読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
環境講座(4)
講話者 屎尿・下水研究会*
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
]T 温水洗浄便座の開発秘話
(平成26年1月19日,木内雄二氏)
都市住民にとって不可欠な設備である水洗トイレの快適性を格段に向上させ,使用者の清潔感覚をも変化させた「温水洗浄便座」について,その開発にまつわる様々なエピソードを披露してもらいました。
大正3年に製陶研究所(東洋陶器の前身)が,陶器製の大小・和風水洗式便器を売り出し,大阪の浜田商会その他へ納入しました。昭和35年を境に(昭和39年:東京オリンピック開催),和風便器から腰掛便器へ急速に転換し,規在では新たな出荷のほとんどが腰掛式です。
日本で生まれ生活必需品とまで云われるようになった温水洗浄便座(ウォシュレットは商品名)は,紙を使うのが当たり前だったトイレに革命を起こしました。お湯で尻を洗い温風で乾かすと云う新たな「お尻を洗う」生活文化が生み出されたのです。1967年に家庭用に販売されて以来,今や一般世帯での普及率は70%を超えています。
元々は,アメリカで医療・福祉用器具として開発されたものです。痔に悩む人にとっての福音とまで云われていたが,水温や温水の発射方向が不安定であるなど多くの欠陥が指摘されていました。
国産化に当たって,まず,お湯を当てる位置すなわち肛門の位置を明らかにするために,便器に取り付けた線に自分の肛門の位置を示す付箋を貼り付けて基本データを集めることとなり,数多くの社員に協力を仰ぎました。このほか,水量,水温,噴射角度など,製品の設計に必要なデータも一から収集しなければなりませんでした。研究スタッフの家族をも巻き込んでの,社運をかけた製品開発となりました。試行錯誤の連続でした。
温水の噴射に関するこんなエピソードがあります。「自動車のアンテナからアイデアを得,便座から一直線に伸びるノズルの先端に噴射口を取り付けることにしました。便座からお尻の間近まで伸びるノズル,これにより的と噴射口との距離はほんのわずかとなり,お湯が正確に的に当たる確率が飛躍的に高くなりました」。
漏電防止に関してはこんなアイデアで克服しました。「ICが使われているのに,信号機は風雨にさらされても故障しないが,なにか特殊なICが使われているのだろうかと考え,特殊な樹脂でコーティングされた防水型ICに辿り着きました」。
販売後に明らかになったこんな失敗もありました。熱交換器に取り付けたヒーターの電熱線の金属疲労による断線です。これは,「それまでアルミだった電熱線をステンレスに変え,さらに太くする」ことで解決しました。
改良後再度,売り出すに当たってのテレビのCM放送にまつわるエピソードを一つ。「CMの時間帯を夕食時の午後7時からのゴールデンタイムに絞り,新人女優の口から「こうして紙で拭く人っていませんわよね。紙じゃ取れません。おしりだっておんなじです。おしりだって洗ってほしい」と言わせたのです。直後から激しい抗議の電話が殺到したが,ひと月後にはクレームも収まり,新型便座の名は全国に広がりました」。
図12 温水洗浄便座
この間洗う機能以外でも,暖房便座,脱臭,乾燥,大便器自動洗浄,便座や便蓋の自動開閉,擬音装置,便器の除菌など様々な機能を装備していきました。さらに,節水・省エネ化の要請を背景として進化しつつあります。
今や,家庭内だけでなく,オフィスビル,ホテル,病院,交通施設など多くの公共施設で利用されています。
国際的には,韓国では日本と同様に普及が進んでおり,中国やアジア諸国でも普及が加速されています。アメリカや欧州でも,ここ数年数多くの新製品が発売されており,普及が促進されようとしています。
温水洗浄便座は電気製品であることをお忘れなく。故障したままの使用や長年の使用は,電気部品が劣化し発煙発火の恐れがあるので,定期的な点検をお勧めします。10年以上使用した製品は買い替えを!とのことです。
]II 開発途上国の環境・衛生支援を考える
(平成25年12月15日,森田昭氏)
