読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
俳句にみるトイレ・屎尿・ゴミ)
△講話者 地田 修一 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1.はじめに
俳句を始めて10年になります。「水鳥の会」という花鳥諷詠を旨とする,かつての職場のOBを主要なメンバーとするアットホームな集まりに参加しています。月一回の句会で出される兼題,席題それに雑詠をこなすのが精一杯というところですが,主宰や仲間からの指導・批評を受けて,なんとか今日まで続けてこられました。特に,吟行では一日中あるいは数日にわたり作句に没頭でき,また仲間との親交を暖めることができます。
私の俳号は玉水です。これには少・青年時代を過ごした町をよぎっていた玉川(多摩川)の水の流れのように,なにごとにもゆったりと息長くにとの想いが込められています。自らが推敲し,又は添削を仰いで原句がだんだん様になっていきますが,これが句作りのおもしろさと言えます。四季の移り変わりへの感動を十七音に写し取れたときの醍醐味はまた格別です。
ところで.勉強のために「金子兜太の俳句入門」を読んでいて,偶然,屎尿を題材にした句を見付けました。このことがきっかけとなって,手持ちや図書館から借出した個人句集,自選自解句集,などから,トイレ,屎尿,ゴミに関する俳句を探してみました。残念ながら,私の検索にかかったのはほんの10数句でした。厨俳句や療養俳句や境涯俳句など日常の些細な事象に“ある発見・感動”を得で詠んだ俳句は結構多いのですが,さすがにトイレに感動を覚える俳人は稀なのかも知れません。かく言う私もまだ詠んだことがありません。
以下,その数少ない俳句を紹介し若干の解説を加えるとともに,散文の世界から関連する一節を掲げ,俳句という最短の韻文表現との対比を試みてみました。
2.トイレに関する句
枯るる貧しき厠に妻の尿きこゆ 森澄雄
句集「雪檪」所収。「尿」は「しと」と読みます。上五の「枯るる賞しさ」は7音で字余りです。澄雄自身の解説(「俳句随想 俳句に学ぶ」)によると,この句は東京・練馬の北大泉の檪(くぬぎ)林の中の六畳一間の小家で親子5人の生活を送っていた昭和25年に詠んだものとのことです。冬は辺り一帯が荒涼とした枯野となったそうで,6畳の板の間に薄縁を敷き,一隅に林檎箱を重ねて机と椅子にしていたが,風の強い日は床下から吹き込んだ風が薄縁をもちあげたといいます。
そんな中で,奥さんが便所で小用をたしている音も含めて,家の中の音は何もかも筒抜けだったのでしょう。「枯るる賞しさ」はいかにも韻文的な表現ですが,句全体のイメージを支配しています。
次も澄雄の句です。
しばしこもりて雪國の厠の香 森澄雄
句集「浮鴎」所収の句。昭和47年,ある「雪国」に逗留した折に詠んだもの。
この頃,澄雄は新潟県の松之山にしばしば出掛けていたといいますので,「雪国」とはそこでしょうか。松之山は長野県との境の山あいの冬は雪に埋もれる集落ですが,温泉が湧き鄙びた湯治宿が点在しているところです。
句意は「雪国の宿にしばらく逗留しているが,厠の香がどこからともなく漂ってくる」であろうか。「厠の香」をある種の親しみを込めて詠んでいます。それは,「なんとなくよいにおい」をイメージさせる「香」という言葉を使っていることから類推できます。
ちなみに,澄雄は平成元年に,「乳の香の少しありたる雪女郎」という「香」を使った句を詠んでいますが,その自解(自作の句に自ら解説を加えること)の中で「雪女郎(ゆきおんな)というと暗いイメージの方が強いけれども,この句の雪女郎には女房への思いがある。その思いの中で「乳の香」がしてくる。「乳の香」には人間が永劫に持っている性の深さに通じるものがあると思う」と述べています。
