読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
環境講座(2)
講話者 屎尿・下水研究会*
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
V トイレの神様
(平成24年2月19日,小松建司氏)
家の守り神の一つとしてトイレにも神様が宿っていると信じられてきたが,各地に伝わるトイレの神様のアラカルトを紹介してもらいました。
植村花菜の歌・トイレの神様
2010年のNHKの大晦日の番組・紅白歌合戦で,9分を超えるたいへん長い歌が披露されました。今日のタイトルそのものの植村花菜の「トイレの神様」です。こんな歌です。
「トイレには それはそれはキレイな女神様がいるんやで だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで…」
便所に宿る神様
植村花菜が歌っている「トイレの神様」はべっぴんさんのようですが,本当はどうなんでしょうか。
古事記や日本書紀によれば,イザナミ(伊邪那美)がヒノカグッチ(火之迦具土)を産んで死んだとき,大便と小便を排泄し,大便からは土の神であるハニヤスピコ(波邇夜須比古)とハニヤスビメ(波邇夜須比売)とが,小便からは水の神であるミツハノメ(弥都波能売)と穀物の神であるワクムスヒ(和久産巣日)とが生まれたといいます。
ここに出てくるハニヤスビメとミツハノメとをトイレの神様としたのは,卜部(うらべ)神道や橘家(きつけ)神道を伝えた人々だとされています。このハニヤスビメやミツハノメそれに中国の柴姑神が女の神様で美人だとされていることから,「トイレの神様は美人なんだ」という話になっていったのではないでしょうか。
その後,日本に仏教が伝来し,帝釈天がお釈迦様は臭気に弱いからと築いた糞の城を北の守り神である「うすさま明王」が食い破ってお釈迦様を守ったということから,一般に広くこの「うすさま明王」が便所の神様として崇められるようになりました。特に禅宗で多く祀られています。ところで,この「うすさま明王」は元来,インドの民族神でしたが仏教に受け入れられた神様です。
このほかに,がんばり人道,アイヌでのミンダルカムイ,琉球でのフールヤヌカン,古代ローマでのステルクティウスなどがトイレの神様として知られています。
トイレの神様の呼称
現代風にいえばトイレの神様ですが,昔は便所神と云いました。このほか,便所のことを厠(かわや),雪隠(せっちん),手水(ちょうず),関所(かんじょ),後架(こうか)などとも云いましたので,後ろに「神」をつけて,厠神,雪隠神,手水神,開所神,後架神とも呼ばれていました。まだまだありますよ。おひがみ様,しりしり様,うつしま様,… などなどです。
昔の便所
私が子供の頃居た母の実家である秋田県の農家の便所は,家の外にあるのが普通でした。
5歳の時,千葉県に引っ越しましたが,新しいタイプの農家でしたので厩は母屋に附属していませんでした。1階の作業部屋みたいな処を間借りして住んでいました。便所は家の中にありました。踏み板を3〜4段上がると簡単な板が張ってあり,そこに穴が開いており金隠しも一枚の板でした。これを跨いでしゃがんで用を足しました。当然ボットン便所で,アンモニアが目に泌み,臭くてハエがブンブン飛んでいました。汲取った後しばらくは,お釣りがくる(跳ね返ってくる)のが難点でした。
当時はまだ電気をふんだんに使えるわけでなく,夕方になると電灯が点きますが,その数も限られていました。便所などはロウソクを持って行くという有様でした。ゆらゆらと揺れる影を見ながらのトイレ行きは,子供心にとても怖いものでした。そんなですから,暗闇の便所は「下から手が出てきて‥・(便所でお尻を撫でられたという伝承が各地に残っており,その正体は河童だそうだが)」もおかしくない状況でした。
昔の便所では,足を踏み外して落ちるということがよくあったそうです。特に子供では,それは死につながります。だからでしょう,便所は現世とあの世との境目だといわれ,便所にはあの世に通じる特別な神様がいると信じられてきたのです。
便所にまつわる民話
便所にまつわる民話に「三枚のお札」があります。各地に伝わっていますが,その内容は微妙に違っています。茨城県・川越の場合では概略こんな話です。
