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トイレットペーパーの歴史

△講話者 関野 勉 *

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

はじめに

 哺乳類で尻を拭くという始末をしているのは人間のみです。四足歩行の動物では,口と肛門とが地上に対して平行で重力の影響が少ないので脱肛排便になっています。人間は二足歩行の立位になると,口と肛門とが垂直になり重力が掛かり肛門の筋肉を締めておかないと大変なことになり,動物のように脱肛排便ができないので,尻始末が必要になったのではないかと考えられます。

尻始末用具のいろいろ

 「トイレットペーパーの文化誌」(西岡秀雄著,1987年,論創社刊)は,尻を拭く用具として,次のようなものを挙げています。
 @指と水 インド・インドネシア A指と砂 サウジアラビア B小石 エジプト C土板 パキスタン D葉っぱ ソビエト E茎 日 本・韓国Fとうもろこしの毛・芯 アメリカ Gロープ 中国・アフリカ H木片・竹べら 中国 I樹皮 ネパール J海綿 地中海諸島 I布切れ ブータン I海藻 日本 M紙 各国 この他に,雪(北欧)や苔(ノルウェー)や棒切れ(ボルネオ)なども知られています。。
 そして,西岡先生は先ほどの著書の中で「尻を拭く用具として紙を使っている人口は,世界総人口の3分の1に達していない」と述べていますが,私は,現在では世界全体でトイレットペーパーを2600万tも生産していて,世界人口の6億人で割ると1人当たり4kgとなりますが,場所によっては紙を尻始末に用いていない所もあり,世界の2分の1の人たちが使用しているものと考えています。

尻始末用具の色々


アメリカ・コーンベト地帯のオモチャ
  とうもろこし芯のオモチャ

 また,上記のもの以外にも尻始末用具はあると思われますが,水洗トイレの普及もあり,持ち運びが一番楽で安いことなどから世界中に広まっていったものと考えられます。

紙の歴史とトイレットペーパー

 紙は中国で紀元前にすでに発明されており,それは今から2150年も前のことです。その記録は後漢書(蔡倫が105年に紙に文字を書けるように改良)にあります。そしてわが国では,「日本書記」に高麗の僧・曇徴が610年に伝えたとありますが,実際には4〜5世紀頃には伝わっていたと考えられています。
 中国で発明された紙は,シルクロードを西漸して,カイロに900年,モロッコに1100年,スペインに1151年,ドイツ,イギリス,オランダとヨーロッパに広まったのは,我が国より遅れること約1000年でした。
 紙が無かったヨーロッパでは,書写材は「パピルス」や「羊皮紙」が主流でした。紙が伝わったことにより,イスラム圏で華開いた文化がやがて「紙」を通じて,キリスト教圏に伝達されていきました。
 紙には,書写,包む,拭く,加工などの用途がありますが,紙がトイレットペーパーとして使用された可能性を示す記録は,6世紀・中国の「顔氏家訓」の治家編に,
 「我聖人の書読む毎に未だ嘗って粛敬してこれ に対せずんばあらず。その故紙に五経詞義及び 賢達の姓名有らば,敢えて穢用せざるなり」
                (宇野精一訳)
 とあります。ここに出てくる「穢用」の意味ですが,鼻紙と訳されていますが,尻始末にも使用された可能性があります。これが紙をトイレットペーパーとして使用した記録の世界で一番古いものと思われます。
 我が国では,12世紀の絵巻「餓鬼草紙」に,土塀の前で排便をしている「伺便餓鬼」の場面に,籌木(ちゅうき)(糞べら)と紙が散らばっているのが描かれており,この絵巻には詞書がないので推測するしかないのですが,この頃には,すでに上流階級の人々は紙を尻始末に使用していた可能性があります。

