読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
拭う紙・捨てる紙
△講話者 関野 勉 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1.はじめに
紀元前に中国で発明された紙は,4〜5世紀頃には朝鮮半島を経由し,叉は中国から直接,日本に伝わって来たと考えられています。紙には書く・包む・拭くの三要素の他に加工して使用する素材としての要素も持ち合わせています。今回の話は,拭く紙とそれに伴う捨てる紙についてです。
室町時代に来目したポルトガル人のルイス・フロイス(1532〜97)は次のように言っています。
「われわれの紙は僅か4・5種類あるだけである。日本の紙には50種類以上ある」
(「日欧文化比較」ルイス・フロイス著,岡田章雄訳,岩波文庫)
室町時代にすでに50以上あった紙の種類は,江戸時代に入ると1千以上にもなっていたのではないかと思われます。それは戦争もなく世の中が落ち着き,各藩が競って立派な紙を生産していたからです。紙は明治時代までは全て手漉き紙でした。注文者の要望に答えるだけの技最を持った漉き手がおり,良質で立派な紙が加工者から注文者の元に届き,製品・作品となり.文化財として現代に残っているものが少なくありません。絵巻,襖絵,掛け軸,和本などが国宝になって保存されています。
2.漉返し紙
庶民が紙を賛沢に使い始めたのは,江戸時代になってからです。庶民も浮世絵を買ったり,貸本屋が流行ったり,書物を書き写したりと,手漉き紙の需要は相当な量になったはずです。それらの反古紙をリサイクルした現在でいう再生紙である宿紙,還魂紙,漉返し紙などの紙を天皇,大名なども使用するようになりました。「宿紙」で天皇の詔書を書いた「綸旨紙」が宮内庁の書陵部に残っています。それ以前は,天皇らは紙屋院で漉いた「紙屋紙」といわれる上質の紙を使用していました。
紙の原料には限りがありますので,リサイクルできる物はできるだけリサイクルしてきたのです。まさに,「必要は発明の母」です。
花村満月氏の書いたチリ紙にまつわる話(「新潮社PR雑誌「波」2010年2月号所収の「百万遍」第38回流転施転」)を次に紹介します。
「チリ紙は新聞紙などを再生したいちばん安いもので.灰色なのはインキの色などが溶けだしているせいだろう。菓子かなにかのブリキの缶蓋を転用したのだろう, そこにきれいにおさまっている。どこの誰でも考えることは似たようなものらしく,母方の田舎の暗い便所にも,似たような蓋の上に,この灰色がうずたかく積まれていた。小学校にあがる前の幼い惟朔は,都下五日市の田舎に遊びにいくのが大好きだったが,ひんやり暗い便所だけは馴染めなかった。灰色のチリ紙が吸湿して微妙に重くなっているのが堪え難かった。湿っているくせにやたらゴワゴワで,これで尻を拭くと,間違いなく肛門とその周辺が微細な擦り傷を負う。この世から排便後に肛門を拭くと言う習慣がなくなったら,人々の尻の穴は虐待から解放されて,さぞ晴れ晴れとすることだろう。犬も猫もいちいち肛門など拭きはしない。だから痔にもならないわけだ。いつまでたっても温まる気配のない小百合の冷たさに臆してしまっている惟朔は,チリ紙からの連想で尻の穴ばかり想い描いて永遠の沈黙に耐えていた」
最近の「トイレットペーパー」では多分こんなことはないと思いますが,戦前・戦後の塵紙(チリ紙)のことを知っておられる方は納得することでしょう。
年を取って寝たきりになり,下の世話をされるのが「嫌」と言うプライドを持っている人は分かると思いますが,生まれて何年か後に自立して一人でトイレに行き,自分で尻始末をしたことを覚えておられる方なら,出来れば最後の最後まで自分で自分の尻始末をしたいと思うのは当たり前の考え方でしょう。尻始末を自分で出来る間が本当に生きている時間なのではと考えます。私も昔,「自分の尻始末も出来ないのは一人前ではない」などと言われた記憶があります。
6世紀に中国で書かれた「顔氏家訓」に,文字等が書いてある紙を穢用(塵紙用)に使用してはならないとありますが,日本では12〜13世紀頃から紙を塵紙用に使い始めていたようです。