「あるお寺の小僧が和尚様の言うことをちっとも開かないので,怒った和尚様は三枚のお札を小僧に持たせて寺から追い出してしまう。小僧はしかたなく山に行き,山で出会った山姥の家に泊まる。夜中に怖くなった小僧が便所に行きたいというと,腰に縄をつけられてしまう。小僧は便所の柱に縄を結わえ付けて,便所の神様に後を頼んで急いで逃げる。山姥はすごい形相で追いかけてくるが,小僧が和尚にもらった3枚のお札を投げると,それぞれ川,山,火をつくって小僧を助けてくれる。命からがら寺に逃げ帰った小僧が和尚様に助けを求めると,和尚様は山姥と化け比べを始める。結局,豆に化けた山姥を和尚様が食べてしまい,小僧は救われ,その後小僧は心を入れ替えてよい子になった」
トイレの神様を祀る寺社
これは,平成15年3月に撮影した東京・品川にある東光寺です。この東光寺に最初に出会ったのは,私がまだ現役で勤務していたときに携わった東京都下水道局文化会の会誌の取材をしていた時でした。それから数年後,日本下水文化研究会の分科会「屎尿・下水研究会」の幹事をしていて,何か発表をしなければならなくなり,その頃,童話に興味を持っていましたので,民話にも出てくる「トイレの神様」を思いつき,東光寺を再訪しました。境内に「東司(便所)守護 鳥瑟沙摩大明王」と書かれた説明板が建っていました。「うすさまだいみょうおう」と読みます。トイレの神様の名前です。住職もいないようで,この寺のどこに祀ってあるのかはわかりませんでした。
これは伊豆・湯ヶ島にある明徳寺ですが,平成15年5月24日のテレビ番組「アド街」で放映されたものです。実はこの放映の前日に,私は「便所の神様」という演題で講話(「ごみの文化・屎尿の文化」(技報堂出版,2006)を参照)をするのに先立っての取材のため,明徳寺に行っていました。
山門のある立派なお寺で,「東司の護神 うすさま明王堂」と大きく書かれた看板を掲げたお堂があり,そこにトイレの神様が祀られていました。賽銭箱の奥に跨ぎ棒があり,これを跨ぐと「下の世話を他人にしてもらわなくてもすむ」と云われているそうです。私も「跨ぎ棒」に座ってきました。
ここで,トイレの神様の御札を買ってきました。御札は2枚あり,1枚は文字のみのもの,もう1枚は神様のお姿が描かれたものです。文字のみの御札は,便所の入口のドアの上の壁に貼るそうです。お姿の御礼は,和式の便所では用をたす正面に,洋式の便所では入口の裏に貼るとのことです。また,御札は息のかからない高いところに祀るよう注意書きがあります。そう云われてみると,昔,親戚の家の便所でこれと似た御札を見たことがあります。
これは,石川県の金沢で売っている土人形で,昔はトイレを造るときに基礎の部分にこれを埋めたようですが,今はトイレに飾るだけの人もいるようです。実物を,屎尿・下水研究会の関野さんが今日わざわざ持参してもらいました。仏具店で購入したそうです。高さ10cmほどの男女2神の厠神をかたどった素焼きの人形で,このように鮮やかに彩色されています。
図4 金沢の厠神
こちらは,宮城県の堤人形です。インターネットから借用した写真です。金沢と同じような用い方をするようです。
トイレの神様は,お寺だけかと思っていましたが,今回再度調べ直しているうちに,神社にも結構祀られていることがわかりました。神社では普通,御幣のようなものを飾ることが多いようです。
トイレの神様にまつわる風習・ご利益・俗信
便所の神様は,右手で小便を,左手で大便を受け止めて,常に人間の健康を気遣ってくださっていると云われています。次に,各地に伝承されているトイレの神様にまつわる風習・ご利益・俗信を挙げてみます。
風習:
・出産後,便所に赤飯や塩などを供え箸を添えて,生まれてまもない(3日目あるいは7日目あるいは33日目)赤ちゃんを連れてトイレの神様にお参りをし,その時そこで汚物を食べさせるまねをする。これを雪隠参りという。
・子供が便所に落ちたとき,一度あの世に行ってきたことになるので,その子供が助かると霊魂が現生に再生したものとして,新しい名前をつける。
・トイレを新しく造るとき,人形や鏡や化粧品を埋めて祀る。
ご利益:
