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シリーズ ヨモヤモバナシ



三府五港の公衆便所(3)
   −長崎・函館(箱館)・新潟−

△講話者 松田 旭正 *

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

1 長崎の公衆便所・汚物処理

(1)違式註違条例(出典長崎県警察史上巻)  明治五年(1872)十一月八日,司法省は国民の日常生活に関する規律として,五十四条からなる「違式註違条例」を東京府にかぎって施行した。
 翌,六年七月十九日,「地方違式註違条例」(太政官布告第二五六号)を各府県に布告した。
 つづいて同七年一月,再び太政官から,地方違式註違条例は各地方適宜斟酌増減し地方長官の名をもって布達せしめるように,と達せられた。
 長崎県では明治七年九月警保課職制が定められ,県独自の条例は制定されていなかった。
 県条例として,明治八年十一月に正式に布達され,翌,九年一月一日から長崎市街にかぎり施行することとなった。
(2)長崎県違式註違条例(屎尿関係のみ掲載)
           (出典長崎県警察史上巻)
甲第三十四号
違式註違条例別冊之通来ル明治九年一月一日ヨリ県下長崎市街へ施行候此段区内無漏布達候事
 明治八年十一月二十日  長崎県令 宮川房之

 第二十二条 川堀下水等へ土芥瓦礫ヲ投棄シ流通ヲ妨ケタル者
 第三十条  道敷内ニ莱蔬豆類ヲ植或ハ汚物ヲ積ミ往来ヲ妨クル者
 第五十条  下掃除ノ者蓋ナキ糞桶ヲ以テ搬運スル者
 第五十五条 ○葱(こつ)ニ依リ人ニ汚穢物及ヒ石礫等ヲ拗澆(なげうつそそぐ)セシ者
 第七十一条 渡船ニテ不当ノ賃銭ヲ取リ或ハ等閑ニ行人ヲ待シメ用便ヲ妨クル者
*違式註違条例は,明治十三年(1880)制定の旧刑法中に違警罪として統合され,同十五年一月 一日から施行されたがその間めまぐるしい改廃 が行われた。

(3)違警罪処分手続(抜粋)
*長崎県では違式謹違条例違反の罪を「違警罪」と呼び明治十二年五月,その処分手続を次のように定めた。

回第百八十八号             警察課
違警罪犯処分手続別紙ノ通相定候条此旨相達候事
 明治十二年五月
             長官

 第二条  違警罪ヲ犯シ差向キ科料ヲ出ス能ハザル者ハ五日ノ延期ヲ与フト雖モ若シ親戚朋友等ノ代テ納メンことヲ請アラバ之ヲ聴ス可シ
      但到底資力ナク又ハ親戚朋友等ノ代テ納ムヘキ者ナキ時ハ条例第六条ニ依リ処分ス可シ
 第十条  違警罪ヲ犯シニ罪以上(別種ノ罪ヲ犯スヲ云)一時ニ倶発スルモノハ其科料ヲ各別ニ科スヘシ
      仮令ハ車馬留ノ場所ヲ犯シ又便所ニアラサル場所ニ放尿スル者ハ違式科料ト註違ノ科料ト各別ニ科スベシ其他喧嘩口論ヲシ又ハ往来ノ常夜燈ヲ消滅スルモノハ詮違罪ヲ重ネ科ス
 第十一条 違警罪犯ハ現ニ認知シタル巡査及ヒ損害ヲ被リタル本人ノ申立アラサレハ受理スヘカラス
      但公衆ノ妨害トナル者及ヒ官物を損害スル者ハ告発トトモニ受理ス可シ

(4)長崎県違警罪(屎尿関係)
甲第百七十八号
本県違警罪之儀別紙之通明治十五年一月一日ヨリ施行候条此旨布達侯事
 明治十四年十二月七日
  長崎県令内海忠勝代理
         長崎県少書記官  金井俊行

