読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
集合住宅歴史舘に見るトイレ
△講話者 森田 英樹 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1 はじめに
東京都八王子市に独立行政法人都市再生機構の「都市住宅技術研究所」があります。この研究所は,耐震防火や耐久性,ライフスタイルの多様化を踏まえた居住性能,さらに省エネ・リサイクル,環境共生といった領域までをトータルに研究する機関です。その中に「集合住宅歴史館」があり,一般公開(事前予約必要)されています。「集合住宅歴史館」には,戦前の集合住宅の代表として,「同潤会代官山アパート」昭和30年代の中層集合住宅として「蓮根団地」また,低層集合住宅として「多摩平団地テラスハウス」さらに,高層集合住宅としては,「晴海高層アパート」が移築・復元されています。今回は,「都市住宅技術研究所」で配布されている展示品解説の各種リーフレットをもとに,集合住宅のトイレを紹介していきます。
集合住宅歴史館
住宅のトイレは,建物からトイレ空間単体を切り離して考える事はできません。建設された時代背景を知り歴史の連続性の中で,いかなる主旨に基づき住宅供給がなされてきたのかを考察する必要があります。そのため,まずは,数多くの住宅建設を行った,戦前の同潤会の歴史,戦中の住宅営団の歴史,戦後の日本住宅公団の歴史を概観し,その後に移築展示されている4戸の集合住宅を紹介して行きたいと思います。
2−1 同潤会の歴史
1923年(大正12年)の関東大震災では,東京・横浜の市街地に大きな被害を与え,東京市内だけでも,およそ6割の家屋が罹災する大災害となりました。震災以前より,不燃造の住宅の必要性は取り上げられ,東京市や横浜市では,鉄筋ブロック造の集合住宅建設も開始されていましたが,計画的供給とは言えない状況でした。当時の内務省は,国内外から寄せられた義損金の中から1000万円の支出を決定,その外郭団体として震災の翌年1924年(大正13年),関東大震災の住宅復興を目的とする財団法人同潤会を設立しました。同潤会はまず,東京・横浜に木造仮設住宅の建設を開始しました。1925年(大正14年)には,同潤会最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「中之郷アパート」の建設を開始しました。同潤会がめざしたものは,主に都市中間層向けの良質な住宅供給でしたが,鉄筋コンクリート造の住宅はコストがかさみ,家賃収入だけで投資額をまかなうことが難しくなりました。そのためやがて.木造平屋建ての分譲住宅の供給に専念する事になります。
2−2 住宅営団の歴史
1937年(昭和12年)に日中戦争がはじまり,軍需産業などに従事する工場労働者等が大都市に急増するようになりました。そこで国は,衣食住の政策を重点的に行うために1938年(昭和13年)内務省から分離して,厚生省が新設される事になりました。翌年には住宅課が設置され,深刻な住宅難に対応するための検討が始まりました。その際,当時の同潤会専務理事宮沢小五郎(後の住宅営団経営局長)から「同潤会の経験を基にして国で住宅をつくったらどうか」との提案を受け住宅営団が設立され,同潤会は解散いたしました。住宅営団発足時には同潤会事務所がそのまま住宅営団の本部および東京支所となり,事業が引き継がれ,同潤会職員の大部分が,そのまま住宅営団に移行しました。同潤会から管理を引き継いだ賃貸宅は,アパートメント114棟,約2700戸。木造住宅1033棟,約3600戸です。ちなみに,同潤会は18年間で,分譲住宅を含め12000戸の住宅を建設しました。
住宅営団は,当初5年間で30万戸の住宅建設を目標としましたが,戦局の悪化のため実績も伸びず,終戦を迎えることになります。1946年(昭和21年)にGHQは住宅営団の解散を命じ,住宅営団関係の資料も国策遂行組織の資料とされ,廃棄処分されました。このような理由により住宅営団に関する資料は不十分なため,正確な数字は定かではありませんが,閉鎖時点までの建設実績は新築住宅で16万5千戸。賃貸住宅の管理戸数は6万戸とされています。なお,解散を命じられた住宅営団の職員は地方公共団体の組織に就職していきました。そのため,1955年(昭和30年)に設立される日本住宅公団への人的・組織的な連続性はありませんが,技術的な考え方などには大きな影響を与えています。
2−3 日本住宅公団の歴史
戦後の住宅事情は,戦災による公称420万戸の住宅不足にはじまります。1956年(昭和31年)の「経済白書」では「もはや戦後ではない」とうたいながら,「国民生活白書」では「住宅はまだ戦後である」とせねばならないほど深刻な住宅難が続いていました。高度経済成長期を迎えた当時,都市への人口流入が一層住宅難に拍車をかけていました。このような背景の中で,国の住宅政策の一環として,公的資金を投入し勤労者向けの住宅供給をする目的で1955年(昭和30年)日本住宅公団が設立されます。日本住宅公団は,次のような特色と任務を掲げて,10年間で30万戸の住宅供給を目標に建設に取り組む事になります。
