読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
屎尿の臭いの記憶
△講話者 地田 修一 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1.はじめに
ただいま紹介されました地田です。現在,私は水環境案内人として月に2〜3回,東京都の下水処理場へ出向き,見学に来られた方々への説明員をしています。その際,見学者から,刺激的な臭いを持つ流入下水に対してばかりでなく活性汚泥や処理水についても臭いがついていると,あからさまに指摘されることがしばしばあります。
そこで私は,水処理のしくみを解説したあと,下水処理場における臭気対策や脱臭技術についても必ず説明を加えるようにしています。
さて,本日の発表では,下水より格段に臭気がきつい屎尿にターゲットを絞って,記憶をもとに記述された,臭気についてのいくつかの文章表現を紹介したいと思います。
2.嗅覚の特性
その前に,人間の嗅覚の特性を整理しておきます。
人間の嗅覚は,発達の程度が低くその記憶の内容も乏しく,そのうえ疲労しやすく.ある臭いに接していて,しばらく時間が経つとその臭いを感じなくなってしまうという弱点を持っています。
また,文明が発達すればするほど嗅覚は鈍感になり,ある臭いに対する不快感・嫌悪感は後天的に教育されたものに影響されやすく,しかも個人的な感情が強く働く側面があります。さらに,人間は,今現在鼻の前に存在していないニオイを頭に思い起こすだけでは,それを感じ取ることはできません。
ここに,ニオイにまつわる記憶のまか不思議さの原因があります。
3.便所と汲取り時の臭い
それでは,写真−1をご覧ください。汲取り便所の汲取り口から,柄杓で屎尿を汲取っている場面です。
この写真を見ながら,次の二つの文章を読み上げますので聴いてください。
まず,執筆者自身の自宅でのことです。
「(汲み取り)便所時代は,その臭気が便所からもれて部屋いっぱいに広がり,なかなか消えない。自分の時だけでなく,妻の時も二人の子供の時も同じように広がった。二人が続けてはいると,一時間ぐらい部屋中が臭っていた」
写真−1柄杓で汲取る(「トイレ考・屎屎考」より)
さらに,この執筆者の家の便所を水洗化した後のことですが,他所の家の便所を汲取っている時の臭いについても,こう述べています。
「窓を開けると,汲み取りの臭いがどっと部屋の中へよせてきて,あわてて窓を閉めた。わが家のトイレを水洗にして,もう十年近くなるというのに,この近所の家にはまだ(‥・)汲み取りをしている家があるようだ。風向きによっては,一キロも離れている家の汲み取りの臭いが,わが家まで届くことがある。幸い,汲み取りに要する時間は短いので,臭いが部屋の中にただよっている時間はそんなに長くは無い」
この二つの文章は,高橋俊夫さんのエッセイ集『ふる里信州 諏訪』の一節です。高橋さんは1924年長野県諏訪市生まれで,県内各地で小・中学校の教員をされた方です。10代の後半の数年間東京での生活を経験し,いち早く水洗トイレの恩恵を受けたことのある方です。
次に,『綴方教室』に載っている豊田正子さんが小学生の頃に書いた作文の中で,屎尿の臭いに強い感受性を持つある主婦の振る舞いが,このように描写されています。
「庭の裏木戸があいて,誰かが入って来た。小母さんは又,口を袂で押さえて,「ほら,来た。
豊田さん,貞子も,早く,早く」といって,自分から先に家へ入ってしまった。私も何が何だかわからないで,小母さんの後につづいてお勝手から入った。小島さんがお勝手と廊下をしめた。小島さんに「何あに」と聞くと,小島さんは,「おわい屋.おわい屋」と言って笑った。… ガボッガボッとおわいを汲む音が聞こえる」