 第五条  下ノ諸件ヲ犯シタル者ハ五銭以上五十銭以下ノ科料ニ処ス
  一 市街ニ於テ便所ニアラザル場所ニ大小便スル者
    但当分長崎佐賀ノ両市街ニ限ル
  二 市街店向キニ於テ小児ニ大小便ヲナサシムル者
    但当分長崎佐賀ノ両市街ニ限ル
  三 蓋ナキ糞桶ヲ以テ運搬スル者
    但当分長崎佐賀ノ両市街ニ限ル

(5)違警罪即決例
 違警罪即決例は,警察署長がその管轄内での違警罪に対して,拘留,又科料の刑罰を科する即決処分であるから,行政官庁が国家刑罰権を行使するという点を巡って,二つの説があった。
 その一つが裁判説(司法処分説)と他の一つは(行政処分説)である。
 明治二十二年(1889)明治憲法施行後,違警罪即決例については違憲論が有力となり廃止法律案も出されたが,即決例は明治・大正・昭和の各時代を生きてきたが昭和二十二年(1974)五月,現行憲法により無効となった。

(6)長崎新聞記事(明治六年一月)
 長崎新聞第五号明治六年三月
            「邏卒と子供との投書」

邏卒制度が誕生する
明治四年(1871)府県官制により長崎県庁に聴訟課が設けられた。
この聴訟課に属する組織として,明治五年(1872)二月に邏卒制度が生まれた。
職務は「県下内外人民ヲ保護スル為ニ設ケタル」ものであった。
*邏卒小便小僧を捕うるの図

 「長崎新聞」第五号に邏卒に対する投書が出ている。この投書の主は汽車も通じていなかった当時,東京の事情を見聞しているから,そこらのただの人ではなさそうである。投書の趣旨はおよそ次のようなことである。
 《邏卒は市中を取締り市民のために置かれたもののはずで,東京では土地の不案内の者が道を尋ねるとそこまで送りとどけてくれ,大変有難い。ところが当地の邏卒は威張って道を歩き,重荷を担いで歩いている人間をよけても歩かない。先日酒屋町で十歳ぐらいの少年が風呂敷包みを持って,泣く泣く邏卒に連行されていた,わけを尋ねると往来で小便したから捕えたが,まだ巡邏中だからそれが終わるまで,一諸に歩かせているのだという。巡邏中ならその町に一応身柄を預け置くなり,また親を呼びよせて注意するなり,なにか方法がありそうなものを,なんと無慈悲なことをするものであろう。上司はよく考えて東京のように市中取締を専一に心掛けてもらいたい。》
*当時邏卒は月給が金六両であったが,まもなく邏卒に大中小の三階級が設けられ巡査に改称されると一等巡査七円・二等六円・三等五円・四円であった。

(7)掃除規則 布達第七号 明治十九年四月二十六日(出典長崎県史稿・禁令)
第壱章 市街及ヒ連檐櫛比ノ町村
 第壱条  住家前ノ道路ハ現住人空家前ノ道路ハ其持主空地前の道路ハ其地主ニ於テ朝夕二回必ス掃除スヘシ
 第二条  塵埃汚物ハ必ラス其乗場ニ送リ河海溝渠又ハ路傍等ニ投棄スルヲ許サス
 第三条  井戸下水溝渠等ヲ浚エタル汚泥及ヒ汚物ハ一切道路ニ堆積又ハ道路ノ修繕ニ用ユルヲ許サス
 第四条  下水溝渠ノ汚水及ヒ汚物ヲ洗浄シタル水ハ路上ニ撒クヲ許サス
 第五条  塵埃汚物ハ桶類ニ溜メ置キ一周間二回以上其棄場ニ運搬投棄スルモノトス
第二章 村落
 第六条  塵埃汚物ハ塵埃棄場若クハ肥料置場ニ時々搬送シ常ニ邸内ニ堆積セシムル可カラス
 第七条  下水溝渠等ヲ浚エタル汚泥及ヒ汚物ハ田園或ハ肥料置場ニ搬送シ道路ニ堆積又ハ道路ノ修繕ニ用ユヘカラス
 第八条  下水溝渠ノ汚水ヲ汲取田園ニ灌概スルヲ得ルト錐モ決シテ路上に撒クヘカラス
 第九条  肥料ノ置場ハ成ルヘク路傍及ヒ人家ニ接近セサル地ニ設クヘシ