1,住宅不足の著しい地域の勤労者のための住宅を建設すること。
2,大都市周辺において広域計画により住宅建設を行うこと。
3,耐火性能を有する集団住宅を建設すること。
4,公共住宅建設に民間資金を投入すること。
5,大規模な宅地開発を行うこと。
3−1 同澗会代官山アパートに見るトイレ
都市住宅技術研究所の「集合住宅歴史館」には,戦前の住宅の例として同潤会代官山アパートが移築復元されています。代官山アパートは関東大震災で被災した青山女学院の跡地に建設され,1927年(昭和2年)に入居がはじまった総戸数337戸の同潤会アパートメント最大規模の郊外団地です。敷地面積は5976坪で,25%という建蔽率のため豊富な緑の中,敷地の起伏を生かした傾斜地に2階建てと3階建ての鉄筋コンクリート造のアパート・公衆浴場・食堂などが配置されていました。住戸規模は世帯向けでも30u未満であり,現在の1DK程度ですが,水洗トイレをはじめとし当時の最新の考え方が盛り込まれ,次のように紹介されています。
(イ)鉄筋コンクリート造にして地震に安全なること。
(ロ)世帯向けのものは各戸毎に不燃質の障壁を設け且出入口は防火壁となし火災に安全なること。
(ハ)建具を堅固にして戸締りに意を用ゐ盗難の不安少なきこと。
(ニ)内部の構造は和洋の洋式を自由に選択し得ること。
(ホ)水道電気は勿論炊事及び暖房用の瓦斯の設備したること。
(へ)便所は各戸毎に設け水洗式になしたること。
(ト)屋上に洗濯室を設け盥及び物干しを設備したること。
(チ)釜所には流しは無論調理釜,竃,蝿帳等の外ダストシュートを取り付けたること。
(リ)その他押入れ,鏡付洗面所,帽子掛,下駄箱,票札等に至るまで一切完備すること。
さて,問題のトイレですが,一部自タイル張りの木製の床に和風便器が据え付けられています。便器は,床面より一段高い位置に設けられた,一般的には汽車便と呼ばれた両用便所の形で設置されています。便器前方に手摺がありますが,後付のものであるのかは定かではありません。トイレットペーパーホルダーはありません。トイレの上部には,最近では珍しくなった,木製のハイタンクが設置されています。金属製の鎖を引くと水が流れる仕組みです。展示されているトイレは使用する事ができませんが,流水音が非常に大きかった事が今となっては懐かしく思い出されます。トイレの歴史を考える上では,このような流水音をも含め考えて行く必要があり,記録保存の難しさを感じさせられました。このトイレで目を引くのは,便器手前の金属部分です。この便器は,金属パイプで後方から水を流す初期のタイプの水洗便器であったため,手前の金属カバーの中にパイプが隠されていました。不思議なことに,建築コストを抑えるためであったのでしょうか,このトイレには照明設備がありません。夜間は,トイレの外にある玄関の照明の明かりで用を足したとの事ですが,どの程度の照度が確保されていたのでしょうか?もしかすると,トイレの扉を開放した状態でないと用が足せなかったのかもしれません。当時としては,高レベルの快適さを追求した設計コンセプトにも拘わらず意外な一面のあるトイレでした。この代官山アパートは1978年(昭和53年)頃から,建て替えの話が持ち上がりましたが,その間事業は難航,2000年(平成12年)に,複合施設「代官山アドレス」として生まれ変わりました。
代官山アパートのトイレ
3−2 蓮根団地に見るトイレ
移築展示してある蓮根団地(東京都板橋区蓮根2丁目)は,1957年(昭和32年)東京都で8番目の公団住宅として竣工しました。団地は36棟から構成され,816戸が入居しました。33歳のサラリーマンの年収が335000円の当時,家賃は4500円でした。完成から30年後の1987年(昭和62年)に,住宅都市整備公団は東京都で初の建て替え事業の対象と指定し,現在は,「新蓮根団地」として建て替えられています。
蓮根団地の両面灯
蓮根団地のトイレ
この時代の団地の特徴としては,13坪という建築条件の中に,「食寝分離」の考え方を実現可能にしたダイニングキッチン(DK)の登場があげられます。台所を広くしてダイニングテーブルを置くことによって台所で食事をする新しい生活スタイルの時代を創り出して行く事になりました。このダイニングキッチンと浴室・トイレ・2寝室を備えた間取りは「2DK」と呼ばれ,公団住宅の代名詞ともなりました。
さて,トイレですが,玄関入り口を入ると左側にトイレがあります。トイレの照明は,両面灯と呼ばれるものです。トイレと玄関とを仕切る壁面に貫通する穴をあけ,その穴部に電灯を設置することにより,トイレと玄関の照明を兼ねるものです。大変,合理的な照明なのですが,壁に穴をあけたり,その施工の手間からなのでしょうか,最近は見る事も少なくなりました。このような,知恵と工夫は,デザイン的にも,機能的にも再評価されても良いのではないでしょうか。先の同潤会アパートでは,ハイタンク方式が採用されていましたが,蓮根団地ではフラッシュバルブ方式が採用されています。
3−3 多摩平団地テラスハウスに見るトイレ
