読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
大名行列とトイレ事情
〜萩藩主の参勤・領内巡行〜
講話者 松田 旭正*
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1.はじめに
江戸時代の防長両国(山口県)の主要街道は「山陽道」「萩往還(おうかん)」*1 「石州(せきしゅう)街道」「赤間閑(あかまがせき)街道」「山代(やましろ)街道」があり,これら,萩藩領内の街道は参勤交代を機に整備されるようになった。参勤交代とは寛永十二年(1635)の武家諸法度で徳川幕府は「大名小名在江戸交代所相定也…」とした。萩藩では毛利秀就(ひでなり),慶長十六年(1611)の初入国の復元和(げんな)元年(1615)から萩と江戸とを原則,交互に住むようになり,以後参勤交代は幕末の文久三年(1863)二月に萩に着くまで継続された。
萩藩の参勤交代の場合,萩から江戸への参勤と江戸から萩への下向(げこう)*2 の往復がある。参勤のコースは萩から陸路で「萩往還」道を三田尻(みたじり)まで,三田尻から大阪までは海路,瀬戸内海を利用し,大阪から江戸までは陸路であった。下向の場合,江戸から大阪までは参勤と同じであるが,大阪・三田尻間の海路を,享保(きょうほう)十年(1725)から陸路に変更している。海路での参勤・下向は船を利用した。
このように海路から陸路に変更した原因は,海路は天候に左右されやすいこと,陸路の整備が進んだことが考えられる。このたび藩主の道中(陸路)における用場(トイレ)事情を「萩往還」について「御国廻御行程記(おくにまわりおんこうていき)」文献を参考に紹介する。
2.街道の利用行事
(1)参勤交代の行列
街道の施設で重要なのは行列の規模である,参勤行列,御国廻*3 などの規模は,年次や大名により異なるが普通は千人近い行列の規模とされている。貞享(ていきょう)元年(1684)毛利吉就(よしなり)公,初下向の人数は1,663名であった。さらに,行列の人数は領内通行の際は増人数で,三田尻−萩間(萩往還)は長柄(ながえ)・鉄砲・持筒・玉箱等が行列に加わる。行列の通行にあたって,住民の負担は領内における人馬の徴発であった。貞享(ていきょう)元年(1684)の徴発は,人夫523名,馬831疋,これだけの人馬を街道周辺の村々から徴発するので住民の痛みは少なくなかった。行列は往復とも山口・三田尻で宿泊し,このほかは各所に設けられた駕籠建場*4 御休所で暫時休息した。
(2)藩主御国廻りの行列
藩主の御国廻りは初入国からほぼ一年以内に行われ,万治元年(1658)藩主広綱公は所要日数17日を要し人数は1,016名であった。藩主が国内巡見のため,萩城を出発し,奥阿武,徳地,山代の北辺,岩国に出て山陽道筋を下って赤間関に至り,次いで北浦海岸沿いに北上して,萩に帰城するしきたりである。
(3)幕府巡見使の行列
幕府は将軍代替のたびに各藩を視察する巡見使を派遣した。巡見使の一行は主に本街道を利用し,寛文七年(1667)幕府巡見使,稲葉清左衛門一行は127名で大規模ではないが,萩藩領内の巡見に派遣された。その応対に藩として最も意をもちいるところであった。
3.「萩往還(はぎおうかん)」街道施設
(1)一里塚
萩往還は萩〜山口〜三田尻まで十二里(約53km)で萩藩にとっては重要な街道の一つであった。起点を萩唐樋札場(からひふだば)とし,長門〜周防三田尻までの街道を藩主は参勤行列を組んで通行していた。
萩往還は唐樋札場(からひふだば)*5 を起点として一里ごとに石積みの道標(どうひょう)が建てられていた。
悴坂(かせがさか)一里塚は萩を出発して最初の一里塚である。元治元年(1864)藩は国内の一里塚を取払いそのあとに常緑樹を植えるように命じた。街道に沿って植えられている松を街道松・往還松と呼ばれ,街道松は,夏の木蔭を作り,冬め積雪・風除けの役割をはたし,松の植付け,維持は道路修補の一環として重視された。道路の並木松は代官*6 の管理下にあり,枯喝の場合年々怠りなく植え継ぐこと,もし切折りあるいは伐採した場合は死刑あるいは過料に課せられる。実際の植継ぎは地下(じげ)百姓に任せられていた。
