屎尿・下水研究会

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環境講座(3)

講話者 屎尿・下水研究会*

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

Y 家庭紙とトイレグッズ
    (平成26年3月30日,関野勉氏)

 屎尿・下水研究会が作成した「文化資料−6家庭紙とトイレグッズ」をテキストとして使い,さらに講師が国内及び海外を旅した折に収集した実物のトイレグッズを交えての解説がありました。

 人間は二足歩行の立位なので,口と肛門とが垂直になり重力が掛かり,肛門の筋肉を締めておかないと大変なことになります。動物のように脱肛排便ができないので,尻始末が必要となったのです。
 尻始末の用具には,指と水,小石,土板,葉っぱ,トウモロコシの芯,ロープ,木片・竹べら,海綿,海藻,苔,紙などが知られています。
 紙は2150年ほど前に中国で発明されたが,尻始末に紙が使用された可能性を示す記録が6世紀の中国の文献にあります。わが国では12〜13世紀頃,上流階級の人々が大壷紙を尻始末に用いていました。ドイツの17世紀の「ある物語」にトイレットペーパーなる言葉が出てきます。
 ロール状のトイレットペーパーの基本特許というべきものが1871年に認可されているが,これはラッピング用の紙をロール状にしミシン目を入れる技術です。トイレットロールの製品化は1880年頃です。
 日本では明治32年に初めて新聞広告として表れ,その後大正13年に神戸市の島村商会が汽船に積むために生産したとの記録があります。昭和12年の須賀工業(株)のカタログに,幅12.7cmの両切りスタイルのトイレットロールの写真が載っています。
 日本では以前からビジネスホテル等で,トイレットペーパーの端の三角折りが行なわれていたが,2012年にメキシコを旅行した際に,各地のホテルでいろいろな折り方のものを見ました。
 明治末頃より昭和50年代ぐらいまでは,ティッシュペーパーの前身である鼻紙が一世を風靡していました。家庭紙の代表的な製品です。これはそのラベルのスクラップ帳で,200枚ほど貼ってあります。
 これは,カナダの製紙会社の5種類のトイレットペーパーが鳩目されたサンプル帳です。1950年代のものです。
 『Toilets of the World』(2006年にロンドンとニューヨークとで発行)の日本語版・『世界の変なトイレ』が2013年に発売されました。この本に,新宿の「あるビル」にかつてあった台湾屋台・レストランのトイレにあった巨大なオブジェが紹介されています。ちなみに,この本の原書からドイツの出版社が12枚の写真を抜粋して,カレンダーを作っています。
 ビレッジ・バンガードで見つけた和便器・洋便器型のカレー皿です。瀬戸のメーカーが企画し,中国で製造されたものです。この皿を使ってカレーを供している店もあるらしい。このほか,和便器型のプラスチック製の容器を用いて“ク・ソフトクリーム”を売っているレストランが清里にあり,500円で食べた後,容器を持ち帰ることができるとのことです。
 これは小便器や和便器やトイレットロールをあしらったストラップです。洋便器を模ったスピーカーもあります。
 これはハイタンク型洋便器のミニチュアです。イタリア・ローマのスペイン広場近くの玩具店のショーウィンドゥでみつけたもので,ずっしりと重い鉄製です。日本でも昔,バー,居酒屋等でこのタイプの洋便器を見掛けたが,この形式のものがいつ頃なくなったのか,最近では全くみることができません。
 ベルギー・ブルユッセルにある小便小僧は,600歳以上になると云われます。昭和天皇もここを訪問された際,この小便小僧を夜中にお忍びで御覧になったと,香淳皇后が亡くなった時の新聞記事で読んだことがあります。これは小便小僧がある処の近くの店で売られていたものです。日本には,浜松町と小田原に兄弟の小便小僧(ともに東京芸術大学教授が製作)があります。また,埼玉県行田市にはベルギーから送られた小便小僧三兄弟がいます。今はどうなっているのか定かでないが,ブリュッセルには小便少女もありました。
 著名人の顔写真が印刷されたトイレットロールもあります。私が持っているのはレーガン元大統領,オバマ現大統領それにクリントン元国務長官のものです。イラクのフセイン元大統領のものをみたことがあります。
 これは2007年にモスクワで開かれたワールドトイレサミットで,ロシア・トイレ協会会長からいただいた移動式トイレの陶器製のミニチュアです。このような汲取りトイレは,まだ下水道が普及していないモスクワ郊外のダーチャ(畑のある別荘)でみられます。