図−1肥桶の運搬(「マンガ明治・大正史」より)
ここで描写されているのは,東京の中流階級の庭付き一戸建ての住宅での話です。口を袂で押さえるという「しぐさ」はいかにも女性らしいですが,図−1の漫画にも肥桶を運んでいる荷車のすぐ側の何人かの女性の同じような「しぐさ」が描かれています。
4.街角での臭い
写真−2をご覧ください。ある家の塀ぞいの肥桶の仮置き場の写真です。
村山貞他さんは,自分史の中で,肥桶の仮置き場から家の中に忍び寄ってくる屎尿の臭いには,お手上げであったと,次のように書いています。
「私の家の,その塀は,割合,長かったから,区の屎尿の汲取桶の一時的集積場所になってしまった。当時は,役所に文句をいったりすることもなかなかできにくい時代であった。横に十以上,縦に三段ぐらい積み上げて,牛の荷車がくるまで一日か,二日放置されるので,近所じゅうがくさくてたまったものではなかった。むろん,薄い板塀一枚で(わが家の庭の)露地にもにおいが充満していたが,たまたま,お茶会が重なればもう為す術はなかった」
写真−2 肥桶の仮置き(「トイレ考・屎尿考」より)
写真−3 街を走るバキュームカー(「トイレ考・屎尿考」より)
ちなみに,村山さんは1925年に東京で生まれ,その頃はまだ郊外であった青山で育った方です。幼少時代には,まだ汲取り便所であったとのことです。NHKに勤めた後,大学でコミュニケーション論を講じていた方です。「人はなぜ匂いにこだわるか」などの著書があります。ただ今紹介しました自分史は,この本に収められています。
さきほど紹介しました高橋さんは,地元の諏訪の街を歩いていて,バキュームカーが屎尿の汲取り作業をしているところに出会い,次のように苦言を呈しています。先ほどの図−1は荷車に積んだ肥桶からの臭いですが,こちらはバキュームカー(写真−3)からの臭いです。
「最近でも,街のメインの通りに衛生車が止まっていて,あの鼻をつくにおいをあたり一面にまきちらしていた。いろいろ事情はあるだろうが,もうそろそろ無くなってもいい時期じゃあないかと思う。… あの衛生車を使わなくて済むのは何時になることか」
5.畑での臭い
それでは,写真−4をご覧ください。畑に屎尿を柄杓で撒いているところです。
村山さんは,学校農園で肥料として撒いた屎尿の臭いをはっきりと記憶していて,このように述ベています。
「児童に芋や大根や茄子や胡瓜やトマトをつくらせ,林間で授業もやった。その頃の肥料は人間の屎尿を溜めた最たる有機肥料であったから,そのにおいはいまでもけっして忘れられない」
これに対して,高橋さんはあれほど毛嫌いしている屎尿の臭いであるが,セカンド・ハウスの便所の屎尿を自分が汲み取って畑に撒いたその臭いには,むしろ親しい気持ちが湧いてきたと言っています。すなわち,
「松本の神戸の家は,今でも便壷で,… わが家だけは,糞尿を肥料として畑にまいている。妻は週二回,私は週一回,ここに行くのがいいとこだから糞尿もたくさんはたまっていないのに,私は行く度に便壷から汲みだしては,畑の穴に入る。・‥ 意地になって汲み取っては,畑に撒く。こういう作業の時は,糞尿が多少手についたっておかまいなしだ。あのにおいが大嫌いな俺が,どういうことだろうと反省してみた。… 糞尿に対すること,敵に対するがごとくとなる。そのくせ畑で臭う糞尿には,何ら敵意は感(じない),… 云々」
と,あります。
畑での屎尿の臭いに対する感性がトイレに対するそれと違ったのは,栽培している農作物の収穫への期待感からでしょうか。それとも,便所に溜まった汚物を掃除できたという達成感からでしょうか。
写真−4 屎尿の施肥(「トイレ考・屎尿考」より)
私も以前,こんな思い出話を書いたことがあります。それは,
