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水琴窟を訪ねて

△講話者 中村 隆一 *

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

はじめに

 近年,水琴窟が奏でる「ピチャピチャ,コロコロ,ピチャーン」という澄み切った幽玄な音色が癒しの時代に適合するのでしょうか。TVや新聞などのマスコミが取り上げ,ちょっとした水琴窟ブームになっています。しかし,実を言いますと,30年前には広辞苑をはじめとしてどの百科辞典にも「水琴窟」の記載はありませんでした。江戸時代の初期に考案され,昭和の初めまで継続していたにもかかわらず,戦中・戦後,しばらくは忘れ去られていたのです。

写真1 品川歴史館(旧安田邸)の水琴窟

 一般の人々に水琴窟の存在が広く紹介されたのは,昭和58年に朝日新聞の東京版に「水の音色,江戸の風雅,旧吉田記念館」という記事が掲載されたのが最初でしょう。旧吉田記念館は旧安田財閥・安田善次郎の甥・善助氏によって昭和2年に建てられたものですが,その後人手(吉田氏)を経て,品川区がこの家を買い取って歴史館を造りました。この旧吉田邸には立派な日本庭園がありました。そして,かつてこの家を訪れたことのある人の口から,たしか「水琴窟」という風変わりな仕掛けがあったという話が出て,庭を調べてみることになったのです。これが水琴窟の発掘・復元の始まりであると言われています。
 昭和初期までは,水琴窟を自邸に設置する風雅の趣向が残っていたようです。
 筆者は今までに,水琴窟ブームの発端となった「品川歴史館(旧安田邸)」や「旧今井家」をはじめ,「木曽古文書歴史館」,「大橋家苔涼庭」,「深田邸」などの多くの水琴窟を直接訪ね,その由来を聞き,その音色を自分の耳で確かめ,その都度探訪記として纏めてきました。

写真2 水琴窟に水を注ぐ(旧今井家)
写真3 木曽古文書歴史館の水琴窟

 紙幅の制限もありますので,ここでは水琴窟の由来,日本人独特の音感覚との関連,ならびに新しく造られたものではありますが印象に強く残っている浅川水再生センター(東京都日野市)の水琴窟に絞って述べることにします。

水琴窟の由来と復元・新設

 なぜ,これまで水琴窟が一般に知られることがなかったのでしょうか。それは歴史的に,有名な大きな庭園や中世以来の名園,神社仏閣などには造られておらず,所謂文化財の範疇にも入っていないことによるのではないでしょうか。

写真4 苔涼庭の水琴窟(縁先手水鉢)

 江戸時代の初期から中期にかけて,江戸の庭師が豪商の庭を造っていく中で,粋を凝らし,贅を尽くす−目立たない所に贅を凝らす−ことを自慢しあっていた金持ちの商人たちには,「水琴窟は格好な対象」であったと思われます。
 これは,武家社会とは異なる,江戸の町人文化がもたらした遊び心,私的な密やかな楽しみの世界なのではないでしょうか。だから,公式な文献も図面も残っていないのです。
 水琴窟はどのようなきっかけで,生み出されたのでしょうか。「洞水門」と云われるものがその原型だと考えられています。もっとも,この洞水門と呼ばれる名前の由来は判っていません。中国から伝来した禅宗あるいは密教思想から生まれたのではないかと考える人もいますが.根拠は希薄です。どうも宗教的なものとは無縁なのではないでしょうか。
 成立の経緯を推測すれば,雪隠などから出てきて,縁先の手水鉢で手を清めます。ところが縁先であり,茶室の側でもある場合,水をただ捨てたままの状態にしておくのは具合が悪い。そのため,排水機能としての洞水門が考えられたのではないでしょうか。

図−1 水琴窟のしかけ

 構造は,瓶を逆さにして土中に埋め,上部に穴を開け,その穴から水が流れ込み,土に染み込みます。この土に染み込ませる機能だけのために造られていたのが,ある時,音が出ている事に気が付き,それが粋,わび,さびといった風雅の境地に進んでいったものと思われます。特に茶会とか句会のような大勢の人々が集まるような時には,手水から水が沢山流されるので,排水設備が必要になってきたのでしょう。とすれば,これは下水道の一種であると考えられます。