(2)悴坂(かぜがさか)御駕籠建場(かごたてば)
藩主一行の行列が萩を出発しておよそ五kmにある最初の休憩地。当時の施設図@で,図左下に御小用,右下御用場廻りを青桐生垣,図左上駕籠を置く切芝の台貮箇所その周囲に一間半,二間の柴垣を設け,近くに簡易の手洗いを配置する。古図によると街道を挟んで向側には正式なお茶屋ではないが床や囲炉裏を備えた常設の休憩所があった。萩藩の場合「お茶屋」は藩主の休泊施設を指す。萩往還のお茶屋は佐々並・山口・三田尻にあり,その外「出茶屋」「お休所」と呼ばれる施設があり,それぞれの施設には御小用所・御仮雪隠が設けられていた。
(3)御腰掛差図・御駕籠建場差図(図1,図2)
藩主の領内通行の際,往還の比較的見晴らしの良い場所で駕龍をおろし藩主一行が休息する「御駕寵建場(おかごたてば)」と「御腰掛」とがある。下の絵図は史料として行程記にそれぞれ示され,これらの施設を必要とする位置に街道の休憩施設として仮設の建場・腰掛とが用意された本図は標準仕様としたものと考えられる。「駕籠建場」とは駕籠をとめて一時置く場所を表している。
@ 図−1御腰掛差図
近辺に茶屋その他民家などがない所は御供用(おともよう)に腰掛,二間(2.36m)に五〜六(5.9m〜7.08m)間程藁で菰(こも)のように編んで小屋を覆い,柴垣で囲うこと
御仮雪隠 御小用所 御手水鉢 置座 壱畳(横五尺(1.5m)・長さ壱丈(3m)藁苫造付(わらとまつくりつけ)
A 図−2御駕籠建場差図
一,御駕籠台土台切芝し上覆いなし
近辺に茶屋その他民家などない所は九尺(2.7m)に三間(3.54m)程の御供用(ともよう),腰掛上覆いなし但し御駕籠建場まわりに柴垣を作る。
(4)上の茶屋と下の茶屋
萩からちょうど三里(約12km)谷間の開けたところに御駕籠建場跡が残っている。御駕籠建場を挟んだ手前の茶屋が下(しも)の茶屋上手に上(かみ)の茶屋があった。
御駕籠建場の跡は残っていないが街道から少し上がった小高いところに,御駕籠台二基が置かれ,仮設のお手洗場もあった。
(5)御茶屋
萩往還で最も大きい施設は御茶屋である。お茶屋は街道筋の休泊施設の意味もあるが,萩藩の場合,藩主の休泊所を指すのが普通である。
萩往還のお茶屋は佐々並・山口・三田尻がある。これらの茶屋施設で山口・三田尻は藩主の休泊施設で滞在を前提としていた。
@佐々並茶屋
「嘉永六年丑(うし)参月普嶋宰判佐々並村御茶屋差図」と題された古図には主屋と御座の間のある別棟の他付属建物を設けていた。御座所棟は御座の間六畳と八畳三室をL字形に配し畳廊下を巡らし,上風呂,御用場を付属している。
左下図は御国廻行程記絵図
慶長九年(1604)毛利輝元の萩入城の際,長松庵で昼の休憩とったことから,後に御茶屋(藩主の宿泊・休息所)とされた。百九十四坪の本館,御長屋門御蔵,御供中腰掛,仮馬立,御番所などがあった。
A山口一の坂御建場(六軒茶屋古図復図)
古図によると往還の西南の一棟は六畳二部屋,四畳一部屋,三畳一部屋に土間のついた主屋,その西南角に別棟の四畳半の御座間,六畳の次の間と二畳の渡り室が設けられ,お座の間の西に踏石をへだてて御駕籠が設けられ,駕籠を降りるとすぐ御座間に入ることができる。この周囲は竹垣をめぐらし,木戸を二重にくぐって入る。主屋には「上の御煮立場」が六畳に,表の六畳は「当番之御手廻居所」。北隣りの小民家は「御徒(かち)通り」の休み所となり,北の仮建家屋には「御馳走人」その他「御付廻り」,「諸役人」,「賄所」「土地」(土間)には釜場が設けられた。往環の東側の山寄り(北)には規模は大きく格式の高いことからここは御家老休所と記してある。南隣りの小民家は「御側通り」の休所である。さらに南に仮屋があるがこれは「足軽以下」の御供中腰掛休所である。これらのほかに民家四棟は既存の家屋で,規模の大きい二棟には床の間がある。これらは「御座問」や「御家老」の休場である。仮建の二棟はいずれも「堀立て藁葺」で新規につくる。
(6)柊(ひいらぎ)御建場
小規模ながら御茶屋の体裁を持ちさらに「御建場」と呼ばれているように屋敷地内に母屋とはなれて駕籠建場を設けている。御用場は母屋に取り込まれ,風呂,お用場,お座敷と4畳半に併設している。
