読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
昭和10年代の東京における屎尿処分の実態
△講話者 地田 修一 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1.はじめに
ここに「ふん尿終末処理実績」と題する表があります。東京市保健局清掃課がまとめた昭和12〜18年のデータです。一日当たりのふん尿の取扱い量が石単位で示されています。処理の種類として,農村還元,農村汲取,海洋投棄,綾瀬,其の他,下水道,三河島の項目に分別されています。
この表を読み解く形で,昭和10年代の東京市の屎尿処分の実態を各種資料(日本下水文化研究会屎尿・下水研究分科会が関与したもの)の引用により具体化してみることにします。
表−1ふん屎終末処理実績(自昭和12年〜至昭和18年)
2.汲取った屎尿の行方
表−1は,尺貫法の容量の単位である「石」で表示されています。1石は約0.18キロリットルです。1キロリットルは1m3ですので,1石は約0.18m3に当たります。当時は船の積載量も石単位で示していましたので,ここでは石単位のままで議論していきます。
東京市内(当時の35区,現在の23区内)の一日当たりの汲取り屎尿量は,昭和12〜18年の間では29,000〜39,000石で推移しています。
「農村還元」(東京市直営あるいは汲取り業者が汲取ったもの)あるいは「農村汲取」(農家自身が出向いて汲取ったもの)により肥料として農地へ散布されていた屎尿の割合は,12年が77%,13年が59%,14年が57%,15年が54%,16年が44%,17年が53%,18年が53%となっています。
一方,「大型船」あるいは「小型の伝馬船」により海洋投棄されていた屎尿量の全体に占める割合は,昭和12年が16%,13年が34%,14年が39%,15年が41%,16年が48%,17年が38%,18年が40%です。12年こそ10%台ですが,以後おおよそ40%前後を占めています。
「綾瀬」とは清掃課綾瀬作業所のことで,昭和8年に稼動した屎尿処理施設(処理能力:180kl=1,000石)を指しています。汲取られた屎尿を船で綾瀬作業所まで運び,ここで川の水で希釈した屎尿をまず嫌気性消化処理し,その上澄み水を川の水で希釈した後活性汚泥処理していました。当時としては,先駆的な屎尿処理法です。その量は463〜1,041石で,全体に占める割合は1.2〜3.5%です。
このほかに,下水道管への直接投入あるいは三河島汚水処分場への投入も,昭和18年にわずかながらですが記録(それぞれ0.9%,1.6%)されています。
「其の他」という項目がありますが,具体的にそれが何であるか不明です。全体に占める割合が1.5〜6.1%ですので,無視できない量です。陸上投棄とか河川への投入などが考えられますが,確証はありません。
以上をおおまかに整理して言えば,汲取り屎尿の行く先は農地還元が5割,海洋投棄が4割,そして1割弱が屎尿処理施設や下水道施設に投入・処理されていたことになります。
これらの汲取り屎尿のほかに,「三河島汚水処分場」に加えて「芝浦汚水処分場」と「砂町汚水処分場」とがすでに稼動していましたので,水洗トイレを介してこの三つの汚水処分場に流入する屎尿があります。当時の下水道普及率は10%ですので,その量は一日当たり3,200〜4,300石程度と推算されます。
この表には示されていない太平洋戦争末期の昭和19,20年は,物資が戦時統制され,機材,燃料,労力の欠乏・不足により屎尿の汲取り・運搬・海洋投棄などが滞り,いわゆる屎尿滞留が都市問題となりました。この打開策として登場したのが,19年から開始された貨車によって屎尿を農村へ還元する鉄道輸送です。
3.屎尿をめぐる法体系
明治33年に,伝染病の発生を予防するためには先ず生活環境を保持する必要があるとの考えから,汚物掃除法と下水道法が公布されました。屎尿は汚物として扱われ,汚物の掃除は市民の義務とされ,その後の処分のみが市の義務とされていました。ところが屎尿については,当時は農地への還元が盛んに行われ屎尿が有価物として扱われていましたので,屎尿の処分についても掃除義務者である市民に委ね民々の契約に任せ,市当局は関知しませんでした。当時の下水道は低湿地等の雨水や生活雑排水を排除するための管渠施設に過ぎなかったからです。
ところが,肥料としての屎尿の利用が大幅に減ってきたことを受け,昭和5年に汚物掃除法の一部改正が行われ,屎尿の処理処分は市の義務になりました。東京市はすでに大正9年から一部地域について料金をとって直営で汲取ってきていましたが,昭和11年からは東京市内の全域で直営事業として屎尿を汲取ることになりました【「ごみの文化・屎尿の文化」(P71,72)】。
4.屎尿の農村還元