「その頃,家の庭は,今でいう家庭菜園として,使われていた。私の母が,農家の出身であったためか,野菜の肥料として,自分で屎尿を汲み取って,与えていた。随分,臭いがしたであろうと,思うが,私の記憶には,残っていない。ただ,新鮮な,キュウリやナスやトマトを,おやつの代わりに食べたことを,よく覚えている」
です。
6.屎尿の臭いアラカルト
ここで,嗅覚の発達に関する荻野洋一さんの見解を,「そこが知りたい 匂いの不思議」から抜粋して読み上げてみます。
「トイレのにおいは,すべての人に共通の不快臭である,といっても過言ではないが,人間は本来,ウンコのにおいが,嫌いではないことが,最近の研究でわかってきた。嗅覚の発達ははやくからはじまり,幼児でも,かなりさまざまなにおいを喚ぎ分ける,ことができる。しかし,このころにはまだウンコのにおいを嫌う傾向はあらわれない。ウンコばかりでなく,ほかの悪臭にも嫌悪を示さないのがふつうである。
ところが,どんなに遅くても,十五歳くらいまでには一様に,ウンコのにおいを嫌がるようになる,という。それは,ウンコは汚くて臭いものと,教育されて育った結果なのだ。つまり,後天的なものだということになる」
いかがでしょうか。荻野さんは旅の達人で世界各国を巡る中で,さまざまなことを体験・見聞していますが,匂いに関してもたくさんの情報を得ています。このことが,この本を執筆する動機になったとのことです。
ちなみに,ウンコの臭いは含まれているインドールやスカトールから発せられるものです。また,尿も,時間が経過すると,含有されている尿素が分解されアンモニアが生成されてきますが,これが刺激臭を発するのです。
ところで,どんな悪臭でもその濃度が薄くなれば,不快の感情は起こらなくなり,ときには心地良いニオイとなるものさえあることが知られています。その良い例が,麝香鹿(じゃこうじか)の分泌腺です。これ自体は糞便臭をもっていますが,このニオイを希釈していくと,やがて化粧品の主成分となる,えも言われぬ良いニオイになります。
同じように,糞便に含まれているインドールもその濃度が薄いときは快適な花のニオイを醸し出します。
7.おわりに
現代は清潔志向が進み,無菌的な環境を当然のごとく享受したいと望んでいます。
臭いに関しても然りです。ちょっとでも手入れの悪い公衆トイレに入ったりすると,思わず一瞬,息を止めたりします。不快な臭いに対して敏感になるのはヒトに備わった本能ですが,臭いに対する好き・嫌いは,後天的な教育によって左右される側面も無視できません。嗅覚に個人的な感情が介在する由縁です。
汚れている下水を浄化してくれるあの活性汚泥が持っている,ほのかに漂う「カビ臭」も,眼には見えない有用な微生物の活動を私たちに教えてくれる,言ってみれば浄化の進行を示してくれるある種の指標とも考えられます。
長らく,下水処理に携わってきた私にとっては,むしろ好ましい臭いであるとさえ感じていますが,不快であると感じる人たちが多くいることも事実です。
臭気対策をどこまで行うべきかについては,人間の嗅覚のまか不思議な特性を理解したうえで,考えていく必要があるのではないでしょうか。皆さん方は,いかがお考えでしょうか。
【参考文献】
1)高橋俊夫:ふる里信州諏訪,鳥影社,1992
2)村山貞也:人はなぜ匂いにこだわるか 知らなかった匂いの不思議,KKベストセラーズ,1989
3)豊田正子:綴方教室,木鶏社
4)高木貞敬:嗅覚の話,岩波書店,1974
5)荻野洋一 そこが知りたい匂いの不思議,雄鶏社,1993
6)日本下水文化研究会:トイレ考・屎尿考 技報堂出版,2003
本講話は,平成23年11月12日に行われた日本下水文化研究会主催の第11回下水文化研究 発表会において口頭発表したものです。