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三府五港の公衆便所(1)
     −横浜(神奈川)・兵庫(神戸)−

△講話者 松田 旭正 *

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

1 横浜(神奈川)の公衆便所策

1.横浜市公同便所の始まりに

 横浜の開港は安政六年七月一日で,開港後も道路上の放尿に対する設備は全く顧みられず,自由放任の姿であった。僅かに地域の特志者に依って路地内に溜桶の様なものが設備されたが,自家用程度であって,しかもその数は極めて少なく,人口とは比例せず,到る所に立小便の醜態を演ずることが絶えなかったのである。ことに外国人は,日本人のこの醜態に対して取り締まりを要求する事などに促され,近々に設備しなければならない路傍の便所を,ようやく明治四年十一月になり,町会所の費用を以って,町々の辻々に順次新設した。当時施設した港内の便所数は,実に八十三箇所(明治五年四月七日,横浜毎日新聞)の多数であった。
 この配置箇所を町会所の掲示板へ張り出し「右之通りに付旅人は別して心得居可申事也」と付け加えた。同時に県庁に於いても「路傍便所設置の趣旨を論達(ゆたつ)」を町々に示達した。この路傍の小便所は四斗樽大の桶を僅かに地面を掘り下げて埋め込み,板囲ひをした頗る簡単なものであった。以後人馬交通繁雑の主要地区には瓶(かめ)を埋め込み,男女両用に供し,屋形式のやや完全なるものに改造するなど,統廃合の結果,多くは橋詰に設置する事となり,其の数も四十数箇所となった。

2.浅野総一郎の公同便所

 横浜に集まってくる人々は逐年増大し,且つ埋め立て等に依り,地域は拡張され,文化都市の体面上従来の辻便所の様式では,対外関係上不体裁も甚だしく,殊に路上に溢れ出るなどのことがたびたび起こり,改善を考慮中,浅野総一郎は県令野村靖の許可を得て,金二千円の貸下げにより,市中路傍便所の改造に着手し,これを統廃合して六十三箇所の竣工を見たのは,明治十二年の初夏であった。
 この糞尿は近郊および千葉県下に輸送した。浅野は毎朝四時に起きて,市中六十三箇所の便所を巡視し汚れの甚だしい所を手帳に記して帰宅後,各々の箇所へ人夫を差し向けた。
 公同便所の名称がこの頃から共同便所と呼ぶ様になったのは,明治二十八年頃からである

3.共同便所の変遷

 以後汲み取り契約は浅野から下請負人数人の変更があったが,監督は県監督の下に従前通り置かれ,各警察署をして衛生取締りをしていた。明治二十八年十二月,県を離れ注1 市役所管理に属し,汲除き請負人を指定した。
 かくて市衛生課は之が管理及び監督を管掌し,請負人は従前の如く,高橋が之に当たったが,大正二年七月以降,市は直接これを管理し,今日に至っている。

4.放尿の取締

 開港以後公設の便所が出来るまで十数年間は,町々の路地や空き地内に,不完全な私設便所が設備されたのに過ぎなかったので,随所への立小便は,取締りの眼を偸(ぬす)んで盛んに放尿された事は,想像に余りある事であるが,漸(ようや)く明治四年十一月になって,港内各所に公同便所を建設し,同時に犯すものは即決にて百文の科料に処すと云う布告が出たので,違反者も当然減ずべきであるのに,戸口の増加と往還の頻繁(ひんぱん)さとは,公同便所の利用者以外,随所の放尿はなおその跡を絶たず,幾度か取締令を出したが,其効果は薄かった。
  (出典 横浜もののはじめ)横浜郷土叢書

5.邏卒(らそつ)の仕事は放尿取締

 横浜は外人の手前ばかりでなく,既に清潔法を実施した関係上,殊更に之を厳しく取締をしたので,羅卒の仕事の重(おも)なものは放尿取締であるかの如き有様であった。そうして当時の市中の噂,新聞の記事は,小便の記事で賑った。