この“厠の香”の句の場合も,生理現象としての排泄行為を行う「厠(ここでは汲取り便所)」を忌み嫌わずに,そこから漂ってくる「におい」に対しても肯定的に「香」という言葉を与えたのでしょう。「こもる」ではなく,「こもりて」としているところに作者の深い意図が感じられます。筆者は,下五の「厠の香」が最初の「しばしこもりて」に,イメージ的には返っていく言い回しになっていると考えています。
澄雄は,先の「俳句随想 俳句に学ぶ」において,
「俳句ばかり作って,人間を深くすることをわすれがちです。…俳句に技巧をこらすより,自然や人生に素直になることでしょう。」…その時の感動の心,今の心のあり方を表現することを忘れてはならない。」
と, 俳句作りの心構えを吐露しています。
小松建司は「トイレの神様」と題する講話(「都市と廃棄物」誌,2012年7月号)の中で,自身が体験した汲取り便所について次のように回想しています。
「私は幼少の頃,母の実家である秋田県の農家に居りました。 曲家という言葉を聞いたことがあると思いますが,その形式の造りでした。
母屋の中に厩が併設されているのです。便所は家の外にあるのが普通でしたし,便所を家の外に出してでも,馬とは一緒の家だったのです。 当時の農家にとって,家畜はそれほど大事なものだったのでしょう。
5歳の時,千葉県に引っ越しました。農家造りの家でしたが,厩は母屋に附属していませんでした。便所も家の中にありました。踏み板を3〜4段上がると簡単な板が張ってあり,そこに穴が開いていて金隠しも一枚の板でした。これを跨いでしゃがんで用を足しました。当然ポットン便所で,アンモニアが目に泌み,臭くてハエがブンブン飛んでいました。汲取った後しばらくは,お釣りがくる(跳ね返ってくる)のが難点でした。」
「当時(昭和25〜30年頃)は,電気はまだふんだんに使えるわけでなく,夕方になると電灯が点きますが,その数も限られていました。便所などはロウソクを持って行くという有様でした。ゆらゆらと揺れる影を見ながらのトイレ行きは.子供心にとても怖いものでした。そんなですから,暗闇の便所は“下から手が出てきて…(便所でお尻を撫でられたという伝承が各地に残っており,その正体は河童だとか?)”…もおかしくない状況でした。」
写真−1 外トイレ(「川に抱かれて」,八潮市)
写真−2 江戸時代農家のトイレ(「日本民家園」,技報堂出版)
さらに,高橋俊夫は1924年長野県諏訪市生まれの方ですが,諏訪市内の汲取り便所の実情とその臭いの記憶をエッセイ集「ふる里信州諏訪」(鳥影社,1992)の中で,このように述べています。
「湯の脇の借家は,家の小さいのに応じて便壷は大きい瓶を埋めたくらいで,兄弟の多いわが家なので,壷はすぐいっぱいになり,時として便が外へあふれ出した。それを見るのは子供心にもつらかった。この便所の汲取りは,大和区のある農家と契約してあって,汲取りを頼みに行くと無料で汲取ってくれた。…汲取り便所時代は,その臭気が便所からもれて,部屋いっぱいに広がり,なかなか消えない。自分の時だけでなく,妻の時も, 二人の子供の時も同じように広がった。二人が続けてはいると,一時間ぐらい部屋中が臭っていた。」
図−1 便所内部(「日本人の住まい」.E.Sモース)
3.屎尿に関する句
立ち尿(いば)る老女の如く恋いこがる 山崎愛子
小便のことをヤマト言葉で「いばり(尿)」といいますが,「尿る」はその動詞形です。俳人の金子兜太はこの句を次のように評しています(「金子兜太の俳句入門」)。
「二つの動詞の“る”止めの強さが,きちんとした五七調をさらにひびかせ,句に格調を与えています。句意は.老女が立ったまま小用をたしているのを見たことがあるが,自分の男を恋うる気持ちもあのあけすけな姿に似ている,です。」
この句は,排泄行為も恋愛感情も,同じ人間の本源的な押さえ切れない生理現象であると詠い上げているのです。卑猥な感じが残らないのは,句に形式的な格調があるためです。