4.藩主御国廻記録
「御国廻行程記」は七巻あると云われている,行程記には下絵と清書がある。歴代藩主の初入国と御国廻りの年月日および廻国所要日数等が記されている。
出発から帰着までの行動を示すとほぼ同じ行程で実施されていることがわかる。
(1)行程距離及び日数
行程に於ける「腰掛茶屋」は順路の野外に設けられ簡素な休息所で湯茶の接待や,用便施設が設けられ,藩主は駕龍から降り,床几(しょうぎ)*7 にて休息するための場所であった。
「御駕寵建場」は,簡素な小休止の施設であった。
「御休み」とは,昼食を摂るために大休止をする場所で支藩のお茶屋か寺か富豪の民家が本陣に当てられた。
「宿泊」は支藩藩主の館か屋敷か,本藩の迎賓施設で,民間施設の本陣も利用された。
全行程百二十里(約470km)を十八日間前後で巡見することになり一日の行程で最長は八里三十丁(約31km)最短は3里4丁(約12km)で平均して七里弱(約27.5km)となる。一行は人夫まで含めた人数は本稿2−(1)に示した通り千人を超え,馬,三百疋を含めると大行列で,移動速度は,朝六ッ半(午前七時)移動開始し,宿泊地には七ッ(午後四時)に到着しなければならない。途中,大小の小休止(用便を含む)を入れると時速は約五キロの速度で,行列の先頭から後尾まで二キロの長さの行列が移動することになる。
(2)寛保二年(1742年)御国廻り行程記録による
9月15日 萩御発駕(はつが)*8 10月4日御帰城,行程17泊18日,合計道程約116里(455.5km)1日平均歩行距離約六里16丁(25.3km)全行程御泊り御休み(トイレ)回数69回 途中休憩施設52箇所に用便施設を設けた。
1日平均歩行距離六里16丁
(3)御国廻りに要した費用
総勢千数百人に馬三百疋近くの一行が,十八日前後にわたって巡見行軍する費用は,参勤交代(萩〜江戸)に要する費用の数倍にもなり藩財政に多大な影響を与えた。そのために,「公儀御差詰,地下困窮…」と藩の「御国廻りの事」の巻頭に記されるようになった。
御国廻り行事は公儀も財政困窮で実施にためらいを見せており,費用の大半を負担する領民は苦痛を感じていた。七代藩主重就*9 になって廃絶するに至った。
5.御国廻り「覚」
元禄9年藩主吉広*10 公の御国廻りが今年秋に予定されているが,厳しい藩財政の困窮と藩内の実施困難な社会情勢から,藩の粗税の徴収,など財務・民生全般を司(つかさど)る重職「当職*14 佐世」佐世主殿から所務代*13 (代官)に「元禄九年子正月十六日」に以下の覚が送られている。
覚
一,御国廻りの節,諸郡ご宿泊お昼休み所の儀,一昨年上便お通りの儀候条*1,お泊りお昼休みともにその所に相成る儀に候。もし,さように相成り難き所の儀も侯はば,早々に申し出でられるべく候事。
一,お泊りお昼休み所のご本陣,家臣たちの宿泊する宿の数,傍(そば)に付けたて申し出ださるべく候こと。
一,御本陣の儀,お茶屋たりともご座の間,並びにお勝手ともに少しばかりの差しさわりは,新しく普請はしない。しかし継ぎ足しが出来ないと御本陣にならないところは,古図に新しい継ぎ足しの所,絵図面にてさしだすこと。ご本陣の殿の居室が六畳八畳三間に廊下があれば相すむことに候。御勝手の儀,手狭ならば仮設を申し出ること。なるべく新普請は行わないようにすること。
一,お湯殿雪隠の儀,一昨年上使お通りの行事で使用したものを使うこと。新しく板を取り換え,上塗りして済ますこと。お泊りが替わった所は新しくするよう申し出ること。
一,ご座の間・二の間・ご縁通り・お湯殿・雪隠の分は上塗り申し付けらるべく候。
一,御本陣諸道真・器物以下までも,御前へ出で申さざる物の分は,少々古く損じ候とも「まあまあ」であればそれでよろしい。
一,御昼休みの儀は,お泊りのようにしなくてもよい,その意を得られお泊りよりは簡単に致すように。
一,本陣廻りの仮屋番所など立ち入りするところは,一泊のお泊りの状況におうじて対応するように。
一,家臣の内,お供の老中衆その外限りある衆の宿とても修繕する必要なく,屋根など漏りさえしなければ,葺き替えしないで,繕いなおすこと。すべてご本陣に準じて行うこと。
一,ご本陣近くに一般の旅人の宿が残っていないことが,あってはならないご本陣より七・八町十町内外ならよい,そのように考えて指示すること。
