読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
戦前の鉱山・炭鉱トイレ事情
△講話者 森田 英樹 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1.はじめに
私たちは,日々幾度と無くトイレのお世話になっています。自宅のトイレ,通勤途中の駅でのトイレ,職場でのトイレなど様々ではありますが,日常の大半は案外このような決まったお馴染みのトイレを使用しているのではないでしょうか。しかし,この「お馴染みの」というのが,なかなかの曲者で,自分では「お馴染み」と思ってはいても,生活パターンを異にする人にとっては「お馴染み」どころか,驚くような新鮮さ,斬新さがあったりするものです。しかも,自分では「日常の事,お馴染み」と思っていますし,尾籠な話でもあるため,そんなトイレの事をあまり人に語ろうとしません。まして記録に残すような事もほとんどありません。そのため広く知れ渡ることがありません。
昭和7年に,トイレ研究史上の名著「厠考」が出版されました。その中で著者の李家正文氏は「普通の住居の便所と異なる変則的なもの」を特殊便所と命名しています。具体的には汽車・電車・舟・軍艦・潜水艦・航空機・ホテル・病院・刑務所・軍隊・茶道・湖上・山上のトイレなどを記しています。ここに記されている特殊便所は,当時それを使用していた人々にとっては,日常のトイレで「お馴染みの」トイレであったでしょうが,あまり
一般的用途ではなかったため記録も乏しく今日では当時の実像に迫ることが困難なトイレであると言えるのではないでしょうか。このような観点からしても,今から約80年前のトイレ研究の黎明期に,すでに李家氏が「特殊便所」という視点で記述を残していることは大変意義深いことと考えます。
2 鉱山・炭鉱の坑内における特殊便所
戦前の鉱山・炭鉱トイレの様子は,まさに李家氏の言う特殊便所であろうと思います。当時鉱山・炭鉱の仕事に従事していた人々にとっては,職場の日常のトイレ事情であり特筆すべきものでは無く思えていたことでしょう。しかし,時代もかわり今日ではその実像に迫ることが困難なトイレとなってしまっているのではないでしょうか。
今回は,社団法人日本鉱山協会が昭和5年に発行した「日本鉱山協会資料第13輯 坑内に於ける糞尿処理に関する調査報告」をもとに,約80年前の坑内便所の再現を試みたいと思います。
「坑内に於ける糞尿処理に関する調査報告」は昭和3年に日本鉱山協会が日本の各鉱山における屎尿処理の状況を調査員が調査し,改善意見を述べた報告書です。調査内容は,各鉱山の坑内便所の有無に始まり,その構造図解寸法・設置個所・総便所数・1か所あたりの使用人員・便所使用範囲最大距離・汲み取り回数・運搬方法・掃除回数・臭気除去方法・消毒方法・坑内便所以外の場所での糞尿処理の状況・糞尿処理にあたる人員・入坑者総数などを含む100頁に達する詳細な報告書となっています。
調査報告がなされている鉱山は,以下の通りで,調査にあたった調査員の氏名も明記されています。
三菱美唄炭礦・三井砂川炭礦・三井美唄炭礦・茂尻炭碩・上歌志内炭礁・雄別炭礦・入山炭礦・好間炭礦・勿来炭破・福島炭礦・湯本炭礦・磯原炭礦・三池炭礁・沖ノ山炭礦・大之浦炭礦・明治鉱業会社 豊国炭礦・明治炭礦・赤池炭礦・鯰田炭礦・住友忠隈炭礪・二瀬炭礁・三井田川炭礦・崎戸炭礦・松島炭礦・高島炭礦・小坂鉱山・尾去澤鉱山・荒川鉱山・阿仁鉱山・書乃鉱山・足尾鉱山・日立鉱山・神岡鉱山・明延鉱山・棚原鉱山・別子鉱山・松尾鉱山。
3 坑内におけるその姿
本調査がなされている,鉱山・炭鉱の中で,坑内になんらかの便所設備が設けられている鉱山・炭鉱は16か所でした。つまり,半数以上の鉱山・炭鉱では十分な対策が取られていなかった事になります。この数字が高いものであるのか,低いものであるのかは,捉え方によっても異なって来ると思います。しかも,ここで調査されている鉱山・炭鉱の多くは,いわゆる旧財閥系のものです。そのため,ここにあらわれて来ない中小の鉱山・炭 鉱の状況は,もっと劣悪であったことが推測できます。
3−1 坑内便所の無い鉱山・炭鉱の様子
坑内便所が設置されていない鉱山・炭鉱の状況はいかなるものであったのでしょうか。ここでは,報告書からのそのままの引用ではなく,現代語に改め,意訳でいくつかの鉱山・炭鉱の様子を紹介したいと思います。