・妊婦が便所をいつもきれいにし花を供えて厠神を祀れば,安産で,きれいな子供が生まれる。
・1月16日に便所掃除をして線香を1本立てると,結膜炎にならない。
・夕立の時に,便所を箒で3回撫でて,後ろを見ずに帰るとイボがとれる。
・子供の臍の緒を便所に吊るしておくと,子供が夜泣きをしない。
俗信:
・便所で転ぶと,身内に不幸がある。
・便所の中に痰をすると,中気になる。
おわりに
実際にトイレに神様が居るかどうかはそれを信じるか否かで決まることですが,昔の人がトイレに神様が居ると言ったのは,日本人の道徳心を養うためだったのではないでしょうか。トイレは家の中でもっとも忌み嫌われていた場所だけに,それに目を背けさせないように「神様」という存在を通して注意を喚起したのではないでしょうか。 更には,トイレの掃除はもっぱらその家の嫁の仕事とされていましたが,嫁がせっせとトイレ掃除に励むように「掃除をすると美しくなるとか,子供が丈夫になる」とかのご利益に繋げたのではないでしょうか。
ここで肝心なことは,トイレ掃除したという事実よりも,人が嫌がる仕事を積極的にしようとする心がけが大切なのだと云うことです。毎日使うトイレに神様が居たとしたならば,神様に不潔な思いをさせたくないですし,また居ないとしても,自分自身に恥ずかしくない使い方をしたいものですね。
W トイレからしゃがみ文化と腰掛け文化を探る
(平成22年3月7日,平田純一氏)
しゃがみ式と腰掛け式の分岐点
座る・しゃがむ生活様式と,立つ・腰掛ける生活様式とが分岐した時期は,地域によって異なるが,今からおよそ六千年前からであろう。排泄の仕方についても,大別するとしゃがんで排便するグループと,腰掛けて排便するグループに分かれました。日本は照葉樹林帯の北端にあって森に囲まれているので,氷期から現在にいたるまで座る生活・しゃがむ生活を取り続けています。しゃがみ姿勢での排便を縄文時代以来一万数千年にわたって続けてきた日本人が,1945年以来60年あまりで腰掛け式排便に転換したのは,まさにトイレの歴史上の大事件です。
しゃがんでいたことを証明可能か
しゃがみ姿勢を習慣的に取り続けていると,かかとの関節に過度な屈曲を強いることになり,関節面周辺の骨格に構造変化(蹲踞面の形成)がみられるとのことです。ヨーロッパ人には極めてまれにしかみられないが,日本人には蹲踞面が多くみられ,縄文人では特に多くみられることから縄文時代以来日本人は,しゃがむ姿勢を取り続けていたものと推定されます。
洋風便器の苦難
メソポタミア,エジプト,インダス,クレタ,古代ギリシャ,ローマの各地で,当時のトイレが考古学的発掘で発見されています。これらは,溝を流れる水の上にレンガで構築したり,木や石の板を乗せてその上に腰掛けて排便するものです。現在の洋風水洗便器と区別するため,腰掛け式水流便器と呼ばれています。
これらの便器は西ローマ帝国の滅亡(476年)とともに消滅し,その後の約千年間は北方民族の原始的な放便や貯糞,椅子式便器などに逆戻りし,水流を利用する習慣はなくなってしまいました。中世の中頃からは,「おまる」や「しびん」の全盛時代を迎えます。住居内での「おまる」の保管は,初期にはベット脇の人の目につく所に置かれていたが,次第にベットの下に入れるようになり,さらには専用のナイトテーブルに収容されるようになりました。
ヨーロッパは14世紀にはペストが,16世紀には梅毒が,17〜18世紀には発疹チフスと天然痘が猛威をふるい,ついに19世紀にはコレラが爆発的に広がりました。ヨーロッパにこれらの病気が蔓延した理由の一つが,都市の不潔にあります。自分の住む空間さえ清潔であれば公共空間の不潔は関係ないとばかりに,窓から汚物を投げ捨てることは意に介さなかったのです。コレラは主に飲料水を媒介して広がる経口伝染病であり,環境の病気と云えます。当時のヨーロッパは,飲食→排泄→一時貯留→投棄→下水路→河川→飲料水と云うサイクルをつくっており,コレラの蔓延にとっては,このうえない環境であったわけです。
図5 穴あき椅子
[1890年頃。マルタン・モネスティエ「図説排泄全書」(原書房,1999)より引用]
トイレの日欧比較