屎尿は長らく「捨てるもの」でしたが,鎌倉時代末期から徐々に樽や壷に溜める「汲取りトイレ」に移行していきました。肥料価値のある屎尿を確保するという見地からです。そして江戸時代になると,農村での屎尿の利用が全国的に定着しました。屎尿と作物を媒介とした都市と農村を結ぶ「リサイクルの論」ができあがったのです。屎尿を撒けば作物が良くとれるので,農家はお金(あるいは作物)を払ってでも手に入れたかったということで,やがて,屎尿を汲取って農家に売る業者が生まれてきました。屎尿は廃棄物ではなく,値段がついて取引きされる「有価物」とならたのです
【「怪 28号」(P70)】。
作家の徳富?花は東京の世田谷がまだ農村であった頃,ここに転居しました。そこで趣味的な農作業を行っていましたが,その頃(明治末から昭和初期)の身辺雑記として執筆したのが「みみずのたはこと」です。その中にこんな一節があります。『この辺りの若者は皆東京行をする。この辺りの「東京行」は,直ちに「不浄取り」を意味する。… 荷馬車もあるが,九分九厘までは手車である。… 弱い者でも桶の四つは曳く。少し力がある者は六つ,甚だしいのは七つも八つも曳く。一桶の重量十六貫とすれば,六桶も曳けば百貰からの重荷だ。… 股引草履,夏は経木真田の軽い帽,冬は釜底の帽を阿弥陀にかぶり,焦茶毛糸の襟巻,中には樺色のあらい毛糸の手袋をして,雨天には蓑笠姿で,車の心棒に油を入れた竹筒をぶるさげ,空の肥桶の上に,馬鈴薯,甘藷の二籠三籠,焚付粗朶の五把六束,季節によっては菖蒲や南天小菊の束なぞ上積にした車が,甲州街道を朝々幾百台となく東京へ向うて行く』【「トイレ考・屎尿考」(P131.132)】。
ところが大正時代に入り,急速な都市への人口集中による都市部の拡大と化学肥料の普及とがあいまって,屎尿の農地への還元は,屎尿の運搬や消費量の面から,近郊農村でその全部をまかなえる状況ではなくなってきました【「怪 28号」(P71)】。
「大正7年は清掃業界の一大転機である。この時こそ永く記録に残すべき年である」と,「清掃事業300年・江戸から東京へ」に記述されています。それまで,農民あるいは汲取り業者は屎尿を汲取る際に代金を支払っていたのですが,大正7年から逆に市民各戸から屎尿の汲取り料金を貰うようになったことを指しています。江戸時代以来の屎尿の買取り制度に終止符が打たれたのです【「ごみの文化・屎尿の文化」(P71,72)】。
写真−1 屎尿の施肥
5.屎尿の海洋投棄
屎尿の海洋投棄は,昭和7年頃からやむをえない処置として始められていたとの伝聞があります。当局が雇上げた伝馬船による小規模なもので,品川沖やお台場沖に投棄していたようです。東京市保健局清掃課の記録に表れるのは昭和12年からです。直営の屎尿投棄船「むさしの丸」(積載量1,800石)が昭和10年12月に建造され,12年1月には投棄海域(剣崎より南南西8.5海里,州崎より西北西5海里3/4の片道3.98海里の東京湾入口の海域)も定められました。さらに,13年1月には2隻目の屎尿投棄船「優清丸」(積載量3,200石)が建造されています。この頃は,これらの直営船の他に多数の伝馬船が屎尿投棄に参加しています(たぶん,投棄していた海域は大型船より近い所だったのではないでしょうか)。こうして,屎尿を海洋に投棄するという手段で,増加していく屎尿汲取り量に対応していたのです。
昭和19年以降は,大型の屎尿投棄船が軍へ徴発されたことなどもあって直営船による海洋投棄は一時中止されました(再開されたのは戦後しばらくたった昭和25年になってからである)が,終戦までは街に溢れた屎尿を処分するための応急措置として,雇い上げた船により羽田沖灯台と千葉県検見川を結ぶ線以南への小規模な投棄は続けられていました【「トイレ考・屎尿考」(P38〜40)】。
写真−2 綾瀬川を航行する下肥運搬船
図−1清掃課綾瀬作業所
6.綾瀬作業所
屎尿処理施設は日本独特のものですが,東京では昭和8年から,現在の葛飾区綾瀬に綾瀬作業所として運転を開始しています。処理能力は1,000石/日でした。しかし残念ながら,19年以降は運転が停止されてしまったようです。この施設は30年代にもまだそのままの状態で残っていましたが,廃墟のようであったそうです。
設計,施工は西原衛生工業所です。屎尿を川の水で希釈し,嫌気性分解してから曝気槽に入れて好気性処理していました。嫌気性消化槽では10倍に,曝気槽(散気式)では50倍に,それぞれ川の水で希釈してから微生物処理にかけていました。
屎尿を嫌気性処理する過程で発生したメタンガスは,消化槽の加温や余剰汚泥を乾燥するときの熱源として使っていましたし,さらに,乾燥した余剰汚泥は堆肥化して肥料として有効利用していました【「トイレ考・屎尿考」(P174〜178)】。
7.下水道菅や三河島汚水処分場への屎尿の投入