開発途上国では開発と環境・衛生改善とがバランスせず,環境・衛生問題がしばしば深刻化する場合があり,適切な支援活動のみならず,途上国自らが変革しようとする内発性が必要となります。講師自らの経験に基づく,長期的かつ継続的な在るべき支援策が提示され,特に「セプティックタンクの諸問題」が強調されました。
途上国では,政策づくりから調査研究に至るまで,行政が民間コンサルタントにアウトソーシングする例が多く,民間に優秀な人材が集まり行政側の人材が不足する傾向があります。そのため行政の事前の理解や導入後のチェック(モニタリング)機能が十分に働かず,行政と民間との間でトラブルが発生する遠因となっています。
途上国では,特定の都市に人口が集中し,無秩序な都市開発とも相俟って,都市の再生が阻害され徐々にスラム化するケースが見られます。
プライバシーが確保できるトイレが持てると,女性が自由にトイレに行くことが可能となり,排泄を我慢するがゆえに罹る泌尿器官等の疾病リスクを軽減することができます。
途上国の既存都市では,再開発の遅れや資金難などから下水道の普及が進まず,依然として脆弱なオンサイト処理に頼っている例が多くみられます。一方,生活水準の向上とともに水消費も増大し,トイレ排水を含む生活排水の量が増え,未処理汚水による衛生・環境問題が深刻化しています。
ピットラトリン等の簡易なトイレに代わり,水洗トイレ(簡易なものを含む)が普及しその処理装置としてセプティックタンクと浸透槽とを組合せた方式が広く普及しています。
ところがアジア地域では,セプティックタンクが単独の主処理装置として利用されています。元来,セプティックタンクは植民地時代に欧米から持込まれたもので,病原菌の死滅を図るため屎尿を簡易的に嫌気処理するもので,土壌トレンチ槽に対する前処理として開発された技術であり,単独の処理では十分な処理ができず,かえって水質汚濁を引起す元凶となっています。
また,セプティックタンクは,長年使用すると汚泥が堆積し配管の閉塞等のトラブルの原因となり,ひいては汚泥の系外流出を引起こすこととなります。トイレのユーザーはトラブルが生じない限り汚泥引抜きを行なわず,長期にわたって継続使用している例が多い。後始末に紙を使わない習慣や気温が高いなどの条件が,セプティックタンクの長期使用を可能にしているものと思われます。このことがかえって,汚泥の定期的な引抜きが最も重要な管理手法であるのにも係わらず,「セプティックタンクはメンテナンスフリーであり,コストのかからない処理装置である」と誤って考えられてきたのです。
図13 途上国のトイレ(バングラデシュ)
さらに,家の床下に配置したり,タンク表面を地表面より下げて設置するなど,定期的な管理を前提としていない情況となっているケースが多い。
民間業者により汚泥引抜きが行なわれている例もあるが,料金設定が適切でないためか,引抜き汚泥を違法に河川投棄していることも多い。もっとも,汚泥を処理する施設の整備が遅れているという面もありますが。
日本において単独式浄化槽が合併式になかなか切り替わらない事例を他山の石として,セプティックタンクへの対策は,家の建替えや再開発に併せて,下水道や本格的なオンサイト処理装置へ切り替えることが現実的と思われます。
廃棄物に関する講話
I 日本のリサイクルの歴史
(平成21年10月4日,稲村光郎氏)
江戸のリサイクル
16世紀後半になると,木綿が国内でも生産されるようになり,供給が増えたことにより古着の市場が成立するようになり,特に木綿の採れない寒冷地への移出が盛んになり,大阪と江戸の問屋が争って買いあさっています。古着屋は市場が広く,昭和に入ってからも東北地方向けの古着屋が残っていました。
リサイクルが盛んになったということは,新しい元の素材が市場に流入するようになったからです。衣類のリユースは必ず品質が劣化し,いずれボロになり,ボロもリサイクルされますが,最終的にはごみとなってしまいます。
古鉄屋,古鉄買いと云いますが,これは鉄だけではなく古金買いとも云い,金属一般を扱っていました。一般の家庭で使う鍋や釜は少しの穴があいたくらいでは,鋳掛屋に出して直すのですが,修理ができないほど大きな穴があいたら,鋳掛屋に下取りしてもらい,新しい鍋を買ったと云われています。
貝灰というのは,貝殻を焼いてつくった石灰です。江戸の中頃,18世紀の後半には江戸で使用する石灰の75%は貝灰でした。