図7 トイレグッズいろいろ

 トイレコレクションのうち,なん種類かのものは絵葉書にして皆様に差し上げています。トルコ・エフイソス遺跡の公衆トイレ,江戸名所道外盡28の妻恋ごみ坂の景,1904年の日付のあるフランスのトイレ入出情況,日本の大正時代の商家の厠掃除の情況などです。

Z 下肥が作った江戸野菜
    (平成25年3月17日,堀允宏氏)

 葛飾区郷土と天文の博物館の学芸員をされている講師より,かつて葛飾周辺の東京東郊の農村で行われていた下肥の農村還元の実態を古老からの聞書きに基づいて振り返ってもらいました。

江戸野菜
 葛西地域における耕地への肥料源は,河川・池からの泥,水草のほかは購入肥料に頼るほかなく,その一つが下肥です。下肥を一年中絶やすことなく利用して,金町コカブ,小松菜,山東菜,ねぎ,亀戸大根,枝豆などの蔬菜類を栽培する都市近郊型農村になったのは江戸後期からです。

下肥の施肥
 蓮根:水はけの悪い水田を転用しての蓮根栽培。大量の下肥を,元肥を入れる3月下旬だけでなく,追肥として初夏にも入れていました。たいへん富栄養化した田んぼでした。こうした情況が昭和40年代まで見られたと云います。
 長ネギ:春,種を蒔いて冬に収穫。元肥として一反歩につき30荷の下肥を施したが,これは稲作の1.5倍の量です。大量の下肥施肥により,ネギの自軸が長くなり,柔らかく美味しくなるとされました。白い部分を見た目にもきちんと揃った状態になるように育てました。
 きゅうり,なす:苗床を作って早春に種を蒔き,苗を育てるものです。東京都心部の家庭から出る生ゴミを発酵させたものを苗床として利用しました。苗を本畑に定植した後も,一週間に一度の割合で下肥を与えました。これらのことは促成栽培につながっています。江戸っ子は初物が好きで,高いお金で買ってくれたからです。
 ミトラズ:注連飾りの材料として使われる稲をミトラズといい,穂が出ないうちに刈取りました。青々とした色が求められたので,稲の茎を青く長く伸ばすために下肥が大量に施肥されました。ミトラズを蓮根田の縁にぐるりと植えることもありました。
 稲:水田の元肥として,田植えの直前に下肥を入れました。1石ほどの大きな桶を水田の中に運び,ここに下肥を一時貯留しておきました。広い水田に下肥をまんべんなく撒くには熟練を要しました。「下肥の呑み倒れ」という言葉が残っているが,これは,下肥を入れ過ぎると窒素分が過多となり,稲が倒伏したり病虫害を受け易くなることを指しています。

下肥運搬船
 下肥に依存した農業を支えてきたのは,下肥を運搬する船です。下肥運搬船の経営は,富裕な農民層が行なっていました。安政年間の下肥取引に関する記録に,本所菊川の大久保肥後守邸の下肥の汲取り権を3ヶ年にわたり22両で買取ったとあります。
 下肥運搬船は長さ12m,幅2mほどの大きさ(肥桶260杯ほどの下肥を入れることができた)で,「長船」と呼ばれていました。セイジという船室がついていて船頭ともう一人くらいが寝泊りすることができました。昭和30年代まで活躍していました。
 下肥は,船から岸に「やいび」と云われた長さ20mほどの幅の狭い木の板を渡し,天秤棒で重い肥桶を担いでその上を歩いて降ろしました。バランスを崩して落ちることもありました。
 下肥の供給が千葉県や埼玉県に及ぶようになった昭和10年代以降は,トラックや鉄道による輸送が主力となり,長船で運ぶという風景は次第に少なくなりました。