*丁卯(ちょうう)艦 火夫田原 新蔵 の放尿事件
 上去る四日夕六時頃,本町四丁目越後屋角に有之用水桶の中へ小便致し,邏卒之を咎めしに同人答て言ふに,横浜市中には小便桶有趣(おもむき)兼て承居(うけたまわい)候(そつろう)につき,桶の中へ小便致すに苦からずと相心得候,邏卒の方へ向き直し更に小便を為(な)し,其上暴論申募り,甚だ不敬難捨置断獄係へ引渡されたり。
      (横浜毎日新聞 明治五年三月八日)

6.放尿の種々相

 このように当時の新聞には色々な記事があり,「酔っ払いの立小便違反者を警察につれて来たところ,また警察で立小便をして,さらに罰金を払わされた」のや「小便した友達を警察にもらい下げにきた友人が待っている内に小便を模様して,便所の場所を聞かないで暗がりの清地に小便して科料にされた。」また「便所内に泥酔者が居眠りしているのを知らず頭から小便を引掛けたので立腹し,詫(わ)びを入れたが聞き入れられず,遂に喧嘩になり相方共怪我がないが,懲らしめのため,相方へ罰金を科した」さらに「格子先から小便して邏卒に引致(いんち)された処,往来にて立小便はご法度であるが,格子先からの小便禁令の布告は心得て居らず,と答えると,三度の食は食べてよい,の布告はあるのか,と聞かれ彼一言もなくうつむいた。」「道路に向かってある女房が子どもに小便させていた処,町廻り方これを見咎め,棒を以って打った処,子どもの頭にあたり,遂に死亡させるに至った。
 邏卒をまねたいたずらの結果ではあるまいか,と簡単に片付けられた,悲惨な話も生んだ「邏卒自身も放尿して,町方のひとに訴えられて,罰金を負はされた」

7.新聞社員の立小便と謝罪記事

 次の通第三区屯所より掛合(かけあい)注2 相成所謂燈台下暗し,誠に汗顔(かんがん)の次第也。当人は勿論,社中の不注意,依て茲に出し謝罪す。

 昨夜一時過,吉田橋通酒店の前軒下へ小便致居候もの有り。之を同店にて相咎め候所,更に聞き入れずに付,邏卒の者相咎め,何れのものなるや尋問侯所,局へ参り申す旨に付,第三区へ連来たり,逐一相尋ね候所,活版社鈴木謙三なる由,身分の儀も問ひ侯処,活版社へ問合候はゞ相分り可申抔(など)相答へ,段々相尋ね候処,書役の旨申に付,兼て先ごろより往来其外へ猥(みだ)りに小便致し候儀の御布告承知していなかったのかと尋ねると,承知致さなき候に付,以後相慎み侯と詫入れ候に付,説諭を加へ引取候,以上の布告を新聞局の者にして,今日までも更に不存は実に不届きの新聞なり。本日の新聞へ御差出有之度此段申進候也。

(翌日の紙上に)
謝罪文
 奴輩新聞社に在って御布告心得ざるは,誠に勤学院(つとむがくいん)の雀にも劣れり。依て赭顔を伏して今日社長に謝罪す。
            鈴木 謙三 謹白
    (横浜毎日新聞 明治五年三月十九日)

8.放尿につき新聞の注意と社説

 此の程便所でない場所へ小便致し邏卒に取押へらるゝもの多きなかに,兼て布告の御法度を背くは,如何の心底なりと糾問(きゅうもん)の節,腹痛水瀉病(みずしゃびょう)にて何分堪えがたく,法を存じていながら,背き,恐縮の段答えたるもの趣有,これらは速智頓才に似たれども,童子無心にして父母の言付に悖(もと)るがごとし。病身にて外出し,途中に於いて怪我過ちを生ずるは,此の制度を背く罪少なからず,憎むべきことなり。
            (明治五年三月二十日)
 立小便の取締りに就いて当時の横浜毎日新聞は注意や社の意見を吐露している。実に当時の世相が顕然(けんぜん)と浮かんで来るのである。
 平成の時代においても駐車違反の取締りは,明治時代の立小便違反と変わらず,運転中に腹痛水瀉病にて堪えがたく駐車違反を知りながら,近くの便所に駆け込むは,240年経た今も変わらず。また日ノ丸を付けた日本の旅客機の副操縦士がハワイに於いて空港近くの路上で立小便をした所を州法違反の廉(かど)でハワイの羅卒に取り押さえられ航空機が飛べなくなった事件は,明治の時代から140年経た平成の世の話である。

