屎尿・下水研究会

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明冶新政府の糞尿政策

△講話者 松田 旭正 *

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
現在(2005年撮影)の軽犯罪法の立ち小便禁止看板

T 明冶新政府の糞尿政策

1 はじめに

 嘉永六年六月三日(1853),アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督率いる巨大な黒船が,江戸湾に現れ浦賀沖に投錨した。この事件を契機に幕末の日本は,西欧諸国から,開国政策をせまられ,やがて通商・交易の条約を始め,海外に門戸を開くことになった。
 明治五年(1872)明治政府は,「通式註違条例」注1 を制定した。この条例を制定した時代背景は,幕末の江戸における人口を当時江戸に駐在していたアメリカ総領事ポートマン氏は「約二百五十万人を超えないだろうと考えていた」と彼の旅行記に書いている。江戸は明治維新・東京遷都(1868)以降,欧米人の居住人口が増えるに従い,欧米人と日本人との生活環境の違いによる摩擦が,東京や,開港地の長崎・箱館・横浜,大阪・新潟・兵庫で発生するようになり,新政府は法律により文明開化の名のもとに日本人の風俗習慣を規制する法律,「違式註違条例」を制定する要因のひとつでもあった。この時代の糞桶運搬,立小便について,明治初期の公文書から当時,明治新政府が実行した環境行政を見ると,「日本人の生活習慣を変える法律の制定」を西欧諸国からの圧力で実施せざるを得ない状況にあった。

2 欧米人との摩擦の原因

 当時江戸・東京の人々が排泄した屎尿は,近郊農村の重要な肥料として使われ,近郊農民は朝早くから江戸の町の便壷に溜まった屎尿を汲取り,二つの肥桶を天秤棒の前後にぶらさげ,また馬の背に吊り下げ,市中往来に臭気をまき散らしながら肥船(こえふね)や荷車に運んでいた。
 東京の市中には路傍便所が少なく,日本人,古来よりの悪い習慣である往来での立小便が,各所で見られ,欧米人から衛生上好ましくない習慣であり「文明国ではこのような振る舞いは見られない」と,たびたび指摘されていた。屎尿汲取りの肥桶運搬と,路傍便所について英国公使館と外務省・東京府とのやり取りを示す公文書によると,明治政府が「違式註違条例」等を制定し,日本の首都東京の風俗習慣を西欧化のモデルとして全国に示そうとしていたと思われる。

上の絵は『江戸かわや図絵』太平書屋発行所。
著者花咲一尾「大山道中膝栗毛」(安政3年)の一葉
江戸川柳、檐桶(こえたご)を付ければ江戸へ向く馬

3 外務省・東京府と外国公館との文書による屎尿論義

3−1糞尿汲取り桶搬送時臭気による苦情(原文)

 以下の文章は【英国公使館の申し出を,外務省が東京府に送付した公文】(東京都公文書館所蔵)
 東京府 御中
外務省
〈明治五年壬申(みずのえさる)(1872)正月二十四日〉
【英国公使館・サトウ書記官より】外務省宛て
 『昼間便所汲取入が公使館前を通る際に臭気が館内にはいり,来客時には特に迷惑するので通行禁止にしてほしい』との申し入れがあった。
【この申し入れに対し【外務省から】→東京府宛ての公文によると】
 『通行禁止については反論できるが,文明各国に於いて,便所糞尿汲取りは特別に路上に人影がなくなった頃に掃除(汲取り)をし,市内に数年も住んでいる住民でさえも糞尿の汲取りに気付かないほどである。ところが今の日本では,昼間は勿論,人の多い場所を肥桶に覆い蓋をせずに運んで気にしないのは,裸の者が往来を歩くと同様,日本古来の風俗習慣であり,一朝一夕には変える事が出来ないだろうが,此の事は些細(ささい)なことではあるが,日本の風俗習慣の中でもこのことは,西欧諸国から軽蔑されるきっかけになる,止むを得ず昼間糞尿を運ぶ時は肥桶に必ず蓋をするようにしてもらいたい。ご検討の上,しかるべきご措置を賜りたい。
 これは日本の風俗に関係のあることなので十分審議され,英国公使館からの件を承知していただくよう申し入れる。』