天水に頼る畑作牧畜民の末裔である西欧人は,地中海文明時代の二圃農業から,深耕鋤の発明で生産性が大幅に向上した三圃農業へ,11世紀頃から転換しました。三圃農業は休耕地に牛馬を放牧します。放牧地の牛馬の糞が肥料となり,わざわざ人間の屎尿を投入する必要がありませんでした。都市と農村の間に屎尿のリサイクルの環が完成しなかったのです。これに対して稲作農耕民の血を引く日本人は,鎌倉時代末から室町時代になって,都市の人口増加と食糧増産のために水田が拡大し,屎尿が肥料として一般的に利用されようになりました。江戸時代には,金肥といわれるように,屎尿は価値を高めました。こうして都市と農村との間に世界でも珍しい完全なリサイクルの環が形成され,都市は清潔を保つことができました。このリサイクルは1945年以降も続いたが,その後,農村では化学肥料の利用,都市では下水道の整備・浄化槽の普及によってリサイクルの環は切断されました。
回虫の功罪
江戸時代における回虫の感染率は大体50%前後であったと云われています。戦後の1950年代は60%を超えていたと云われ,このときが日本の歴史上,日本人が最高に感染していた時期です。食料難,肥料難から人糞を畑に多く撒いたのが原因です。その後,衛生教育の徹底で,1960年代は20%,1970年代は2%,1980年代には0.2%,2000年代になってからは0.001%まで感染率が低下したと云われています。
日本のトイレの紆余曲折
明治初期から中期にかけては,横浜または神戸に来航した外国人の便所は,その都度始末するようになっていました。上板の中央に丸穴を穿ち,便所の外部から便瓶を差込み,用便の都度防臭剤を散布するのみで,汚物は毎日夜間に居留地消防隊内衛生部の人夫が来て処理していたと云います。
明治時代を通じて,日本のトイレは木製非水洗和風便器が主流で,何とかしてこれを陶器製にできないかと努力してきたのが,瀬戸,常滑,信楽,赤坂(福岡県)などの陶器産地です。当初は木製下箱(現在でも非水洗貯留式の場所に行くとみられるように,平面形状は矩形で,「きんかくし」も垂直に立ち上がっている)をそのままコピーして,陶器に置き代えようとしました。しかし,焼成温度が高いため収縮が大きく,下箱の四隅が切れてしまいました。そこで考え出されたのが,四隅にアールをつけて小判形にすることで切れを防ぐことでした。また,「きんかくし」についても垂直を保つのが難しいので,お椀を半分に切ったような半円形の形状にすることで,明治24年頃,製品化に成功しました。瀬戸の川本秀雄氏の考案であると云われています。
この形状は,現在の水洗式和風便器にも基本形状として引き継がれています。明治16年頃から大正初期までは,衛生器具はほとんど英国からめ輸入でしたが,それ以降は急速に米国製の輸入に切り替わっていきました。これらの輸入品を参考にしながら,和風の水洗便器の原型を考案したのは,厚田竹次郎氏と須賀豊次郎氏の両氏です。明治37年頃,名古屋の愛知陶器会社が一体形の水洗式和風便器を完成させました。これ以降,幾多の改良が加えられてきました。
X トイレットペーパーの歴史
(平成21年11月8日,関野勉氏)
尻始末用具のいろいろ
「トイレットペーパーの文化誌」(西岡秀雄著,1987年,論創社刊)は,尻を拭く用具として,次のようなものを挙げています。
@ 指と水 インド・インドネシア
A 指と砂 サウジアラビア
B 小石 エジプト
C 土板 パキスタン
D 葉っぱ ソビェト
E 茎 日本・韓国
F とうもろこしの毛・芯 アメリカ
G ロープ 中国・アフリカ
H 木片・竹べら 中国
I 樹皮 ネパール・ブータン
L 海藻 日本
M 紙 各国
この他に,雪(北欧)や苔(ノルウェー)や棒切れ(ボルネオ)なども知られています。
そして,西岡先生はこの著書の中で「尻を拭く用具として紙を使っている人口は,世界総人口の3分の1に達していない」と述べていますが,私は世界の2分の1の人たちが使用しているものと考えています。
紙の歴史とトイレットペーパー
紙は中国で紀元前にすでに発明されており,それは今から2,150年も前のことです。わが国では,「日本書記」に高麗の僧・曇徴が610年に伝えたとありますが,実際には4〜5世紀頃には伝わっていたと考えられています。