写真5 泉岳寺の壷中琴

 歴史的な文献には記録を一切留めていない水琴窟ですが,現在,全国に200余箇所あります。都道府県別では愛知県が最も多く,次いで岐阜県,東京都,京都府の順になっています。そのうち江戸時代に造られたものは,わずか16箇所です。
 近年,新聞,TVなどに取り上げられるようになってから,新設,復元共に急増する一方で,創作水琴窟とか室内水琴窟あるいはそれを発展させた壷中琴といわれるタイプも出現しています。さらに尺八と合奏する移動式水琴窟,それを楽器のように操作する水琴窟師といった新しいヴァリエイションの世界も展開し始めています。

小堀遠州創案の洞水門

 水琴窟の原型といわれるものを小堀遠州が十八歳の時に創案したということが,遠州の門弟である村田一斎の門人・桜山一有が書き残した記録に載っています。それは,
「水門は昔四方に瓦を敷き 内に水濁りて悪し きものなるに 遠州十八歳の時洞水門深く掘り中に簀子を当て上に石を敷き 扨水門石を並べ縁も練土にて固め 松葉を撒きたり 古織見て此年迄かようの水門を見ず 遠州は名人に成るべき人也とて感心申されたりと也 洞水門 摺鉢水門は遠州より初りし事也」(一有筆記)
です。
 文中,古織とあるのは,戦国時代の生き残りの武将で,桃山時代,千利休亡き後,天下一茶の湯宗匠として,秀吉,家康に認められ,名を残した古田織部のことですが,小堀遠州はその織部を師とし,江戸幕府の官僚の一員として将軍家から厚い信頼を受け,力を発揮した人です。十五歳の時に織部の元へ入門し茶の湯を学んだと言われています。前記の文章には,
「慶長元年,遠州十八歳の時,伏見屋敷内に洞水門を工夫し,織部を招いて見せたところ『この年までこのような水門を見たことがない。遠州は名人になるだろう』と感心された。洞水門,摺鉢水門は遠州の創案である」
と記されています。

図−2 洞水門

 その当時の蹲踞の下は水吐けが非常に悪く,蹲踞を使うと水が溜まり,泥を跳ねてしまうので,なんとか水が流れるようにしようと考えた遠州は,下に瓶を埋め,そこに水を落すということを考え付いたのです。この排水設備こそが洞水門であり,水琴窟の原型ということになります。
 しかし,この時,遠州は音を鳴らすつもりで洞水門を造ったかどうかは定かではありません。本当の目的は,あくまでも,お客のことを考えて蹲踞の周りが水浸しになり,泥濘になるのを避けるため,必要に迫られて考え付いた排水の方式だったのではないでしょうか。そうしたら,音がした。しかもそれがなかなかいい音だったということではないでしょうか。
 小堀遠州の子孫は,遠州茶道宗家として,この洞水門の秘伝を代々伝えてきたことが,第十二世小堀宗慶氏の著作で明らかになっています。それによりますと,
「私も若い時,父よりこの洞水門の秘伝を教わり,庭師にも指導し今も受け継いでいます。この洞水門は瓶の底に小さな穴を開け,そこに管のようなものを通し,上から流れる水が瓶に溜まった水に落ちると,音が瓶の内部に反響して大変良い音を発する仕掛けです。そこで,常に良い響きを保つための工夫として,水位の配慮を常に施してあります。水が溜まり水位が上ると空間がどんどん狭くなり,いい音響効果は期待できません。そこで,瓶の横に管を通し,蹲踞を使う人が続いてもそれ以上に水位が上らないよう,さらに排水を考えたわけです。このような仕掛けを,小堀家では「洞水門」という名で伝えられてきましたが,近年これに水琴窟という名が付いていると知り,誰が付けたかわかりませんが,まさに音に合ったいい名称だと感じました」
とあります。
 洞水門はこの記録にあるように,小堀家(遠州流)の伝承の中に明確に位置付けられていますが,水琴窟という呼称がいつ頃からそう呼ばれるようになったのかについては,全くわかりません。