上の写真は『画解五十余箇條(えときごじゅうよかじょう)』
1872年(明治5年)に制定された「違式註違条例を絵で分かりやすく説明した錦絵」(作・昇斉一景1873年)の内第四十一条・蓋ナキ糞桶ヲ似テ搬送スル者

 外務省から東京府に対する公文書の回答を翌日(正月二十五日),東京府の常務掛(担当者)は上司(参事)に対し,外務省と関係役所宛ての文案を次の様に作成した。
【東京府起案文】
参事宛て
常務掛(担当)
 『糞桶搬運の件に付いて,別紙の通り外務省より申し入れのあった本件は,次の通り通告いたしたい,なお同省(外務省)への回答,並びに隣県への通告は下記案の通りでよろしいか伺います。
壬申正月二十五日
郷 村 注2
正副戸長 注3
東京府
 『糞尿汲取り人はこれまで,昼間人が多い場所での蓋のない糞桶を運ぶのが一般的に行われ,多くの人は怪しみもしなかったが,実は大変不潔である。東京は皇居のある所であり,この風俗・習慣が全国に広がり,また外国人も多くすんでいて,不潔の風習を改めなければ西欧諸国から軽蔑される。今後糞桶の蓋をし,臭気が漏れないように密閉すること。万一,違反して蓋のない糞桶を用いた者は見つけしだい取締まるので,この旨詳細に末端まで丁寧に説明すること。』
 東京府から外務省にも同様な内容により回答し,さらに東京府から近県にも連絡した。本来は外務省から連絡すべきところではあるが,他県から東京府内に汲み取りにくる人々に伝えてほしいとの東京府の配慮からであろう。
外務省 御中
                     東京府
 『英国公使館 書記官より申出のあった,糞桶の件は,御申出の内容は了解いたしました,つきましては,とりあえず別紙(上記)の通り布告いたし,なおまた神奈川,入間…注4 』
                   壬申正月
神奈川県
入間県     御中
埼玉県                  東京府
 『英国公使館書記官より申立てのあった,糞桶搬運につき,別紙写しの通り外務省より申し越しを送付いたすので,管下の下掃除渡世のものへ別紙の通り申し渡して頂きたい,また御管下より…府下へ入り込む同渡世のものどもへ,同様お達しいただきたくお願いたす。

外国人居留地絵図(東京都中央図書館蔵)

4 東京府内の居留地設定の経緯

【4−1安政の開国】

 安政五年(1858)に締結された日米通商条約をはじめとする,各国との条約締結は,欧米諸国の外圧のもとに締結させられた条約で,関税非自主権並びに低い関税率治外法権,居留地規定,最恵国条項など日本にとっては将来発展の障害になるものであった。
 当初対日外交の指導的立場にあったアメリカは自国内紛糾(ふんきゅう)注5のため,しだいにアメリカの勢力は弱体化し英仏両国が代って日本への外圧の主力をなすようになった。  英国は初め,幕府を日本の統一政権と認めていたが,しだいに諸藩の連合政権を認めるようになった。

【4−2 明治新政府と東京府誕生】

 慶応三年(1867)10月に徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還をし,明治新政府が成立,明治元年1月15日(1868年2月8日)各国大使に王政復古をつげ,旧幕府締結の条約を遵守(じゅんしゅ)する旨正式に通告した。
 明治元年7月17日江戸を東京とし,日本の首都を東京に定め,東京府を置いて行政機構の整備と改革を行った。