9.街説

 市中取締り巌重にして,争闘(そうとう)危害なく,万人の重慶を得るは,全く巡卒の勉強に有ること明らかなり。殊に毎区所々へ小便桶を置かれ,犯人あれば之を制し,往来等へ猥(みだり)りに不浄を見ざるは,自他の喜ぶべきなり。然るに当港は往来繁(しげ)く,小便桶の溜(たま)りを汲取るに間なき故(ゆえ)か,桶より溢れ出し,又は四方へ流れ出し,甚だ見苦しき場所あり。汲浚ひ行届かざる時は,桶を置て不浄を隠す詮(さとす)なきに似たり。其筋のもの能く注意ありては如何。当節は自国のもの猥(みだり)りに往来等へ小便致す者あれども,巡卒之を見ながら制せざる由,御制度に自他公私の相違あるべき理(ことわり)なくかつ文明国人なれば他国たりとも其国に入て法度を犯すの理あらんや。之を見て咎めざるも,甚だ不審の至りなり。

10 神奈川県伺達式候例区別施行ニ関スル指令案/内閣法制課長小松彰       (資料出典 早稲田大学図書館蔵)









2 兵庫(神戸)の公衆便所

1.神戸の伝染病の歴史

 明治十年代〜二十年代の神戸におけるコレラを中心とした伝染病が流行し昭和四十年代に入ってほぼ終息するまで繰り返し襲っていた。
 明治二年(1869)開港当時の神戸は,戸数六七五二,人口二万六九八〇人ほどの町であった。すでに神戸は,横浜,長崎,と並び称される港湾都市であり,外国船員の来往を含めて伝染病の流行が常に憂慮されていた。明治八年には,英国公使の助言により遊廓のあった福原に病院が開設された。明治二年から三年にかけ,全国的に天然痘と風疹が流行し,明治政府は種痘の普及を全国に布達した。また神戸居留地及外国人雑居地内の道路掃除を請負制度により実施し,塵の投棄場所を指定する,「衛生規定」を定めた。
 明治八年六月には,文部省医務局は,警察事務を所管する内務省に移管された。

2.神戸市内の道路・下水溝の管理状況

 明治八年一月に神戸市内鉄道線路以北の道路,下水の掃除を,家主・居住者において励行すべき旨の県布達がだされた。当時道路・下水溝の掃除は,それぞれの村落の負担として旧慣によっていたから,清潔に配慮なしの対応がなされ,下水溝は不完全で疎通せず,降雨のたびに汚水は道路に溢れた。
 住民は道路上や下水溝になどに尿桶を置き,塵芥は馬糞とともにほうぼうに積まれ,取締の為たびたび県令が出されたが効果は少なかった。

3.神戸地域の衛生行政機構の改革

 明治のはじめは,日本各地において衛生面の行政機構が脆弱(ぜいじゃく)で,海外から日本に侵入する伝染病の予防に十分な対応ができなく,コレラ患者が道路上で死亡するまでの惨状であった。明治十年のコレラの大流行に直面して,官民ともにはじめて衛生の重要なことを自覚し,以来住民の衛生への取り組みは進んだ。
 明治九年,区長と戸長に衛生事務を担当させることになった。ついで明治十年には神戸・兵庫両区は専任医務取締を置き,衛生医務に従事することにした。

4.環境衛生関連規則の制定

 明治十二年のコレラの大流行の経験を経て,政府は明治十三年七月,「伝染病予防規則」を制定し,伝染病の予防に対する方策を平常から樹立することにした。その規則の付属法規として,同年九月に「伝染病予防心得」が定められた。
 兵庫県は明治十二年県甲第九十一号で「飲料水取締規則」,「下水構造規則」,「街路便所構造規則」を発布し,明治十四年三月,「市街塵溜並塵捨場規則」を制定し,各戸に塵芥容器を設置させ別に一定の共同捨場を設備すること,塵芥の海中投棄を海岸より一里(約4キロメートル)以上の海域とすることを規定した。