昭和30年代の低層集合住宅の例として,多摩平団地のテラスハウスが移築展示されています。テラスハウスとは,各戸が庭を持つ低層の連棟式集合住宅のことです。住宅公団では,1955年(昭和30年)の発足時から,主に郊外の団地でテラスハウス建設を行いました。昭和30年代には住宅公団が供給した,約2割にあたる約2万戸が建設されました。1958年(昭和33年)に竣工された多摩平団地は,東京都日野市多摩平に位置し,当時のパンフレットには「富士の見えるニュータウン・40万坪の緑の街」と書かれています。広い敷地を持つ団地は250棟,2792戸から成り,家賃は約6000円でした。1997年(平成9年)から,建物の老朽化のため建て替えが行われ,現在では「多摩平の森」として生まれ変わっています。「集合住宅歴史館」に移築されている建物は6戸1棟の連続建てのうちの1住戸を移築したものです。1階は4.5畳の和室・台所・浴室。便所,2階は6畳間と3畳間の3Kとなっています。
さて,トイレですが,通常トイレは後方にドアがある形式が多いなか,側面から出入りする構造になっています。そのため,便器設置床面の隅切りを行い,出入りし易いように工夫が施されています。限られた空間にトイレを配置せざるを得なかったのでしょうが,限られた工期の中で隅切りを行わなくてはならない施工上の苦労を感じさせれます。写真には写っていませんが,便器前方にトイレットペーパーホルダーが設置されています。手洗いは,ボール型の小さな手洗いが設置されています。手洗いと言うよりも,指先を洗う程度の小型のものです。この手洗いは,水量調節がうまくいかないと,勢い良く水が噴出し,水の飛散に悩まされた事が思い出されます。
多摩平団地テラスハウスのトイレ
3−4 晴海高層アパートに見るトイレ
晴海高層アパートは,東京湾月島4号埋立地であった晴海1丁目開発の一環として建設されました。この団地は,日本住宅公団が将来の住宅の高層化に向けて試作された,鉄筋コンクリート造10階建ての高層アパートです。設計は前川國男氏が行い,1957年(昭和32年)に入居が開始された全168戸の集合住宅です。この晴海高層アパートも1996年(平成8年)から1997年(平成9年)にかけて,建物の老朽化のため,建て替えが行われ,現在では,「晴海アイランドトリトンスクエア」として再開発が行われました。
晴海高層アパートのトイレ
腰掛け便器の使い方
移築展示してあるトイレの中で,初めて洋式の水洗トイレが登場します。陶器製の洋式水洗便器に蓋なし焦げ茶色の便座です。フラッシュバルブが,妙に低い位置に設置されているのが気になりました。写真では便器左側の背後中央に,フラッシュバルブの握り手の部分が顔を出しています。この位置でバルブを操作するためには,かなり前傾姿勢にならなくてはならず,使い勝手は大変に悪いものであったと思います。もしかすると,洋式水洗便器設置に関しての知識が乏しく,そのため和式の水洗便所のフラッシュバルブの取り付け位置で設計・施工されてしまったのかもしれません。公団は発足当時,一般的には汽車便所と呼ばれる和風両用便器を採用していましが,大阪支所(現,西日本支社)では,洋式便器を採用していました。全ての支社が洋式便器を採用したのは1960年(昭和35年)のことです。当時,まだ洋式便器の使用方法がわからず,腰掛の上に立ったり,自分で足台を作るなどの問題が寄せられたようです。そのため,公団では使用方法を書いたシールを貼ることになりました。公団が和風便器から洋風便器に切り替えを行った理由のひとつとしては,施工上の簡略化があげられます。和風便器の場合は,両用便所にするために,床面より一段高い位置に便器を設置する必要があります。更に,その周囲をコンクリートで固めたり,板やタイルを貼る必要がありました。しかし,洋風便器の場合ですと,スラブに穴をあけ,排水パイプに接続するだけで済むという利点がありました。その後,穴あけが不要な床上排水が採用されるようになると,一段と施工は簡略化されました。便座は,洋風便器採用当初は,男性の立っての小便を考慮し,ふたなし前割れ便座を採用していましたが,1985年(昭和60年)からは,ふた付きになり,1997年(平成9年)以降はふた付き前丸便座に変更されています。これは,座って小便をする男性が増加したことや,温水洗浄便座の形式の影響を受けているものと考えられます。
4 おわりに
今回は,「都市住宅技術研究所」にある「集合住宅歴史館」に移築復元されているトイレを紹介いたしました。そのため,移築復元されている,昭和30年代の集合住宅トイレ中心であり,集合住宅トイレの通史とはなりませんでした。今後さらに,昭和40年代・50年代・60年代と各年代を代表する集合住宅を移築復元し後世に伝えていく大切さを多くの方々に広く理解して頂き,保存研究する動きが高まる事を願ってやみません。
独立行政法人 都市再生機構 都市住宅技術研究所
〒192−0032 東京都八王子市石川町2683−3
TEL O42−644−3751
公開日 火・水・木曜日 第2・第4金曜日
公開時間 午後1時30分〜午後4時30分
申込方法 必ず事前にお申込み下さい。
※日本下水文化研究会会員