第三章 通則
 第十条  住家内外ノ下水ハ常ニ懈怠(けたい)ナク掃除ナカラシムヘシ
 第十一条 住家ノ内外ハ常ニ掃除シ殊ニ便所畜類塒屋厩(ねぐらやく)等ハ成文(なるだけ)清潔ニスエシ
 第十二条 席上波戸場火除地溝渠等公共ニ属するヶ所ノ掃除ハ其所属町村ニ於テ負担スヘシ
 第十三条 路傍ノ便所ハ豫テ汲取入ヲ定メ置キ一週間二回以上汲取ラセ其都度内外ノ掃除ヲ為サシム可シ
 第十四・十五ハ省略
 第十六条 本則ノ施行ハ警察官吏及郡区史戸長ニ於テ監督スルモノトス

(8)長屋建築及下水便所構造ニ関スル事項
長崎県令第二十七号  明治十九年九月二十八日
長屋建築規則
 第十二条 便所ハ一戸毎ニ之ヲ設クヘシ
      但地形ニ依リ止ヲ得サル場合ニ於テハ特ニ認可ヲ得テニ戸ニ付一箇所設クルコト得

(9)長崎県令第二十八号
 明治十九年九月二十八日
 下水便所構造規則
 第一条  下水及便所ヲ新設若クハ改造セントスル者ハ此規則ニ依テ構造シ落成ノ上所轄部区役所ノ検査ヲ経テ使用スヘキモノトス
 第二条  此規則ニ背キタル構造ヲ為シタル者ハ所轄郡区役所の指揮ニ依り直ニ改造スヘシ
 第三条  下水便所毀損(きそん)シ官署ヨリ督促ヲ受ケタルトキハ五日以内ニ修繕ヲ加フヘシ
 第四条  廚(じゅう)湯殿及井戸流シヨリ流出スル汚水ヲ疎通セシムル為メ下水ヲ設クヘシ之ヲ地内下水ト称ス
 第五条  地内下水ハ石瓦煉化石人造石「セメント」敲(こう)陶器等不浸透質ノモノヲ以テ構造シ其接際ハ漆喰等ヲ以テ目塗ヲ為スヘシ
 第六条  地内下水ハ大下水中下水若クハ小下水ニ連接セシムヘシ
     但他人ノ所有地内又ハ道路ヲ通過セサレハ疎通スルコト能(あたわ)ハサルトキハ所轄郡区役所ニ申出テ指揮ヲ受クヘシ
 第七条  便所ト井戸トハ一丈二尺以上ノ距離アルニアラサレハ之ヲ設ルコト得ス
 第八条  便所ノ糞壷ハ瓶(かめ)ヲ用ヒ其周囲ハ漆喰ヲ以テ斜形ニ塗ルヘシ
第九条  便所ノ外部ハ壁又ハ板ヲ以之ヲ囲ヒ臭気ノ放散ヲ防止スヘキ構造ヲ為スヘシ
第十条  略
第十二条 本則第一条第二条第三条ニ違背シタル者ハ刑法第四百二十六条第四項ノ罪ニ処セラルヘシ
附則
在来ノ下水便所ハ本則ニ依リ明治二十一年四月限改造スヘシ若シ之ニ違背シタルモノハ刑法第四百二十六条第四項ノ罪ニ処セラレルヘシ