【4−3 開港条約】

 欧米各国の勢力争いは日本[市場]注6の開設であり,長崎・箱舘・横濱・兵庫・大阪・新潟・東京の開港を始め大阪・江戸にも及んだ。

【4−4 開港開市年月】

 長 崎 安政6年6月2日       (1859年7月4日)改開港
 箱 舘 安政6年6月4日       (1859年7月4日)開 港
 大 阪 慶応3年12月7日       (1867年1月1日)開 港
 新 潟 明治元年11月19日      (1868年1月1日)開 港
 横 濱 安政6年6月2日       (1859年7月4日)開 港
 兵 庫 慶応3年12月7日       (1867年1月1日)開 港
 兵 庫 明治元年7月15日       (1868年    )改開港
 東 京 明治元年11月19日      (1868年1月1日)開 市

【4−5 幕府の居留地対策】

 幕府は外国人居留地設定事業を推進させるため,慶応三年五月に居留地問題担当奉行を任命した。居留地の地理的条件として,舟の航行の便のあることが必要であり,このため大川口(隅田川河口)の鉄砲洲辺を居留地とすることで,英国公使パークスと話を進め,十二月七日から兵庫港を開港し,江戸・大阪の両都市に外人の居留を許し,商人は交易を行ってもよいという布告を出した。
 江戸居留地を設定するにあたり,英公使側の外人居留地規則草案をもとに取り決めを行った。この取り決めにより築地鉄砲洲周辺と場所がきまり築地の旧武家屋敷を召し上げ整地工事を行った。
 武家屋敷に介在する町家屋も立ち退きを迫られたが,「替地は追って被レ下」と云うことだけであった。その後幕府は鉄砲洲九ヵ町をもって,外国人居留地とし,この範囲の武家地は取払い町屋とし,慶応三年十月二十八日かねて交渉中だった居留地建設・交易・横浜との海上交通・外人遊歩区域等に関する「居留地取決め」を実施したが,(取り決め時の略図)実際には明治元年11月19日(1869年11月1日】明治新政府により開設された。

【4−6 外国人江戸に居留する取極(とりきめ)】

 慶応三年十一月朔日
    西暦千八百六十七年第十一月二十六日
                    外国人江戸に居留する取極(とりきめ)
第一条 別紙絵図面ニ赤色セシ区内ハ,条約済各国ノ人民商売ノ為メ家屋ヲ借り,且其所ニ住居 スルコトヲ得ベシ。……
第二条 右家屋造営ノ為メニ存スル地所迫々塞リ,
第三条 下図絵図面(築地居留地略図)の,藍(あい)色の箇所は日本政府において来たる十二月七日迄に在来の家屋を取除き,その周囲に幅六間四尺(約12メートル)以上の道を開き,適宜下水を設け,道敷を除き,その区内の土地を,『大阪兵庫外国人居留地取決め第六(大阪,兵庫外国人居留地取決め第五条では,大阪並に兵庫において,土地壱年壱坪につき壱分(ぶ)と決め,この土地税の内,大阪に於いては金三百八拾壱両,兵庫に於いては金四百拾両壱分は土地税の元金として毎年日本政府に納め,残金は居留地積立金として,道路,下水の修繕,街灯そのほか居留地用必要費用とする。もっとも土地税は,前納してもよい。)また第六条には,上記積立金からの支出は,天災の為に破損する道路下水の造営修復街灯そのほか居留地に必要経費で,日本政府には関係はない非常天災などの為に破損のあったときは日本政府より支出すべき分の金額は双方相談の上決める。)第七(この取決め書により土地を借地し外国人より居留地積立金のため納める土地税は,先ず岡士(おかし)(コンシェル)注7へ納め岡士より積立金預かり掛に渡すこと。)とする。』

第四条上記絵図面(築地居留地略図)の赤色点線区内の掘割は来る十二月七日迄に日本政府にて掃除し,その後も絶えず丁寧に掃除すること。しかも掘割掃除の諸費用は日本政府の負担とする。