図8 屎尿の連鎖網
(はばかりながら「トイレと文化」考,文芸春秋,1993.6)


図9 下肥を肥柄杓でかける
[長野県下伊那郡清内路村(1957年),熊谷元一氏撮影]
 (写真でみる日本生活図引1,弘文堂,1989)

下肥にまつわるエピソード
 農家の人たちが生産した野菜を遠くの市場まで,朝早くから荷車に積んで運んだ苦労話,下肥を扱っている農家に嫁いだ方が嫁入り前に実家の農家で肥桶を天秤で担ぐ練習をしたと云う話,下肥運搬船は銅版を使ってきらびやかに飾り立てた豪華なものであったと云う話などが披露されました。

[ 改善された富士山トイレ問題
   (平成25年10月20日,岩堀恵祐氏)

 電気も水もない厳しい環境下にある富士山の山小屋トイレを改善すべく,静岡県では研究会を設置し検討を加え平成14年に改善案を提出しました。これに基づいて順次改善を行い,17年度までに整備対象の24箇所全てが新しく生まれ変わりました。この研究会の委員長を務めた講師に,富士山のトイレ問題とその後改善された現状を語っていただきました。
 富士山にふさわしくないものの筆頭に挙げられるのは「富士山のトイレ」ではないでしょうか。新五合目の公衆トイレは循環式水洗トイレであったが,山頂のそれは素掘り式で屎尿は放流・浸透させていました。また,25箇所(静岡県側)の山小屋トイレのほとんども屎尿を放流・浸透するものでした。
 登山者が出した屎尿を山肌に流すため,ティッシュペーパー(注:霧や雨の多い高所では湿気が高く水溶性のトイレットペーパーを常置できない)が分解されずに残って遠くからは「白い川」に見え,近づくと臭うと,登山家の田部井淳子さんがかつて「週刊文春」(平成10年4月9日号)で警鐘を鳴らしていました。
 この警鐘に先立つ平成8年度から静岡県では,富士山にふさわしいトイレや屎尿処理法の検討・調査を開始しました。
 富士山は他の山に較べ,気象(雷,強風,雪崩,低温),地形(急勾配),地質(火山礫)の諸条件に加え,夏季集中利用(7〜8月の2ヶ月間に約30万人),水や電気が期待できないなど,トイレの設置条件は極めて厳しい。
 山小屋トイレの改善や携帯トイレによる持ち帰り実験の提案(平成8年度)及び屎尿処理装置を一体化したトイレ(自己完結型トイレ)の実証実験の必要性の指摘(平成9年度)がなされたことを踏まえて,平成10年度に静岡県では「富士山トイレ研究会」を立ち上げ本格的な実験・調査に入りました。
 平成10年度は杉チップ式トイレの実証実験と利用者の意識調査を,11年度は山頂の公衆トイレの屎尿運搬や脱臭実験を,12年度はオガクズ式,杉チップ式,水循環式トイレの実証実験と利用者の意識調査,13年度はオガクズ式,水循環式トイレの実証実験と利用者の意識調査をそれぞれ実施しました。
 山頂の公衆トイレは水分が地下に浸透し,さらに気圧が低いこともあって,バキュームでの吸い取りは困難ではないかと危惧されたが,水の補給により5回の試みで計3,000リットルを吸引・運搬できました。便槽はゴミ箱状態(ゴミの総数は1,487個)でした。
 オガクズ式:便槽にオガクズを充填してあり,排泄された大便はミキサーで撹拌されオガクズと混合,加熱・乾燥されます。バイオトイレと云われているが,コンポストトイレとしての特性をもっています。オガクズには脱臭効果があります。
 杉チップ式:充填材をオガクズに代えて杉チップにした方式です。杉チップにも脱臭力があります。
 カキ殻循環式:充填材にカキ殻を用い,その表面に繁殖した微生物の浄化能力で屎尿を処理するものです。処理水は水洗水として循環利用します。
 土壌循環式:充填材に土壌を用いて浄化するものです。処理水は循環利用します。
 4年間の調査結果を基に,静間県知事に最終報告書(当面は汲取りトイレと自己完結型トイレとの併用を提案)を提出しました。これを受け行政側は,富士山トイレの改善に向けた法的整備・予算措置を行ないました。
 山頂の公衆トイレは,今のところは屎尿を溜めておいて5合目まで運び出さざるを得ないが,最終的には,屎尿の減量化を図り乾燥物にし,小さな袋に詰めて用を足しにきた人に渡して,下山時に5合目まで持って帰ってもらい,そこで処理するのがベターであろう。
 設置スペースが狭く利用者も比較的少ない山小屋トイレでは,自己完結型のトイレを設置するのがよいでしょう。  トイレを清掃・管理する経費は,入山料あるいはチップを払ってもらって充当したらどうか。
 静岡県側の山小屋24箇所のトイレは平成17年度までに改善され,その内訳はオガクズ式が11箇所,カキ殻循環式が7箇所,焼却式が2箇所,オガクズ式+焼却式が3箇所,オガクズ式+土壌循環式が1箇所です。なお,山梨県側の山小屋18箇所も平成18年度までには全部が改善されています。設置に当たっては,行政側から大幅な補助金が出されました。
 一番大切なのは,トイレを使う際のマナー(ゴミや異物を絶対に投げ入れない。トイレットペーパーは水に溶けるティッシュ以外は使用しない。トイレ内で休憩,仮眠は絶対にしない)を励行することです。
 平成25年6月に富士山は世界文化遺産に登録されたが,これは日的ではなく,これからも将来にわたって富士山を守っていくための手段であると考えるべきです。
 富士山環境保全対策連絡会ができ,今後も引き続いて,屎尿処理対策やごみ・雑排水対策を含めた総合的な環境保全対策を講じていくことになっています。
 世界遺産登録までの手続きや事前の様々な準備・努力について,説明がありました。