2 箱館(函館)の公衆便所・汚物処理

(1)函館区年表(関係部分抜粋)(函館区史完)
 安政元年(1854)三月 神奈川条約 四月米国水師注1提督ペルリ箱館に来る
  六月幕府は箱館奉行を置き,竹内保徳之に任ず。七月奉行増し堀利憮之に任ず。
 同二年(1855)二月 幕府松前崇廣に命じ木古内,乙部以北を上らしめ之を直轄す。三月外国船に薪水食糧其他欠乏品供給の為め箱館港を開く。三月仙台外四藩に警衛を命ず
 同四年(1857)四月 米国貿易事務官ライス箱館に来り在留 十一月亀田五稜郭築造に着手す。箱館戸数二千七十五,人口一万百七十九。
 同五年(1858)九月 露国領事来着
 同六年(1859)六月 貿易の為箱館開港。九月英国領事来着
 元冶元年(1864)六月 箱館奉行廰を五稜郭に移す
 明治元年(1868)四月 箱館裁判所を置く。閏四月改て箱館府となす。十月徳川の脱兵鷲木に上陸し箱館に入る
 同二年(1869)五月 五稜郭降伏。七月開拓使を置く。八月蝦夷を改め北海道と称し国郡を分つ。箱館を改め函館となす。
 注1:水師=海軍

(2)箱館の居留外国人と住民の意識
     (出典函館市史通説編第2巻第4編)
 箱館は外国人の出入する開港場となり,その影響はそこに暮らす人々にも与えた。
 安政六年八月,市中の住民には「弥注2風俗を正し,彼等の風ニ習なずまさる様,諸事心付可申事」との触書が出された。これは日本の習慣を守り,異国の習慣に親しむことのないように万事に気を付けるべしとの指示である。一方では外国人が歩いている時には,外国人の口からその国へ伝わるからくれぐれも変なまねはしないようにという注意もあった。外国に向けての幕府の体面が強く識されたものであろう。
 このような島国の閉鎖的状況は徐々に変化し,日本人の礼儀や習慣も変わらざるを得なかった。
 実際日常の住民と外国人の関係はどんな風であっただろうか。居留外国人や外国船の乗員は箱館港掟則(ていそく)の適用を受けるなど,行動にはある種の規制がされていたものの,住民との接触による問題がおきていた。
 イギリス領事が自国居留民へ出した書類は,下記に示す通りで,これが出された背景には,外国人に対する箱館の住民の苦情が多く,箱館の住人は近隣に外国人の住むことを嫌っていた。その理由は外国人の振る舞いにあった。イギリスは,万延元年(1860)七月に自国民の居留の取締まりのため,独自に23条からなる箱館港掟則を公示して,居留民の行動を制限していた。
 注2:弥=ますます

1861年8月27日
 イギリス居留民へ
 触れ書き
 箱館港掟則の第十六条に,我が国人民が注意してくれるのが得策である,と考えるのである。「住居付近,路上など陸上で,また規定された港内海上での火器の発射は厳禁する」また,第十九条も同様「市中で乱暴に馬を乗り回すことは厳しく禁止する」「前述の掟則に違反したものは,五百ドル以内の罰金または三ヵ月投獄が課せられる」
 イギリス領事代理
             リチャード ユースデン

(3)廃棄物処理の状況
      (出典・函館市史・史料編第2巻)
 この時代に出された布達は多くは伝染病の発生に関することであったが,市街地の塵芥,糞尿,下水についての状況を調べて見ると。
 塵芥は明治三年二月二十九日の触書によれば「以来町々申合塵芥都て不潔の物などは山背泊り土取跡,大森道芥捨場両所へ急度可取捨事」と二か所捨場所として指示されていたが,明洽五年九月の達書により八ヵ所増えた。
 その後人民相対の塵芥を収集するごみ捨て共賛講,塵捨社という会社も登場した。
 塵に対し糞尿については明治十五年六月十一日布達のより,東川町288番地と台町共有墓地42番地内の糞尿溜場へ取捨ることが決められた。
 その後居住空間の拡大により糞尿の投棄場所が不適当となった為,投棄場所の移転が必要になった。

(4)神奈川条約と箱館開港(出典・函館区史完)
 嘉永六年米国水師提督「ペルリ」軍艦四艙を率ひ浦賀に来たり,和親通商条約を請ひ,滞在十日にして上海に去り,翌安政元年正月複た軍艦八艙を以て浦賀に来たり進んで本牧に入り,前年請ふ所の決答を促し米国の為五港を開くべきも差向き松前,浦賀,琉球又は鹿児島の三港を問かんことを求む。
 幕府は神奈川に於いて之におうせつし,琉球松前は遠隔の地にして監督に困難なるのみならず其地には各領主あれば幕府は其領土に向かって全然たる権利を有せずと云ひしにペルリは然らば琉球は断念すべきも,松前へは自ら赴きてその領主と談判すべしと主張せり。
 是に於いて幕府は遂に松前に替ふるに箱館を以てし,浦賀に換ふるに下田を以てし三月三日条約を締結せり。