醤油樽ですが,「樽買い」と云うのがありましたが,「樽拾い」が多かったようです。酒屋さんや醤油屋さんの小僧さんが樽を集め,回収した樽は「明樽問屋」にいき,そこから醤油の醸造元に送られ,また醤油が詰められ戻ってきたのです。醤油樽の元々は,大体上方から送られてきた酒樽です。これを小さく削り直して醤油樽に作り変えて再利用していたのです。
江戸のごみの話ですが,深川辺りに,ごみを埋立てていたことになっています。実際には1730年には,もう埋立てる予定地が一杯になっていまして,その頃には「ごみを肥料として売る」商売が生れています。そして19世紀になりますと,ごみが千葉県まで運ばれていたことが資料から分かっています。
明治・大正・昭和初期のリサイクル
明治20年頃から,大都市における底辺の人たちの問題が新聞などで取り上げられるようになります。その中からリサイクル関係の記事を拾ってみますと,「くず拾い」が圧倒的に多かったようです。何を拾ったかといえば,「ボロ,紙くず(西洋紙,和紙),ガラスくず,陶器くず,ランプの壊れ,古下駄,古わらじ,古なわ,あき俵,汚れふんどし,破れ足袋,かんざしの足,曲がった缶」などが挙げられています。さらには残飯屋と云う商売もありました。
東京市のごみ処分先をみると,大正9年ぐらいから千葉で肥料として使用されなくなりました。この頃になると,これまでリサイクルされていたものも「ごみ」になったということです。
戦時中のリサイクル
戦争では輸入が途絶えますから,どうしてもリサイクルが必要となってきます。
昭和12年に日中戦争を本格的に始めたのですが,まず外貨不足のため国民から金を買い上げました。これはリサイクルとは云いませんが,回収の一つです。次いで,集団回収が行われるようになります。わが国で集団回収が本格的に行われたのは,この時期が最初です。寒冷地の軍服用に羊毛が集められたり,鉄や銅などに代わり,その代用品が奨励されたりしました。例えば,ガスコンロなどは鋳物製から陶磁器製になりました。
太平洋戦争の時期になりますと,一般家庭で使用している鉄や鋼でできた門やフェスンが事実上強制的に奪われました。
戦争も終わりの頃になると,アルミが昭和20年春には2回にわたって一般国民から強制的に回収され,鍋や弁当箱,水筒などの生活必需品まで回収されることになります。小学校ではストーブなどが,また,お寺からは梵鐘,花器,飾りなどの金属製品が供出されました。
このような回収は企業に対しても行いました。昭和18年には政令に基づいて,企業を整備することによる金属回収が行われました。その結果,例えば繊維工場全体では鉄の量に換算して約100万トンのうち70万トンがスクラップになったとされています。
一般国民の場合,資源回収に大きな役割を果したのは町内会とその下部組織である隣組です。
戦後の包装材の変化
昭和35年頃から世の中が変わり始めます。高度経済成長の始まる前ですが,この時期に既に始まっていたのが伝統的な包装容器の衰退でした。
米俵,かます,むしろなどのワラ製品は,クッション性があるのでいろいろな用途に使われていました。しかし戦後の農業改革で利益の少ないワラ製品を副業として製作する必要がなくなり,また,輸送面でもワラ製品はコンベアに乗せ難いとか,不衛生だとか,云われるようになりました。
こうしたことから,ダンボール,紙袋そしてプラスチックが使われるようになりました。中古市場もまた衰退し始めます。
図14 東京市内の店舗数の多い職種
昭和30年代から40年代半ばまでの高度経済成長によって,ごみが大量に増えました。原油価格がオイルショックまで非常に安かったため, 石油化学産業が発展しプラスチック生産量が急激に上っていきます。木綿や絹に代わって合成繊維の時代となりました。これがごみ増の要因となりました。
オイルショック以降のリサイクル
オイルショックにより高度経済成長は終わります。省エネルギー,省資源の考え方が国民に拡がります。これに呼応してリサイクルも拡がりました。いろいろなリサイクル,例えば不用品交換や収集ごみからの回収などが行われるようになり,集団回収が次第に増えていきます。この集団回収に市町村が補助金を出すと云うようなことが次第に行われるようになります。やがて,瓶や缶は集めても少量では買ってくれなくなり,集団回収も大部分は古紙が重点となりました。