中国で発明された紙は,シルクロードを西漸して,カイロに900年,モロッコに1100年,スペインに1151年,ドイツ,イギリス,オランダなどのヨーロッパに広まったのは,我が国より遅れること約1,000年でした。
紙には,書写,包む,拭く,加工などの用途がありますが,紙がトイレットペーパーとして使用された可能性を示す記録は,6世紀・中国の「顔氏家訓」の治家編にあります。ここに出てくる「穢用」の意味ですが,鼻紙と訳されていますが,尻始末にも使用された可能性があります。我が国では,12世紀の絵巻「餓鬼草紙」に,土塀の前で排便をしている「伺便餓鬼」の場面に,籌木(ちゅうき)(糞べら)と紙が散らばっているのが措かれています。この絵巻には詞書がないので推測するしかないのですが,この頃にはすでに,上流階級の人々は紙を尻始末に使用していた可能性があります。
これらの記録から,中国では6世紀頃に,また,我が国では12〜13世紀頃に,すでに上流階級の人々が尻始末に紙を使用していたことは明らかです。
16〜17世紀頃にヨーロッパで紙がようやく普及してきましたが,原料問題(当時は原料のボロ布が不足していた)が絡み,木材パルプが登場する前でしたので,紙は未だ庶民が贅沢に使用できる状態にはなかったと思われます。
この頃,イギリスで水洗トイレの開発が進められていました。
トイレットロールの誕生
19世紀迄のヨーロッパにおける紙の原料はボロ布でしたので,人口増に伴う紙の需要増に対応できず,社会問題化しました。
洋紙と云われる機械抄紙が生産されるようになったのは,フランスのルイ・ロベールが1798年に抄紙機を発明してからのことです。しかも当初の原料は古着でしたので,手漉に比して機械抄紙の場合は大量の原料が必要となり,原料である古着が不足し社会問題となりました。その後,麦藁や麻などを利用して機械的製紙を行っているうちに,1844年に木材がパルプとして利用できることが分かり,これに加えて,製紙用の色々な薬品の発見とが相俟って紙の増産ができるようになりました。
機械抄紙が世界に広まることにより,色々な種類の紙の生産が行われるようになりました。ロール状のトイレットペーパーの基本特許というべきものは,1871年のアメリカのセス・ウェラーのものです。この技術は実際には1880年頃にイギリスとアメリカで企業化されます。イギリスはW・J・オルコック,アメリカはスコット兄弟です。
これより以前,アメリカでは1857年にジョセフ・ゲェティによって,ちり紙状の製品が発売されています。
日本におけるトイレットペーパー
日本には「ちり紙」なる種類の紙が手漉紙の頃から各地で生産され,奈良,京などでは吉野紙などの薄紙がちり紙として,上流階級に使用されていました。庶民用には漉返し紙の代表である「浅草紙」などが各地で生産されて,色々な名称で生産・販売されてきました。このような中で,明治32年5月1日の「中央日報」に芙蓉舎の「化粧紙」の広告の中に「目下欧米各国に流行するトイレットペーパー」なる文言がみえます。これが,我が国で「トイレットペーパー」という言葉が初めて広告に出稿されたものであると思われます。
トイレットロールの国産化についての記録は,「大正13年(1924年)に,土佐紙会社・芸防工場が神戸の島村商会の注文で原紙を抄き,島村商会が加工して外国航路の汽船に積んだ」
とあります(芸防抄紙物語所収)。しかし,どんな機械で巻き,ミシン目を入れたのか,又カットなどの加工状況は分かりません。手漉紙から機械抄紙になり,幅の制約はあるものの,長さについては無制限となりロール状の製品が生産できるようになりました。問題は加工機械です。その加工機の資料は今のところ見つかっていません。
昭和36年以降,アメリカ・キンバリー・クラーク社とスコットペーパー社が相次いで日本の会社と合弁会社を設立して,ちり紙はトイレットロールに,京花紙はティッシュペーパーへ転換させられました。しかし,日本では利益を上げることができず資本を撒退して,現在はブランド名のみが残っています。
おわりに
日本では現在,年間100万tほどのトイレットペーパーを生産しており,1人当たり年間8.04kgの使用量となっています。昭和48年(1973年)のオイルショックの時は,トイレットロールが19万t,ちり紙が29万tでした。この割合が逆転したのは昭和53年(1978年)になってからです。