読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
足尾銅山トイレ事情
△講話者 森田 英樹 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1 ふたつの疑問
2009年にNPO法人日本下水文化研究会主催の第10回下水文化研究発表会で『特殊便所考』と題して,昭和3年の鉱山・炭鉱内のトイレ事情に関する発表を行いました。その発表概要は,『都市と廃棄物』誌の2010年・第6号に『戦前の鉱山・炭鉱トイレ事情』として掲載いたしました。そこで紹介した多くのトイレの中でも,私の中では足尾銅山の坑内便所の事が気になっていました。
足尾鉱山は栃木県日光市にあった銅山で,現在では足尾銅山跡として国の史跡に指定されています。また,急激な鉱山開発は足尾鉱毒事件を引き起こしたことでも有名です。足尾銅山の歴史は古く,江戸時代にはすでに発展をみせ,17世紀後半には,長崎港から輸出される銅の5分の1を占めるほど繁栄をしました。しかし,幕末から急速に衰退し廃山同様となりました。1877年(明治10年)古川市兵衛は渋沢栄一らの協力を得て鉱山再開発に着手,1884年ころから銅生産が急増し,渡良瀬川下流に鉱毒被害が発生し住民を苦しめることとなりました。第1次世界大戦時には年産15,000トンの最盛期を迎えましたが,1973年(昭和48年)閉山しました。
この足尾鉱山では,昭和3年当時,入坑者総数1,500人の内,便所または便器設備の無い場所での従業者は770人。便所設備のある場所での従業者が730人となっています。便所は計6箇所。使用範囲従業者数は1箇所あたり80〜150人となっています。
図1 上より側面側,平面図,正面図の3枚となっています。
足尾鉱山の便所の特徴は,坑内排水を利用した水洗便所であった点です。[図1]のように,坑内排水路の上に,面積約0.5坪,長さ約5尺4寸の総板張りの囲いをつくります。そして,板張りの床の中央に長方形の穴を開け,そこから排便をします。汚物は排水路の流水によって坑外に排出される仕組みとなっています。坑内で発生する排水を利用した優れた設備といえましょう。しかし,気になる排水の行方ですが,その点に関しても詳細に記されています。排水とともに搬出された糞尿は沈澱池に入り,石灰乳で中和され,さらに濾過池を経て河川に放流されていました。「糞尿は同時に完全消毒せらるるものと認む」と糞尿の安全性に触れているのは,鉱毒事件の時代性もあるものかと考えさせられます。
ところで,便所設備の無い場所での従業者,770人についてはどうなっていたのでしょうか。止むを得ない場合には,人通りの無い旧坑内の一隅で用便をしているが,人道坑ではほとんど無いと記されています。前述の水洗便所の記述に比べると,なぜか実にあっさりとした記述になっています。
多くの鉱山・炭鉱トイレの資料の中で水洗トイレは足尾だけでした。素人でも,山を掘れば水脈に当たり,地下水が沸き出て来る事は容易に想像でます。場所によっては尋常ではない水量なのかもしれません。その水を利用した水洗トイレを造る事は,なるほど合理的と言えましょう。ちなみに,足尾にある赤沢という地名は,銅鉱床から流れる水の色からきているといわれています。また,渋川も水が酸性で渋いためにこのように名づけられたといわれています。このように,地名の由来になる程の水量だと考えると,途轍もない量にも思えます。はたして,足尾銅山の水量とはどの程度のものなのでしょうか?そんな大量の水を浄化する施設が昭和初期の山深い足尾に,すでにあったのでしょうか?ふたつの素朴な素人疑問が私の中には残っていました。
2 銅山発見400年
そんな折,足尾銅山が発見されて,今年で丁度400年である事を偶然知りました。1610年(慶長15年)に農民の治部と内蔵の2名が黒岩山に登り,鋼の露頭を発見したことに始まると言われています。幕府は,彼らの功績を讃え,黒岩山を彼らの生国である「備前」を冠した「備前?山」と改めました。下野国である栃木県に備前があるとは,奇妙に思えましたが,なるほどこんなわけがあったのでした。ちなみに,国土地理院を含め最近,発行されている地図では「楯山」と木偏の楯を使っていますが,本来は金偏の「?鋸」の字を使うようです。金偏の?は,「金属の鉱床が存在する山」の意味があるそうです。しかし残念ながら,色々な辞典を調べて見ましたが載っていません。諸橋轍次の『大漢和辞典』には「金属の鉱床が存在する山」の意味は無く,何と「槍」という意味がでています。木偏では「タテ」で,金偏になると一転して「ヤリ」になるとは…。頭が混乱してきたので,この辺りで調べるのはやめにしました。何やら難しい漢字だということだけは,私にも理解できました。