一,先年,寿徳院(毛利吉就)*12様お国廻りの節,お泊りお昼休みの外には,あちこちに出茶屋を希望されなかった。このたびも先代と同様にすること。
一,道路・橋修繕の儀,往来の危険な所は修繕の 指示をしておくこと。往来は異常がなくても,通路悪くご本陣より家臣たちの往来に不自由であってもまた農作業に支障なれば,新しく橋や道を造るよう指示されるよう。
殿様が住民に負担をかけないよう申されておられることを「肝に銘じておくこと」。
今年殿様がご入国あそばされれば,今年の秋 御国廻りされる。それについて諸郡お泊りお昼休み所,御本陣の諸通知,上の通りに指示されたい。このこのたび準備のこと,できるだけ「簡素に」を指示され,すべて一般農民や庶民に迷惑をかけないよう,みんなのためによろしく指示されるよう。
留守居家老を頂点とする機構
「元禄九年子」(1696)
正月十六日
御所務代中*13 (当職*14 佐世)
佐 主殿(すけとのも)
6.おわりに
萩藩は,別称長州藩ともよばれ周防・長門両国を領有した外様大藩であった。毛利氏は輝元(てるもと)の時広島城を築き,豊臣政権の五大老の一人となったが,関ヶ原の戦いで西軍に加わったため,周防・長門二国に減封された。初代藩主秀就(ひでなり)のあと元徳(もとのり)まで十三代,二百七十年余にわたり存続した。藩の職制,藩主の下に 加判役 当役 江戸留守居役 当職 御国留守居役 御国留守居家老 証人所 城代 明倫館総奉行 手当方総奉行 手廻頭 大組頭 船手組頭 直日付 撫育(ぶいく)用掛等の要職があった。
萩藩の主要な職として・一門・永代家老は,当役・当職・加判役・城代・国元留守居家老など。・大観は中堅階級で藩職制の全般に分布。奉行クラスはすべて大組士。
領内支配(地方支配)の職制と系統は,当職−都奉行−代官,郡奉行は三百石内外の大組士で,二人ないし三人をおくことがあり,代官を指揮して民政にあたる。
代官は二百五十以下四十石まで大組士で各宰判*1(萩藩の行政単位)ごとに一人置く。
各宰判にはおよそ二十前後の村があり,宰判には一名の大庄屋を置く(代官の指揮下)代官−[村役人の名称]大庄屋−庄屋−畔頭(くろかしら)(目付・年寄)−証人百姓(十人頭)
このような領内の支配機構により藩の地方官として現地に赴き(おもむき),民生に当たる最高の責任者を所務代または代官と称して。所務とは年貢を意味し,年貢の徴収が民生における中心的な仕事であった。当職は藩主の参勤に関わらず,常に藩地にあって藩地を総括する要職であった。
本稿では,当職から直接「,所務代」に藩主の御国廻りの準備の指示の文章で出しているのは,藩にとっては大切な行事であると推測できる。
本稿は藩主の外出時に「用便」施設の設置を,本陣や民間施設(宿)等が付近にない場合,仮設のトイレを設置するよう,当職(家老)から代官への指示した当時の記録をもとに明らかにした。
藩主のトイレ構造の詳細は別稿で明らかにする。
*1宰判:萩藩の行政単位.慶安安四年(1651)ごろ宰判制度が確立した。
以上
*1萩往環:萩へのゆきかえりする道。往来。
*2下向:江戸から領国へ帰ること
*3御国廻:藩主の領内巡視
*4駕籠建場:御国廻りの時藩主が駕龍を止めて休息する場所
*5唐樋札場:幕府や藩の通達を掲示したところ
*6代官:−代官の管轄する区域を宰判といい,当職−都奉行−代官の指揮系統であった
*7床几:腰掛けの一種,折りたたんで携帯に便利
*8発駕:駕龍に乗って出立すること
*9重就:長 州藩7代藩主
*10吉広:長州藩4代藩主
*11条:くだりずつに書きわけた文
*12毛利吉成:長州藩主毛利敬親の養子
*13所務代:代官
*14当職:御国
参考文献
1.「藩史大辞典」第6巻 中国・四国編
2.防長歴史用語辞典 石川 卓美 著 マツノ書店
3.歴史の道調査報告書「萩往還」 山口県教育委員会
4,山口県史料 近世編 法制上 山口県文書館
5.山口県 旭村史 阿武郡旭村役場
6.長門国(山口県)の諸藩 小川 国治 マツノ書店
7,歴史散歩 城下町萩 古川 薫 新日本教育図書株式会社
8.史都萩(第32号) 編集・発行 史都萩を愛する会
※日本下水文化研究会会員