北川省一の大正末期の柏崎を舞台にした自伝的小説「越後・柏崎・風土記」には,立小便の仕方がくわしく描写されています。
「お婆はまた家の便所で小便(もちろん立小便だ。便所は小と大との区別はあったが,男女の区別はなかった。なるべく大便所では小便はしなかった,水が溜まると困るからだ。小便だって畠にやるこやしがあれば充分だった,それ以上の汲取はありがたくなかった。
だから小便は外でした,ただ作物に直接ひっかけないようにした,立枯れしないために。男も女も外で立ってしたが,ただやり方が反対(あべこべ)だった。男は向うを向いて前を捲って胸を張り腰を出したが,女はこっちを向き後ろを捲って腰を上げ前屈みになった。女衆が尻を持上げて小便するのは馬が尻尾をピンと上げて糞を垂れるのに似ていた。そして終ってから男はちょんぼを振ったが,女は尻(けつ)を振らなかった。おしっこをしゃがんでするのは順子や静子など子ともだけだった。)をしたが,…」
図−2 立小便をする女(「江戸かわや図絵」,太平書屋)
太宰治の小説「斜陽」を読むと,昭和10年代の東京の山の手(文京区本郷)の住宅地でも女性の立小便の風習が残っていたことがわかります。太宰はフランスの貴婦人の例を引きながら.この風習を上品に描いています。
「いつか,西片町のおうちの奥庭で,秋のはじめの月のいい夜であったが,私はお母さまと二人でお池の端のあづまやで,お月見をして,狐の嫁入りと鼠の嫁入りとは,お嫁のお仕度がどうちがうか,など笑いながら話し合っているうちに,お母さまは,つとお立ちになって,あづまやの傍の萩のしげみの奥へおはいりになり,それから,萩の白い花のあいだから,もっとあざやかに白いお顔をお出しになって,「かず子や,お母さまがいま何をなさっているか,あててごらん。」とおっしゃった。「お花を折っていらっしゃる。」と申し上げたら,小さい声を挙げてお笑いになり,「おしっこよ。」とおっしゃった。ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが,けれども,私などにはとても真似られない,しんから可愛らしい感じがあった。
けさのスウプの事から,ずいぶん脱線しちゃったけれど,こないだ或る本で読んで,ル イ王朝の頃の貴婦人たちは,宮殿のお庭や,それから廊下の隅などで,平気でおしっこをしていたという事を知り,その無心さが,本当に可愛らしく,私のお母さまなど,そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた。」
図−3 小便回収(「江戸かわや図絵」,太平書屋」)
少し時代が遡りますが,江戸時代の文化・文政期(1804〜1829)に活躍した俳人・小林一茶は,おおらか且つ大胆なこんな旬を残しています。
小便の滝を見せうぞ鳴蛙 一茶
一茶自身が田んぼか小川に向かって立小便をしたときに詠んだ句でしょう。説明の必要がないほど野性的な句です。鳴蛙は,「なくかわず」と読みます
さらに遡り,江戸中期の与謝蕪村の句をみてみましょう。
大とこの糞(くそ)ひりおはすかれの哉 蕪村
「大とこ」とは大徳のことで,高い徳を積んだ僧侶のことです。「かれの」は,枯野です。やむにやまれない生理現象としての野糞を詠んだものです。蕪村は文人画と俳諧を両立させた人で,叙情的,絵画的な句を多く詠んでいますが,これは,ずばり人間の排泄行為そのものを題材とした写生的な句です。
先はどの一茶も,野糞に関するこんな句を詠んでいます。
ひさしのや野屎(はこ)の伽に鳴雲雀 一茶
屎は「はこ」または「くそ」と読みます。「はこ」は,移動式の大便器を「はこ」と言ったことに由来しており,転じて大便そのものをも指すようになりました。
次の句からは,再び現代に戻ります。