3 足尾見学
前置きが長くなりましたが,鉱山について「縁やゆかり」どころか,何の知識も無かった私にとって,『足尾銅山発見400年』を知ったのは,これこそ何かの御縁。紅葉シーズンで宿の値段が高くなる前に,とりあえず行って見る事にしました。8月の,それはそれは暑い日でした。まず,足尾銅山観光という資料館に行ってみました。明治18年に開墾がはじまった足尾銅山の通洞坑の内部を見学できる資料館です。なにせ,初めて訪れる足尾の町,例年と比較する事はむろんできません。しかし,別段「銅山発見400年」のお祭りらしき様子は感じられません。幟が立っている程度です。通洞坑に入るや否や開墾が水との戦いであったことが,瞬時に伝わってきました。天井からは水が滴り,そこかしこに水の流れができています。江戸・明治・大正・昭和と時代ごとの作業の様子が人形で再現されています。排水作業の苦労も人形たちが語ってくれています[写責1]。これだけの水に囲まれていれば,坑内の排水を利用して水洗トイレを造ろうという発想があってもなんらの不思議もありません。疑問のひとつ目が解決しました。案内所で「足尾銅山近代化産業遺産マップ」というのを手にいれました。足尾の施設が書かれた明治41年発行の地図をベースに,現在の地図を色つきで重ね書きしたものです。こんな地図が欲しかった。やはり,何事も現地に足を運ぶのは大切な事だと実感しました。その明治41年当時の地図を見ると浄水場らしきものが何カ所か確認できます。その中に,この後で述べる「鉱毒予防工事命令」の第6項に登場する中才浄水場(明治41年の地図では,中才沈澱池)が確認できました。しかも,現在も使用されているようです。
写真1水管人夫(江戸時代)
地図を片手に,とにかく見に行く事にしました。原向駅方面から遠下の交差点を左に曲がり,足尾駅方面に600メートル程進むと左手,山側に有越鉄索塔(ロープウエイの支柱)が見えてきます。その付近の右手,川側一帯が中才浄水場でした[写真2]。木立に覆われているため全貌は定かではありません。所々の,木々の切れ間から覗ける程度です。確かに水が張られているので,現在も使用しているようです。さらに暫く足尾駅方面に歩くと,右手に通洞変電所跡が姿を見せてきます。見るからに電気的な建物だからすぐにそれとわかりました。その変電所の左手,山側が通洞選鉱所です。ゲートの鉄柵は閉ざされていますが,柵越しに円形のコンクリート製のシックナー[写真3]と思われるものが見えます。中に入って確認できないのが残念でした。
写真2 中才浄水場
写真3 通洞選鉱所のシックナー
明治30年に出された「鉱毒予防工事命令」により坑内排水は重金属を含むため中和・沈澱して放流することが義務づけられました。そのため,本山・通洞などの主要坑口にそれぞれ浄水場が設置され通洞坑の排水は,ここ中才浄水場で処理される事になりました。「鉱毒予防工事命令」には36の命令事項が示されています。その一部分のみを抜粋しておきましょう。
第1項 本山・有木坑と小滝坑の坑水は一切これを流出せしめず,全て選鉱用に供し,生石灰乳の撹搾法を行い,砂聚器通過せしめたる後,順次これを沈澱池及び濾過池に導くべし。
第5項 本山沈澱池及び濾過池は総面積1,200坪以上,小滝沈澱池・濾過池は1,000坪以上に拡張し,かつ上層の沈澱池には降雨を防ぐため屋根を設くべし。
第6項 字中才に1,800坪以上の沈澱池および濾過池を新設し,通洞における現今の坑水沈澱池は,その竣工を待ちて廃止すべし。
第9項 沈澱池および濾過池内部の周囲は,石垣またはれんが造りとし,セメントをもって填塗し,その下底はコンクリート詰または板張となすべし。
なるほど,鉱毒事件を契機に浄水施設の整備が進み,大規模な水処理が行われていた事がわかりました。ふたつ目の疑問が解決しました。
4 足尾『糞毒』事件?
