屎尿・下水研究会

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シリーズ ヨモヤモバナシ



軍艦のトイレ(上)

△講話者 松田 旭正 *

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

I 幕末の外国軍艦(サスケハナ)

1.黒船「第一次ペリー艦隊 旗艦サスケハナ」

     
「サスケハナ」の図 右舷側を描いたもの      (神奈川県立歴史博物館)所蔵

 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)夕刻4隻(せき)の巨大な黒船が江戸湾に現れ浦賀沖に投錨した。4隻はアメリカ東インド艦隊司令長官,ペリー提督が率いる艦隊で,蒸気フリゲートの「サスケハナ」と「ミシシッピ」,帆走スループの「サラトガ」と「プリマス」であった。  狭い浦賀水道を帆を使用しないで.自由に航行する大きな船を見て日本人は驚いた。当時の日本人が目にしていた大きな船は千石船であった。
 当時の日本の千石船とサスケハナの大きさを比較すると,千石船の積載能力1,000石(約150t)排水量200t(船の重量と同じ),サスケハナの排水量は3,824t,千石船の19倍もあった。
 蒸気艦の「サスケハナ」が「サラトガ」を「ミシシッピ」がプリマスを曳航して入港した。

2.黒船の日本にきた目的

 ペリーは日本に「開国と通商」を求めるアメリカ大統領フィルモアの国書を手渡し,承諾の返答をもらうために来航した。

3.ミシシピーの航路

 1852年(嘉永5年)アメリカ,ノーフォークを11月24日出港して大西洋を横断し,12月12日マディラ諸島に到着し,石炭,水,食糧を補給し12月15日出港,1853年1月10日セントヘレナ島に寄港食糧,石炭,を積んで,ナポレオンの墓に詣で出港,1月24日喜望峰のケープタウンに入港,石炭,水,食糧,の他に牛12頭と羊18頭を積み込んだ。2月3日にケープタウンを出港,モーリシャス島に寄港,次にセイロン島(現在のスリランカ)のゴールを経て3月25日シンガポールに入港,香港,上海,那覇に到着し,日本との交渉の準備と最終の遠征艦隊を編成し,サスケハナを旗艦とした。

ミシシッピの航路図


4.蒸気フリゲート サスケハナ各デッキ配置平面図及び艦暦

 @ 艦暦1850年(嘉永3)12月24日アメリカ フィラデルフィア海軍工廠で完成した。完成後ただちに東インド艦隊に配属され,ペリーの日本遠征に参加した。1861−65年南北戦争では北軍所属の軍艦として,活躍した。推進装置ボイラ,蒸気機関,外車で構成され,燃料は石炭を燃やして蒸気を発生させる。

久里浜に日本初上陸するペリー艦隊の一行

5 ペリー艦隊の第一次来航

 1853年7月2日(嘉永6年5月26日)に4隻(せき)の艦隊は那覇港を出港し,7月8日(旧暦6月3日)に浦賀沖に投錨した。

当時の横浜開港新聞記事


江戸湾を北上するペリー艦隊


艦隊見物のニュース神奈川新聞


ペリー艦隊久里浜上陸記念碑


久里浜に停泊した艦隊

6.蒸気フリゲート「サスケハナ」の内部精密解剖図 4分割図

7.艦内居住環境

 上甲板下の第一層は居住区画で,「分割図1/4」は右舷船尾に司令官の便所「配置平面図」・第2甲板に左舷に同じく艦長の便所がある。その他乗組員海兵隊などの便所は表示されていない。約300人の乗組員は,左右舷(ふなばた)に1〜4等尉官,海兵隊士官,主計官,軍医,軍医補,牧師マスターの部屋がある。
 区画の中央に大きなテーブルがあり食堂となっている。機関室と上級士官の間は下級士官の居住区で左右両舷に士官候補生,機関室の直前は調理室で調理用の竃(かまど)が設けられている。調理室の前方は水平の居住区画は大部屋で寝台はなく吊(つ)り床(とこ)(ハンモック)が天井から吊り下がっている。又食事用のテーブルも天井から吊下げるようになっている。居住区の下の甲板は倉庫区画でその下は最下層で石炭庫,飲料水用の水タンクが多数置かれ,当時の水タンクは鉄製で鉄錆びが出て苦労したとの記録がある。

         
司令官便所拡大図

U 幕末の外国軍艦(ポーハタン)

1.黒船「第二次来航ペリー艦隊 旗艦ポーハタン」

 

 安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約が結ばれた。この条約の批准書はワシントンで交換することになっていたので,幕府は使節団をアメリカに派遣することになった。使節団は正使の新見豊前守を始め総勢77人の大使節団になった。一行はアメリカの軍艦「ポーハタン」に乗って行くことが決まった。