(5)清掃規則の変遷
 明治新政府は当時生活廃棄物直接廃棄場所に処分されていたので,清掃の目的は「市街,道路,溝渠,便所,下水,肥滑等の掃除,修繕,改良の方法を講じさせること」と明確化していた。
 函館においても市街掃除規則が明治十二年二月二十日に布達されている。

   市街掃除規則
 第一条  居宅前道路ハ不潔ナキ様掃除スベシ,但塵芥ハ兼テ定置シ場所ヘ投棄スヘシ
 第四条  下水及埋樋等ハ年々両度四月十月浚方ヲナスへシ,尤土砂塵芥等流通ヲ妨ルトキハ定期ノ拘ハラス取除クヘシ,但浚方不行届場所ハ区務所ヨリ直ニ之ヲ為シ其費金徴収スル事アルヘシ
 第五条  下水ヲ浚ヘタル淤泥並塵芥等ハ人家遠隔ノ地ニ搬出シ,路傍二堆積又ハ道路修繕二用フ可ラス
 第六条  此規則ハ区別こ従ヒ其責二任スヘシ
      第一項〜第三項略
      第四項 空地掃除又ハ下水及修繕等ハ地主ノ負担タルヘシ
 第七条  炎天ノ候及烈風等ノ節ハ度々路上ニ水ヲ撒クヘシ
 第八条  溝渠ノ汚水ハ勿論魚鳥其他汚穢物ヲ洗浄シタル水ハ決テ路上ニ撒ク可ラス
 第十一条 下水ニ堰ヲ設塵芥ヲ滞積シ流通ヲ妨ク可ラス

*明治十一年十月(第百三号布達違式註違条例罪目中第三十四条以下追加並修正以下の通)
 第四十五条 禽獣屍或ハ塵芥(じんかい)汚穢物ヲ定アル捨場外ヘ猥(わい)ニ投棄スル者
 第四十七条 市街ニ於テ蓋ナク又ハ不潔ノ糞桶ヲ搬運スル者
 第七十二条 市街ニ於テ便所ニ非サル場所ヘ大小便ヲ為シ又店先ニテ稚児ニ大小便為サシムル者
 第七十五条 居宅前掃除ヲ怠リ又下水ヲ毀損(きそん)シ又ハ官署ノ督促ヲ受テ溝渠下水ヲ浚ハサル者

(6)汚物掃除法(便所・下水)
 明治三十三年三月に内務省において汚物掃除法を制定し,汚物の処理を市の義務として清掃の徹底をはかることになった。(内務省史)
 函館区に於いては,明治三十四年九月に「汚物掃除規定」が決議され@掃除義務者の汚物の収集を三日に一回おこなうこと,A公衆便所の掃除汲取を毎日行うこと,B公共溝渠の汚泥浚渫を年二回行うこと,C掃除区を五地区に分けること,D掃除は区が直接施行するか請負人が施行する場合もあること,E掃除は事務吏員が監視すること,などが決められた。

(7)布令類聚(ふれいるいしゅう)下編(開拓史事業報告附録)大蔵省
(1)違式註違条例(内務省第五十一号)達
   違式罪目
 第二十二条 道敷内ニ菜蔬(そ)豆類ヲ植或ハ汚物ヲ積ミ往来ヲ妨ル者
 第三十一条 雪隠ニ依ラスシテ往還路等ニ大小便ヲスル者註違罪目
 第三十八条 麁忽(そこつ)ニ依リ人に汚穢物及石礫等を抛澆(ほうきょう)セシ者