【4−7 明治新政府引継】

 外国人居留地の予定地は新政府に引き継がれたが,幕府時代は,将軍の命令で武家地を公収し,他に替地という方法がとられていた。新政府も公収する方針を強行した。居留地地域は,慶応三年の取決め第一条に予定された地域の他,武家地に拡大され,各大名・旗本屋敷を含めた範囲を新たに町地とし,真福寺橋のところに掘割を設け,居留地の区画,関門の内域を厳重に設定することとした。

『東京全図』明治二年古地図資料出版発行(吉田屋文三郎明治2年刊複製

【4−8 開市注8布告】

 東京府知事から明治元年八月十二日に,八月十五日から開市する旨の布告が東京市民対して発せられた。
 *申渡
 今般開市により,鉄炮洲に外国人居留所を設置,
…… 外国の人々は,道路の汚物,塵芥(じんかい)は云うまでもなく,堀・川さらに小溝に至るまで,汚物の悪臭を発する事は大変嫌う事であり,その理由は悪臭を嗅ぐことは種々の悪病を発すると考えており,このような時には外国人のみではなく,日本人に於いても,道路・溝・堀の清掃し疫病や下痢など人命に関わる様な病にかからないようにしなければならない。以下略
 *関門内町人共心得はつぎの通り
一,日本人の居住する町の往来は横丁の小路は申すまでもなく,往来の目立たない場所で役人の 見回り箇所一ヶ町に五ないし六箇所,各家々から朝・晩塵芥(じんかい),補理(ほり)注9をすてる塵芥溜を置くこと,別に畳屋・樋屋・建具屋・大工職・・瀬戸物屋・茶屋・指物屋など すべて細工屑藁縄等取り崩し,業者のものは別にし,各々軒下又は土間に空き樽置く,往来に細工屑を取り散らかさ無いようにし,朝夕決められた場所に運び 捨てること。
一,下水は時々浚渫し,汚物等は溜めないよう心 掛けること。
 往来の路傍に小便溜を設置することが困難な藻場所は,路端の目立たない場所に作る事さらに大人は勿論子供においても決められた場所以 外,軒先などには,大小便一切しないこと。以下略

辻番の脇に立小便(江戸厠図絵より)

5 英国副領事からの路傍便所の苦情

【5−1英国副領事申し入れ書】

 書面にてお願申し上げます。
 まず東京府下居留地内の,通り,小路,に設置された溜尿匣(りゅうにようこう)注10は,かえて人々を閉口させ,触れる事もできずまた庶民の健康を害す器物となっており,いまだに…注12すべて揃はないが,木匣より非常に臭気がいたすところあり,そのままにせざるを得ない事情も理解できるが,御配慮をお願いしたい。
 特に新橋駅より元ウヲトヲルス氏に至る一区間,僅か二百ヤード注11(約183m)の距離ではあるが,溜尿匣を数えると六個以上,この区間は特に困っており,この辺りの道路の尿匝は,なお一層ご注意下さるようお願します。
 また,知事もご存じの通り,多く尿匣を設置されるのは,どのような理由なのでしょうか。私には理解しかねますが,一体,府下に設置される溜尿匣は多すぎると拝察いたします。
 また,尿匣を木類で作られるは,人々の健康の為に良くないことで,さらに・・注13
 ますます難病を発生させ,ついにはすべて廃止 されるようになると存じます。つきましては,当居留地近傍に御設置の尿匣をすぐに廃止されたく,いずれの居留人も来訪者も大変難渋いたしており,前文の次第をお聞きいただき,ただちにご考慮されるよう,お願いいたします。
 千八百七十三年(明治六年)第五月第一日
 英国副領事   マーテンドーメン注14
             東京府知事
               大久保 一翁閣下

【5−2 ドーメン副領事の申し入れの回答(府庁内部起案文)】

   知事     庶務課
   参事     営繕取扱
   奏任出任  税関
 英国副領事より溜尿匣の件,去る五月中,前葉写しの通り指示してあったにも拘らず,「いまだ何らの返事がない」注15ので直ちに図面の匣印に朱点を付け残りの分は戸長に連絡し,取り除かせたうえ,下記の通り回答いたしたいが,よろしいか伺います。

