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環境講座(5)

企画:屎尿・下水研究会

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

下水道に関する講話(1)

I 江戸の下水道
       (平成20年12月6日,栗田彰氏)

江戸の下水道の仕組み
 江戸の町について書かれた本の中に「水道はあったが,下水道はなかった」と,断言するものがいくつかあります。これは,「下水道を水洗便所の利用が可能な施設である」としての記述です。しかし今でこそ,「下水道は屎尿処理が可能な施設である」と云うことが常識となっていて,下水道の普及した地域では便所の水洗化が義務付けられているが,東京都区部においても昭和30年代までは,水洗トイレ排水を受け入れ最終的に下水を処理する下水道のほか,家庭雑排水と雨水のみを受け入れて下水を単に排除するだけのものとが並立して存在していました。
 江戸の下水道は,家庭雑排水を排除するだけのもので,屎尿は汲取られて近郊の農村で肥料として利用されていました。
 町人が多く住んでいた長屋を例にして江戸の町の下水排除の仕組みをみると,概ね次のような状況でした。
 長屋の入り口を入ると土間があり,そこに台所がつくられていました。台所で使う水は,長屋の井戸から汲んで水瓶へ運んだものであり,大切に使われました。台所からの排水は木樋や竹筒で家の外へ出し,長屋の路地の真ん中を流れている「どぶ」に排除しました。幅が六,七寸(約18〜21cm)ほどの,丸太の杭で支えられた木組みのものや石組みのものです。底が張られ,板の蓋が掛けられていました。ここには,長屋の人々が洗濯や食器などの洗い物をする井戸端の共同の流し場からの排水も流れ込んでいました。井戸は,江戸時代中期以降になると掘り抜き井戸も増えてきたが,多くは神田上水や玉川上水の水を汲揚げる水道井戸でした。雨水もこの「どぶ」に集まってきます。
 長屋の路地から敷地外の「どぶ」に繋がる手前には,桝が取付けられていました。桝は複数の「どぶ」を1ヶ所に集めたり,下水の流れる方向を変える所に設けられました。そして,町境から道路を横切って隣町の「どぶ」に繋がっていました。
 道路を横切るものは「横切下水」と云われ,橋が架けられていました。ちなみに,「雨落下水」は道路に降った雨や家の軒先から落ちる雨を受け入れていた道路端の今でいう側溝を指しています。また,「埋下水」は地面の下に布設した暗渠の下水道のことです。
 このようにして,町から町へと「どぶ」は繋がり,最終的には近くの堀や川に出ていきます。下水が堀や川に流れ出る所は,杭を横に並べて,あるいは合掌造り風に打ち込んであり,ここで下水とともに流れてきたゴミを取り除きました。

江戸の堀・川と現代の下水道
 江戸の町は,現在の東京からは想像もできないほどのたくさんの堀や川が流れ,これらが下水道幹線の役割を果たしていました。
 現在の下水道との関連をみると,たとえば,王子(現・北区)付近で石神井川から分岐し,中里(現・北区)・尾久・日暮里(現・荒川区)・根岸(現・台東区)を経て,三の輪(現・台東区)で山谷堀と思川とに分かれていた「音無川」の跡は,日暮里付近から三の輸付近までが「音無川幹線」になっています。三の輪付近で「分水堰」を超えた下水は,「山谷堀上流」跡につくられた「雨水渠」を通じて,日本堤ポンプ所へ入ります。日本堤ポンプ所には,「浅草新堀川」跡につくられた「元浅草幹線(雨水渠)」からの下水も入ってきます。日本堤ポンプ所から排水された下水は,「山谷堀下流」の跡につくられた「雨水渠」を通って隅田川に流し出されます。「分水堰」を超えない下水は,南千住(荒川区)付近から三河島処理場に繋がる幹線に合流して,三河島処理場で処理された後隅田川に放流されます。

図17 町境には木戸があって,下水が道路を横切っている(「守貞漫稿」)