ところで,足尾といえば,鉱毒事件が有名ですが,「新聞集成明治編年史第6巻(昭和10年刊)」に興味深い記事を見つけました。明治20年8月5日の読売新聞の記事です。見出しに,『糞毒』という文字があり,一瞬誤植かと思いました。『糞毒』とは初めて聞く言葉です。どうやら,足尾の町は,急速な鉱山開発で屎尿処理が追い付かず,深刻な屎尿問題が発生していたようです。以下,史料性もあるので全文を引用しておきましょう。
鉱毒乎糞毒乎
渡良瀬川に鮎棲まず 足尾銅山の垂れ流し
上野の渡良瀬川は源を野州庚申山に発し,足尾銅山を廻りて桐生足利の間を経て利根へ落ちるものにして, この川の鮎を最も同地方の名物とせしが,近年は漸々に減じて本年などは殆ど1尾もなしと云ふまでに至り,其原因を何ぞと探求するに,足尾銅山ますます開けて,銅気水流に混ずるより此の結果を来せしならんと云ふ,又目下足尾銅山に出入りするもの1萬5千の多きに及び,此の糞尿の捨道なきより,自然此の流水の水を濁せば,桐生,足利辺の染物晒物に異変を生じる事もあらんと同地人民は心配して居るといふ。(旧字改)
古川市兵衛が足尾銅山を買収し,経営に乗り出したのが,明治10年です。その時の銅山の直轄総人員は215名でした。新開記事にある,明治20年では6,781名。明治23年には,実に18,535名に膨れあがっています。直轄総人員としての数字ですから,その家族や銅山に関連する人々を含めるとその実数ははるかに多いものであったでしょう。当然,排泄される屎尿の量は膨大なものとなり,もはや近郊の農村での肥料としての消費量を遥かに越えるものとなったに違いありません。溢れかえる屎尿が河川に投棄されたのは想像に難くありません。足尾町では,昭和31年に平石平に処理場を建設しました。しかし,その処理能力が低く,町全体の4割程度しか処理されていなかったようです。昭和36年には,バキュームカーが導入され屎尿の回収は進んだものの,やはり処分が追いつかず,バキュームカーの屎尿を庚申川や松木川,渡良瀬川本流への投棄が行われていたそうです。昭和40年に新処理場が完成し抜本的な改善が行われました。しかし,すでに時代は移り,昭和48年には銅山の採掘を中止し,足尾銅山は閉山となりました。
5 あらたな疑問
他の地域に例を見ないほど激烈に都市化していった足尾と屎尿との戦いはいかなるものであったのでしょうか?大規模な浄水施設は屎尿の処理には転用されなかったのでしょうか?新たな,ふたつの疑問が私には残りました。さすがに,次回は「銅山発見500年」の記念の年には行けそうにありません。ならば残念だがしかたがありません。折りをみて今一度,訪れてみたいと思います。足尾は良いところでした。
本講話は,NPO法人日本下水文化研究会会報『ふくりゅう 通巻66号』(平成22年11月12日発行)に掲載した『銅山発見400年の事』に加筆・修正を加え,再構成したものです。