「上図は新橋駅と外国人居留地との関係図」(五千分の一 江戸−東京)
1657年(明暦五年)〜1895年(明治28年)柏書房(京橋図書館蔵)

【5−3 英国副領事に対して回答案】

英国副領事   マーテンドーメン 貴下
         千八百七十三年(明治6年)
         第五月第一日,御書面拝見,
 府下街区へ設置した溜尿匣の件縷々(るる)お示しの趣,ご懇篤の至り,清掃担当の関係方面に指示し,なるたけ臭気をとり,人身の妨げにならないよう注意監督するよう。また新橋ステーションより,元ウヲトヲルス氏住居にいたる一区間,わずかに六十丈余(約183m)の地面・溜尿匣,六個据え置き,極めて摘数ではなく,四か所を取り払い,その他,居留地近傍を見計らい,多い個所は取り払う様,関係部署に指示します。
 上記の件,回答の時期がすこし延びた件は,悪しからずご承知頂きたく,この段回答にかえて申し添えます。
 明治六年十二月九日

【5−4 ドーメン副領事宛て結果報告】

 去る五月一日付にて府下街区に設けられている便所に付きまして,お懇(ねんご)ろにお申し越しの趣,誠に恭(かたじけな)く存じております。早速ご指摘のように処分すべき筈のところ諸事多端にて遅れましたが,数多くの箇所は除却いたさせました。
 右の段久々延引,ご回答近く述べたく貴酬(きしゅう)注16候,敬具
      明治六年十二月十九日
      東京府知事  大久保一翁
大貌列類(だいぶり)国副領事注17
      マーテンドーメン貴下

6 明治新政府の住環境対策

【6−1 防犯対策】

 明治新政府は維新の混乱から市民の安全を確保する必要から江戸期の方式を否定して,各藩からの兵隊による江戸の治安を確保しようとしたが,彼等は江戸市中の地理に不案内なために,治安維持の効果がなかった。そこで六時〆切を採用し,一方で常夜灯の設置を「町入用」注18ですることも決められた。
           (明治事物起源辞典より)

【6−2】街便所

 東京府は明治六年一月二十五日に各町に「街便所」について清掃を府下の各町に指示したが,その主旨が徹底しなかった。町民からも「踏み石上に大小を便し者があり不潔である」との苦情があり,便所の掃除方法を各町で検討するように指示した。
 江戸の町は,大方の住民は長屋住まいで共同便所が普通であった。その便所に溜まった「糞尿」は,肥料として江戸近郊の農家に売られていた。糞尿の売却代は家主の収入となり,長屋の支配は,大家(おおや)=家主(やぬし)=家守(いえもり)で成り立っていた。
 また糞尿売却代で長屋の花見や暮の餅代となって長屋中が潤う仕組みであった。
 長屋の人数は大家にとっては大切な収入源であり,大家は店子(たなこ)注19の人数の増減には常に気を使い,肥取り人に状況を確認させていた。
 店子も大小便は出来るだけ長屋の便所に溜め込む方が得だと心得ていた。

【6−3 街便所の不潔な由(わけ)】

 江戸の長屋の暮らしは家主と店子との連帯で成り立ちお互いに細かい配慮が生活の常識となっていた。そこへ明治新政府の役人は地方の藩からの混成で組織されていたので永年にわたる江戸庶民が築いた「長屋の便所」の方式を,文明開化の名のもと「街便所」 を「町入用」で設置し掃除を指示したので,受け入れられなかった。
 始めから,各町地先に出来た「街便所」の下肥(しもごえ)処分権は地元にまかせると決めておけば「不潔」にならなくて済んだ。(出典京橋図書館・郷土室だより)
 また明治初期には,江戸・東京の人口も増加し,また都市生活者や一時滞在者(旅行者)による生活様式の違いが「街便所」の清掃問題の原因とも考えられる。