「餓鬼草紙」国宝,絵巻の食糧餓鬼「伺便餓鬼」

 また,日記「長秋記」の1119年10月21日の条に,「… 其東間為御樋殿有大壷紙置台等」
 とあります。ここで,御樋殿とは室内トイレのことで,大壷とはオマルのことです。大壷紙はトイレットペーパーということになります。
 さらに,仏教書「正法眼蔵」(道元著,13世紀)の洗浄の条に,
 「痾後便籌,又ハ使紙」
 とあります。ここで,痾とはトイレのことです。「トイレの後は籌(糞べら)を使うか又は紙で」となりますが,いくらお寺でも紙が当時自由に使用できるのは,高僧ではないかと思われます。
 以上の記録から,中国では6世紀頃に,また,我が国では12〜13世紀頃に,すでに上流階級の人々が尻始末に紙を使用していたことは明らかです。「大壷紙」は手漉紙ですが,その紙質については分かりません。
 ヨーロッパでの尻始末の記録は,16世紀のフランソワ・ラブレーの「ガルガンチュワ物語」の「尻を拭く妙法を考えだしたガルガンチュワの優れた頭の働きをグラングゥジェが認めたこと」なる一章にある次の言葉です。
 「おしりを拭くのに最も具合のよい,おしりの拭き方を発明しましたよ。ガルガンチュワが自慢して,色々の道具を披瀝します。(中略)羊毛・紙でも拭いてみました」
 「かみなどできたなきしりをふくやつは,いつ もふぐりにかすをのこすなり」
          (渡辺一夫訳,岩波文庫)
 他に,ドイツの17世紀の「阿保物語」(望月市恵訳,岩波文庫)にトイレットペーパーなる言葉が出てまいりますが,いずれにしても16〜17世紀頃にヨーロッパで紙がようやく普及してきましたが,原料問題(当時は布ボロ切れが不足)が絡み,木材パルプが登場する前でしたので,紙は未だ庶民が贅沢に使用できる状態にはなかったと思われます。
 この頃,イギリスで水洗トイレの開発が進められていました。

トイレットロールの誕生

 19世紀迄のヨーロッパにおける紙の原料はボロ布でしたので,人口増に伴う紙の需要増に対応できず,社会問題化しました。
 1719年,フランスの科学者・レオミュールはスズメバチが木材から巣を作っているのを見て,木材から紙ができるであろうとの論文を提出しました。それから100年以上も経ってから,ドイツのケラーが1844年に木材をすりおろしてパルプを作る機械の特許を得て,紙が木材からできることを証明して材料革命となりました。

トイレットロールの基本特許と思われるセス・ウィラーの特許公報


19世紀〜20世紀のトイレットロールの1つ楕円形のロール

 当時の紙は手漉でした。中国,日本などは毛筆用ですが,ヨーロッパはペン書き用の用紙が主で少し厚めのものが多く,日本のように「厚・薄」の種類が沢山ある紙は少なく,今の家庭紙のような紙は無かったと思われます。さらに,手漉紙ですから数量に限りがありました。
 洋紙といわれる機械抄紙が生産されるようになったのは,フランスのルイ・ロベールが1798年に抄紙機を発明してからのことです。しかも当初の原料は古着でしたので,手漉に比して機械抄紙の場合は大量の原料が必要になり,原料である古着が不足し社会問題となりました。

1910年発行アメリカ文具問屋のカタログにあるトイレットロールの色々


19世紀のトイレットペーパーと20世紀始め頃のスコットロール

 その後,麦藁や麻などを利用して機械的製紙を行っているうちに,先ほど話しましたように,1844年に木材がパルプとして利用できることが分かり,それに加えて,製紙用の色々な薬品の発見とが相俟って紙の増産ができるようになってきました。
 機械抄紙が世界に広まることにより,色々な種類の紙の生産が行われるようになりました。ロール状のトイレットペーパーの基本特許というべきものは,1871年のアメリカのセス・ウェラーのものです。この特許はラッピング特許といって,他の用紙を包装する為にミシン目を入れた3倍程大きな用紙を用意し,トイレットロールのお化けのような紙をロール状にしておくという技術です。
 この技術は実際には1880年頃にイギリスとアメリカで企業化されます。イギリスはW.J.オルコック,アメリカはスコット兄弟です。どちらが早かったのか,詳しい生産日までは特定できません。  これ以前,アメリカでは1857年にジョセフ・ゲェティによって,ちり紙状の製品が発売されています。
 なお欧米では1世紀前には,トイレットペーパーの購入はたいへんに恥ずかしいことであったと,旧スコットペーパーのパンフレットに記されています。