\ 列車トイレのうつりかわり
    (平成22年3月13日,清水洽氏)

 明治5年,新橋−横浜間に鉄道が開設されましたが,車両にはトイレが付いていませんでした。明治22年4月,乗客が駅のトイレに行っている間に列車が発車してしまい,あわてて飛び乗ろうとして転落死するという事故が起こり,マスコミは列車トイレの必要性を書きたてました。これが契機となり,列車トイレが設置されるようになりましたが,汚物は垂れ流しでした。大正末〜昭和初期,電車にもトイレ付きが現われました。
 「列車便所に関する研究」が岡芳包博士らによって昭和26年,27年に発表され,科学的にも汚物が沿線に撒き散らされていることが明らかとなり,国鉄も汚物流し菅の改造や汚物を粉砕・消毒する粉砕式トイレの設置に取りかかりました。
 一方,新幹線の建設計画が具体化され,列車に取り付ける汚物処理装置の開発が至上命令となりました。当初,昭和36年に排泄物と洗浄水をタンクに貯留して車両基地で排出する「貯留式トイレ」が新幹線の車両に採用されました。しかし車輌をたびたび基地に入れなくてはならず列車運行上から.その後44年度未までに,「循環式」に変更されました。この方式は,タンクに薬液を混ぜた水を入れておき,この中に汚物を貯えていき,便器の洗浄水はタンクに設けたフィルターを通して水のみを吸い上げて繰り返して循環して利用するものです。