U 東京におけるごみの埋立て
(平成22年11月14日,根本康雄氏)
今回の講師は,元東京都清掃研究所所長(現廃棄物政策フォーラム理事)の根本康雄氏にお願いしました。東京で発生する「ごみ」の最終的な行き先である,海面域や内陸部の「ごみ埋立て地」の歴史的な変遷について豊富な写真を駆使して述べていただきました。
ごみの最終処分場の目的,工法(投棄,衛生),構造(嫌気的衛生,準好気性,好気性),方式(サンドイッチ,セル)について,その概要を解説されました。8号地(潮見)や14号地(夢の島)は投棄埋立です。
サンドイッチ工法は,ごみを埋め立てた上に新鮮な土を覆土し,その上にまたごみを埋立てる方式ですが,この方式が本格的に実施されるようになったのは,夢の島でのハエ騒動(昭和40年)以降のことです。
セル工法は,中央防波堤外側の埋立て以後に採用されました。15号地(現在の若洲ゴルフ場)の第2期工事(昭和41年)の「ごみ埋立て地」造成工事に関わって以来25年間,埋立て地の仕事(工事,設計,計画)に携わってきました。粗大ごみの破砕処理施設や分別ごみ処理施設の計画にも関わりました。15号地へのごみ搬入は最初,船で楊陸していましたが,42年4月に若洲橋ができ陸送が可能になりました。汚水対策は準遮水(目視で汚水が護岸から流出していなければ良いと云う意味)でした。浸出水を圧送管で中央防波堤内側処分場にできた水処理施設に送るようになったのは,ずっと後になってからです。
当時は,二重鋼矢板の護岸を造ってその上に車を走らせるというような構造が,画期的な施設であると云われた時代です。
昭和45年に廃掃法ができ51年に改正され,これを受け53年に「廃棄物最終処分場指針」が刊行され,ごみ埋立て関係の法整備が進みました。最終処分場の建設に厚生省の補助金が出るようになったのは,昭和51年頃です。また昭和51年,廃棄物処理施設も港湾施設の一つとして認められました。
昭和63年に「廃棄物最終処分指針」の全面改訂が行われ,今までの実績や経験を基に,特に,遮水や汚水処理施設の項が充実しました。
中央防波堤内側の埋立て地に設けた汚水処理施設は,生物処理(回転円盤法),薬品凝集沈殿処理や物理吸着処理を組合わせたものです。処理水は下水道に排水しています。
多摩地区の各都市は,内陸部でのごみ埋立地をそれぞれ独自に権保し処分していましたが,昭和55年に東京都三多摩地域廃棄物広域処分組合を設立して,谷戸沢処分場(昭和59年開設),二ツ塚処分場(平成10年開設)やエコセメント施設などを造り,現在では各都市が共同利用しています。
図15 中央防波壜内側及び外側処分場配置図
サンドイッチ工法には、次のような効果があります。
@ごみの飛散防止
Aごみの異気拡散防止
B害虫の発生防止(害虫の卵などの孵化を防ぐ)
Eごみによる火災防止(空気を遮断する)
図16 サンドイッチ工法
V 発展途上国におけるごみ処分対策
(平成24年3月31日,石井明男氏)
日本政府は,1,200万人の人口を擁する巨大都市ダッカ(バングラデシュの首都)のごみ処理への支援を2000年から開始しました。私は2003年からこのJICA技術協力プロジェクトに参画しています。
2000年当時のダッカは,ごみの収集が行なわれていない地域も多く,例えばスラム・エリアなどでは敷地内や近くの湖沼や河川に長年にわたって不法なごみ投棄が行われ,異臭を放っていました。市内にはごみが散乱し溜まっている所が無数にありました。埋立地も巨大なごみ捨て場と化して,埋立地全体が悪臭に満ち,発火もたびたび起こり,さらにはそこからの浸出水が周辺に流出し,周囲の河川や湖沼を汚染していました。
ダッカ市のごみ処理の現状
ダッカ市は面積が131万haで,市内には90の行政区(ワード)が存在しています。2011年時点では,ごみの排出量は日量約4,000t,廃棄物管理局の職員数は9,000人で,そのうち道路清掃が8,000人,保有収集車両は320台,コンテナ数は536個,ダッカ市の外ですが約20haの埋立地が2箇所あります。現在のごみ収集率は52%です。