【6−4 街頭便所洋風改造に着手】

 「街便所は」小便所だけで,明治七年三月から東京に配置された。また改良された「便所」は白塗りの小便所であったと『今昔較』に書かれている。しかし小便だけでは困るという要求があり,大小共用便所ができた。
 「再来膝栗毛」(明治二十三年刊)の中巻に「実(げ)に治(ち)れる開化の御代……雪隠は紅粉(こうふん)注20を粧(しょう)注21こえたごに蓋をして御膳水注22かとうたがわれ,郵便箱は小便所かと思ひぬる。」
 当時の京都では町中に小便桶が置かれていたが,東京(江戸)では往来で人々が多いいところには,通行人の利用出来る「小便溜を市中の小路に埋めた,」のは文政(1818年)頃からであった。『世の姿』に書かれている。

(出店東京史稿 市街編より

【6−5 外国式街頭便所に改造?】

 明治七年(西暦一八七四年)三月 各大區區長ヨリ市中従来ノ便所臭気甚シク不潔ナルヲ以テ,外国式ノ街頭便所二改造セントノ建言注23アリ,之ヲ許可シ,改造ニ着手ス(出典:東京市史稿 市街篇第五十六)

【6−6 在来の便水所模様替え】

 市中の従来の便所を外国式の街頭便所に改造の建言書が東京府に出された。
 【明治六年一月二十五日に「清掃方指令」が府下各町に出された約一年二か月後の明治七年三月に,市中の各大区区長より東京府宛てに上記図面を添付した下記建言書が出された。】

【6−7 建言書】

1.市中便水所は不潔になるので汲取り掃除については度々の御指示の通り努力している。
2.警視庁より外国便所の雛型を示されこのように改造してはどうかとの話があった。
3.そこで便水所の件は各区が区費により改造することにした。すでに雛型の通りに改造したところは,気候の暖かい時節でも臭気が無くなることが,予想される。
4.試しに柳原土手跡(神田川南岸)に三か所ほど設置したが,具合がよろしいと認められたので,全区を改めるようにした。
5.街頭便所改造のことは,市中一体掃除請負人との契約があるので,不潔にしたり不十分なまま放置したりした業者は引替えたりしてきた。これは特に暖かい季節に厳しく行ってきたが,迫々外国便所に模様替えすれば事情は改善されると思われるので,雛型を設置したのちお伺いする。
6.ただし道路が狭く模様替えのできない場所は,これまでの便所を取り壊し便利な場所に移したく思っている。
                  各大區區 長
 上記の通り早速模様替えをいたしたく,お届いたします。
                     區 長
    (明治七年 総連簿 東京都公文書館所蔵)

7 外国人居留地管理

【7−1東京開市】

 明治元年戊辰十一月十九日(1868年1月1日)より築地居留地を開いて,外人の居留を許し,貿易商取引を行うとの布達注24が出され東京市民は開市にあたって注意を守ること,別に居留地関門内以外の場所においては一切外国人に家を貸すことを禁ずるとの触を出した。

【7−2 居留地管理費用】

 居留地の設定には,運河を造ったり,船つきの良いようにしたり,溝を掘ったり,その外井戸の施設や石油燈の工事,外人向けに種々土地に手を加え,政府の居留地にかけた費用は巨額であった。
 外国人が地代を納める上からは,維持にも全力を尽くして,居留地内の不備な点や外人の要望する施設などを適宜連年手を入れて,これを維持して行かねばならなかった.年により差はあるが明治十五年度二千六百三十三円が多い方で,大体一千円前後が居留地管理費用であった。