図10 N2000の循環式タンク

 しかし,在来線の車両に対する循環式への改造は予算の壁にぶつかり,粉砕式が継続され,点検蓋の設置,飛散防止覆いの取り付け,タンクの大型化などの改善がなされましたが,汚物の垂れ流しは依然として続けられていました。
 こうしたなか昭和40年に清掃法が改正され,列車を運行する者に対して適切な屎尿処理を行うことが義務付けられました。国鉄は昭和43年,「列車トイレット改良の基本方式」により,列車トイレとして循環式を採用する,地上設備の処理方式の調査を実施する,都市部でのトイレの使用を制限するなどを定めました。昭和56年度未の集計では,地上設備が車両基地に整備され,汚物処理装置を取り付けた車両は,5,350輌にまで達しています。全汚物発生量の75%が衛生的に処理できるようになったわけです。
 現在,JR,私鉄とも列車トイレは100%,循環式か貯留式が採用され,車輌基地でバキューム車で最寄の屎尿処理場へ運ぶか,あるいは下水への放流で対処されています。したがって,垂れ流しの車輌は1台もありません。その結果,安心してレールに近づき鉄道写真を撮ることができるようになりました。
 ところで,欧米の列車トイレは,一部の特急列車を除いて,いまだにほとんどが「垂れ流し式」です。

] 船のトイレ
   (平成22年2月20日,松田旭正氏)

 四方を海に囲まれた日本においては,船は,有史以来,日本人の生活に欠くことの出来ない大切なものであり,江戸時代には多くの和船が造られ,明治の中期頃まで千石船が物流事業の中心的な役割を果たしていました。明治以後,西洋の造船技術を取り入れるとともに,港湾施設の整備が進み,急速に世界の海運王国にのしあがりました。そんな中にあって船のトイレについての情報は少ないのですが,いくつかを紹介します。
 「最近まで,漁船には便所の設備がないのが一般的で,東支那海方面で操業するトロール船などでは,艫(とも)でロープや船舷(ふなばた)に掴まりながら排泄をし,尻は海水が洗ってくれました。時化のときや夜間での用便中に,波にさらわれて行方不明になる者が,時々出ました」と,知り合いの漁師さんが話してくれました。
 江戸時代,千石船の船乗りは多くて15人程度ですが,船内には竃は設けられていましたが,便所はなく直接海に排泄していました。
 海で働く人たちが,屎尿を海中に排泄することを「穢れ」としなかった観念は,陸で屎尿を川屋から川に流して浄める手続きと合っています。古代からの日本人の神道的清浄観が引き継がれていると思われます。
 江戸時代の西国の大名が参勤交代のときに使用した御座船には,便所がついていました。船尾の後ろの左舷甲板に長方形の穴が水面に向けて開けてあり,立派な蓋がしてありました。ところが,これを使ったのは家来たちです。殿様やお姫さまは,もっぱら樋殿(船内の排泄専用の部屋)で,「おまる」,「しのはこ」などの移動式便器を用いていました。その中身は外に捨てられていました。
 新河岸川の「川越夜船」(川越から江戸・浅草までを一昼夜で結ぶ,60〜70人を定員とするヒラタ船)には,川船には珍しく,艫の甲板に長方形の穴が貫いていて,川に直接排泄できるようになっていました。しかし,この穴のある場所のすぐそばで,船頭が櫨を使い舵を扱っていましたので,女性は勇気を要したことでしょう。
 明治に入ってからですが,玉川上水にも一時船が運航したことがありましたが(明治3年から2年間ほど。羽村から四谷大木戸までの1日行程),「この船には厠があった」との乗船者の日記が残されています。これは乗船者の屎尿で上水が汚されないようにとの配慮で,通船申請書にも「舟毎ニ便桶壱ツ宛用意仕置…」と記されています。船の乗客定員が23名であったとのことですから,容量が24リットル程度の蓋の付いた桶が用便のために置かれていたのではないかと想定されます。
 このほか,「東海道中膝栗毛」にみる舟の便所あるいは現代の大型船とレジャーボートのトイレについての話題も披露されました。
 近年,船舶から生ずる汚水の海上処分が海洋汚染の原因であるとして国際的に問題となり,わが国においては,「海洋汚染等及び海上災害の防止に関する法律」により関係法令が整備され,海の環境が保全される体制になってきました。

図11船の構造と各部の名称