金子兜太が「金子兜太の俳句入門」で,自分の父親である秩父山峡の老医・金子伊昔紅の句
元日や餅で押し出す去年糞(ぐそ) 金子伊昔紅
を紹介し,「いささかリアルにすぎるわけですが,私には山国びとの正月気分がじつによく受け取れます」と評しています。そしてさらに,「正月の句には,見たまま想のままを描写したものが多いのですが,それを17字(音)の形で書いているからこそ,目出たきの感銘を人に伝えることができたのです」と付言しています。
農民詩人の渋谷定輔は,自分史「農民哀史から60年」(岩波書店,1986)の中で,
「口から身体にはいる食べ物と,外へ出す糞尿とをひとまとめにして考えなくちゃダメだ。…糞尿を汚いといって切り離す人間は,自分自身を憎んでいるのだ。人間の生をひとまとまりの循環として扱っていないんです。」
とまで言い切っています。
次は,人間探求派(俳句固有の有季定型を守りつつ,自己の内面や思想あるいは境涯性などを追求)と言われた石田波郷の句です。
七月の童糞せり道の上 石田波郷
句集「雨覆」所収。昭和20年7月に疎開先の利根川縁の埼玉県北埼玉・樋遺川村で詠んだものです。波郷に師事した星野麥丘人は,この句を次のように解説しています(「波郷俳句365日」)。
「戦局などにかかわりのない,幼児の姿を捉えて微笑ましい。暑い村道の傍らでたまたま幼児の脱糞姿を目撃したことで一句をなしたものであろう。波郷は3月に陸軍大蔵分院を退院,そのまま帰還療養者として,妻子の疎開先で病を養い,このころは兵役免除となっていた。戦局のもはやどうしょうもないころまできていたことは,この一帰還療養兵の眼にも明らかであった筈である。」
4.肥船に関する句
古郷や霞一すぢこやし舟 一茶
江戸の郊外の中川とか江戸川が流れる辺りは農村地帯でしたが,屎尿を肥やしとして利用するため,江戸市中で汲取って来た屎尿を運ぶ「肥やし舟」が行きかっていました。一茶はもともと信州の農家出身ですので,春の霞のたなびく川面に肥やし舟が行き交う様を土手から見ていて,思わず郷愁を覚えたのでしょう。
江戸川縁で育った郷土史家の伊藤晃は,「江戸川物語」(侖書房,1981)で少年時代(昭和14年頃)の思い出を語っています。
「私たちのヤマベ釣りの場所は,新河岸の汚わい船の着くところと決まっていた。…ヤマベたちは,その船からこぼれる蛆を食いに寄っていたのである。…蛆は船の積荷の下肥から発生し,船のいたるところにうごめいていた。そして,その船の上で釣る。餌にも,その蛆を用いた。…ついでに汚わい船の話をすれば,私が知っている江戸川の船の往来では,それがかなりの数と率を占めていた。その船が着く岸の近くには,どこにも大抵肥桶が並んでいて,一旦そこに移された下肥を,農家の人たちが牛車や馬車で来て,肥担桶に詰めて買って行く。」
写真−3 綾瀬川を帆走する肥船(「ごみの文化・屎尿の文化」,技報堂出版)
4.ゴミに関する句
ハンカチほど春雪載せて厨芥車 山田みづえ
句集「忘」所収。この句は昭和39年に詠まれたものです。山田は「自解100句選 山田みづえ集」の中で,この句の背景を次のように述べています。
「ある日,昨夜の春雪が厨芥車の黒く塗った蓋の上に,一枚の白いハンカチほど残っているのが見えた。そのとき,美的でない厨芥車は,美的生活のための黒子のように必要な存在,何とか一度は祝福・感謝してやりたいと思った。」
図−4 厨芥を入れる(「寺島町奇繹」,筑摩書房)
昭和10年代の東京の下町でのゴミ収集の実態について,筆者は「漫画にみるトイレ−滝田ゆうの世界−」(「都市と廃棄物」誌,2011年6月号)の中で,滝田ゆうの漫画(図−4)を掲げて次のように解説したことがあります。