5.衛生組合の設立

 明治二十四年に内務省は「地方衛生会規則」を制定した。神戸市では神戸市条例により「衛生組合及町村衛生委員設置方法」を定めた。
 衛生組合は,委員の協議により約二十戸ごとに一組合を設け,組長一人(任期一年)を互選する。組合は,家屋内外の掃除,飲用水への注意,便所や塵芥を清潔に保つ,下水などを日常的に注意し,組合長は組合内を巡視し,町村衛生委員に申告するものとされた。組織の基本原則は,「隣保交誼(りんほこうぎ)」注3 を基礎とし家屋内外・飲用水・便所・塵芥溜・下水などの掃除等に関わっていた。
 組合の多くは組合費を徴収していた。組合費は,借家の場合は家賃に比例して決められ,持家の場合は組合ごとに決められ,いずれにしても組合費が徴収されていた。明治二十四年の組合設立当初農家が支払う各戸の屎尿代は家主の収入であったのをこの時から組合の収入となった。組合活動の内容は町内の下水の浚渫,街路散水,屎尿処分,等であった。神戸市の場合は他都市と異なり,町内会に先行して衛生組合が設置され,当初は衛生組合が町内会機能を担いながら,徐々に町内会に移行していくという特徴が見られる。

6.地元新聞「又新」の記事(明19〜明23)

 *「便所私設の事」
 道路の一隅家屋の壁傍に放尿するもの夥多(かた)有之其醜態(しゅうたい)に観るに忍びざるのみならず,延ひて衛生上に大害虫を来し,殊に外人群衆の当港にして此の状態あるに至ってはわが国一般の対面に関すること言をまたず。
 *「便所の改良」
 当港は常に外国人の往来も甚だ煩雑なる所なるに,市中不潔なる便所を見るは甚だ嘆息(たんそく)の次第なり。之が改良の方法実行につき,当局の注意を惹(じゃっく)
 *「コレラ患者の扱い」
 コレラ患者の扱いは可成親切にすべし(雪院の掃除・諸興業とともに貸し座敷業を停止すべし・牛肉はコレラの原因にあらず・便所の消毒・患者を送るになるべく往来人の少き町を通ふる可し
 *「旧衛生課廃止」
 此のたび本県においては衛生課を廃し従来扱ひ来れる事務のうち(衛生に関する事項)はすべて警察本部へ引き渡し済みになりたるに付き…以下略
 *「兵庫県令」
兵庫県令第二八号(街路取締規則別紙之通相定メ,明治二十年三月一日ヨリ施行ス)
兵庫県令第一〇九号(屎尿汲取並塵芥掃除規則別冊ノ通相定メ明治二十年五月一日ヨリ施行ス)
 *「不潔箇所取調員集会の決議」
 区内水道底の改造,井水検査,厠?糞桶の取換等決議
 *「明治23年(1890)コレラ流行の兆し」
 既に市町村制は行われ,郡制府県制の実施も間近にありて,政治上の自治はその区域を拡張せんとするもののある時に際し,却(きゃく)って我が一身上の自治,而(しか)も我が身体保存方に係る衛生上の自治は未だ行われずとありては,外人に対し恥辱もまた太甚(たじん)しく,之を大にすれば帝国人民の対面上にも関することなきを得ざるべし。去れば敢えて今日に限るにあらざれども,衛生の事は一切政府が注意し呉(くれ)るゆえ打捨て置て可(べき)なりとの観念を一般人民の脳中より取去り,我が身体,我が生命の保存に係かる事は人々自ら之に任ずるの習慣を養成せざる可らず。

7 神戸市の対応

1.神戸市では七月十二日官民の協力体制を打ちたてようとして,市内の「不潔箇所」に対する予防消毒の細目を規定し,下水溝,・道路沿溝渠の浚渫等の費用負担につき
一 ,市内各戸に属する下水溝と道路沿い溝渠とを問はず,この際しばらく市費を以て俊徐し,其構造極めて粗なるものは日数を限り家主或は地主に命じ受書を徴し便宜改造又は修繕せしむる事
一 ,家主或は地主に命じ改造或修繕せしむる費用は各自の負担と定め,床下掃除,不潔家屋の掃除,消毒,不良井戸の改造・修繕,市内人民群衆の池の清潔,街路便所の消毒についても,これと同様の取決めを定め,市に於いても必要な費用を衛生土木費に予算計上した。