 このように,江戸時代に下水道の役割を果たしていた堀や川の多く(浅草新堀川,谷田川,小石川など)は,現代の下水道に引き継がれています。
 江戸の下水道(どぶ)は,雨水排除を主眼に整備されていました。家庭からの雑排水は,現在と違って水を大切に使っていたので,「どぶ」に流される量はごく少量(たとえば,米のとぎ汁は拭き掃除に使い,さらに残ったものは植木に撒いた)であり,屎尿が下水に含まれることもなく,下水といってもそれほど汚れてはいなかったと思われます。また,雨水の一部は溜めておいて,防火用水や道路の散水に使われていました。

U 明治以降の東京における下水道整備のあゆみ
  (平成21年1月8日,地田修一氏)

銀座煉瓦街の洋風溝渠
 時代が江戸から明治に替わっても,下水道は江戸時代の板棚や石組みのままでした。
 明治5年(1872)2月,和田蔵門付近(現・千代田区)から出火,銀座・京橋・築地(現・中央区)一帯が消失しました。この大火を機に,東京を外国風の不燃建築物によって近代都市化することをめざし,銀座に煉瓦街を建設することになりました。明治6年(1873)10月のことです。
 煉瓦街の道路は,表通り(現・銀座通り)が幅15間(約27m)で,横町通りが幅10間(約18m)と8間(約15m),裏通りが幅3間(約6m)であり,裏通り以外は車馬道と人道に分けられていました。
 道路両側には,洋風の石造りの溝渠が設けられました。車馬道と人道との境界石の下をこ暗渠が設けられ,数条の支溝が横に通じていました。暗渠の中は,潮の干満により常に流れが生じ,不潔なものが停滞することのない構造となっていました。
 表通りや横町通りは洋風の溝渠でしたが,裏通りは蓋のないU字形の溝渠でした。
 官築の煉瓦家屋には便所や台所が設けられていなかったので,入居者がそれらを木造で建て増しをしたそうです。便所は汲取り式でした。台所からの汚水は支溝を通じてU字淳や暗渠に流れ込みました。
 銀座煉瓦街が完成したのは明治10年(1877)頃です。当初は,東京府全域に外国風の不燃建築物化を進める計画でしたが,財政難と住民からの不評により,煉瓦街の建設は銀座一帯だけとなってしまいました。

神田下水
 明治10年(1877)から15年(1882)にかけて全国にコレラが流行し,多数の死者が出ました。明治15年の東京府下のコレラによる死者は,約五千人に上っています。この惨状をみて,政府は下水道整備の必要性を痛感し,明治16年(1883)4月30日付で東京府に対して「水道溝渠等改良ノ儀」を示達しました。これを受け,東京府は下水道改良事業の立案に着手し,内務省御用掛の石黒五十二より設計提案を受け,内務省御雇工師オランダ人ヨハネス・デ・レーケの指導のもと計画案をまとめました。
 事業実施区域は,明治15年(1882)のコレラ流行で大きな被害を受けた悪疫流行の危険性の高い神田地区としました。
 「雨水の排除は在来の排水路を使い,屎尿は汲取り便所のままとし,新たに埋設する暗渠には家庭雑排水のみを排除させる」と云うもので,本管は煉瓦積みの卵形渠,分管は円形の陶管としました。
 明治17年(1884)11月,東京府知事・芳川顕正は内務卿・山縣有朋に対し「府下溝渠改良ノ儀ニ付伺」として神田下水の事業計画を申請しています。同年11且13日,内務省から東京府に築造認可指令が出され,同年暮工事に着手しました。
第一期工事(17年度)
 神田区の通鍋町,鍛冶町以西,竜閑町新川以北を対象。予算は五万円(全額国庫補助)。本管 約0.6km,分管 約1.95km。
第二期工事(18年度)
 神田区の通鍋町,鍛冶町以東,竜閑橋筋新川以北,浜町川筋新川以西を対象。予算は3万円(国庫補助金)+1.2万円(地方税)。本管 約0.4km,分管 約1.17km。
 東京府は,第三期工事(内神田,錦町・美土代町を対象に,本管約0.7km,分管約2.4km)の予算として国庫補助金五万円を受けたうえで,地方税1.2万円を支出する予定であったが,政府が国庫補助金を不許可としたためやむなく中止し,いわゆる「神田下水」は約4kmの管渠を敷設しただけで工事未了となりました。
 神田下水では,下水を処理することなく,竜関川や新たに掘られた浜町川に放流しました。一方,屎尿は,従前どおり汲取られ肥料として利用されました。神田下水は,現在も2km余が東京都の公共下水道として機能しており,この内の614mが平成6年3月に文化財保護法により「東京都指定史跡」に指定されました。

