屎尿・下水研究会

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環境講座(1)

講話者 屎尿・下水研究会*

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

開講にあたって

 かねてより話題になりながら,なかなか実現に至らなかった「一般市民の方々を対象とした講話会」の開催が平成20年度より実施の運びとなり,東京都小平市のふれあい下水道館の講座室(定員25名)において,土曜あるいは日曜の午後に2時間の特別講話会の枠を設けていただきました。
 講話者の派遣は屎尿・下水研究会が担当し,「市報 こだいら」を媒体にして講話会予定日を周知しています。テーマは,トイレ,廃棄物,下水道,水道・水環境と多岐にわたっており,適宜,海外情報の提供にも努めています。7年間で延べ40回ほど開催し,多くの情報を発信することができました。
 この度,今までの講話内容をダイジェストして「環境講座」と銘打って本誌に掲載することとなりました。幅広い読者の皆様が,本研究会の活動の一端をご理解いただければ幸いです。
 なお,本ダイジェストの文責は,本会幹事・地田修一にあります。また,挿入した写真・図は主に,技報堂出版から刊行した本会編著の『トイレ考・屎尿考』,『ごみの文化・屎尿の文化』及び『江戸・東京の下水道のはなし』並びに本会編集の冊子・文化資料から引用しましたことを申し添えます。

会場案内


ふれあい下水道館の役割
      (平成21年2月15日,松田旭正氏)

 小平市は,荒川水系と多摩川水系との分水界をなす武蔵野台地上にあり,市域の大部分のエリアには自然河川が流れていません。わずかに縁辺部に石神井川,黒目川,仙川,野川のそれぞれの水源があるだけです。したがって,農業用水や生活用水は,市の中心部を東西に貫通して流れている玉川上水(水道用の用水路)からの分水に依存してきました。
 家庭雑排水は,土壌に浸透させる「吸込み」式により処分してきました。その結果,人口が増加してきた昭和30年代に至り,地下水汚染が深刻化し井戸水が使えなくなってしまい,上水道を設置したいとの要望が次第に増えてきました。また,一部の家庭雑排水は排水路を経由して源流水域に流出したため水質汚濁が顕在化しました。
 そこで,昭和45年から流域下水道事業の一環として公共下水道の整備に着手し,20年後の平成2年度末に汚水整備事業は完了しました。多摩川流域は合流式で北多摩一号処理場において処理し,また,荒川流域は分流式で汚水は清瀬処理場において処理し雨水は雨水幹線を通じて河川に放流すると云う,2通りの手法で下水道を整備しました。
 下水道を建設するに当たっての起債(借金)は次世代へ引継がれることになるため,「下水道管を直接見ることができる施設を造り,下水の流れている管渠の実態やその下水がどのようにして処理されていくのか」を市民に理解してもらう必要があるのではないか,との意見が各方面から寄せられました。
 種々検討された結果,地域参加型の「ふれあい下水道館」(地上2階,地下5階建)が建設されました。開館は平成7年です。下水道を通して環境教育に積極的に関わっていこうと云うコンセプトのもと,「見える下水道」を目指しています。
 展示内容は,
入口周辺:せせらぎと湿地
  入口両脇の湿地には汚れた水を再生すると云う葦が茂り,せせらぎにはメダカが泳いでいる。
1階: エントランスホール(ミニ水族館,水琴窟)
  イワナ,ヤマメ,ニジマスが泳ぐ大型水槽や水琴窟が置かれ,清流の音と映像により入館者の心をなごませてくれる。
2階:コミュニティホール
  水に関するミニ図書室があり,来館者や周辺散策者の休憩場所としても利用できる。
地下1階:講座室
  下水を処理する微生物を観察できる顕微鏡と映像モニターとを一体化した装置があり,理科の課外授業や講話会が行われている。
地下2階:展示室(くらしと下水道)
  都市の地下に隠されている下水道の実態を映像や模型で具体的に説明している。
地下3階:展示室(小平の水環境の歴史)
  水を求めて武蔵野の荒野に掘った「まいまいず井戸」の模型や井戸掘り道具の実物を展示している。
地下4階:特別展示室(近代下水道の前史と夜明け)
  江戸・明治初期の下水道の情況を,絵や写真によりわかり易く解説している。このコーナーの資料提供は日本下水文化研究会である。
地下5階:ふれあい体験室
  実物の下水道管(内径4.5m,地下25m)の中に入れるコーナーである。下水道管内の水圧に耐えられる扉(潜水艦のハッチと同様の構造)が二重に設置されている。このほか,実際に使われている管やマンホールを展示している。
です。