日本人の音感覚が生み出した水琴窟

 水琴窟を生み出した日本人は,同じ東洋といっても中国や朝鮮の人たちとも違う独特の音感覚を持っているようです。よく言われることですが,日本人は外国から渡来した文化を巧みに取り入れて,日本独特の文化を作り上げてきました。しかし,現代のようなグローバリゼーションの中では,日本文化はひ弱すぎるとか,時代遅れとか……。その議論はともかくとして,音に関しても,あるいは響きといった方が適切かもしれませんが,日本人は古来,音色,音そのものを楽しむという独特の感性を持っています。虫の声とか松風といった自然界の音を愛でるという習慣があります。このことは,ヨーロッパ人はもちろんアジア,東洋人にもない習性だそうです。
 虫の声は,日本人以外の民族には単なる雑音でしかないそうです。二つ以上の音の関係,これを音程と言いますが,つまり音楽でなければ彼らは楽しめないといわれます。そこへいくと,日本人は単音でも音色に反応しますし,雑音,騒音的なもの,例えば吹いた時にすぐにメロディにならないで風のような音がする尺八上か三味線の「サワリ」といわれる仕掛け(これは原型である中国の三弦や琉球のものにはありません)が発する響きを好む独特で繊細な感覚があると言われます。このことが,逆に日本からは有機的な構造物であるクラシック音楽の世界で,大傑作を創り出せない要因になっているのかもしれません。
 とはいえ,西洋音楽が明治の初めに入ってきて,既に百年以上も経っています。音楽教育は完全に定着していますし,クラシックといわずジャズやロックなども巷に溢れています。クラシック愛好家の筆者は,バッハ,モーツァルト,ベートーヴェン,ヴァーグナ一,マーラー,ドビュシーの作品を好みますし,北欧の小国エストニアの現代作曲家・アルヴォ・ペルトにも強く心を動かされます。それでも個々の響きに魅了されてしまう嗜好は強 烈に持っていて,濡れたような弦の音色とか煌めくピアノの高音,地響きのような重低音にしびれています。
 日本には音楽よりも音響そのものを楽しみ,再生機器に凝るオーディオマニアが欧米以上に多いと聞きます。音,響きそのものが嗜好の対象になっているのです。響きへのこだわりという日本人独特な音の受容の仕方,或いは感性といいますか,それが水琴窟を生み出した源泉ではないでしょうか。  水琴窟という名称からはなにか奥深い,地底から湧き出てくるようなものを想像させますし,古代からの呪詛的なものを引き摺っているように考える人もいるようです。しかし,この水琴窟という呼び名は,いつの時代に,誰が言い出したのかさえ定かではありません。小堀遠州の創案した洞水門が,いつ頃から水琴窟と呼ばれるようになったのでしょうか。恐らく明治以降だと推測されます。まだ,騒音の少ない静かな環境の時代にです。
 水琴窟の音は,か細くはかない,高く軽めの乾いた音が,伏せられた瓶の内側で共鳴して,水門から甲高い響きになって出てくるわけです。それは外界の様々な音に比較すれば,あまりに小さい音です。「水琴(窟)」とは,正鵠を得た名称といえるのではないでしょうか。しかし,この澄んだ音は,他に音を発する物がなかった時代には,存在をアピール出来ましたが,明治以降,押し寄せてきた西欧文明の道具の数々が発する様々な音が次第に大きくなってくるにつれ,そのあえかなはかない音はだんだん隠れた存在になってしまったようです。
 水琴窟から出てくる音をコントロール(調整)して出したというケースはありませんでした。伏せた瓶の中に溜った水面に衝突した水(水滴か流水)が発する音。とりとめのないというか,予測不可能な余韻に満ちた音こそが,水琴窟の妙味なのです。
 その音を録音してエンドレステープで再生するというのは,一定の周期をもって同じ音形が繰り返されるわけでしてリズムの強制であり,これは意志的かつ機械的で人間が介在していて,水琴窟のもつ開放された自然音とは程遠いものになってしまいます。