神田下水以降
 神田下水の工事終了後も,雨水排除の下水道整備は続けられました。
 麹町区(現・千代田区)隼町・陸軍省経理部間の暗渠。四谷区(現・新宿区)元鮫ヶ橋・青山御所裏間の暗渠。本郷区(現・文京区)駒込追分町・丸山新町間の暗渠と妻恋町暗渠。浅草区(現・台東区)北田原町・吾妻橋北詰間の暗渠。下谷区(現,台東区)五軒町通り暗渠。神田区(現・千代田区)一ツ橋通りほか三線路暗渠。

東京市による下水道計画の策定
 明治維新の混乱が落ち着いた頃から東京の人口は増加に転じ,明治21年(1888)には東京市(15区)で130万人,東京府全体で156万人に膨張しました。一方,これを支える都市基盤は江戸時代のままという状態であり,近代都市の建設には下水道だけでなく,上水,道路,河川,橋梁,港湾などの整備が急務でした。
@ 市区改正条例と下水道計画
 ときの東京府知事・芳川顕正は,明治17年(1884),政府に「市区改正意見書」を提出し支援を要請しています。市区改正とは今でいう都市計画のことです。明治21年(1888)8月に,東京の一元的な都市整備を目標として「東京市区改正条例」が公布されました。
 東京市区改正条例は「条例」となっているが,近代的な都市計画のあり方を定めたものとしてはわが国初の法制です。内務大臣の監督のもとに,東京市区改正の設計・年度計画を決めるため「東京市区改正委員会」を置くことが定められました。
 明治21年10月,第6回東京市区改正委員会において,W.K.バルトン(英国から招聘した内務省衛生局御雇工師)を主任とする7名の上水下水調査委員(長与専齋,古市公威,原口要,山口半六,永井久一郎,原竜太)に,上下水改正についての設計・調査を委嘱しました。
 下水改良については明治22年(1889)7月に,「東京市下水設計第一報告書」が市区改正委員長に提出されています。「分流式とし,雨水は在来の排水路を改造して流し,新たに埋設する下水道管には家庭雑排水のみを流し屎尿は入れない」とするものです。
 第二路線(下谷,浅草及び神田の一部)は,隅田川の中流に放流するので下水の処理が必要であるとし,わが国で初めて下水処理施設(間断向下濾過法)の建設を計画しています。三河島地内にポンプ場を設け,さらに汚水を濾過処理して,荒川に放流するとしています。
 「東京市下水設計第一報告書」は提出後1年余を経て,ようやく明治23年10月,市区改正委員会は計画内容の審議に入るが,財政上の理由から上水道の整備が優先され,下水道改良は延期となり幻の計画となってしまいました。下水道事業に収入財源がなく,工事費も汚水対策だけで350万円もかかるうえ,雨水対策の議論や神田下水に対する批判なども出て意見がまとまらなかったからです。
 本格的な下水道計画の立案にまで進んだ東京の下水道は,ここでいったん挫折をみることになりました。ただ,当時の大雨による深刻な被害もあり雨水吐工事などは延期もできないので,在来溝渠の補修などは東京府で施工しました。
A 下水道法の公布
 「東京の下水改築はなお未着工で,浚渫も不十分である」という市街状況の中で,明治33年(1900)4月に下水道法が施行されました。下水道の使用を強制することにより,社会全体の公衆衛生を保持していこうとする考え方が強く打ち出されています。しかし,事業主体は下水道整備が急務とされる「市」に限定されていました。
 この旧下水道法は,昭和33年(1958)の新法制定まで,長くわが国近代下水道建設の根拠法となったが,公共事業の原則にのっとり施設の使用を住民に義務付ける一方で,建設ならびに維持管理に要する財源に関する条項が欠落していたことが,下水道財源の安定的な確保を妨げることとなり,この後の下水道の普及に少なからぬ影響を与えました。
B 下水道整備への機運
 明治23年11月に財政上の理由から上水道の整備が優先され,下水改良は延期になっていたが,その後の東京市の発展は目覚しく市街地の中心には高層建築が建ち,水洗トイレもかなりつくられ始めました。しかし,その多くは近くの池とか堀に未処理で流しているのが実情でした。
 当時は降雨時の惨禍が頻発しており,この面からも下水改良の機運が高まってきました。
C 東京市下水道設計の策定
 先行した上水改良が明治31年11月には大部分を竣工し,一部(神田区及び日本橋区)に通水したことを受け,明治32年〜37年にわたってあらためて下水改良に関する実施測量調査(資料収集,人口調査,測量など)が行われ,調査がほぼまとまった明治37年2月,市区改正委員会は中島鋭治(東京帝国大学教授)に「東京市下水設計の調査」を委嘱し,明治40年3月,「東京市下水設計調査報告書」が提出されました。