図1 ふれあい下水道館

 なお,ふれあい下水道館(小平市上水本町1−25−31,TEL.042−326−7411)の開館時間は午前10時〜午後4時,休館日は毎週月曜日(休・祝日の場合はその直近の平日)及び年末年始(12/27−1/5),入館料は無料,最寄り駅は西武国分寺線「鷹の台駅」下車 徒歩7分 です。

トイレに関する講話

I 日本のトイレ発達史
      (平成20年10月4日,森田英樹氏)

厠の原風景
 野山を歩いていて便意や尿意を感じた時,やむを得ずその場で用を足すという行為(いわゆる野糞や立小便)を行うが,これが屎尿処分の原点であろう。やがて一定の集落ができてくると,そこいら中でするわけにはいかないので,野外の特定の場所で排泄するようになりました。縄文時代の貝塚から糞石(大便が化石になったもの)が出土することがあります。生活の場に隣接している貝塚やごみ溜めの付近を,トイレ代わりに使っていたのではないかと推察されます。人口密度も低く,自然の分解作用にまかせておいても,環境汚染を引き起こすことはありませんでした。
 このように家の外で用を足すのが,奈良,平安時代ぐらいまでの庶民の生活スタイルでした。国立博物館に『餓鬼草紙』と称される絵巻が伝わっています。絵には老若男女が排便をしている所に伺便餓鬼が群がっている,平安末期の京の街角が描かれています。排便をしている人の足元をみると,当時の庶民のほとんどが裸足か草履であったにもかかわらず,高価な高下駄を履いています。これは,この場所がすでに糞尿で溢れているため足元や着物を汚さないように履いたものと思われます。住民の暗黙の了解の上で特定の排泄場所,つまりトイレの位置が決められていたのではないでしょうか。
 時代は遡りますが,飛鳥時代の藤原京遺跡で,長さ1.6m,幅50cm,深さ40cmほどの穴から「ちゅう木(糞べら)」が発掘され,土壌中からも寄生虫卵が検出されたことから,この穴はトイレの跡であると認定されました。「土坑式トイレ」と云われるものです。四つの杭跡があり,杭に踏板を渡して用を足していたものと思われます。

屎尿を水に流す
 厠(かわや)の語源は「川屋」です。川の上につくった便をする所という意味です。縄文時代前期の5,500年ほど前の鳥山貝塚(福井県若狭湾の三方五湖)から「桟橋式トイレ」が発掘されました。桟橋の杭跡の周辺から多くの糞石が出土したことから,桟橋からお尻を突き出して排泄していたと考えられています。水に流すということでは,一種の水洗トイレです。このようなトイレは,今日でも東南アジア地域でみることができます。

奈良時代の水路式トイレ
 奈良時代の貴族の屋敷では,絶えず水が流れている道路側溝に堰を設け,築地塀の下の暗渠から屋敷内に水を引き込み,築地塀に平行した木樋の中に水を流し,この上に屋根をかけてそこで排泄をしていました。大便がそのまま流れ出ていかないように,少し先に穴を設けて沈澱させ,その上澄み水を元の道路側溝に戻していました。道路側溝や沈澱穴の掃除は,雨の降った日の翌日に,囚人たちを使って行っていたそうです。

高野山式トイレ
 平安時代の初期に空海上人が開山した高野山の寺院や民家では,谷川の水を竹筒などでまず台所や風呂場に配水し,その排水を便壷のない厠の下に流し,排泄した屎尿をこの水とともに近くの川に流し去っていました。トイレの異名である「高野山」は,ここからきています。しかし,交通が便利になり参詣人も増加した昭和になると,糞塊の堆積や赤痢などの伝染病の多発が社会問題化し,浄化槽や下水道で処理するようになりました。高野山式トイレは,戦後も日本の各地で,少数ではあるが残存していました。