日本におけるトイレットペーパー

 日本には「ちり紙」なる種類の紙が手漉紙の頃から各地で生産され,奈良,京などでは吉野紙などの薄紙がちり紙として上流階級には使用されていました。庶民は漉返し紙の代表である「浅草紙」などが各地で生産されて,色々な名称で生産・販売されてきました。

浅草銘の黒ちり


明治時代の「中央日報」の広告

 このような中で,明治32年5月1日の「中央日報」に芙蓉舎の「化粧紙」の広告の中に「目下欧米各国に流行するトイレットペーパー」なる文言がみえます。これが,我が国で「トイレットペーパー」という言葉が初めて広告に出稿されたものであると思われます。
 その後,明治43年旧新橋駅から下関駅迄の列車に乗車したときの見聞記に,列車の厠に支那製の紙を繋いで小巻にしてあったとの記録もあります。このトイレットロールが国産品なのか輸入品なのかまでは断定できる資料はありません(紙業雑誌所収)。
 このような中,日露戦争で活躍した「三笠艦」や東京駅前の三菱のレンガ街のビルや帝国ホテルなどでは,浄化槽を使用した水洗トイレも設置されつつありましたので,トイレットロールの需要もあった筈なのですが,これについての資料は見つかっていません。
 トイレットロールの国産化についての記録は,
 「大正13年(1924年),土佐紙会社・芸防工場で神戸の島村商会の注文で原紙を抄き,島村商会 が加工して外国航路の汽船に積んだ」
 とあります(芸防抄紙物語所収)。しかし,どんな機械で巻き,ミシン目を入れたのか,又カットなどの加工状況は分かりません。手漉紙から機械抄紙になり,幅の制約はあるものの,長さについては無制限となりロール状の製品が生産できるようになりました。問題は加工機械です。その加工機の資料は今のところ見つかっていません。
 その後,何社かが戦後まで生産していたという記録があります。生産記録は昭和17年からのものが残っています。
 戦前のトイレットロールの現物が,「新聞之新聞社」が1940年(昭和15年)に収集してタイムカプセルにして長野県茅野市に建てた「文化柱」の中に,「天狗」銘で入っているそうです。これは2040年に開庫される予定になっています。残念ながら,私は生きていられないでしょう。見ることは適わない筈です。もし見ることができたならば,どんな紙質なのかや他の事も含めて現状の物と比較してみて下さい。

昭和40年代の「京花紙」のラベル

 昭和36年以降,アメリカ・キンバリー・クラーク社とスコットペーパー社が相次いで日本の会社と合弁会社を設立して,ちり紙はトイレットロールに,京花紙はティッシュペーパーにと転換させられました。しかし,それらの合弁会社は特許や生産技術で勝ったものの,手漉和紙の風合いを生かした日本人のきめ細やかな加工技術に圧倒されて,日本では利益を上げることができず資本を撤退して,現在はブランド名のみが残っている状況にあります。

おわりに(後始(紙)末)

 紙は文化のバロメーターであるといわれた時代もありました。日本では現在,年間100万tほどのトイレットペーパーを生産しており,1人当たり年間8.04kgの使用量となっています。昭和48年(1973年)のオイルショックの時は,トイレットロールが19万t,ちり紙が29万tでした。これが逆転したのは昭和53年(1978年)になってからです。それまでは加工機が無かったのです。


(本文は,2008年11月17日,TOTO(株)・東京センターショールームのプレゼンテーションルームにおける,日本トイレ協会・第2回街角トイレアカデミーで行った講話を改題・加筆したものです。)

※家庭紙史研究家.日本トイレ協会理事,屎尿・下水研究会会員