3.化粧紙の名称
化粧紙という言葉は,トイレットペーパーの訳語として明治の半ば頃から便われだしたようです。明治32年5月1日の「中央日報」の紙上広告の中に,トイレットペーパーとともに化粧紙という言葉が見られます。化粧紙には様々な異名があります。地名や生産者名を冠したもの,見た目からのものなどいろいろです。
主だった化粧紙の異名について解説します。
@ 浅草紙:1664年境より東京・浅草で漉かれた悪紙の代表である。原料としては,紙屑拾いが集めた紙や吉原の女郎が使用した紙などが用いられた。こんな言葉が伝わっている。「尻を拭くその紙の名の浅草寺,鼻の先には仁王門」,「浅草の名物 観音,海苔と紙」,「鼻をかむ紙は上田か浅草か」,「ひやかしを路地へ突出す四つの鐘」(原料に水を掛け熱を加えて冷めるまで問,職人が吉原を素見したことから「ひやかし」といっている)。
図1 明治時代の「中央日報」の広告
写真1 浅草銘の黒塵
A 鼠半紙:浅草紙の異名の一つで,鼠色から連想した色からきた名称。「並六」も浅草紙の異名で,並木町の六兵衛さんが作っていたからとか。
B 西の洞院紙:京都で漉かれた漉返し紙で,江戸の浅草紙と同程度の物である。
C 鼻紙:江戸時代に使われ始めた言葉。これ以前は懐紙,畳紙などの名が付いていた。京花紙などの薄手の紙は一度使用すると捨ててしまうが,昔の手漉き紙は何度も繰り返して使ったものである。
D みす紙:吉野地方で産した精製の薄紙で,漆の濾し紙として有名。その後,鼻紙用として使われるようになったが,御簾のように薄かったことからこのように称された。別名は吉野紙。
E やわやわ:吉野紙や奈良紙は柔らかいのでこのように称された。和紙・柔紙とも表記。
F 大壷紙:「長秋記」の元永2(1119)年10月21日の条に記録があり,「其東間為御樋殿」とあり,この下に割り注で「有大壷紙置台」とある。御樋殿とは室内トイレのことで,大壷とはオマルのこと。したがって,大壷紙とは現在のトイレットペーパーのことである。
G 還魂紙:元々,中国の言葉で「天工開物」に見え,一枚一枚命を込めて作った物の再生を願って還魂紙(「すきかえし」と読む)と名付けた。漉返し紙のことで,日本では古くは宿紙と称した。
H 小菊紙:楮紙で作られた薄紙で,女性向けの高級鼻紙。
I 高野紙:修行僧が高野山に入山するに当たって髪を剃ったが,厠に行くことの隠語として髪と紙とを掛けて言ったことより,厠で使う紙を「高野紙」と言った。
写真2 キレー紙
J 京花紙:明治の末頃,九州・八女地方で漉かれ,当初は手漉き紙で輸出向けであった。輸出が止まった後,九州の三業地だけではさばき切れず,当初は「都の花」,「京の花」として他の地方にも売り込んだ。京花(きょうか)の花が鼻に似ていることより,「きょうはな紙」と言われた。昭和の始めに機械抄きに変わった。商品名は「キレ一紙」。
K アサヒ紙:大正の初めから昭和初頭にかけて.旧日本製紙(株)が生産販売していた高級塵紙の商標。堀内製紙所の「キレー紙」と市場を二分していた。旧国鉄の売店でも販売しており,当時,東海道線などの急行列車停車駅のプラットホームでは「エー!パンにキャラメル!タバコにマッチ!仁丹にアサヒ紙はいかがですか!」との売り声が聞えた。
R 桜紙(桜花紙):明治末から大正の頃,東京・護国寺の側にあった竹内商店で売られていた製品の商品名。
M 美人紙:東京・文京区の堀内商店の製品で,「キレー紙」の姉妹製品である。
N 吉原紙:明治から終戦まで存在した東京・音羽の奥村製紙所の製品である。関義城著「江戸東京紙漉史考」や「古紙之鑑」に見本紙が貼ってある。
写真3 さくら花紙
O 香水紙:堀内製紙所の製品。四畳半ほどの部屋で紙に香水を染み込ませる作業を行なっていたため.工場見学をさせなかったという。今では瞬時に香水を吹き掛けて作る。以前に比べて香気は長持ちするが,種類によっては肌に合わないこともあるという。
P 7・9寸:紙の大きさのことで,昔から,使い易さからこの程度の大きさの製品が多かった。