移動式便器(しのはこ,おおつぼ,しとづつ)
 平安時代の貴族は,寝殿造の邸宅に住んでいました。寝殿造の建物には,トイレと呼べる特定の設備がなく,大便用には「しのはこ(清筥)」,小便用には「おおつぼ(大壷)」や「しとづつ(尿筒)」という移動式の便器が用いられました。今日の「おまる」や「しびん」です。御簾と呼ばれる「すだれ」のようなもので広い部屋の一部分を仕切り,その陰で用を足していたのです。「おまる」の中身は使用人が捨てていました。

汲取りトイレ
 野外でするのか,家の中でするのかの違いはあるにしても,屎尿は長らく「捨てるもの」でしたが,鎌倉時代末期から徐々に樽や壷に溜める「汲取りトイレ」に移行していきました。「肥料価値のある屎尿を確保する」という見地からです。麦を裏作とする二毛作が鎌倉時代末期から盛んに行われるようになり,生産性を高める工夫や地力維持への関心が高まりました。中国の宋王朝ではすでに屎尿を肥料として使っていたことから,鎌倉時代から行われていた日宋貿易によって,中国から「屎尿の肥料化技術」が日本に伝えられたものと推測されます。従来の,草を刈って田に敷き込む刈敷や草木灰に加えて,速効性のある屎尿を追い肥として使用する農業技術が次第に広まっていきました。
 西本願寺蔵の『慕帰絵』に汲取りトイレが描かれています。南北朝時代のものです。トイレの外観は竹の柱に板壁をはりつけ,屋根は板葺きで,内部は土を掘った上に板を渡し,下の穴に屎尿を蓄えるようになっています。同じく南北朝期の『弘願本法然上人絵伝』(堂本家本)に「厠の念仏」という場面があります。トイレの外観は不明ですが,内部は板敷きで中央に板製の便器があり,一人の僧侶が高下駄を履いて用を足しています。ともに母屋とは別棟の外トイレです。日本古来の建築様式である農家建築では,外トイレや軒下トイレが一般的であり,家屋内に定置したトイレを設けるようになったのは武家建築(書院造)になってからです。

江戸時代のトイレ
 江戸時代になると,農村での屎尿の利用が全国的に定着しました。屎尿と作物(米や野菜)を媒介とした,都市と農村を結ぶ「リサイクルの輪」ができあがりました。「屎尿をまけば作物がよくとれるので,農家はお金を払ってでも手に入れたかった」という状況の中で,やがて屎尿を汲取って農家に売る業者が生まれてきました。屎尿は「廃棄物」ではなく,値段がついて取引きされる「有価物」となったのです。
 江戸の場合,長屋で大人20人の店子が生活していたとすると,共同の外トイレの屎尿を売り払って得られる収入は,一年間でおおむね1両から1両2分でした。一人前の大工の1ケ月の収入が2両程度の時代にです。個人の家の場合は,野菜などとの現物交換が多かったようです。
 屎尿の代価は,江戸ではすべて大家のものでしたが,京都周辺では大便は大家のもの,小便は店子のものでした。関西では農家も小便を欲し,小便桶と大便所が別々に設置される場合が多かったようです。そのため,女性も小便桶に向って立って小便をしていました。

明治時代のトイレ
 洋式の水洗便器が輸入され始めたのは明治の中頃です。また陶器製の水洗便器が国産化されたのは大正に入ってからです。いずれにしても,明治期ではトイレの水洗化はごく一部であり,一般庶民の住宅にまで普及することはありませんでした。

大正・昭和時代のトイレ
 急速な都市への人口集中による都市部の拡大と化学肥料の普及とがあいまって,屎尿の農地への還元は,屎尿の運搬や消費量の面から,近郊農村でその全部をまかなえる状況ではなくなってきました。さらに,屎尿利用の最大の課題であった寄生虫,消化器系伝染病,蝿の発生などの衛生問題も大きくクローズアップされてきました。
 こうした中で,汲取りトイレを改良する研究が官民で盛んに行われました。「城口式大正便所」,「昭和便所」,「厚生省式改良便所」などがそれです。いずれも,寄生虫卵や病原菌を死滅させるよう工夫を加えたものですが,その普及はわずかなものに止まりました。

 
図2 江戸時代農家のトイレ(日本民家園)

