ),柏(柏の葉),流山(山の字の形に川が流れているデザインの市章),富津(東京湾横断道路),富里(サラブレット),大網白里(太平洋と日の出),長南(奴凧)。

E 神奈川県
 横浜(ベイブリッジ,日本丸),川崎(七つの椿),横須賀(黒船),小田原(箱根の山,城,蓮台越し),茅ヶ崎(烏帽子岩),海老名(国分寺の七重の塔),松田(参勤交代),山北(丹沢湖の風景),湯河原(温泉マーク),城山(橋),相模湖(湖)。

東京都多摩地区
 三鷹(市章が三に鷹),調布(サルスベリ),狛江(イチョウ),小金井(桜),小平(魚と武蔵野風景),国分寺(ツツジ),国立(旧駅舎),府中(ケヤキ),清瀬(ケヤキ),東村山(ツツジ),東大和(狭山湖),武蔵村山(茶の花),立川(コブシ),昭島(クジラ),福生(七夕),羽村(キリンとチューリップ),瑞穂(オオタカ),青梅(梅とウグイス),あきる野(秋川の鮎),日の出(日の出),桧原(仏沢の滝),稲城(イチョウの葉),多摩(多摩川と鮭),日野(カワセミ),八王子(車人形),町田(サルビヤ)。

図21東京都区部のマンホール蓋

三陸地方
 東日本大震災以前の三陸地方の町並みの写真ならびにマンホール蓋のデザインが紹介されました。
 八戸(キクの花),階上(漁業集落排水,魚),種市(ウニと潜水夫),久慈(イチョウ),野田(サケの赤ちゃん),田野畑(トナカイ),岩泉(竜泉洞のりゅうちゃん),田老(山王岩とウミネコ),宮古(サケ),山田(ホタテ貝),大槌(ツツジとカモメ),釜石(虎舞のトラ),大船渡(ウミネコとツバキ),陸前高田(ツバキの周りにカモメとスギ),気仙沼(サンマとウミネコ),本吉(マンボウ),歌津(魚竜(ウタツザウルス)).志津川(モアイ像),女川(カモメ),牡鹿(クジラとシカ),石巻(石ノ森漫画館),鳴瀬(縄文人の子供と海産物),松島(町章とすべり止め),塩竃(シラギク),多賀城(多賀城碑)。