読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
長崎・出島のオランダ屋敷のトイレ
△講話者 森田 英樹 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1.はじめに
10年ほど前,車窓から偶然,復元整備されている長崎の出島の景観を眺め,まるで教科書から飛び出て来たザビエルと名刺の交換ができるかのような錯覚を覚え,えもいわれぬ感動に襲われたものである。その頃から,出島のトイレはどのようなものであったのかが気になりだした。出島を描いた数種類の絵図を天眼鏡で覗いてみても,それらしきものは無い。最近ようやく,念願かなって出島に行くことができた。
2.出島復元整備室へ
受付で取り合えず,お決まりの「トイレは復元されていますか?」と,質問してみた。「無いです。以前も同じような質問をされた小学生がいたのですが,出島にはトイレは無かったんですよ」「そうですか,小学生ですか…。でも,無かったと言うからには,無いということを明記した文献か,史料はあるのですか?」と,今回は珍しく食い下がってみた。「少々,お待ちください」と,どこかに電話している。そして,「今なら,出島復元整備室に行けば学芸員がいますが,お時間ありますか?」と,丁寧な対応であった。
復元整備室は,同じ敷地内にあるということなので早速訪問した。
3.出島の概観
突然の訪問にもかかわらず,学芸員の方はとても懇切丁寧に説明してくださり,トイレに関してもいくつかの手掛かりが掴めた。
まずは出島の歴史を概観しておこう。 江戸幕府は1636年,ポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために,岬の突端に人工島を築き,そこに彼らを収容した。しかし,両国の関係が悪化し,1639年にポルトガル人の渡航が禁止され,しばらく出島は無人島となった。
1641年,幕府は平戸にあったオランダ商館を出島に移転した。以来ここが,1859年の長崎・横浜・箱館の開港までの約200年間,西欧への唯一の窓口とされてきた。
開国後の出島は,1866年に外国人居留地に編入,明治以降は次第に周囲が埋め立てられ,1904年の第2期港湾改良工事の完成により出島の扇形の姿は消えた。戦後,長崎市は旧出島内の民有地の公有化に取組み,2001年に完全公有化を達成し,現在,復元整備事業が進行している。
約400年の歴史の中で出島は,その立場を変化させてきた。オランダ商館が置かれていた約200年間においても,建物の建替え,改築,火災による焼失など幾多の変遷がある。何枚かの出島絵図をみると,措かれている景観が異なっており違和感を与える。それもそのはずである。200年間の間には,建物も変われば.住まい方も変わるはずである。現在進められている復元整備は,19世紀初頭の出島の復元である。
4.カピタン部屋のトイレ
カピタン部屋と呼ばれる建物の図面にトイレの記載がある。カピタンとは,オランダ商館長のことで,彼の住居兼事務所であると同時に,日本の賓客が訪れた際の接待の施設でもあった。つまり,出島の中でも中心的な建物といよう。カピタン部屋は,数回わたって建えられいるが,復元されているのは1798年の出島大火の後に再建されたものである。具体的には1809年から1833年までの姿を復現している。
一番船頭部屋内のおまる
しかし残念なことに,この復元建物にはトイレが確認できない。1798年の出島大火以前の建物と思われるカピタン部屋の図面の中には,2階に「女中洗濯所,及び便所」との記載がある。どの様なトイレであったのか,ここに書かれている字句以上の詳細は不明である。また,1階部分の地下から便壷が発掘されたそうであるが,それが何時の時代の建物で使用されていたのかは不明であるとのことである。その便壷が現在どこに収蔵されているのか,不覚にも開きそびれてしまった。これは私の推測であるが,明治以降の民有地の境の便壷なのかもしれない。
5.一番船頭部屋の「おまる」
一番船頭部屋のオランダ商館員の住まいの中に,「おまる」が展示されていた。一番船頭部屋とは,オランダ船の船長や商館員の住まいで,1階が倉庫,2階が居室となっている。
1821年に出島で亡くなった一等書記ヘルマヌス・スミットの財産目録をもとに,家具,調度品を再現している。その部屋のベットの左側に真鍮製の「おまる」が置かれている。当時は陶器製が一般的であったが,入手できなかったので金属製のアンティーク品を展示したとのことであった。
興味深いのは,出土した陶器製の「おまる」が旧石倉に展示されていることである。旧石倉とは,安政の開国後に造られた石造倉庫のことで,考古館として使用されている。その「おまる」は,考古館の1階中央にガラスケースに収められて展示されていた。ふらっと観光で立寄っただけならば,見過ごしてしまうかもしれない。
染付牡丹文手付鉢(おまる)有田
17世紀後半〜18世紀初頭
6.オランダ屋敷での屎尿処分
これらのことから想像するに,当時,屎尿を溜めて置く習慣の無いオランダ人は,日本的なトイレは使用せずに,「おまる」で用を足し,海に捨てていたのではないだろうか。船乗りたちで構成される出島の住民にとって,「おまる」の中の屎尿を海に捨てることは,特に違和感無く行われていたことであろう。
ところで,出島はオランダ人ばかりで構成されていたわけではない。日本人の従業員もいれば,オランダ船が入港すれば,多くの日本人商人で賑わったことであろう。さすれば,なんらかのトイレが必要になると思えるのであるが。いずれ,出島におけるトイレに関する新事実が明らかになることであろう。
本講話は,NPO法人日本下水文化研究会会報『ふくりゅう 通巻65号』(平成22年7月16 日発行)に掲載した『阿蘭陀屋敷出嶋の事』に加筆・修正を加え,再構成したものです。