読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
スイストイレ紀行
△講話者 森田 英樹 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1.はじめに
スイスを旅した。出発の数日前,偶然テレビをつけるとNHKの『日曜美術館』で,スイスのサン・モリッツにある『セガンティーニ美術館』に関する番組を放映していた。セガンティーニなる人物が,いったい何者であるのか,全く知らなかったが,今回の旅の訪問初日が丁度,サン・モリッツであったので,これも何かの縁かと思い,何気なく見ていた。
2.サン・モリッツ散策
サン・モリッツに到着をした。人口約6000人のこの町は,スイス南東部,サン・モリッツ湖北岸,標高1822メートルにある。1928年と1948年に冬季オリンピックが開催された事でも有名な,風光明媚な高級リゾート地である。まずは,ケーブルカーとロープウエイを乗り継いでピッツナイル展望台に行き,サン・モリッツの町を一望した[写真−1]。帰りは,牛の放牧地を抜け,徒歩で下山する事にした。牛の姿は疎らであったが,そこここに牛糞が広がっている。油断すると,足をすくわれてしまう。蝿が少ないのが不思議であった。高山のため蝿が少ないのか,はたまた,あまりにも牛糞が多すぎて,さしもの蝿も群がる事さえ出来ないほど忙しく飛び回っている情況なのであろうか。どことなく,違和感を覚えた。
写真1 ピッツナイル展望台へ
3.セガンティーニ美術館での出会い
ハイキングを終えると,中途半端に時間が余った。高級リゾート地という事もあってか街中には,私とは全く縁の無い有名ブランドのショップが軒を連ねている。こんな店に妻とひとたび足を踏み入れると,それはそれは末恐ろしい顛末が容易に想像できたので,入るのはやめた。セガンティーニ美術館の事が思い出された。地図を見ると,ホテルから10分位の所にあるようなので,行ってみる事にした。のどかな歩道を気持ち良く歩いていると,ほどなく美術館が姿を現してきた[写真−2]。
写真2 セガンティーニ美術館
写真3 おまると犬
意匠を凝らした美術館の造作に目を奪われ,急ぎ横断歩道を渡ろうとした瞬間,私の視界に突如,得体の知れない映像が流星のように走り去った。よもや『おまる…?』にわかには情況がつかめなかった。流星の正体を突き止めなくてはいけない。あたりを見渡した。しかしこんな,横断歩道に『おまる』があろうはずも…あった![写真−3]。緑色の小さな郵便ポストのようなものに,可愛い犬の絵と,『おまる』が描かれている。日本では,『おまる』というと,子供のトイレトレーニングなどで使う,白鳥型のものを連想するかもしれない。しかし西洋では,おまると言えば,巨大な薄型コーヒーカップの様な形をしているのが一般的である。とある日本人が古道具屋で購入し,ワインクーラーとして使用していたと言う笑い話を聞いた事がある。確かに丁度良い寸法だ[写真−4】。それにしても,この『おまるポスト』は一体全体何だ?暫く観察すると合点がいった。犬用のトイレだ,間違いない。いや,正確を期すのであればトイレというより,犬用糞便ゴミ箱と言った方が良いのかもしれない[写真−5〕。ポストの右側から,こげ茶色のビニールのようなものが顔を覗かせている。恐る恐る引き出してみた。サランラップ状に巻かれたビニール袋だ。日本のスーパーの荷詰め台の脇に据えられているビニール袋と同じ構造だ。ミシン目も入っている。驚く事には,1枚1枚に.くだんの『犬とおまる』の絵が描かれている。ご丁寧な事に専用の袋だ。こげ茶色という所が心憎い[写真−6]。この専用袋に犬の糞便を入れ,糞便ポストに入れる段取りのようだ。至れり尽くせりである。
写真4 ワインクーラー!?
写真5 おまるポスト
4.おまるポスト
ところで,この『犬用おまるポスト』は,どのような情況を想定して設置されているものなのであろうか?いかに外国の犬とはいえ,よもや自身で糞便を袋詰めするとは思えない。犬の散歩のはじめに,ポストに立ち寄り,ビニールを確保しておき,散歩中に糞便を袋詰めしてポストに入れるものなのか。あるいは,犬が脱糞した時に,あたりを見渡し,ポストを探し使用する事を想定しているものなのか。なにゆえ家庭から,ビニール袋持参で散歩する事で解決できないのであろうか。どうでも良い事のようでもあるが,犬の脱糞は時と場所を憚らない。散歩の起点・終点も飼い主によって様々である。『おまるポスト』を設置するのであれば,相当な数を,一定の間隔で設置するだけの覚悟が必要と思われる。あらかじめ犬を散歩させる場所が条例などで指定されているとも思えない。メンテナンス面に関しても,ビニール袋の補充・糞便の回収などは,どの程度の頻度で行われるものなのであろうか?糞便以外にも,多くのゴミが入れられ,単なるゴミ箱と化してしまう事も容易に想像ができる。そもそも,スイス人は,そんなにも犬連れで行動しているものなのか。たちどころに,あれやこれやと疑問が沸き起こってきた。それにつけても,旅の初日に『おまるポストを探せ』というテーマをプレゼントして下さった,セガンティーニ氏に感謝である。これらの疑問を解決すべく,旅にあたった。
写真6 ポスト側面からビニール袋を引き出す
5.忽然と現われるポスト
結果,数箇所で確認をする事ができた。ロートホルン展望台山頂駅に1基設置されていたが,周辺にはその他は見当たらない。SLで登って来た犬連れの観光客を想定したものなのであろうか,ビニール袋も補充されており,メンテナンスは行き届いている。しかし,もう一ヶ所の山頂駅の『おまるポスト』は一般のゴミが押込められており,単なるゴミ箱と化していた。また,ブリエンツ湖周辺の遊歩道では,一定間隔で3基程確認ができた。これも,ビニール袋が補充されており,メンテナンスは行届いていた。その中の1基はゴミ箱部分が無く,ビニール袋のみを設置したものであった[写真−7]。ビニール袋を持参することなしで犬の散歩に出かけることを前提とした考えのようだ。しかし,いずこの地でも,犬連れの人と出会う事もなく,いわんや使用している場面を目撃する事はなかった。
これらは,観光旅行で訪れる極めて限られた地点での観察に過ぎないが,設置数は決して多くはない。そこここに点在している様子ではなかった。概して言えば,自然豊かな所に忽然と姿を現すと言った感じである。住宅や商店が軒を連ねる街中・市街地ではひとつも発見する事はできなかったのが不思議でならない。舗装された,街中の歩道に犬の糞が放置されている方が,むしろ手を焼くと思われるのだが…。
写真7 ゴミ箱部分が無い
6.おわりに
帰途につく空港へのバスの車内。ドライバー席の脇に,何とくだんのサランラップ状に巻かれた状態の,こげ茶色の専用ビニール袋が1本置かれていた。犬連れ観光客に渡すために用意されているものなのか?もしそうであるならば,ペットショップなどで容易に入手できるものなのか?あるいは,単にビニール袋として使うためにドライバー氏が『おまるポスト』から失敬して来たものなのか。最後の最後に,新たな宿題を与えられた。もしも,売られているものであるならば,購入出来なかったのが無念でならない。
それにしても,スイス人は,それほど犬のクソを気にするものの,なにゆえ牛のクソは気にならぬのであろうか。機内でそんな想いが去来した。
本講話は,NPO法人 日本下水文化研究会会報『ふくりゅう 通巻71号』(平成23年12月16日発行)に掲載した『瑞西の事』を再構成したものです。
※日本下水文化研究会会員