 農地への還元量が減って,行き場のなくなった都市部の屎尿を処分するために,緊急避難的な措置として,山林や海洋への投棄が昭和10年頃から行われるようになりました。

水洗トイレの普及
 昭和30年代からの,浄化槽の設置や公共下水道の建設に伴う「水洗便器」の普及はめざましく,平成17年度末には水洗化率は89%に達し,悪臭や蝿などからはほとんど開放されました。しゃがみ式の和式便器から腰掛け式の洋式便器への移行も急ピッチで進み,さらに,紙を使って尻を拭く方式から尻を水で洗浄する温水洗浄便座へ転換しつつあります。また,節水型水洗便器も開発されています。このように,トイレ空間だけをみれば,実に快適になったと云えます。しかしその一方で,屎尿そのもののリサイクルシステムは崩壊し,再び廃棄物視された屎尿は,水洗便器を介して流し去った後,その先で「何らかの施設を設けて処理する」と云う新たな時代を迎えました。

U 生活改善運動とトイレ・上下水道
      (平成22年12月12日,小峰園子氏)

 講師は葛飾区郷土と天文の博物館に勤務されている方です。大正から昭和前期にかけての農村における「生活改善運動」に焦点を当て,その中でトイレや上下水道に関する文化がどのような変化をみせていったかについて話していただきました。加えて,飲料水の天秤棒による運搬や非衛生的な農業用水利用を打開するため実施された,近代的な簡易水道造りを扱ったドキュメント映画「生活と水」(1952年岩波映画制作,羽仁進監督,厚生省後援,約20分)を鑑賞しました。この映画は今となっては,当時の農村生活の赤裸々な生活実態を知るうえでたいへん貴重な資料となっています。  江戸時代の農村では,現在でも一部の地域に残っていますが,汲取り式の外便所が使用されていました。屎尿は定期的に汲取られ,下肥として一滴残らず大事に農地に施肥されました。一方,上水(飲料水や雑用水)は,湧き水や農業用水に頼るところが多かったようです。
 明治に入っても,下肥は貴重な肥料として利用されていました。  トイレは地理的要因や気候などの違いによって,様々な形態があります。例えば,沖縄の豚便所や豪雪地帯での内便所がその典型的なものです。

 トイレが水洗化される以前(大正,昭和前期),我が国では様々な改良便所が考案されました。
  城口式便所(便槽が密閉されているため,微生物の働きで寄生虫卵などを死滅させることが できる)
  大正便所(便槽に目印をつけ,汲取りの時期 がわかるようにした)
  文化便所(跳ね返りをなくす工夫。大正便所と類似)
  内務省式改良便所(便槽が隔壁によって複数に仕切られており,3ヶ月ほど経過したものを汲取る。この間に,寄生虫卵,消化器系伝染病菌が死滅する)
  昭和便所(大便器の下の配管を湾曲させ,トラップの役割を持たせた。隔壁により3槽に仕切られていた)
  簡易水洗便所(洗浄水として家庭雑排水を用い,便池を設けず,そのまま下水道に流す)
などがありました。
 戦後,GHQの主導による生活改善運動が,栄養改善,居住改善,人生儀礼に至るまで,清潔,合理化,簡素化をモットーに強力に推し進められました。トイレの改善に関しては,厚生省式三槽型便所や屎尿分離式便所が推奨されました。ともに,雑誌「家の光」の昭和31年9月号の別冊「生活改善グラフ工夫実践」において,図をふんだんに使っての手作り方法が紹介されています。
 屎尿分離式便所は,昭和25年に,神奈川県衛生研究所が発表したもので,便器に二つの穴が開いており,大便と小便を分けてそれぞれ別の便池に溜めるものです。下肥が重要な肥料であった時代の最後の考案です。小便は伝染病の病原菌が極端に少ないうえに肥料として速効性があり,また,大便は最低3ヶ月間,腐熟させれば安全性が確保でき肥料としても有効であるので,両者を分離した方が合理的であるという発想に基づいています。  映画「生活と水」の,集落の皆が総出で勤労奉仕をして,水源から水道管を引くなどした「簡易水道」造りを克明に迫った画面は,規模は小さくても,きちんと管理された水道が設けられることによって,水汲みの労力がいかに軽減され,衛生的になり,生活が明るくなったかが端的に示されています。

図3 内務省式多槽便所