ポーハタン号のトイレと小栗上野介(出典:本の街 8月号 村上泰賢者)

 「ポーハタン」はペリーが2回目に来航した時の旗艦であった。

2 小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)の日本改革論

 幕府は寛永十二年(1635)以来500石以上の大船建造を厳しく禁じ オランダ・中国以外の外国との貿易を禁じた。しかももともと航海は沿岸航海だけに限るものではない。三本マストの大船も造って用いるべきで,そうしてこそ貿易も盛大となり,我が国も冨む。国力の伸張は,一にも二にも交易に関わっていると考えるようになっていた。
 小栗は進んで洋式の三本マストの商船で海外交易を行い,その利益で国を富ませ,海防策を講ずる事が必要との考えを主張するようになった。

V 幕末の日本最初の軍艦(感臨丸)

1.日本人の手で太平洋を横断した軍艦


 嘉永6年(1853)6月3日アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督が浦賀沖に現れた。蒸気艦が風や潮の流れに関係なく,自由に江戸湾深く侵入してきた。この有様をみた幕府は大変な衝撃を受けた。
 ペリー提督は米国大統領の親書を幕府に手渡し6月16日東京湾から退いた。幕府は江戸湾の防備は近代的な軍艦を整備しなければならないことを痛感し,その後一週間ほどで帆装軍艦と蒸気商船をオランダに発注することを決めた。その後安政4年(1857)8月5日に長崎の出島沖に投錨し日本側に引き渡され,艦名を「感臨丸」となり伝習所の練習艦になった。
 アメリカ軍艦「ポーハタン」が日米通商条約の使節団一行を乗せて太平洋を横断することがきまると,随伴艦派遣の意見が出て,「感臨丸」を日本人の軍艦の操艦技術を外洋の航海で実地に試してみることになった。「感臨丸」に乗り組んだ人々は,軍艦奉行 木村摂津(せっつ)守,教授方頭取 勝 麟太郎,以下の操練所の教授たちに乗り組みの命令が伝達された。

2,感臨丸内部精密図と便所


下図は船内便所拡大図

3.艦のトイレと便器状況

 感臨丸はオランダで建造された船でトイレは洋式トイレであったことが上図からよみとれる。また屎尿処理は直接海中に排出する方法が明記されている。

4.幕末,明治に活躍した「感臨丸」に乗り組んだ人々

 木村提督は長崎海軍伝習所の出身者から優秀な人材を選んで集めた。木村摂津守(せっつのかみ)は安政二年(1855)江戸城西の丸目付に抜擢され,翌年十二月長崎表取締を命じられ,二代伝習生総督になり,安政六年(1859)11月軍艦奉行に昇進し摂津守に任じられた。福沢諭吉は彼の従者で,通弁として乗り組んだ中浜万次郎は土佐の漂流魚民で,アメリカ捕鯨船に救助され,アメリカで航海術などを勉強した。

W 日本海軍の代表的戦艦「大和」

1,戦艦大和,謎のトイレ

 日本の軍隊は,士官と下士官,兵との間には高い壁があった。この傾向は陸軍と比較して,多少とも民主的な海軍であっても同じであった。
 きわめて優秀な人間が兵隊の位(くらい)(一番下の階級)から士官になる例があるが,この確率は千分の一以下だった。戦艦のトイレの数について見ると,戦艦大和のトイレの数は謎の一つである。トイレはあったことは確かであるが?海軍はトイレとはいわず,厠(かわや)といっていた。その流れのなか,戦後の海上保安庁の艦艇のトイレも厠と呼んでいた。
 戦艦「大和」の兵員用トイレは,上甲板左舷後方に一つと,艦首に一つ。中甲板には准士官用が一つあったが,2,300人以上も乗っていた大きな戦艦のトイレの数が解らないのは不思議である。
 通常艦内トイレは士官室厠,士官次室厠,准士官厠,兵員厠と数か所に分かれているが,大鑑では多くの場合,兵員厠は左右舷に一つずつあり,それぞれに10個前後の便器が置かれていた。
 大和型では各甲板ごとに前部,中部,後部,と3箇所にあった。
 巨大戦艦大和級につぐ長門級(39,000屯)の平時における乗組員は1,400名程度で,トイレの大便器の数は23個,(長官,参謀長,艦長を除く)組織の構成比は,士官1,下士官2,兵7の割合で,どこの国の軍隊でもこの比率はほぼ同じである。
 便器数を見ると 士官70名に対して11個,下士官兵1,330名に対して12個である。便器1個に対して(士官6・4人 下士官以下111人)のトイレの数は如何に日本の軍隊は厠の数が少ないかがわかる。
 大和型では2,300名の大所帯の割には,厠の数が少ないので混み合うことが度々あったらしい。
出典:図解「日本軍の小失敗の研究」三野正洋著 ワック