3 新潟の公衆便所・汚物処理

1.新潟港の開港経過

 安政五年(1858)年の日米修好通商条約で幕府と外国とで決定した開港地の一つ新潟港は開港期限を慶応四年三月九日(1868年4月1日)とすることを幕府は布告した。
 新潟開港が決まると開港に向け幕府は準備を始めた。新潟の補助港として夷(えびす)港(現両津港)と新潟港の間を蒸気船で結ぶこと,そして外国人居留地を置かない,外国人は市中で自由に土地・建物を借用できる,などを各国と協議を重ね定めた。
 北越戊辰戦争が始まり,新潟地方がこの戦争の影響で開港準備が遅れ.開港準備の整わない新潟へ外国人が現れるようになった。
 幕府に代わって外交権を掌握した新政府は,新潟港の開港延期を列国に通知した。戊辰戦争が終結した明治元年(1868)十一月十日に新政府は十一月十九日(西暦は1869年1月1日)に新潟港を開港すると各国公使に布告した。


2.開港に伴う外交事務所

 開港に伴う外交事務の管轄は府県であった。新潟港の管轄の新潟府は運上所の建設,税務事務,外国人警護等を行った。
 明治五年十一月に運上所が新潟税関と呼ばれるようになりその後税関は大蔵省の直轄となっていった。
 外国公館は開港後,イギリス領事としてラウダ氏が新潟へやってきたのに続いて,各国の領事や商人,国や県のお雇い外国人,宣教師らが新潟にきた。
 明治九年(1876)には日本の開市開国場には二千六百七三人の欧米人が居留していたがそのうち新潟に居留する者は二十一人であった。


3.県都新潟の成立過程

 明治元年(1868年)戦闘の終わった越後に九月二十一日,明治新政府は「越後府」を「新潟府」と改称したが,越後では越後府・柏崎県−民生局という越後の統治の体制を変えなかった。実質的には北越戊辰戦争時に越後各地に置かれた民生局がそれぞれの管轄地を独自に支配していた。

4.新潟の「違式註違条例」の変遷

 県令や県の役人が,開化を進める上で好ましくない,風俗を乱す古いならわしであると断定すれば禁止された。
 明治六年四月に楠本正隆県令によって「違式註違条例」は布告された。処罰については,羅卒がその場で実行することができた。
 新潟では「市中心得書」を町民が守らないので,羅卒の権限を強化し,「違式註違条例」を施行してほしいとの羅卒からの建言を受けて,政府の太政官布告に先立ち,明治六年四月に「違式註違条例」を新潟町に施行した。

5.明治十二年全県に施行した「違式註違条例」(衛生関係抜粋)

 甲第十一号(出典:稿本新潟県史第14巻制度部禁令)
 明治九年十月県冶報知甲第百六十一号県庁第三百七十九号違式註違条例別冊ノ通更生本年四月一日ヨリ管下一般施行候条心得違無之様致スヘシ此旨
布達候事
 明治十二年二月廿六日 新潟県令 永山盛輝 違式註違条例
 違式罪目
 第廿三條 川堀下水等ヘ土芥瓦礫等ヲ投棄シ流通ヲ妨クル者及ヒ路傍ヘ塵芥其他汚臭物ヲ積聚(しゆう)スル者
 但農事専要ノ田路ハ苦シカラス註違罪目
 第七十七条 井戸ニ井戸側ヲ設ケサル者
 第七十八条 再輳ノ地ニ於テ便所外ヘ小便スル者
 第八十一条 店先或ハ市街ニ於テ往来ニ向ヒ幼稚ニ小便セシムル者
 第八十二条 路傍ノ肥溜ニ囲ヲセス市街通路ノ下水ヘ蓋ヲセサル者
       但耕作一途ニ通過スル路傍ノ肥溜ハ苦シカラス
 第八十三条 輻輳の地及ヒ市街ニアル河溝ニ於テ蓋ナキ船及ヒ桶ヲ以テ御穢物ヲ運搬スル者
 第八十八条 居宅前掃除ヲ怠リ或ハ下水ヲ浚ヘサル者
 第九十三条 河水ヲ飲料及用水トスル沿岸ニ於テ汚穢物ヲ河渠中ニ投棄スル者


6.新潟街路取締規則(出典:稿本新潟県史第14巻制度禁令)