甦った浅川処理場の水琴窟の音色

 音のことで言いますと,以前,東京都下水道局浅川処理場(現・水再生センター)の水琴窟について音の点でかなり難点があると指摘しました。あの時は前日に大雨が降るなど条件も悪かったのですが,水琴窟そのものも構造的に問題があったようですし,体裁が周囲のビオトープ(様々な生物との共生空間)に気兼ねしたのか中途半端なものになっていました。

写真6 浅川処理場の当初の水琴窟

 そんなことを指摘して少し気になっていた頃,浅川処理場の方から電話を頂きました。「水琴窟を造り変えました。音もよくなりましたので,是非もう一度おいでください」とのことでした。なかなか機会がなく,声をかけて頂いてから半年ほど経ってお邪魔しました。JR立川駅から多摩都市モノレールに乗って最寄の駅で降り,管理棟へ行く前に以前と同じように地域のコミュニティ・スペースとして開放されているオープンガーデンから入って行きました。水処理棟を左手に見て,下水汚泥から造った「メトロレンガ」が敷き詰められた小径を進んでいくと,ビオトープが見えてきました。以前に来た時はここに水琴窟があったのですが,見当たりません。
 水辺は芝生と水草で覆われ,水琴窟は見当たりません。水辺では,近くの小学生が網で水中を引っ掻き回して魚や水生動物を捕っていました。
 後で聞いた話ですが,水琴窟を造り直したのは,この場所へ入ってきた子供達が水琴窟に興味(?)を持って,いじり回した結果,開口部から砂利や石ころを入れて土中の瓶の中をいっぱいにして壊してしまったからだそうです。

写真7 造り直された浅川処理場  (水再生センター)の水琴窟

 水琴窟は移転していました。というよりも,別な場所に新しく造られていたのです。そのビオトープ空間の先は,一転して日本庭園になっていました。以前に来た時のこの部分は,次の「みなみ堀遊歩道」への繋ぎの空間でしかありませんでしたが,今回訪れて驚いたのは,そこまでの自然空間とは隔絶された日本庭園が出現していました。ビオトープとは柳の木で遮られ,そこからは長方形の敷石が続き,やがて丸みのある飛石になっています。盛り土されて少し傾斜した飛石道を上っていくと手水鉢(蹲踞)があり,玉石を囲んで投石,竹製の鑓水(筧)が配置され,そのうしろに景石がズシリと置かれています。さらに細く真っ直ぐに伸びた四,五本の北山杉が全体の景観を引き締めています。これこそ典型的な日本庭園の水琴窟です。
 処理場の方によると,水琴窟が壊されて修復するに当たって,最初の欠点を洗い出し,徹底的に検討したそうです。音が響かないことや瓶の中の水位が変動することなど…。そして,決定的に違ったのは新たに施工を担当したのが,処理場の植栽を受持っている造園業者で,その会社の社長さんは庭師さんで,「若い頃に水琴窟を造る手伝いをしていたことがある」と言っていたそうです。社長さんの入れ込み様は大変なもので,まず自宅の庭にそっくり同じ水琴窟を造り,良い音がするのを確かめてから,自ら指示をして浅川処理場に水琴窟を設置したそうです。
 碓かに,以前のものの音とは雲泥の相違で,余韻を伴った良い音で鳴っていました。この水琴窟の音をデジタルで収録した30種類ほどのサンプルをCD−Rにコピーしたものをお借りして聴きましたが,同じ音のするものは全くありませんでした。水琴窟の音は,自然が件り出す「自然音」なのです。

おわりに

 水琴窟を巡り訪ね,記録に留める作業を開始してから既に9年を経過し,その間にも新しい水琴窟が次々に造られており,筆者の推定では全国に一千箇所以上はあるのではないかと思われます。その中に凛とした気品(音色と形状)を持った水琴窟がどれだけあるのか,これからもこの探訪は続きそうです。

(本文は,平成21年12月10日にTOTO梶E東京センターショウルーム・プレゼンテーションルームで行われた屎尿・下水研究会例会での講話をもとに再構成したものです。)

※日本下水文化研究会会員