ごみ収集の特徴は,民間の一次収集サービス業者が各住宅から,わずかな料金ですが有料で,ごみを集めてコンテナあるいはダストビン(ごみ捨て場)まで運びます。ダッカ市役所の役割は,コンテナやダストビンから埋立地にまで運ぶことにあります。埋立地は勿論,市内にあるコンテナやダストビンにも有価物を勝手に回収するウエストピッカーが数多くいます。
このように,ダッカ市のごみ収集は,ステイクホルダーが多いので,住民,一次サービス業者,ダッカ市の収集運搬事業の相互の連携が極めて重要となります。
技術協力プロジェクトの取組み
JICA技術協力プロジェクトでは,2007年から現在まで,比較的長い時間をかけ,実践を通しての能力開発を目指してきました。この取組みは,組織, 制度,技術,習慣にわたる幅広い分野をカバーしています。この能力開発は,単に技術や方法を提供,訓練するだけでなく,仕事に対する考え方や姿勢について受講者が自ら考えてもらうようにしています。ただし,受け止め方は,バングラデシュ固有の価値観や文化,個々人の考え方によっても,又,受け取る側の能力によっても異なりますのでその成果は一様ではありません。
しかし,全体的には様々な成果を上げていて,そのことはJICAの評価にも示されています。この活動を通して,多くのダッカ市職員,収集業者,住民が「このようなことまで出来るのだ」と実感しており.このプロジェクトに関わった人たちに勇気を与えています。
以下に,このプロジェクトがダッカで行なった改善事例を紹介します。
(1)区単位で総合的に改善するWBA(ワードベースアプローチ)をつくった
廃棄物事業とりわけごみ収集は,収集車両などの機材投入だけでは向上せず,職員の能力向上,収集車両の効率的配車など,事業全体の底上げが必要となります。そこで,このプロジェクトでは,人材育成,意識改革,組織機能の改善,機材の改善,収集システムの改善など様々な活動を複合的に組み合わせて,お互いの力を相乗的に向上させるようにしました。
【ワードベースアプローチ(WBA)−1】では,各区(ワード)に区清掃事務所を設け業務を中央から委譲し分権化を進め,区清掃事務所を中心に事業を進めるやり方を推進しました。この改善で区の清掃監視員が意欲的に仕事に取り組むようになりました。
また,同時に行った現場の清掃に関わる清掃職員8,000人に対する安全・衛生の向上を目指した職員研修【WBA−2】などの効果により,清掃員の事業に対する姿勢が変わってきました。
さらに,住民参加型廃棄物管理に関するガイドラインも完成させ,その実践の形も出来てきました【WBA−3】。
既存の収集システムも効率的,衛生的に改善され【WBA−4】,日本政府の環境プログラムで無償で導入された100台のごみ収集車により,収集体制も大きく改善されました。
能力開発なので研修も行いますが,それはカウンターパートが計画し自らが講師を務めるようにしました。道路清掃員,排水溝清掃員,民間の一次収集業者までを対象にして研修を行っていますが,研修のための研修にならないように内容には英知を凝らしています。
(2)ダッカのごみ収集システムが大きく変わった
@コンテナが新規に215台加わり,壊れた200台の コンテナは廃棄しました。
A日本政府からの環境プログラムにより無償で供与した100台のごみ収集車が加わり,故障した
古い車輌130台は廃棄しました。
Bこの収集改善により車輌の稼働率が向上し,収集量が2,000−2,300t/日までに増加しました。
おわりに
特に力を入れてきた【WBA】という総合的な活動と,「環境プログラム無償」によるコンパクターなどの収集車の導入とが相乗的な効果をあげ,この技術援助が良い結果を生んだものと云えます。
ダッカ市廃棄物管理局では,@区清掃事務所による分権化とCIの意識改革,A自覚と誇りを持った清掃員が参画する清掃事業の推進,Bコミュニティー参加型の廃棄物管理システムの構築と推進・拡大,C衛生的で効率的な収集システムの導入と改善の4つの活動を自らの力で推進するため2010年3月に,これらを条例として定めました。
途上国への技術協力と云えば,とかく,現地の実情に合わない施設を造り,日本人が去れば無用の長物に化すといったイメージを持たれがちです。本日の講話によって,少しでもそのようなイメージが払拭できれば幸いです。