2.艦内便器の使用法

 日本最初の軍艦は安政4年オランダから輸入した感臨丸であった。便所は,前も横も仕切りのないトイレで日本人には遮蔽物の無いトイレは不評であった。その後大正時代に徐々に国産の軍艦が建造されるようになり,左右に仕切りを付け,前にも扉を付けるようになった。
 便器は洋式の腰掛式トイレは,使い方がわからず,和式の要領で便座の上に乗る者,反対向きにしゃがみこんだりするものが大勢いた。日本人の洋式トイレを一般家庭で使用できるのは昭和30年代からであった。

3,「厠番(かわやばん)」とは

 軍艦のトイレ掃除係は,各分隊から選ばれ指名されると不名誉と考えられる職務であった。水は上甲板のタンクに海水が蓄え,トイレで用便後,各自,足で排水弁を踏んで流す仕組みになっていた。
 海水タンクの貯水状況を絶えず確認することも厠番の役目であった。水洗便所は普通のチリ紙より固い紙で,ハンカチ・ボロ切れ等を落とすと排水管を詰まらせ,厠番が棒を便ツボに突っ込んでかき回す。うまく異物が掛かれば出てくるが,だめなら汚水管を外して探すこともあったらしい。厠番の一日は,日に何回も,便器内部を荒縄や軽石を素手で掴んでこすり,海水で汚れを洗い流す。また安いネズミ色のチリ紙を揃えてヒモで吊るしたりした。
「(厠番ハ)「常ニ厠内ヲ清潔ニ保ツ」が軍艦列規に定められ,厠番の使命であった。

4.日本の戦艦と米戦艦サウスダコタ級のトイレ数比較

 太平洋戦争時代のアメリカ軍戦艦サウスダコタ級(3万5,000トン)のトイレの数は,乗組員1,800名に対して50個で,士官用,下士官用,兵用の割合はわからない。日本の戦艦「長門」は61人に1個米戦艦「サウスダコタ」36人に1個で「サウスダコタ」の2倍近い乗組員数の便器で,「長門」の下士官,兵たちは苦労したことだろう。

日本海軍 戦艦大和 施設配置図(出典:日本海軍艦艇図面集
戦艦「大和」洗面所が記載されているが厠の表示がない。)


  
呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」戦艦「大和」展示模型

 この頃の米軍のフリゲート艦は,1ヵ所のトイレに約10人分の便器があった。すべて大便用のもので。ドアーはなく,となりとは低い板で仕切られていた。フリゲート艦の排水量は,戦艦大和の約30分の1,乗員数は約15分の1だった。
出典:図解日本軍の小失敗の研究 三野正幼著 東京ワック社

5.戦艦「大和」の居住性能の改善

(1)居住面積の比較

 「大和」を近代型の戦艦にするために,居住性の面で改善がはかられたが厠については全く公表されてない。「大和」の乗員の定員を他の戦艦と比較すると次表である。
 この表で明らかなように,大和は居住性の基本となる兵員1人当たりの床面積の点で,当時の日本の艦艇ではゆったりとした艦であった。

戦艦の定員数比較表


兵員居住区1人当たり床面積表

(2)排水装置の改良

 戦闘時,注排水装置はきわめて重要な装置である。過去にはMain Drainsystemといって,太い管を前部罐室から後部機械室まで通して,この管から各種室や機械室へ枝管を出し,どの区画の大排水もこの共通管を通して行う簡便な方法を採用したが,水防性確保の点から弱点があり,各区画に独立した遠心喞筒Centrifugal pumpが装備され汚水排水の具体的な方法が示されている。

蒸汽放射装備要領図
汚水放射量=毎時500トン 汚水吐出圧力=1.2kg/?

X「伊号第35潜水艦」

1,日本の潜水艦のトイレの位置が明確に記されている公式図面は,あまりみられないが防衛研究所の資料によると,昭和17年8月31日に完成し,軍事機密となっていた潜水艦の側面図に表示があった。
 開戦初期のドイツの48名乗りUボートのトイレはたった一つであったとの記録があった。日本海軍の潜水艦の厠の個数は明確に記録はないが下図によると少なくとも2箇所はあったと考えられる。

                                                               
「伊号第35号潜水艦」完成図 永久保存版

※日本下水文化研究会会員