 明治十三年二月二十日 新潟県大書記官    白上直方
 第十条  街路ニ便所ヲ建設シ公衆ノ用ニ供セントスル者ハ其場ノ図面ヲ添ヘ新潟警察署ヘ伺出ヘシ
 第十二条 下水ハ時々之ヲ浚ヘ不潔無之様注意スルハ勿論年ニ二回ハ必大浚ヲ成スヘシ其期日ハ四月・十月一日ヨリ三十日迄ヲ限リトス

7.新潟県違警罪(出典,稿本新潟県史第14巻制度禁令)

 明治十五年二月十三日 新潟県令 永山盛輝
 左ノ諸件ヲ犯シタルモノハ一日以上十日以下ノ拘留又ハ五銭以上一円九十五銭以下ノ科料ニ処セラルヘシ
 十四 市街及其河清ニ於テ蓋ナキ桶又ハ蓋ナキ船に糞汁ヲ入レテ運搬シタル者
 十五 市街ノ河溝ニ塵芥又ハ汚穢物ヲ投棄シタル者
 十六 市街ニ於テ便所ニ非ル場所ヘ大小便ヲ為シ又ハ幼?ニ大小便ヲ為サシメタル者
 二十一官許ヲ得テ着手スヘキ堤防道路橋梁樋堰用悪水路溜井縄手等ヲ私ニ修築シ其制止ヲ肯シセサル者

8.衛生警察と清潔法(出典:新潟市史通史編3近代上)

 明治後半期には新潟市は伝染病が大流行した。当時の市町村は医学が十分進歩してで人々の衛生観念が発達しておらず,また衛生が警察の業務の一部であったことで,強権的な予防策がとられた。
 新潟県では明治二十年(1887)に「清潔法取締規則」を定め,「掃除取締規則」を廃止した。[清潔法取締規則]は,清掃に関する規則をまとめた規則で,具体的な内容は下水・井戸の清掃を命じ,便所やごみ捨て場には薬品による消毒を命じた。
 明治二十四年からこれらの予防策の実施は市町村に委ねられたが十分な成果が上がらなかった。このため明治二十八年,県は「清潔法施行規則」を定めた。この規則は警察に届け出たうえで,堀や下水の清掃を年二回以上実施するよう命じ市町村の責任であるとした。
 さらに明治三十三年政府が「汚物掃除法」を制定すると,これに基づき市に掃除監視吏員七人が置かれ,彼らの仕事は,請負業者の掃除掃除人の配置や,下水溝や公衆便所などの公共施設を管理し,各家々の井戸や便所廻り等の掃除状況まで巡視し注意した。
 場合によっては警察と協議して臨検注3に及ぶこともあった。
 注3臨検:行政機関の職員がその職務執行のため他人の住所家屋内に立ち入ること

9.屎尿処理の法的規制

 屎尿処理も「汚物掃除法」に伴って,屎尿の運搬方法や汲み取り時間などについて,新たな規制が加えられ,明治二十年に県は「下水溝厠?(しせい)芥溜取締規則」を定め,便所や屎尿壷の構造や位置について指定した。
 明治中期には屎尿汲取業者が農家へ屎尿を販売するようになり,堀を舟で屎尿汲み取りに回り信濃川べりに溜桶を置いて貯え,農家に販売した。
 明治三十四年に汲取業者の規制の「屎尿汲取営業者取締規則」を県は定めた。この規則は屎尿舟に蓋をすることや,汲み取り時間を夜間から朝までの間に制限するだけでなく,営業を警察に届出制とし,屎尿溜を警察の指定した場所以外には設置出来ないと規定した。
 明治三十年前後に衛生関係の規則や制度が新潟県ではほぼ整備され,これに対応する対策がとられた。

10.衛生組合の設立

 さらに各市町村に全戸加入の衛生組合が設立され,衛生組合は,市町村長の監督の下で地域内の衛生状態や伝染病の発病を監視し,県や市町村を支えてきた。明治三十五年には市内を三十区域に分け,一戸平均一年十五銭の組合費を徴収して活動にあてている。


※日本下水文化研究会会員