上歌志内炭鉱では,坑内各所に便所を設置した事もありましたが,使用する者が少なく自然と使われなくなったようです。そのため,廃棄坑道内に脱糞する者もいるものの,特に対策は講じていないようです。また,松島炭鉱においては,旧坑道内の脱糞箇所に毎日石灰を散布してはいますが,放尿に関しては特に対策を講じてはいません。三井砂川炭鉱においては,坑内に,便所設備がないため,作業箇所における脱糞を厳禁していました。もし坑道,その他の作業箇所において脱糞した場合には制裁として本人に始末させていました。従業員は一般に入坑前に脱糞をする習慣があったようですが,必要によっては廃棄坑道で安全な数か所を便所代用として使用する事を黙認していました。そのため,用便箇所は逐次崩落密閉の方針をとっています。最初は「脱糞を厳禁」「制裁として」などとかなり厳しい対処をしているかに思えますが,なんのことはない後半では廃棄坑道での脱糞を黙認しているわけです。面白い例としては,好間炭鉱では,用便者は必ずシャベルを携帯し危険の無い場所に穴を掘り,その中に用便をした後,埋めるという方式をとっています。松尾鉱山においては,坑内での就業が,午前7時に入坑し,午前11時に出坑。昼食後,午後1時に入坑,午後4時出坑し終業。つまり,1日の入坑時間が7時間。しかも午前・午後の2回に分けて出入りがなされ,かつ入坑前に排便する習慣があるため,坑内に便所設備の必要がないとしています。しかしながら,やはり,その日の体調によっては脱糞者もいるのではないかと思われますが,そのことには触れていません。
このように,便所設備の無い鉱山・炭鉱では,程度の差こそあれ,廃棄坑道などに適宜脱糞していたというのが実情であったようです。しかし残念ながら,その糞便がどの位の量堆積していたのか,他の入坑者が誤って踏んだりする状況,臭気や衛生状況に関しては特に言及はされていません。
3−2 三井三池炭鉱の様子
三井三池炭鉱は,福岡県大牟田市,みやま市。熊本県荒尾市に坑口をもっていました。古く江戸時代から採掘が行われていましたが,1889年より三井財閥の経営となり,1997年に閉山。その歴史に幕を下ろしました。現在も炭鉱関連の遺産が多数残っており,文化財としての価値が注目されています。
図−1
その三井三池炭鉱宮原坑においては,図−1のような便所が設置されていました。本調査以前のものは足付であった棟ですが,腐食しやすいために石垣の上に設置してあります。材質は松を使用しています。左手前に蝶番がありますので,入り口とわかります。高さ2尺3寸,幅3尺とありますので,それほど大きなものでは無く,しゃがむと丁度人の姿が隠れる程度のサイズといえましょう。そのため本便所は必要に応じて移動出来るとあります。便所の下には木製の桶(高1尺,径1尺1寸)が置かれ,月に10回容器を取替え図−2の運搬車(長6尺,幅2尺9寸,レールよりの高3尺5寸)によって坑外に運び出していました。設置・使用状況に関しては,宮原坑aにおいて,設置数19,使用範囲従業者数951人。使用状況1箇所につき8人〜131人,清掃回数毎日1回。宮原坑bにおいて,設置数16,使用範囲従業者数640人。使用状況1箇所につき20人〜100人,清掃回数毎日1回。清掃方法は,水を使用せず毎朝石灰または,ミケゾールを散布しています。
図−2
図−3
図−4
また,宮原坑においては,図−3のようなコンクリート製の小便所も設置されていました。右下に蝶番がありますので,そこが入り口とわかります。長さが6尺とありますので,何人かが同時に使用できたのでしょう.。小便は右手前の壷に集められます。図−4は安浦坑の便所ですが,三井三池炭鉱に限らず本報告書の中で,唯一この図面だけに電灯が書き込まれています。安浦坑以外の便所の電灯の有無に関しては,記載上省略されたのか,無かったのか残念ながら全くわかりません。このような便所設備が三井三池炭鉱には設けられていました。さらに,図−5のような便所表示を設置し,保安会で便所使用の宣伝を行ったりしていました。しかしながらそれでもなおかつ,専任の掃除人を巡回させ,便所以外の脱糞を清掃・消毒していた状況のようです。やはり,たとえ便所を設置したとしても,全ての人が必ず使用していたわけではなく,現実には便所以外の脱糞者が相当いたものと推測されます。
図−5
3−3 足尾鉱山の様子
足尾鉱山は栃木県日光市にあった銅山で,現在では足尾銅山跡として国の史跡に指定されています。また,急激な鉱山開発は足尾鉱毒事件を引き起こしたことでも有名です。足尾銅山の歴史は古く,江戸時代にはすでに発展をみせ,17世紀後半には,長崎港から輸出される銅の5分の1を占めるほど繁栄をしました。しかし,幕末から急速に衰退し廃山同様となりました。1877年古川市兵衛は渋沢栄一らの協力を得て鉱山再開発に着手,1884年ころから銅生産が急増し,渡良瀬川下流に鉱毒被害が発生し住民を苦しめることとなりました。第1次世界大戦時には年産15,000トンの最盛期を迎えましたが,1973年閉山しました。
この足尾鉱山では,入坑者総数1500人の内,便所または便器設備の無い場所での従業者は770人。便所設備のある場所での従業者が730人となっています。便所は計6箇所。使用範囲従業者数は1箇所あたり80〜150人となっています。
図−6 上より側面図,平面図,正面図の3枚となっています