明治40年に「東京市下水設計調査報告書」を提出した中島鋭治東京帝国大学教授は,下水道への屎尿の流入について,次のように言っています。『屎尿を下水道に流入させることは外国では慣例となっているが,わが国では重要な肥料であり,下水に排出させる習慣はない。しかし,時勢の推移にともない,近年は水洗便所を設置するところが増加する傾向にある。屎尿を下水道に収容しても,水質的に欧米の実例からも大差がないので,本計画においては収容してもよいものとする』
この報告書に基づき実施計画が練られ,待望のわが国初の下水の終末処理施設である三河島汚水処分場が完成したのは,大正11年3月のことです。これを朝日新聞は「市が長年悩まされた問題もようやく解決」との見出しをつけて報じています。『明治44年度より500万円の予算で着手していた第一期工事のうち浅草区全部,外神田,下谷の一部が,いよいよ今年度中に竣工の運びとなった。建設中の三河島汚水処分場も工事が完成し,先日運転を行ったが結果は良好である。これで下水処分問題も一部解決。沈殿させた後に,バクテリアによる処理(散水濾床法)を行うものである。屎尿も自動車で運搬し,処理施設に投入している。沈殿物が1日に20m3溜まるが,これは汽船で品川沖へ投棄しているJ【「荒川下流誌」(P954, 956)】。
写真−3 散水濾床法施設
写真一4 活性汚泥法(パドル式)施設
この新聞記事にあるように,三河島汚水処分場の稼動当初の大正11年時点ですでに,汲取り屎尿の一部は肥桶を積んだトラックにより「三河島(汚水処分場)」に運ばれ,処理施設に投入されていたのです。さらに,冒頭の表に掲げられているように,下水道管に直接投入される場合もありました。
8.屎尿の積替え所
戦争中,南千住取扱所に勤めていました。ここは,汲取り屎尿を入れた肥桶をリヤカーで伝馬船まで運び,その伝馬船で屎尿を農村に配る仕事をするところです。実務は荒川区のある会社が人材,機材すべてを請負い行っていました。
昭和19年当時の状況は次のとおりでした。『現在の荒川区南千住4丁目の隅田川の常磐線の鉄橋の側にありました。ここは,汲取ってきた屎尿を肥桶から肥船へ積み替える所です。肥船は高瀬船とも平水船とも呼ばれていた底が平らな船でした。現在のダルマ船よりもはるかに小さいものです。この頃は,エンジン付きの引き船が肥船を3隻ぐらい繋いで曳航していました。ここでの作業は,まず,汲取り屎尿の入った肥桶をリヤカーに10〜12個積んで,肥船への投入場所まで運んでいきます。そこには水槽があって,木製の樋が肥船に向かって設置されていました。肥桶を持ち上げて屎尿をこの水槽に入れると,樋を通って肥船に流れ込む仕掛けになっていました』【「トイレ考・屎尿考」(P33,34)】。
9. 屎尿の貨車輸送
昭和19年2月から西武鉄道(現在の西武新宿線)は,屎尿を郊外まで運搬し農地に還元する事業を実施するようになりました。屎尿輸送用のタンク車を115輌新造し,数十箇所に糞尿貯留所を設置し,1日2万石程度を輸送するというものです。当時の35区から排出される屎尿は1日当たり3万8,000石なので,これで東京の屎尿処分問題はほぼ解決に向かいました。この事業は戦後も継続され,昭和28年3月まで行われました。西武鉄道に続いて,さらに東武鉄道でも同様の事業を行うようになりました【「トイレ考・屎尿考」(P36,37)】。
東武鉄道における昭和21年頃の屎尿の貨車輸送の状況は,次のとおりでした。『東武伊勢崎線牛田駅の近くに引込み線をつくり,ここに屎尿の中継所を設け,木槽貨車に積み替え中千住駅まで人力で移動させ,貨物列車に連結しました。屎尿の貨車輸送は夜間でした。貨車は特注で,大沢(現・北越谷),武里,杉戸に貯留槽をつくり,積み降しをしました。後に,竹の塚,川間(野田線)に東京都の係りの人がいて,農協で集配や割当てをしていました。需要が多く,農家は少量を年に1回か2回しか受け取れないほど,当時は,屎尿が本当に貴重でした。』【「トイレ考・屎尿考」(P35,36)】。
10.おわりに
こんな資料もありました。それは,『昭和18年になると,戦局は急迫し,生活物資は欠乏した。7月,東京市は都制を引き,初代の大達茂雄都長官は,食糧増産,防衛,屎尿処理の3つを都政の目標にした。特に屎尿処理には力を注いだが,明けても暮れても屎尿の苦情を受けていたという。屎尿を庭に埋められるのは良い方で,夜陰に乗じて目黒川や神田川に捨てたり,側溝に流す者もいたという』【「トイレ考・屎尿考」(P36)】です。
生理的に一刻の猶予も許されない「屎尿の処分問題」は,昔も今も,災害などでいつなんどき私たちに降りかかってくるかもしれない,避けて通れない切実な課題なのです。
参考文献
1)「トイレ考・屎尿孝」:日本下水文化研究会,技報堂出版
2)「ごみの文化・屎尿の文化」:ごみの文化・屎尿の文化編集委員会,技報堂出版
3)「怪 28号」:角川書店
4)「荒川下流誌」:リバーフロント整備センター
※日本下水文化研究会会員