 それは,
 「計画人口は300万人で,排除方式は家庭雑排水,屎尿,雨水を1つの下水道管に流す合流式とし,3つの排水区【第一区(芝,麻布,赤坂,麹町,四谷,牛込,小石川,本郷,日本橋,京橋,神田の大部,下谷の一部),第二区(下谷,浅草,神田の一部),第三区(深川,本所)】に分け,第一区は芝浦ポンプ場より第七台場沖に送水し直接放流,第二区は三河島汚水処分工場で,第三区は砂町汚水処分工場でそれぞれセプチックタンク処理(腐敗槽の一種で,汚水中に存在する嫌気性菌の作用で汚水を分解させる処理法)を行う」と,云うものです。
 また当時は,屎尿は汲取られた後,周辺の農村に運搬されて肥料として利用されていたことに配慮しながらも,「屎尿を下水道に流入させることは外国では慣例になっているが,わが国では重要な肥料であり,従来から下水道に排除する習慣がなかった。しかし,時勢の推移にともない,近年は水洗便所を設置するところが増加する傾向にある。屎尿を下水道に収容しても,欧米の実例からも水質的に大差がないので,本計画においては収容してもよいものとする」 と,しています。
 この「東京市下水設計調査報告書」が市区改正委員会(設計,財源,衛生の3部門の特別委員会を設ける)での検討を経て一部修正され,基本計画としての「東京市下水道設計」が告示されたのは明治41年4月のことです。
D 東京市下水道設計の一部変更
 この計画もいざ実施と云う段階で,またもや財政問題に悩まされました。東京市が要求していた工事費に対する二分の一の国庫補助が三分の一に削られたうえ,下水道税をとったらとの意見もあったが実施に至らなかったからです。また,折からの打ち続く大雨による甚大な洪水の被害もあり,設計変更を余儀なくされました。
 ときの市長・尾崎行雄の固い決意により,明治44年(1911)にようやく「東京市役所内に下水改良事務所を設置し,下水改良に関する事務を開始する」ことを告示し,明治44年5月,「第一期下水道改良事業」として第二区の工事実施を決め,認可を申請しました。
 しかしその直後,第二区全域にわたって改めて測量を実施するとともに,新たに「下水改良工事顧問会」を設置(明治44年9月)し,「東京市下水道設計」が再検討されました。大正元年11月に第二区下水改良工事設計原案の既定方針を変更し,大正2年5月に「東京市下水道設計」の変更を告示しました。さらに,同年11月には既定計画変更案について内務・大蔵両大臣の認可を得ています。
 主な変更点は,次のとおりです。
 @ 排除方式    一部地域を分流式とする
 A 計画最大降雨量 31.7mm/時を50mm/時に改める
 B 汚水処分方式  セプチックタンク処理法から撒水濾床法(砕石を敷き詰めた濾床表面の好気性微生物の作用で汚水を分解する処理法)に変更された
 C 事業費     第一期工事の総事業費:680万円
 D工期       第一期工事の工期:明治44年度〜大正7年度(8ヵ年)  この変更に際しては,主任技師・米元晋一が明治44年8月から翌年8月まで海外に出張し入手した欧米諸国の下水道に関する最新情報が取り入れられています。
 なお,下水改良事務所の所長は東京市役所助役が兼務し,この下に総務課と工務課が置かれ,明治45年8月に新庁舎が竣工しました。
 この設計は,大正2年11月7日に内務・大蔵両大臣の認可を得,本格的に工事が開始されることとなりました。同年12月25日には,下谷区龍泉寺町での浅草幹線および浅草区内での新堀南幹線の工事が着工されています。
 こうして,神田下水の中断以来,長い冬の時代を過ごさざるを得なかった東京の下水道は,ここにようやく長いトンネルを抜け,今日の下水道事業につながる大事業がスタートを切ることになりました。
 紆余曲折を経た三河島の用地問題も大正3年1月に至り,三河島汚水処分工場用地53,841坪,幹線埋設用地2,683坪を買収して,ようやく最終的に決着し,大正3年(1913)6月から三河島汚水処分工場の建設工事が始まりました。
 さらに,東京市直営の製管工場が大正2年に操業を開始し,手詰めのコンクリート管を工事現場に支給するようになりました。
E 三河島汚水処分場の運転開始
 大正11年(1922)3月に,待望の三河島汚水処分場が完成しました。わが国初の本格的な下水処理施設(散水ろ床法)です。翌年に関東大震災が起きたが,下水道施設は幸い,ある特殊の二,三を除けば被害の程度は比較的軽微でした。