足尾鉱山の便所の特徴は,坑内排水を利用した水洗便所であった点です。図−6のように,坑内排水路の上に,面積約0.5坪,長さ約5尺4寸の総板張りの囲いをつくります。そして,板張りの床の中央に長方形の穴を開け,そこから排便をします。汚物は排水路の流水によって坑外に排出される仕組みとなっています。坑内で発生する排水を利用した優れた設備といえましょう。しかし,気になる排水の行方ですが,その点に関しても詳細に記されています。排水とともに搬出された糞尿は沈澱池に入り,石灰乳で中和され,さらに濾過池を経て河川に放流されていました。「糞尿は同時に完全消毒せらるるものと認む」と糞尿の安全性に触れているのは,鉱毒事件の時代性もあるものかと考えさせられます。ところで,便所設備の無い場所での従業者は770人については,止むを得ない場合には,人通りの無い旧坑内の一隅で用便をしているが,人道坑ではほとんど無いとなっています。前述の水洗便所の記述に比べると,なぜか実にあっさりとした内容になっています。
3−4 明治鉱業株式会社 豊国炭鉱・明治炭鉱の様子
明治鉱業株式会社は,安川敬一郎(1849〜1934)が福岡県の豊国炭坑・明治炭坑・赤池炭坑をあわせて設立した会社です。戦争中は石炭大手8社のひとつとされ発展をしました。しかし,その後は石油によるエネルギー革命と石炭埋蔵量の枯渇により1969年に解散となりました。
図−7 上が側面略図,下が平面略図
さて豊国炭鉱の場合は,排気坑道に隣接する坑道を選んで便所を設置しているため,臭気は少なく特に脱臭装置は設置されていません。便所の構造は,図−7に示されています。平面図を見ると,扉がありませんが,これは便所が設置された場所が通路ではなかったために,扉を必要としなかったからです。糞尿の汲み取り運搬は,便壷を動かさないで,柄杓で糞尿を空缶に移し,人力で坑外まで担ぎ出しました。汲み取りは,通勤鉱夫の中で,付近に自作の田畑を持っている者があたり,田畑の肥料壷まで運搬をしていました。汲み取りに際しては,便壷内に糞尿が残らないように注意し,周囲の清掃は行いましたが,便壷を水で洗うことはしませんでした。豊国炭鉱においても,今まで見てきた炭鉱と同様に,通行人の少ない坑道上の脱糞もありました。また,小便所が設置されていないために,放尿は公然と随所で行われていました。特に,脱糞や放尿に関しての取り締まり規定は設けてはいないため,取り締まることはせず,脱糞に関しては注意するにとどめていました。
図−8 断面,平面の2枚
明治炭鉱では,図−8に示されている便所が使用されていました。この便所の便壷は,セメントの空樽を使用しています。セメントは袋に入っているものとばかり思っていたのですが,当時は木製の樽に入っていたとは知りませんでした。この便所も設置場所は,豊国炭鉱の場合と同じく排気坑道にあったため,特別な臭気除去方法は不要でした。汲み取りは,柄杓で石油の空缶に汲み取り,坑外に担ぎ出し,坑外の便壷まで運び出していました。しかし,坑外の便壷から先の行方は記載されておらず不明です。便所内の衛生に関しては,今までに例が無いほど整っていました。便所内には石灰が備えられており,用便の後各自が便壷内に石灰を散布できるようになっていました。また,手洗器も設置されていて,掃除人が便所掃除の時に,手洗器の水を入れ替える事になっていました。しかし,紙つまりトイレットペーパーが設置されていたかの記載はありません。残念ながら,本報 告書では,トイレットペーパーについての記載が一切なく,紙置台らしきものや,トイレットペーホルダーを思わせるような図や記述も見る事ができません。省略された項目なのか,紙は無かったのか謎です。
4 現代特殊便所考
以上,約80年前の坑内における便所の様子を概観してきました。ここに描かれている便所は,そこに働く人々にとっては特筆すべきものでもなく,日常のものでした。しかし,たとえ当時でさえ鉱山とは無縁の人にとっては,全く知ることの無い世界の便所であり,屎尿処理の方法であったに違いありません。そのような,観点からも特殊便所例証のひとつとして意義深いものと考えています。しかし,本稿の主眼は特殊便所の例証のみではありません。21世紀を生きる現代の私たちを取り巻く世界にも,このような特殊便所が存在するはずです。しかし,多くの情報が渦巻く現代であるがゆえに,何が特殊で,何が特殊でないかの判断が付かずに情報に埋没し,その視点を失ってしまっているのではないでしょうか。私たちは,「坑内に於ける糞尿処理に関する報告」を鏡とし,特殊便所を再考し,50年・100年後の同学研究者のために有益な現代特殊便所資料を残す責務があると考えます。
本講話は,平成21年11月28日に東京市ヶ谷の日本水道協会会議室で行われた日本下水文化研究会,第10回研究発表会での発表をもとに再構成したものです。
※日本下水文化研究会会員