Q セミ・クレープ紙:手漉き紙は手で皺を付けていたが,機械製紙になり機械的にクレープが付けられるようになった。「京花紙」は.昔,フラット(平板)とセミ・クレープという種類があった。フラットは手で揉んで使用していた。今のティッシュペーパーなどは,ほとんどがクレープ紙である。ちりめん紙とも言う。
R 肛門清拭紙:特許用語。衛生トイレットペーパーとも,拭取紙とも言う。
S 取換え紙:今でいうところのリサイクルペーパーのはしりで,手習いで真っ黒になった半紙に漉き賃を添えて,上半紙と取扱えたことからこのような名称がついた。戦前までは「屑屋お払い」との掛け声が街で聞かれた。明治18,19年境で土佐半紙1帖20枚が2銭位であったが.手習い後の反古紙に1銭を添えて上半紙1時と取換えたという。
? 力紙:念力祈願のとき吹き付ける紙。「また紙を噛むかと仁王にらみつけ」,「念力のたびに仁王きたながり」。又は,力士が土俵での力水の後,口を拭う紙を言う。
? 三里紙:三里は灸点の壷所で膝の下のやや外側の場所。三里紙は膝の下へ当てた三角形の紙で,武家の下郎奴が付けた。土下座のときの用意とも,又は飾りとも言われる。あるいは、亡者の額に山形の三角紙を付けた。
? 不審紙:合点のいかない不審な所に付け,後で師匠に問うために使った紙のこと。
? 枕紙:蕎麦殻などの代わりに紙を細かくしたものを入れて使用した枕を紙枕と言ったが,この枕に入れた紙のこと。又は.以前,女性は胴の上に小枕を括りつけた箱枕を用いており,髪油などで汚れるため紙を何枚か重ねた枕当てを小枕に付けていたが,この紙を枕紙と言った。
? まえ紙:別役実の「道具づくし」で「うしろ紙」との対で使われている言葉で,どちらも何時の間にか一つになったと説明している。しかし,別役氏の他に使用例が見当たらない。
? 恵比須紙(夷紙):手漉き紙の漉いたままのものを「耳つき」とか「端きらず」とか言うが.紙を重ねて裁つ時に紙の端が内側に折れ込んで裁ち残りとなり,開くと三角形にはみ出す様を「えびす紙」と言った。あるいは,縁起をかついで「福紙」と言う場合もあった。又.「閃刀紙(せんとうし)」とも言うが,これは裁ち残りの紙という意味であるが,それを「たち残りの神」に掛けた酒落で「恵比須紙」とも称した。旧暦の10月は神無月と言って万の神々が出雲に集まる中で,恵比須神だけが恵比須講のために出雲には行かずに居残るからである。
? 紙餅:飢饉の折に,紙を水に漬けて柔らかくして, 米の粉を加えて餅にして食べて命を繋いだという。佐藤信淵の「経済要録」(1827年)にも「万一飢饉の甚だしきに臨みて.紙を以って餅と為し,食で飢饉を免るるに足れり」とある。
? トイレットペーパー:紙が初めてロール状になったのは,1871年のことである。ラッピングペーパーとして開発,その後1880年頃に,イギリスとアメリカとでほぼ同時に誕生して今日に至っている。明治の中頃には日本でも知られていた。大正13年当時の土佐紙会社が原紙を抄き,神戸の島村商会が加工して汽船に積み込んだとの記録がある。昭和17年以降からは統計資料があり,昭和31年からは正式に通産統計に入れられた。
? ティッシュペーパー:2010年の日本の1人当たり1年間の消費量は3.71kgである(1976年では1.03kg)。開発国のアメリカは1998年で1.27kgほどであるから,日本はアメリカの3倍も使っている。
この他に,脂取紙,薄様(薄葉)紙,上田紙,薄墨紙,うしろ紙,衛生用紙(衛生紙)落し紙,おしろい紙,化粧紙(お化粧紙).クレープ紙,黒塵紙,黒保紙,小杉紙, 五色紙,小町紙,小判氏,しわ紙,下紙,小便紙,白塵紙,上懐紙, 仕末紙,西洋便紙,漉返紙,雪隠紙,大便紙,大六,ちりめん紙,塵紙,手水紙,使い紙, 手紙,トイレットロール,トイレ紙,トレペ,奈良紙,中保紙,延紙,バスルームティッシュ,便所用紙(便所紙),平ちり紙,反古紙,都の花(都紙), 悪紙 などの異名が知られています。
4.閨(ねや)紙の名称いろいろ
閨紙などと言っても,現在ではほとんど使用されていない言葉であり,また実物を見ることもできません。
これに関わる情緒的な言葉が江戸時代の「絵本」や「川柳」の世界に数多く残っています。江戸時代の性生活は,正月2日の「姫はじめ」から始まりますが,閨紙を詠んだ江戸川柳にも,「じっとして居なとぬき手で紙をとり」,「仕留めたと見えて抜き身を拭う音」.「女房が泣くたびにいるふくのかみ」などと粋な言葉が並んでいます。