8 街路便所構造規則    国立国会図書館蔵

第一条 街路ニ於テ便所ヲ構造スルトキハ此規則ヲ遵守スヘシ但当分ノ内神戸区西ノ宮尼ケ崎伊丹三田…以下省略…ノ市街ニ限リ賓施スヘシ
第二条 街路ニハ適当ノ場所ヲ選ビ小便所又ハ両便虞ヲ設置シ公衆ノ便ニ供スヘシ
第三条 便所ハ煉瓦石ヲ以構造スヘシ若シ煉瓦石ヲ用ヒ難キ場合ニ於テハ木材ヲ用ヒ成ヘク(ペンキ)又ハ(テール)生渋ノ類ヲ塗ルヘし但シ屋根ノ正中ニ臭気抜キヲ明ケ適宜ニ両覆ヲ作ルヘシ
第四条 大便所ノ踏板ハ糞池ヲ距ル二尺以上ノ高サヲ要スヘシ
第五条 糞尿溜ノ器物ハ不朽堅牢ヲ旨トシ成ルヘク陶器(素焼ヲ忌(い)メヘシ)ヲ用ユへシ又煉瓦石或ハ漆喰土ヲ以テ構造スルモ善シトス若シ止ヲ得ス木質器物ヲ用ユルトキハ決シテ底無キ者及粗製脆弱ニシテ朽敗シ易キ者ヲ用ユヘカラス
第六条 糞尿池ヲ造ルニ前条ノ器物ヲ用ユルトキハ土中ニ装置スル該器ノ外周リハ…ク漆喰土又ハ粘土等ヲ以テ填塞(てんそく)シ汚液ノ浸透セサル様十分ニ注意スヘシ
第七条 糞尿池の周辺ハ叩(ばた)漆喰ニ為シ排泄物ノ池内ニ流下シ易キ様スヘシ
第八条 便所ヲ設置スルニハ井泉及飲料トスル河川ヲ距(へだて)ルニ間以外ノ地ニ限ル可シ
第九条 便所ヲ破損シ修繕ヲ怠リ又ハ構造不適当ナルトキハ速ニ改造セシム可シ
第十条 便所設置ノ位置ハ(該町村衛生委員ト協議ノ上)図面相漆ヘ県庁ヘ願出ツヘシ
第十一条 在来ノ便所ニシテ破損ニ係ル者ハ速ニ改造スルハ勿論破損ニ係ヲサル者ト錐モ此規則ニ触ル、者ハ成ルヘク速ニ改造スヘシ
第十二条 便所建設又修繕ニ係ル一切ノ費用ハ該町村協議ノ上適宜支出ノ方法ヲ立ツヘシ
第十三条 各自の厠?ニ於ケルモ将来新設若クハ修繕スルモノハ成ルヘク此規則ニ照準スベシ
兵庫県告示第百六十五号
(明治二十二年九月十四日)
街路便所設置ニ係ル許否ノ儀ハ自今所轄警察署ニ於テ取扱ハシム

注1
 市街便所管理及監督心得方 明冶二十八年十二月示令
  伊勢佐木町署,戸部分署,加賀町署,山手本町署,石川町署
 横浜市街路便所ハ横浜市役所ニ於テ管理スベキ旨,別紙ノ通リ訓令相成候,其署ニ於テハ之ヲ監督スルニ止マリ,自今私設ノ便所一切許可セザル儀ト心得ラルベシ。但,従前許可シタル住所氏名便所ノ場所,許可ノ年月日,及命令事項ハ此際横浜市役所ヘ引継ラルベシ。
 横浜市街路ニ設置スル便所ハ,自今其市ニ於テ管理シ以下ノ通リ心得ラルベシ。
一,横浜市街路便所ハ当庁ノ許可ヲ受ケ,ソノ市ニ於テ設備スベシ。
二,従来警察署ノ免許ヲ受ケ設置シタル街路便所ハ,其ノ市ノ管理ニ移スベシ。
三,街路便所ノ構造ハ,市街清掃規則ノ規定ニヨルベシ。
四,街路便所ハ毎日一回以上汲取リ,並(ナラビ)ニ清潔法ヲ施行スベシ。
五,夜間ハ必ズ点灯ヲ掲クベシ。

注2:掛合=談判。話し合い
注3:隣保交誼=となり近所の親しいまじわり