【7−3 居留地管理事務】

 第一,道路の清掃,道路の修築,街路燈(最初は常夜燈といい石油により燈をつけた)の修繕などが主であった。街燈については明治三年頃から洋館が建てられて,居留地に街燈をつけてくれとの要望により,石油による常夜燈を建て,夜間の点灯及び下水の掃除等を入札による請負者を決定,十二月一日より連日之を行わせることとし,費用は地代の内より支払うことにした。
 明治二十三年,外国人は居留地住居に電灯をつけることを大日本電燈に以来したので,外人の費用により電燈をつけさせる事とし,以後電燈をつける希望の者は一切自費とした。
 第二,水道問題,元来居留地は井戸を掘って飲料水としていたが,外人から上水にして貰いたいとの要望が出て,居留地に明治十三年初めて上水を引き,京橋区役所担当が上水賦金(年賦)として徴収した。
 以上のように,居留地は僅か二万九千余坪(95,868u)の場所に当初は東京市民に対する施設より手厚い施設と維持管理を行ったが少しずつ経費の節約をはかり遂に外人に費用を出させるように変化してきた。(出典 中央区史)

8 居留地のはじまりと解消

 安政五年(1858)米国総領事ハリスをはじめ,米,蘭,露,英,仏の五ヵ国と江戸幕府の井伊直弼との間に結ばれた修交通商条約によって,日本の七ヵ所に外国人居留地を設置することが決まった。
 それが箱館,新潟,江戸,横浜,大阪,神戸,長崎の七ヵ所である。当初,江戸築地居留地の設定は,文久元年十二月二日(1862年一月一日)であったが維新の動乱により,再三延期となり明治元年十一月十九日(1869年一月により開設された。
 他はすべて開港場であったが,江戸・東京だけは港のない開市場であった。

9 衛生行政の推移と衛生警察

 明治五年(1872)二月,明治政府は衛生行政事務を文部省に医務課を設け,翌六年三月,医務局に昇格し,衛生行政が最初に所管された。明治六年には内務省が設置され,明治八年衛生行政事務は内務省に移管された。
 その後内務省に中央衛生会を設け,府県には,地方衛生会を設け,衛生行政の推進が図られた。  明治十八年(1885)太政官制が内閣制度に変わり,内務省の八局の中には衛生局をおき,医務課と衛生課をおいた。
 明治十九年七月,中央行政機構の大改革に併行して,府県に第一部・第二部がおかれその後明治二十三年(1890)十月,「地方官官制」の改正により地方庁に内務部が置かれ,衛生事務は第三課に所属した。
 明治二十六年十月「地方官官制」の全面改正を期に,衛生事務は警察部の所管となり全国の警察部に衛生課が設置された。
 明治二十八年内務省に臨時検疫局が設けられ,明治三十二年(1899)四月「海港検疫所官制」が制定され,内務省直轄の海港検疫所が,横浜・神戸・長崎・ロノ津に設置され,明治の衛生行政機構は一応整備された。

注1:違式註違条例:違式=法律に従わないこと 註違=まちがいをただすこと 現在の軽犯罪法
注2:郷村:村落共同体
注3:正副戸長:町村の行政事務を司る吏
注4:…元文破損読みくだし不可
注5:アメリカ自国内紛糾:アメリカ南北戦争勃発(1861〜1865)
注6:市場:商品取引の指定場所
注7:岡士(コンシェル・仏語):領事
注8:開市:公開して商取引を始めること
注9:補理:補い修理すること
注10:溜尿匣:木の尿箱
注11:ヤード(0.9144m)
注12:原文破損につき読み下し不可
注13:原文破損につき読み下し不可
注14:ドーメン:イギリス公使館副領事「銀座の大火」の当時(1872年)4月4日副領事は東京府知事を訪ね火事の報告を4月5日付で公使館アダムズ書記官にあてて送付した
注15:「英国副領事からの申し入れについての対策を 五月中に各戸長に指示しておいたが,その返事がいまだないので」
注16:貴酬:自分から出す返事の手紙の謙遜語
注17:大貌列類:大貌利大泥亜:グレートブリテン
注18 町入用:町の費用
注19店子:借家人
注20:紅粉:中国から舶来したべに
注21:粧:化粧
注22:御膳水:上等な水
注23:建言:政策などに意見を申したてること
注24布達:1886年(明治19)2月公文式の制定以前に発布された行政命令(公文式:公務員が職務上作成する文章