いくら死語でも記録には残して置かなければと思い,以下に閨紙のいろいろな名称を書き留めることにしました。
@ 閨紙:閨房(寝室)で使用した紙の総称で.地方により叉時代により多くの異名がある。江戸時代になり,浮世絵や草紙などに書かれたり描かれたりしたものから知ることができる。
A 和合紙:閨房専用の「閨紙」の総称。
B 御事(おんこと)紙:閨紙,交合紙,仕末紙又はしまい紙とも言う。昔の遊女は,紙を四つに折って,それを片手で捲るか,口で取ったという。拭き紙,詰め紙,挟み紙,交撚紙などの区別があった。
C 拭き紙:拭く紙の総称。川柳に「すっぽんの度々だまされる拭い紙」とある。不忍池畔の出会い茶屋は池の中に突き出ており,座敷の窓の下は池だった。時折,客が捨てる紙をすっぽんが餌かと思って度々だまされたということ。明治時代には,富貴紙などとしゃれた名称を付けて売り出された。
D ふくの紙(福紙):「拭く」の意を「福」と粋に言った言葉。「女房が泣くたびにいるふくのかみ」。
E 詰め紙:紙を丸めて口で噛んだりして, それを女陰の奥に入れた。「上げ底をしても三分の器なり」、「詰め紙をせぬが地者の馳走なり」。「込め玉をしている女房肘鉄砲」(これは「経帯」代わりの「詰め紙」である)。
F 含み紙:詰め紙の別称。昔,敵に捕らわれた者が密書を口中に隠して自決したが,その書状を「含み状」と言ったのとも符号する。
G 挟み紙:「御事紙」の一つである。遊女等には「用心紙」と呼ばれた別の用途もあった。「はさむによってみす紙と名付けたり」(神社などの奥の院の前に掛けられていた御簾(みす)に花を挟む風習があった。それと「みす紙」とを掛けて詠んだ句)。ここでは単なる「拭き紙」ではなく,別の所作を示唆している。逢引きの床の作法では.御事紙は鼻の始末から清拭きまで自分の懐に挟んだままにしていて,後で厠に立った時に処置したり,下湯場に行ったりした。
H 交撚紙:汚れを防ぐための紙。「もめた紙」とも称した。大高壇紙へ大根のしぼり汁と丁子の油とを引き,綿の如くにやわらげて二つに祈り,これを床に敷いたという。
I 紅付紙(紅紙):小口を紅色に染めた紙で,江戸の「つづら屋」の紅付紙が評判であった。遊女はこの紅付紙を懐から覗かせて御事紙として使った。妓楼では遊女に客がつくと,その都度,御内証(妓樺の女将さん)がこの紙を遊女に与えた。もてる妓は紙に困らなかったが,もてない妓は雑用紙も自分で買わなければならなかったという。
J 喜契紙:小さい短冊形の紙片に女悦薬を塗ったもので,これを陽頭に貼って用いたという。どんな紙で何処で作っていたのか?
K 音無紙:本来は紀伊で産した紙を指すが,閨紙の一種。「となり知らず」と同様に,御事の後に使う時に音のしない紙という意味である。
L となり知らず:昔の紙は扱うときに音がした。特に閨房では隣の部屋に聞えることを嫌ったので,薄くて柔らかい紙を用いたが,それらに名付けた名称。
M ふのり紙:痛和散と同じ秘薬(トロロアオイから作る男色用秘薬)を紙に塗ったもので,唾で簡単に付けられた。衆道(男色)用。
N 紙花(白花):昔,遊里では遊客が座敷で祝儀を配る場合,小額の金の持ち合わせが無い時に金の代わりに祝儀の印として懐の小菊紙を配った。これを紙花(白花)と呼んだ。
5.おわりに
日本では9世紀にはすでに,紙のリサイクルが行なわれていました。時代により,宿紙,還魂紙,漉返紙などと呼ばれていました。戦後は, 再生紙あるいはリサイクル紙に統一されています。
手漉き紙の時代は,「屑屋お払い!」を街で見かけ,又,吉原のような纏まった場所から出る故紙がリサイクルで回っており,使用と回収のバランスが取れていました。ところが,新品の紙を生産する方が安くつくようになり,このバランスが崩れてきています。
現在は.故紙の回収率が80%前後であるのに対してその使用率は60%前後です。この回収と使用との差は,故紙の輸出という形で辛うじてバランスが保たれている状況にあります。
【参考文献】
1.久米康生:「和紙文化辞典」,わがみ堂,1995
※日本下水文化研究会会員.家庭紙史研究家