「大八車に大きな木の箱を括り付けたゴミ収集車を牽いて来,とある街角で止めます。そして,「ガラーン,ガラーン」と,鐘を鳴らして近所の人々に知らせます。すると,手に手に生ゴミ(厨芥)の入ったバケツを提げた割烹着姿の奥さん方が集まってきます。そして,順番で収集車に生ゴミを入れていきます。収集車には東京市のマークが付いています。鐘を鳴らしている収集人の左手には藤蔓(あるいは竹)を編んだ浅い籠が携えられています。厨芥は,当時(昭和10年代)のごみ焼却施設の能力の関係で燃やすことができず,ブタなどの家畜の飼料あるいは埋立て処分されていました。現在の分別収集とは意味合いが少し異なりますが,当時も燃え難い厨芥と可燃性雑介とを分けて収集していたのです。」
次は,道路に落とされた馬糞を題材にした波郷の句です。
グノー聴け霜の馬糞を捨ひつゝ 石田波郷
焦土と化した東京・江東区北砂町に転居した昭和21年の句です。句集「雨覆」所収。星野麥丘人は先ほどの「波郷俳句365日」で,次のように述べています。
「折から流れてくるグノーの曲。道傍の馬糞を,家庭園芸のこやしの一助にと拾い集める人。そして一面の霜。矢張り哀しい世相風俗の描出された句である。」と楠本憲吉はいう。食糧難の時代であったから,焼跡に住む人々の殆どが瓦礫の空地を畑にして,野菜などを作っていた。だから馬糞は大事な肥料となったのである。インフレ生活のなかでラジオは庶民の慰めであり,当時ラジオはまったくよく洋楽を流していた。
田楽に舌焼く宵のシュトラウス
送火をこえてショパンの流れけり
といったクラシックを素材にした作もある。揚句のグノーは19世紀に活躍したフランスの作曲家。上五の図太い表現はいかにも波郷らしい。」
ちなみに,グノーは多くの宗教曲,歌曲,オペラを作曲しましたが,その音楽は優美な旋律と洗練された落ち着いた情緒に満ちているとのこと。
波郷自身の「砂町ずまい」と題する随想に,こんな一節があります。
「夜になると闇は濃く深く,かすかに海の香がし,蛙がかいかいと鳴いた。三月十日に越してきて十五日に長女が生まれた。昼間私は妻の父に手伝って志演神社の境内の一半を借りて馬鈴薯を植えた。たった一着残った背広に下駄ばきで,父が起こした畝に,種馬鈴薯に灰をまぶしつけては一つ一つ並べた。」
5.おわりに
“厨芥車の句”を詠んだ山田みずえは,この句の自解の中でこのような考えを披瀝しています。
「社会生活の一環で黒子のような働きをするものに,下水道・清掃車・バキュームカー,塵芥処理などがある。生活が旺盛なら,その裏方も大活動せねばならない。人前に飾りたてるものではないが,なくては現実に困るのである。当時は厨芥車といって人が曳いて鈴を振ると主婦達がめいめいのゴミを袋などに入れたり,まとめて走って来て箱型の中に入れて,ご苦労様と口々に言ってちりぢりになった。高度成長に伴って,これらの裏方も機能的になり,人々との接触を少なくしたが,必要度は逆に高まるばかりとは誰も認識している。」
この見解は,私たち・屎尿・下水研究会の「日頃なんとなく口にすることが憚られ,話題にしにくい「便所」や「屎尿」や「下水」について,幅広くみんなで情報を交換し合っていこう」という設立趣旨に通じるところがあるように思われます。
俳句を嗜む者として,世界一短い詩であることを忘れずに,花鳥風月を詠んでも日常生活の哀歓を詠んでも,自分の心の目で物をよく見,平明でいながら余韻に富んだ言葉で表現された五七五をこれからも紡いでゆきたいものです。
最後に,筆者が下水道に関して詠んだ一句を。
水浄む放流口の都鳥 玉水
【主な参考文献】
1)森澄雄著:「句集 浮鴎」,永田書房,昭和48年
2)森澄雄著:「俳句随想 俳句に学ぶ」,角川書店,平成11年
3)金子兜太著:「金子兜太の俳句入門」,実業之日本社,1997年
4)星野麥丘人編著:「波郷俳句365日」,梅里書房,1992年
5)山田みづえ著:「自解100旬選 山田みづえ集」,牧羊社,1986年
6)北川省一著:「越後・柏崎・風土記」,現代企画社,1981年
※日本下水文化研究会会員