昭和前期の下水道事業
 昭和5年に,芝浦汚水処分場が運転を開始し,当初は沈澱処理でしたが,14年に機械式(シンプレックス式)の活性汚泥処理に切り替わりました。続いて6年には砂町汚水処分場が沈澱処理での運転を始めています。さらに,すでに稼動していた三河島汚水処分場に,新たに機械式活性汚泥処理(パドル式)が9年に導入されています。
 昭和7年に大東京市が誕生し,下水道行政も広域化しましたが,しばらくは旧東京市域の東京市下水道のほか郊外下水道および旧12町下水道と,三つの下水道計画に基づいて,下水道事業を行わざる得ない時代がしばらく続くことになります。
 終戦直前の昭和20年の普及率は,ようやく10%に達したところでした。

(広報映画「汚い!と言ったお嬢さん」を上映)

昭和中期・後期〜平成の下水道事業
 昭和25年に,下水道計画は一元化され,浸水被害と水質汚濁とを克服すべく,開催の決まった東京オリンピック(昭和39年)を目指して急ピッチで下水道整備がなされました。新たに小台,落合,森ヶ崎の系統が加えられ,散気式活性汚泥法の導入,汚泥の機械脱水・焼却などの技術革新も図られました。その後,荒川以東の葛西,小菅,中川の3系統に下水道建設の重点を移し,平成6年に至り,ついに下水道普及率100%概成を達成しました。オリンピック投資で弾みがつき,水質汚濁防止効果への期待からオイルショック後の不況時においても重点施策として位置づけられ,年間の普及率2%アップの掛け声のもとに邁進してきた賜物です。

図18 浅草幹線の工事現場

 平成12年度未での概況は,
  普及人口:約820万人
  下水道管:約1万5,000km
  処理能力:約630万u/日
  処理場数:13箇所
  脱水汚泥量:約3,000m3/日
です。

今後の下水道事業の展開
 老朽化し機能低下が著しい管渠や処理施設を再構築し,処理能力の高度化を図り,都市における水辺環境の創出に積極的に関わっていく必要があります。